もう一つの物語1
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― 某国 山に囲まれた国境付近 ―
夜が明く前。
ガラガラと轟音のような音を立てながら、漆黒色の一台の馬車とそれを囲う数騎が山の谷間を駆け抜ける。
一騎は先頭を切り、残りの騎兵は左右後方に周囲を警戒しながら、編成を変えつつ馬車を護る。
そのうちの後方にいた一騎は、分かれ道を馬車とは違う道へと駆け抜ける。それを数度となく繰り返し、いよいよ馬車を囲う騎兵の数は残りわずかとなった。
騎兵達の表情に一片の余裕はなく、盛夏の真昼でもないのにそれぞれが顔や体から大量の汗を流す。
山の間に現れた視界を遮るような城壁が目前となると、馬車はようやく速度を落として停まる。それに倣って、騎兵達も馬車を囲うように停まった。
周辺にはまた静寂が戻る。
城壁には古く小さな砦があるが、今は使われていないのか、半ば緑に覆われたその建物には明かりなど無く、見張りもいない。
それを確認した騎兵の一人が、馬車のドアを開ける。
中からは、輝くばかりの美しい銀髪の少女が降りてきた。その後ろからは、目つきの悪い金髪の青年が。
少女はその美しい姿とは似つかわしくない地味なワンピースを身に纏い、足にはほつれが見えるような粗雑なブーツを履いていた。
彼女らが地に降り立つと、騎兵達は敬礼をする。
先頭を走っていた壮年の騎士が、少女の前で膝を折って手を取ると、鬼気迫る顔を少女に向けた。
「良いですか? 迎えが行くまでは、絶対にここには戻ってきてはなりません。どうか、ご無事に逃げ延びてください」
「………おじさま。お兄様は?」
その質問に壮年の騎士は表情を曇らせるが、もう一刻の猶予もなく、いつ何時追手がここを嗅ぎつけて来るかわからない状況で、なんとかして目の前の少女を納得させてここから逃そうと、必死に言葉を探した。
「必ずや、……必ずやお兄様をお救いしてお迎えにあがります。ですから心配なさらずに、どうかそれまでは逃げ果せてください」
「おじさま……」
俯いた少女の首元からキラッと溢れ落ちたものが騎士の瞳に映る。チェーンにかかるその金色の輪を壮年の騎士はそっと掬い上げると、祈るようにそれを額につけた。
「お祖父様の形見を無くされないようにお気をつけください。いつかこれがあなたの助けに……助けになるやもしれません」
そう願いたいが、儚すぎる希望に男性の言葉はいささか濁った。
「私に助けは要りません。だから……」
「なりませんっ! お兄様は必ずお守りします。ですから絶対に、……絶対にここへは戻らずに生き延びてください。どうか、私とお約束して下さい。」
普段は優しい叔父の気迫に、少女はこれ以外の方法は無いのだと察すると、ただただ頷くしかなかった。
「たのみましたぞ、スーヴァ伯爵。帝国にいる……」
「侯爵様! 後ろから追手が……」
「もう追い付いたのか?! しつこい奴等だ。我が領地に土足で入りおって!! 返り討ちにしろ!!」
「はっ!」
「お二人はあの門からお行きなさい! 迎えが来ているはずです。お早く!!」
そう言って侯爵と呼ばれた壮年の男性は剣を鞘から抜くと、二人を背中に隠すように道を塞ぐ。
金属音や爆音が鳴り響く中、二人の若い男女は振り返ることなく、今は使われていない古い城壁の門をくぐった。
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― 港街ライラ メガネの少年 ―
暗闇を覗いていた瞳は少しずつ光を吸い込む。
気力を振り絞って目元に力を入れると、ぼやけていた視界は徐々に形を捉えていった。
「……うーん?」
ぼーっとした頭でここはどこだろうと考えるが、長い前髪がこぼれて落ちてきては次から次へと視界を遮っていく。
それでも頭を少し動かせば、漆喰が塗りたての真っ白な壁と、汚れ一つないピカピカな床が見えた。
しょぼしょぼした目を擦りながら、ここに来た事情を少しずつ思い出していく。
「そうだったな………」
視線を動かせば、部屋に掛かっている時計の針は六時前を指していた。
丁度良い時間に起きたなと思う一方で、ガッカリもする。
「……はぁ、もうこんな時間か。………起きるか」
口ではそう言うのに、体は動かない。
布団の中で、もぞもぞと動いてみるけれど、上体は起き上がることなくベッドと繋がったままだ。
布団の隙間から手をニョキッと伸ばして、サイドテーブルの上に置いておいたメガネを手探りに探し当てると、ようやく体を起こした。
メガネをかけて、もう一度周囲を見回す。
薄らと光が差し込む真新しい質素な部屋には最低限なものしか置かれていなくて、すぐにでも引っ越せそうだ。
ベッドから足を下ろして薄暗い部屋を歩くと、カーテンを開ける。ガラスの先には建築中の建物の間から穏やかに揺れ動く海が見えたので、そのまま窓も開けた。
風は暖かい。
少し離れてはいるが、揺れる海から音も届いた。
「……やっぱ、ここは良いね」
ここへ来て二ヶ月。
色々と悩むことはあるけれど、波の音が不安な気持ちを落ち着かせてくれる。ここへ来て正解だったなと、窓枠にもたれながらしばらくその音に耳を澄ませていた。
昇る太陽とは反対側の部屋だから、朝は少し薄暗いけれど、この部屋が良いと無理を言って設えてもらった。
「麗しのライラだな」
どこもかしこも新しい建物しかないこの街は、とても活気がある。今や仕事の穴場だと、毎日のように帝国のあちこちから人々が働きにやって来ていた。
帝都から遠い街まで働きにやって来た人々の姿を眺めると、国内には職にあぶれている人が相当数いるのだろうかと考えてしまう。
窓の下の石畳の道には、点々とまばらに人が歩いている。早起きだななんて思いながら、窓の近くに来ては遠くへと歩いていく彼らの背中を目で追うと、今度はその視線の先から荷馬車がやって来て、窓の下を通過して遠くへと走り去っていく。
馬車のカラカラと車輪が石畳にぶつかる音は、街の空へと溶け込んだ。
時々通過する馬車の荷台には、山のような木箱が積まれている事も珍しくは無い。
皆忙しそうだなと、目を細めて見送った。
外の様子に満足すると、窓枠に肘をついていた両腕にぐぐっと力を入れて仰け反る。街の音を聴きながら、背筋を伸ばすと、まどろんでいた体がゆっくりと目覚めていく。
深呼吸をしながら色調の強い美しい空を見上げた、そんな時だった。
「おいっ、テオ!!! 起きてるかっ?!」
階下から威勢の良い大声が聞こえてくる。
声の調子から、今日も機嫌は悪そうだ。
やばっ、と思いながら振り向いた。
「起きてるよー!」
こちらも大声で返事をした。
もう少しここからの景色を眺めていたかったけれど、どうやら時間切れのようだ。
怒られる前にさっさと着替えて下へ行くかと、そう大きくはない木のクローゼットを開く。扉の裏についていた鏡に映る自分をまじまじと見た。
ボサボサとまではいかないが、目元まで掛かる茶色い髪に、丸いメガネの奥には琥珀色に近い茶色い瞳が映る。髪をかきあげれば顔色はどことなく悪く、以前よりかは良いにせよ、まだ完全には体調の回復は出来ていないようだ。
それを残念に思いながら、クローゼットから質素な服とスカーフ、それに腰につけるポーチを取り出す。肘まである袖のシャツに腕を通した後、慣れないスカーフを首に巻こうと鏡を見ながら頑張るが、どうにも上手く出来ない。
「ま、これでいいかな」
若干曲がってはいるが、付いていれば文句は言われないだろう。そう思ってそのまま部屋を出た。
階段を降りながら階下を覗き込む。
部屋の階下は食堂になっていて、六時になったばかりだと言うのに、客席には数人の男性達がすでにテーブル席に座って食事を始めていた。
ここはホテルに併設されている食堂。
俺はその二階にある食堂従事者が住める部屋から降りてきた。
ホテルの宿泊客はホテル名と部屋番号の入ったプレートを見せれば、朝食は無料で食べられる。だから仕事場へ向かう宿泊客で、今からこの食堂は大賑わいとなる。
まだ新しい厨房では、一人の青年が料理をしていた。さっき大声で俺を起こそうとした声の主でもある。
半袖にエプロン姿で、袖からは筋肉の整った逞しい腕が伸びる。さらに短髪で、眉毛が隠れる目の上ぐらいからタオルを頭に巻いているのだが、それが余計に吊り目の鋭い目付きを引き立たせていた。
世話になる俺でもちょっと近寄りがたい風貌だ。
そんなエプロン姿の青年は、無言でカチャン、カチャンと皿を調理台の上に並べては、出来上がった料理を盛り付けていく。
「はよ、……ケント」
突如と出てきた欠伸をしながら挨拶をすると、何を思ったのか俺と一回り以上歳が離れているケントは無言で眉を顰める。
「なんだよ」
怖いだろ。
「いや、まだ寝ぼけていそうだなと思ってな」
そう言って、俺に不満たらたらな視線をこちらに向ける。
「食堂を手伝う前に、先に朝食を食べろ」
ケントは後ろのカンターに視線を向ける。そこには色とりどりの料理が盛られた皿が置かれていた。どうやら今日の朝食らしい。
量は少なめになっているが、朝にしては少し重めの料理だ。でもそれは仕方がない。この食堂に来る客のほとんどが力仕事をしている客だ。
忙しいケントに、病み上がりだからなんて言っていられない。
とにかく俺の苦手なものは入ってないことを確認すると、俺は皿を持ってカウンター席に座った。
「いただきます」
「はいよ」
そう返事をするケントの視線は、卵を乗せたフライパンに向かっている。
「ケント、今日はお客さんの数は多いの?」
「宿泊所によれば宿泊客はいつも通りらしいが、今日は宿以外の客が入って来ているな」
「そっか」
宿との連絡口以外にも食堂の入り口はあって、そこからは通りすがりの一般のお客が入ってくる。宿の客が増えたのでなければ、きっと外からの客が増えたのだろう。
俺は不機嫌なケントの顔を見ながら、むぐむぐと朝食を食べる。
「今日は運ぶのだけでも手伝え。……だが、無理はしなくていいからな」
「うん、わかってるよ」
ケントは怖いのか優しいのかわからない。
「朝の九時頃にヴァンニが来るから」
「食材の納品に?」
「押し売りかもな」
「そんな訳ないだろ」
「午後は先生が来る」
「…………何しに?」
「お前の診察だ」
「いいよ。あの人に診られる方が体に悪い」
「おっと、忘れていた。その先生からの薬だ。食べた後に全部飲めよ?」
ケントはカウンターの隅にあった毒々しい緑色の液体の入った瓶を持ち上げると、コップに数滴入れてお湯で薄める。
薄めたけれど……。
「……それ、飲まなきゃダメ?」
「一滴も残さずにな」
ケントは嬉しそうに薬の入ったコップを皿の横に置く。
俺はその湯気の上がるコップを睨みつける。
薬草の成分なのか、青臭い匂いが離れていてもわかる。
「厳しくない?」
「“良薬口に苦し”だ。あ、飯も出来るだけ全部食べろよ?」
「……わかったよ」
出来るだけ全部食べろって、それはどう聞いても絶対に食べろとしか聞こえないのだが。
俺が端から料理を片付けていく様子を見ると満足したのか、ケントは焼けた目玉焼きを並べた皿に配分していく。
食べ終わった俺は持っていたフォークを置くと、意を決してコップの中に蠢く緑色の液体を煽る。プハッと息を吐くと、椅子から降りて食器を片付け始めた。
うう、口の中に妙な味が広がる。
「やれば出来るじゃないか」
「これ、いつまで飲まなきゃいけないの?」
「テオの体が良くなるまでだ」
「もう大丈夫だよ」
「何言ってる。一昨日も倒れたばかりだろ?」
「あれは、ちょっと油断しただけだ」
「なら、油断しても大丈夫になるまでだな」
ケントは受け答えしながら、カップにスープを注ぐ。
「ぶーー」
「あ、店に立つ前に歯を磨けよ?」
「わかってるって。子供扱いするなよ」
俺のムッとした顔を見ると、ケントはニヤッと笑う。
なんでだよ。俺が嫌がる姿は嬉しいのかよ。
「あ、その前にちょっと来い」
「何?」
「いいから、来い」
ケントは持っていた小鍋を調理台に戻すと、俺を手招きする。
「首元をしっかり結べ」
「だって、難しいんだよ」
ケントは俺の首に手を伸ばすと、緩んでいたスカーフを一度解いてまた結び直す。
「………見られるなよ?」
「わかってる」
ケントは結んだスカーフが解けないことを確認すると、俺の首元から手を外した。
「戻ってきたら、これをよろしくな?」
そう言ってケントは、厨房の台にびっしりと並ぶ、料理が盛られた皿を指さした。
「さっさと歯を磨いてこないと、増えるぞ?」
「……本当、ケントって意地悪だよね?」
無理しなくて良いと言ったのは、ただの気休めだったのか。
睨みつける俺とは反対に、ケントは満足気に俺を見ていた。
真新しいテーブルにトンッとお皿を置く。
「お待ちどうさま」
「おう、坊主。ありがとうな」
体格の良いおじさん達は、宿泊者の証拠でもあるホテルのプレートを見せながら、俺から料理を受け取る。
「初めて見る顔だな。新顔か?」
「そう。少し前にライラへ来て、今日から手伝うことになったんだ。よろしく」
「そうか。でも、ここは若い子にはちょいと寂しい街だろ?」
「そんなことはないよ。活気があって面白そうだ」
「ははっ! それなら良かった。とかく言う俺達も、仕事で他所から来ているけどな!」
おじさん達は豪快に笑う。
「おい、テオ! こっちも運んでくれ!」
「あ、やば。俺行くね? ごゆっくりどうぞ」
「ああ。頑張れよ、坊主」
厨房に戻ると、さっきの様子が気になったのか、テオが釘を刺してきた。
「あまり余計なことは言うなよ?」
「わかってるよ。そんなヘマはしないよ」
「わかっているなら良い。じゃ、次。これを十二番テーブルに運んでくれ」
「はいよ」
俺はトレーに料理を乗せると、再び客席へと向かった。
「お待ちどうさまー」
「そこに置いといてくれ」
「はーい」
老若混合の男性三人組は、持って来た料理には関心がない。だけど、テーブルにはそれぞれ銀貨三枚が積まれていたから、言われるがまま皿をテーブルの空いているところに置いてその銀貨を回収する。
おじさん達はその間も料理には目もくれず、お互いの話に夢中になっていた。
「……その話、本当か?」
「ああ。帝都から来た商人の話じゃぁ、トルス皇子が帝城で反乱を起こしたとか」
俺の体はピクリと反応する。
「俺もその話を現場で知り合った奴に聞いたぜ。その残党が散り散りになって西側へ逃げているとか」
「でな、帝都の居酒屋とかで傭兵を募っていたって噂もあるらしい。もしかしたら、ここへも傭兵を探しに来ているかもな」
男性の一人は軽薄そうに笑う。
「そもそも、何で第一皇子が内乱なんか企てたんだ?」
「そりゃ、皇太子の座を取り戻す為だろ?」
「そんな事をしてひっくり返るのか? だって相手は行方不明になっていたアフトクラートの孫だろ?」
「そうらしいな」
「やっぱり、いきなり現れた皇女の孫が邪魔になったのか?」
「どうだろうな。だが、御貴族様の権力争いに巻き込まれるのだけはごめんだ」
「全くだな」
「だからこんな遠くのこの街にも、皇子の残党を探しに騎士が沢山街に来ているのか」
俺はその席から離れずに、耳を澄ませて三人の話に聞き入る。
「ん? なんだお前も興味あるのか?」
俺に気づいた男性の一人が俺に話しかけて来る。
客の話に入り込むのは危険だけれども、その話が気になってしまって頷いた。
「ねえ、その反乱を起こした人達って、捕まるとどうなるの?」
「あ? そりゃきっと極刑だろ?」
「極刑って………死刑ってこと?」
「そりゃ、帝城で騒ぎを起こしたしな」
「え、でも騒ぎを起こしたのは皇子だったんでしょ? 皇子なら……」
「だがな……」
「おい、テオッ! 仕事がまだ残っているぞ!!」
厨房から咆哮とも思える鋭い声が響く。
それは俺だけじゃなくて、食堂にいた客さえもビビらせた。
「あ、ごめん。俺行くね」
「あ、ああ。……なあ、ここの仕事が辛くなったら、俺達がもっと優しい職場を探してやるぜ?」
男性達はコソコソッと俺を心配する。
「ははは……。大丈夫だよ、……多分」
俺は顔を青くさせながら、目が猛獣と化しているケントのいる厨房へと戻った。
俺はカウンターに上体を委ねる。
たった数時間働いただけなのに、体が言うことを聞かなくなった。
重くて重くて、しばらくこのままでいたい。
「朝の時間はこれで終わりだ。体は大丈夫か、テオ?」
店の看板をひっくり返したケントは、タバコをふかしながらカウンターでどろどろに崩れている俺に問いかける。
そんなことは、俺のこの姿を見ればわかるだろう?
朝の営業時間は終わり、これから昼食までの間の数時間はお店を休ませて、その間にお店は昼食の下拵えや準備を始める。夕方も同じで、昼食の時間が終われば、数時間お店をお休みさせて準備をする。食堂で働く人が少ないって理由もあるけれど、建設現場で働いている人達が食べに来なければ、この街にはお客になるような人はまだ少ない。
彼らの休み時間に合わせて店を開けている。
「……死んだ。こんなに忙しいんだね」
力なくカウンターで平伏している俺を見ると、ケントは失敗したなって顔をする。
「ま、テオは病み上がりで、まだ全開じゃないから仕方がないな。何度も言うが、体の回復を優先しろよ?」
「……回復を優先させる人に、朝からやらせる仕事量じゃなかったよね?」
「あー悪かった悪かった。良いリハビリになると思ったんだが、俺の認識不足だった。最近この近くで新しい建設が始まったらしいから、朝から客が集中してしまったようだ。何かあればお前の親族に申し訳が立たないから、それ以上は体を悪くさせるなよ?」
煙をくゆらせるケントの言葉は優しいのに、ニヒルに笑っては俺を見る。
くそう、絶対悪いだなんて思っていない顔だ。
そんな時に、裏口の扉が開いて大男が入ってきた。帽子を深くかぶった彼は、脇に長細い木箱を抱えている。
「こんちはー! 今、休憩時間ですか?」
「休憩だから入ってきたんだろうが、ヴァンニ」
「はは。そうっすね」
人懐っこい話し方をするこの大男はヴァンニ。この食堂に野菜などの食材を運んでくる男だ。
「今日はいい野菜が入ったのか?」
「ええ」
ヴァンニは笑顔でカウンターに近付いてくる。
「おや、テオドール。初日からどうした? ケントさんに酷く使われたのか?」
「うん」
「予想以上に忙しくなっただけだ。大した事じゃ無い」
「あー………」
ヴァンニは何か引っ掛かったのか、彼の目は宙を彷徨う。
「ケントさん、もうちょっと優しくしてやってくださいよ。テオドールはまだ回復していないのでしょう?」
そうだ。もっと言ってやってくれ、ヴァンニ。
ケントはヴァンニの言葉に苛ついたのか、荒い返事をしながらタバコの火を灰皿で消す。
「わーったよ。それより、ヴァンニ。知り合いで店の手伝いが出来そうな奴はいないか?」
「手伝いですか? ……ああ、そうっすね。二人だけじゃテオドールが潰れそうですもんね」
ヴァンニは憐れそうにカウンターに頬を押し付ける俺を見る。
「俺は今まで一人だったがな」
「ははは……。知人に余っている人手がないか聞いてみますわ」
「頼むな。思っていた以上にテオドールが使えなくてな」
「ひどい!」
ケントは病み上がりの人間を捕まえて、冷酷なことばかりを言う。
あんなに頑張ったのに。
「テオ。ヴァンニが来たから、お前は外で少し休んでこい」
「外で、“休む”?」
追い討ちをかけるかのように、ケントの非道な言葉を聞いた俺は、ケントをジトッとした目で睨む。
「……リハビリだ、リハビリ。外の空気を吸ってこい。中央の公園にベンチが出来たらしいから、休むに丁度良いんじゃないか?」
「……わかったよ」
「気をつけてな。変な奴に声をかけられても、ついて行くなよ?」
「ぬあっ? 俺を何歳だと思ってるんだよ?!」
「はははっ! まだ小童だろう? とにかく、二時間ぐらいで戻れ」
「……わかったよ」
二時間ぐらい、ねえ。
ぶすっとした顔のままカウンターから立ち上がると、ヴァンニの入ってきた裏口の扉から店を出る。
そこは建物と建物の隙間である裏道ではあるが、意外と外は明るく太陽がゆっくりと上昇するのが見えた。
扉にもたれて息を整える。
「………散歩してくるか」
ケントに逆らえるはずもなく、俺はゆっくりと扉から背中を離した。
緩やかな坂を下り、俺と海との間に見えたのは中央に大きな岩がある緑一色の公園だった。
ライラもその周辺も、砂漠の影響で緑のある場所は少ないが、それでもこの公園には草木が茂っていた。中央の岩からは水が溢れ、石が敷き詰められた溝に落ちては、緩やかな小川のように流れていく。
小さな木の下にあったベンチに腰を下ろすと、息をゆっくりと吸い込む。宿からそう遠くないこの公園まで歩くのに、俺の息は上がっていた。
「治るのかな、これ」
帝都では落ち着いて静養出来ないからと、この街に越してきた。
リハビリも兼ねて、ケントが切り盛りしているあの食堂で手伝いをすることになったのだが、意外にも食堂は戦場だった。
「ふー」
ここは落ち着くな。
空を見上げ、風に揺れる木の葉を眺めながら、海の音を探そうと目を瞑って耳を澄ませる。
だけど公園に隣接する道には行商人で溢れかえっていて、その活気ある音にかき消され、波の音なんかこれっぽっちも聞こえてはこなかった。
周辺にはまだ何もないこんな辺鄙な街にでも、人さえいれば商人って現れるんだな。それでも、店がまだまだ少ないこの街では、大事な物資の調達手段だし、頼もしい存在でもある。
「ちょっと見ていこうかな」
何を売っているのだろうかと、興味を引かれてベンチから腰を浮かせた。
路上の端にはお店を出す馬車が一列に並び、それら全てが見えるところに領主から買った販売許可証が貼られ、許可証のないお店は一つもない。
「へえ、意外ときちんとしているんだな」
関心しながら当てもなく歩いていると、前方から見回りらしき兵士の二人組がやってきて、お店の一つ一つに許可証が貼られているか確認しをしながら歩いていく。見えづらい場所に置かれていると、位置を直すようにも指導している。
見遣れば兵士がロープのようなものをポケットから取り出し、そのロープを引っ張ってお店がその幅から飛び出していないかも確認していた。
どうやら路上で占有出来る範囲が決まっているようだ。
……そういや、ケントの食堂も勿論許可を取って運営してんだよな?
ケントの書類仕事をしている姿を見た事が無いなと悩むけれど、一人で考えたってわからないのだから考えるのはやめようと、賑やかな露天に視線を流す。
野菜や果物はもちろん、加工食品やその場で調理される食べ物だったり、働きに来ている人が欲しがりそうな衣類や道具一式が売られていたりと、様々な商品が並ぶ。
「ここを歩けばなんでも揃いそうだな」
露天販売が許されている公園横の道路だけはお祭りのような賑やかさだ。
その様子に心を弾ませていたのだが。
とあるお店の前で足を止める。
特に興味はなかったのだが、何故か気になって足が止まってしまった。
足が止まってしまったのだから、とりあえず商品を見てみようとお店の中を覗き込む。民族的なものなのか、珍しい模様や色使いがされている敷物が、大なり小なりと掛けられていた。
「いらっしゃいませ。何かお気に召すものがございましたか?」
そう声をかけられて顔を上げる。何となく寄っただけで、特に必要ではないと断ろうと思ったけれど。
目の前には肩よりも短い茶色の髪に、ぱっちりと開いた銀色の瞳の女の子。地味な服装だったけれど、嬉しそうに俺に話しかけてきていた。
…………やば。結構、好みかも。
思わず唾を飲み込む。
「あ、いや。特に欲しいものはないけど、綺麗な模様だなって思って」
「まあ、ありがとうございます。これ、トリス王国北側で作られている敷物なんですよ」
「へえ、トリス王国」
そこ、どこだっけ。
「ここにあるのは全部、そのトリス王国の?」
「いえ、これはトリス王国の製品ですが、途中で仕入れたからセルゲレン地方の敷物も多いかな?」
そう言って、女の子は棚へと視線を動かす。
「そうなんだね……。あ、一つ貰おうかな」
買う気が無かったはずの俺は、寝室のサイドテーブルの上に敷けそうな小さな敷物を手に取った。
「わあ、ありがとうございます! えっと、それは………30銀貨ですね」
「えっと、30銀貨ね」
彼女の笑顔に浮かれつつも腰に掛かっていたポーチを開くが、中には金色のコインばかりで銀貨が見当たらない。
「あ、これで良い?」
「はい、お釣りですね。お待ちください」
そう言って女の子は後ろの木箱に渡した金貨を入れると、ジャラジャラと銀貨を拾い出す。
「ねえ。この辺りに住んでいるの?」
そう聞くと、女の子は振り向く。
「あ、いえ。………私たちは流れの商人で、元はトリス王国なんですよ」
「へえ、トリス王国」
何度も聞くが、やっぱりトリス王国がどこにあるのかわからない。
「じゃあ、ここにはずっとはいないの?」
「ええ、北へ行く予定なんです」
「……すぐに?」
「いいえ。街からやっと許可証をいただいたばかりで、有効期間の一ヶ月はこの街にいる予定です」
「そっか。そりゃ良かった。俺はテオドール。テオって呼んでよ。俺もつい最近このライラへ来たばかりなんだ」
「まあ、そうなの?」
「もし良かったら、友達にならない? この辺り、同世代の子がいなくてさ」
「え、友達…………?」
「今度ライラの街を探検しない?」
「あ、えっと………」
「しなくていいぞ、ダナ」
俺達の横から低い声が聞こえてくる。
視線を向ければ、左目に眼帯をつけた目つきの悪い男が立っていた。
「あ、お兄ちゃん」
「……お兄ちゃん?」
その言葉にゴクリと唾を飲む。
「お客さん、買い物が終わったらさっさと帰ってください」
腕を組みながら、尊大とも思える態度で近づいてくる。
俺を敵と認定したかのような鋭い目付きだ。
彼女の兄は俺達の真横まで近付く。背は俺よりも高い。くそう、見下されている。
「あ、あのね、お兄ちゃん………」
「ダナ、これはナンパというやつだ。相手にするな」
「ナ、ナンパ?」
そんなつもりはなかったが。
「妹さんと友達になりたかっただけですよ」
「それをナンパと言うんだ。そんなに友達が欲しいのなら、俺がなってやろう」
「あ、いや、その………」
どう見ても友達になろうって態度じゃない。
しかも俺達よりも一回り年上で、どちらかと言えば俺よりもケントとなら仲良くなれそうだ。
「遠慮しなくていいんだぞ?」
お兄さんは不遜な笑顔で笑う。
その顔にムッとする。
絶対俺よりもケントと意気投合するだろ、この人。
「ダナ、さっきも言ったけど、俺の事はテオって呼んでね」
俺は彼女の兄に負けじとダナに話かける。
「おい、お前……」
「じゃあ、また来るね」
「二度と来るな!」
「俺はダナに言ったんです」
「おいこら、勝手に妹を呼び捨てにするな!」
「ま、またね、テオ」
怒る兄の横で、ダナは恥ずかしそうに手を小さく振る。
その姿に何故だか胸がキュンとした。
「……ダナもあんなのを相手にしてはダメだぞ?」
「あ、ごめんなさい、お兄ちゃん」
妹が可愛いのか、さっきまでの尊大な態度は消え、妹の前だけは優しい兄の姿になったのを見ると、可笑しさが込み上げてきて口元が緩む。
「ダナ、午後の休憩時間にまた来るね」
「うん」
「買い物しなければ客じゃないからな?」
「はいはい、何か買わせていただきますよ」
そう言って俺はダナに向けて手を大きく振った。
<連絡メモ>
三章後半開始です。
作者名が”よもぎぃ”から「笹餅よもぎ」になりました。
今後ともよろしくおねがいします。
(従来のよもぎぃは検索出来るようにタグ付けしておきます)
<人物メモ>
【テオ(テオドール)】
茶色の髪と眼鏡をかける何だか訳ありの男の子。
宿泊所に併設されている食堂に寝泊まりしている。
病み上がりで病弱だけど、生意気発言が多い。
【ケント】
ライラの街で宿泊所内にある食堂を切り盛りしている、雰囲気がいかつい男性。食堂はオープン仕立てで、悪戦苦闘している。
病弱なテオを、とある事情から預かって面倒をみている。
【ヴァンニ】
穏やかな大男。ケントの食堂に食材を納品している業者。毎日定時刻にやってくる。
【ダナ】
テオが公園脇の露天で知り合った女の子。
肩より少し短い茶色髪に銀色の瞳で、笑う顔がほわっとしていて可愛い。
どうやらテオの好みだったらしい。
【ダナの兄】
背は高く、左目に眼帯をしている。愛想のない男。
ダナと同じ茶色の髪。
雰囲気はケントに似ている。
<更新メモ>
2023/10/04 テオのライラ滞在期間を二週間→二ヶ月に変更(直し忘れ ><)、他
2023/10/01 修正(誤字、人物メモの一部修正 等)