不本意な密偵6
淹れてもらったお茶を飲みながら、少しずつ状況が飲み込めてきた僕は落ちつきを取り戻しつつあった。
そう聞けば平穏な雰囲気になったのだろうと思うかもしれないが、実際のところは平穏を通り越して寒冷地に飛び込んだような空気である。
その原因は僕ではない。
「私の息子はそれはそれは可愛くてね、この世の宝石を集めたって息子の可愛さには敵わないよ」
「はあ」
さっきまでは机の向かいに座っていたロッシェルドさんは、お茶が来たタイミングで僕の横に座り直していた。机に肘をつき、長い足を組んでこの上なくリラックスした様子で話を続ける。
「宝石と言えば妻のロクサーナ。どんな宝石を身につけたって宝石が霞んでいくのさ。ああ、目を瞑っただけでも妻の麗しい姿が浮かび上がるよ」
「それはそれは」
ロッシェルドさんは色のある吐息を吐きながら、そっと目を瞑る。
惚気は別の部屋でやってほしい。
さっきからロッシェルドさんの家族自慢が始まっているけれど、僕はそれに対して温度のない相槌を遠慮無しに打ち続けていた。
「セウスも私の妻子に会いたいよね?」
キラキラとロッシェルドさんの笑顔は光り、キラッと彼のウィンクが光る。
僕を呼び捨てにする彼の美々しい圧がさっきから鬱陶しい。
「はあ、そうですね。僕もさっさと帝都に帰りたいですね」
ヒカリの元に。
「あれれ、話を変えちゃった?」
「………」
チッ。気づかれたか。
「残念だけど、それはすぐには出来ないんだなぁ。さっきも言った通り、しばらくセウスは前セルゲレン侯爵の代わりとして、セルゲレン地方を統治しなくてはいけない」
「……そんな事を、帝国素人の僕が出来るわけないじゃないですか」
「大丈夫。実質的な実務の補佐を我々が担うから」
「それって、代理はロッシェルドさんで良いのでは?」
「ダメでーす。陛下がセウスにお決めになりましたぁ!」
楽しそうにロッシェルドさんは僕の意見を切り捨てる。
陛下に会ったのは一度しかないのに、本当なのだろうか。
「本当に陛下が僕を指名したんですか? あの宰相補佐官が、僕をここに足止めするために決めたんじゃないんですか?」
「うん? 確かに補佐官達は陛下に進言は出来るけれど、勅令なのだから、最後は必ず陛下が決定を下している」
「本当ですか?」
「本当本当。特にカロスはその立場は弁えているよ」
ロッシェルドさんの返事を聞いても、僕はまだ訝しんだままだ。
「誰かがいなければ何も出来ない僕に、どうしてそんな大役を?」
「陛下達はきっと、バシリッサ公爵の“彼氏”に実質的な実績を作って欲しかったんじゃないかな?」
「はい?」
「代理とはいえ、地方統括職だ。短期間だったとしても、その実績を欲しがる貴族達は沢山いるよ。箔が付くからね。んー………、だからセウスにその役を渡すよう進言したのがもしもカロスならば、それって彼なりの応援だとも思わないか?」
「全っ然!」
「あっはははははは!」
質問をしたロッシェルドさんは、僕の返答に大笑いする。
何がおかしいのかと、ジトッとした目でロッシェルドさんを睨みつけた。
「本当、セウスは何を言ってもブレなくて良いな。あのカロスが安心して地方を任せようとするわけだ」
やっぱりあの腹黒が関わっているんじゃないか。
「………どうしてですか?」
「地位にも権力にも傅かないからだよ。それにお金にだって興味はないだろうから、儲け話でセウスを唆そうとしたところで、全て切って捨ててしまうだろう? セウスはバシリッサ公爵の利害以外は興味がないんだ。カロスからすれば、この上ない人材だ」
「………そこまで、あの人が考えてます?」
「ん?」
「今回の事は、単に僕への嫌がらせにしか思えない」
「あはははは。そうだね、私も少しだけそう思う」
思ってるんじゃん。
僕はムッとした顔をロッシェルドさんに向ける。
「でも、カロスには最初からこんな計画はなかったはずなんだ。それだけは伝えておくよ」
「へえ?」
「おっと、まだ信じていない目だね?」
「ここまで上手く事が運びますとね」
「んー、セウスにはそう見えるか」
ロッシェルドさんは視線を上げる。
「今回私は勅使としてここへ来たけれど、当初は陛下からではなくて、従弟であるリシェルからポース軍派遣を要請されていたんだ。あ、へーリオス宰相補佐官の事は知ってる?」
「はい。シキさんのお兄さんですよね?」
「シキ………ああ、ラシェキスが村にいる間に使っていた呼称か。そういえばセウスのいた村でお世話になっていたみたいだね。今更だけどお礼を言わせてくれ。弟を助けていただいて感謝する」
ロッシェルドさんは立ち上がると、右手を前に当てて僕に低頭する。
「いえ……」
帝国では地位の高い人が大勢の前でそんな丁寧な対応を僕にするものだから、それを気恥ずかしく受け止める。やっぱりロッシェルドさんは真面目な人なのかと、密かに思い直そうとしたのだけれど。
「帰る時にバシリッサ公爵を村から連れ出してしまって、セウスには悪い事をしてしまったようだけどね」
「本っ当に!!」
「あっはははははははは!」
「むっ」
前言撤回。
やっぱり、僕を面白おかしくいじりたいだけだ。
「はは、悪い悪い。余りにも素直に認めるから、ついね。あー、セウスは面白いなあ」
ついって何だよ。
笑いを堪えるロッシェルドさんは、呼吸を整えながら椅子に座り直す。
「……それで、リシェルさんから要請された理由って?」
これ以上遊ばれるのは嫌だから、話を戻してやる。
「あ、そうそう。彼がセルゲレン地方に送った調査団に問題が発生したと聞かされてね。それとリトス侯爵の件でドーマ領も気になるからと、私に助力を求めて来たんだ」
「ふーん。……それで軍を?」
「送り込んだのが、武には自信のある人間ばかりだったのに、そんな彼らが行方不明と聞かされたのだ。それ以上の人間がセルゲレン地方にいるのだと考えたのだろう」
「……なるほど」
それでノクロスさんにも目をつけたのだろうか。
思わぬところから、僕達がここへ送り込まれた事情を知ってしまう。
それでも一番の理由は、腹黒が僕をヒカリから引き離すためだったと信じて疑わないけれど。
「リシェルさんは帝国軍には依頼しなかったんですか?」
「先日の帝城での騒ぎにも関わるが、その頃から既に補佐官の二人は帝国軍を怪しんでいたんだろう。確かにうちのポース軍なら、初代皇帝似を狙う人間がわざわざ入ってくることもない。それに私のモーラ地方は彼のポプリーヌ地方より断然セルゲレン地方に近い。少々手のかかる依頼だったけれど、リシェルには貸しがあったから渋々私が指揮を執る形で承諾したよ」
「リシェルさんの貸し?」
「カードゲームで賭けた別邸の権利書を、ね」
「………まさか、別邸を賭けて獲られたんですか?」
「ロクサーナがお気に入りの別邸だったんだけど、いつの間にか私の字で誓約書を書いて署名までしていてね? それを帳消しにしてくれるってリシェルが言うから、ロクサーナにバレる前に収拾したくてさ」
「よく別邸を賭けましたね?」
「自分でも驚いたよ」
ロッシェルドさんは他人事のようにため息をつく。
「………奥さんは更に驚くでしょうね」
「おかしいんだよね。二人で楽しくお酒を飲んでてさあ、カードゲームを始めたまでは覚えているけれど、いつの間にそんなものを賭けたかなって」
本気でわからないのか、ロッシェルドさんは首を傾げる。
「寝ている間に勝手に捏造されたのでは?」
「立場柄、リシェルはそんな事はしないよ。随行していた侍従達に聞いたら、意気揚々と私自らサインをしたと全員が言うものだから、無効にも出来なくて」
「証人付きですか」
「確かにうっすらとそんな事をしていた気も……うーん」
大丈夫だろうか、この人は。
「別邸を何事もなかったように取り返したかったから要請は承諾したけれど、遠征すれば可愛い妻子と一ヶ月は会えなくなるなーって悩みに悩んだよ。セウスだって、私の立場ならそう考えるだろう?」
「はあ」
「そうしたら、その賭けの話がどうしてかロクサーナの耳に入ってしまったようでね。遠征に行ってらしゃいって、にこやかに言われちゃったんだ」
「秘密にしていたんですか?」
「当然じゃないか。私の周囲には箝口令を敷いたさ。だから、どこから漏れたのか……」
奥さんの笑顔が凍っていたのが容易に想像出来てしまう。
ロッシェルドさんは腕を組みながら、「彼女付きの侍女から漏れたのかなぁ?」なんてぶつぶつと呟く。
「犯人探しをする前に、ロッシェルドさんは遠くのこの地で、深く反省していたほうが良いですよ」
「はあぁ、これで四度目だよ」
「四度目?」
「リシェルにツケを帳消してもらうの」
「………それ、完全にリシェルさんのカモになっていませんか?」
「今までカードゲームで負けた記憶はないんだけどな。うーん」
「きっと悪い記憶は、お酒と一緒に流れてしまったんですね」
冷たい返事をした僕に、何故かロッシェルドさんは目を輝かせながらパチパチと拍手を送る。
「すごいね! セウスはロクサーナと同じ事を言うね?」
「………確かに、奥さんと気が合いそうな気がしてきました」
もし一連の話がリシェルさんの罠ならば、奥さんの耳に賭けの話が入るように仕向けたのはリシェルさんだった可能性は高い。遠征に行くかどうかを、ロッシェルドさんは渋っていたのだから。
それはリシェルさんにとっては想定外で……………いや、違うぞ。
リシェルさんにとっては、そこまでが想定内だったのかもしれない。
ロッシェルドさんが家族の傍に居たくて、行き渋る事までが想定内だったから、奥さんの耳に噂を入れるまでがリシェルさんの作戦だったのだろう。
僕はお茶を飲みながらそんな考えに至ると、「この国の宰相補佐官達は……」と諦めに近いため息をついた。
まんまとリシェルさんの罠に嵌まったのだなと、横でまだ首を傾げるロッシェルドさんに憐れみの目を向ける。
「…………もしかしてリシェルさんの為に準備していた軍が、そのまま今回の勅使軍に?」
「おっ、セウスは頭の回る子だね!」
リシェルさんはうざくもウィンクをする。
あの腹黒からではなくリシェルさんからの依頼だったから、“最初から仕組まれていなかった”と言っていたのか。
だけどここまでくれば、かえって全てが罠だったのではと、僕は思うのだ。
「そう。リシェルに依頼されていた遠征隊の準備をしている最中に帝城での騒ぎが起きたんだ。陛下に召集されて勅使に任命されたんだが、いただいた指令がリシェルに頼まれていた事とそう変わらなくてね。準備していた隊に人員や荷物を少し追加しただけで、そう時間もかからずに出発が出来たよ。私って天才だと思わないかい?」
「ええ、操られる天才ですね」
「ん?」
思わず本音が出てしまったなとコホンと咳払いをする。
「……いえ。リシェルさんに頼られているんですね」
「頼られる?」
「リシェルさんはロッシェルドさんにだからこそ頼めた事なのでしょう? リシェルさんに信用されているんですね。あなたの動かし方は悪手ですけど」
「ふーん、そうか………」
ロッシェルドさんは腕組みをしたまま真面目な顔になる。少しすると、どこかこそばゆそうに表情を崩した。
「こんな遠回しなことをしなくたって、可愛い弟のお願い事なんて、何でも聞いてやるのにね」
さっきまで大きく陽気な声だったロッシェルドさんは、僕にようやく聞こえるぐらいの小さな声でそっと呟いた。
話が長くなってしまった僕達は昼食の時間になってしまったこともあり、続きは軽食を食べながらとなった。
朝ごはんを食べていなかった僕としてもありがたい。
僕は運ばれてきた一口サイズのサンドイッチを頬張る。
「それで、僕はここでどのぐらい修行を積めば帰れますか?」
「そう言われてしまうと、沢山修行していって欲しいけれどね。期間的な話をするならば、半年は帰れないかな」
「半年?!」
軽く噛んでいたパンを思わず飲み込んでしまいそうになって、むぐっと息が詰まる。
「こらこらセウス。食べながら喋るものじゃ無いよ」
「………すみません」
軽く流そうとしたのに、思わない答えに驚いてしまった。ロッシェルドさんは僕の背中をゆっくりと撫でる。
「地方統括って、ある程度の能力と信用がなければいけないからね。実務をこなせる人材や家臣が豊富な事と、資産が盤石な事が最低条件。前任が反乱を企てたから、次に指名されるのは皇族に近しい人間になるかも知れない。相当に熟考されるだろうな。そんな貴族を選出して決定するまでの時間もかかるけれど、一番は人事が決まった後の大移動だね。領地邸から領地邸の引っ越しは家族だけではなく、家臣やその家族も含めた引っ越しでもあるから、場所には寄るけど引っ越しに数ヶ月かかる場合がある」
「うわぁ」
「統治する領地が変わるっていうのは、一族大移動でもあるんだ」
ナナクサ村で言えば、僕と父だけの引っ越しではなくて、村人全員で引っ越すという話なのだろう。確かに大事だな。
「新しい人達が来るのなら、今いるセルゲレン侯爵邸の家臣の人達は?」
「取り調べが終わり次第、一部は残すが、残りは解雇だ。今、その選別に部下達が向かっている」
「そうですか………」
「今一番悩んでいるのはセルゲレン軍の扱いだな」
「セルゲレン軍?」
「セウスは、セルゲレン軍がドーマの街を襲っていたという話は聞いた?」
「いえ、まだ」
「そうか………」
ロッシェルドさんは、昨夜ドーマ領で起こった始終を教えてくれた。
予想を遥かに超える状況だったようで、近衛騎士上がりの数人をノクロスさんにつけただけでは好転のしようがなかった事態を、リシェルさんと腹黒が用意していたロッシェルドさんの軍で押し返したのだと理解した。
………村のようにはいかないか。
帝国の事情を所々しかわからない僕では、規模が大きすぎて様々な想定が難しい。
やっぱり宰相補佐官らは伊達じゃないなと、僕は彼らの功績をむうっとした顔で讃える。
「えっと、つまりは問題を起こしたセルゲレン軍を解散させるかどうか悩んでいるって事ですか?」
「そう、そういうこと」
「どうしてですか?」
「どうしてだと思う?」
ロッシェルドさんは質問を質問で返す。
それは良くない方法だと昔ノクロスさんに注意されたけれど、それを勅使に任命されるほど帝国の要所にいるロッシェルドさんが知らないとも思えない。
それなら、そう返してきた理由は一つしかなくて。
「一度解散させれば、同じ規模の人を集めるのに時間とお金がかかるから、ですか?」
質問を質問で返すのは、相手である僕を試している行為だ。
僕は目の前のロッシェルドさんをキッと見据えると、それに対してロッシェルドさんはニヤッと笑った。
「セウスの環境から考えれば、まあまあかな」
「はい?」
「いや、合格点ギリギリあげられるって言ったのさ」
「ぎりぎり………」
「無闇に軍を解散させてしまうと、抑止力が無くなって大きな事件が起きた時に大変なことになる。それに総入れ替えとなれば、すぐには機能もしない。うちから連れて来た騎士兵士を落ち着くまで上官にさせると考えても、全て解散はさえられないかな。相互の信頼関係がないと、ただの危険な組織になってしまうからね」
なるほど。
「一朝一夕で理想はつくれないって事だ」
ロッシェルドさんは口を尖らせる。
「だから、今回のドーマ侵攻に進んで協力していた人間の処罰だけに留めようと考えている」
「そうですか」
「おっと、他人事だね。セウス?」
「はい?」
「私は提案だけだよ。それを決定するのはセウスだからね。頑張ってよ、セルゲレン地方統括代理!」
歯を見せながら笑うロッシェルドさんを横目に、抵抗したところで、さっきと同じように揶揄われるだけだからと、諦め半分でお腹の膨れない僕は次の料理に手を伸ばす。
僕のその反応にロッシェルドさんは不意をつかれたのか、意外そうな顔をした。
僕はロッシェルドさんから視線を逸らして、むぐむぐとお肉の挟まったパンを頬張ると、ごくりと飲み込んで、今までの話を反芻する。
「それにしても、前セルゲレン侯爵という方は地方統括の条件を満たせていたんですか?」
「……ああ。一代で商会を大きくさせ、困窮する貴族達に金銭の支援を常にしていた。その結果、彼の周囲には助けられた貴族が多く集まり、一大勢力に成り上がったんだ」
「………もしかして、お金で唆されるって話は」
「そう、既に前例があってね。今回の騒動で知らぬ間に前セルゲレン侯爵に大きく加担してしまった貴族達もいて、知らなかったとは言え、残念ながら処罰の対象だ」
「では、本当に帝城は大変な事になっているのですね?」
「カロスもリシェルも彼らの部下達も、地方に行く暇なんて今はない。だから私が来たのさ。納得したかい?」
「まあ、一応は」
「処罰の対象に領地の没収もあるから、そんな領地への新領主を決める作業も難航しているようだ」
「決まるまでの間はどうするんですか?」
「暫くは帝城預かりとして、臨時の政務官達が帝城から送り込まれるだろうが、手取り早いのは隣合わせの領主に任せるという方法だろう。地域性も気候もよく存じているだろうから、全く初めての新顔に任せるよりはそう面倒ではないだろうな」
「そうですか。でも喧嘩になりませんか?」
「ん?」
「確か領地って、戦争で貢献した褒賞として臣下に授与していたものでしょう?」
「………それをどこで?」
「え? 祖父からですが………」
「ふーん………」
ロッシェルドさんは視線を上にして考え込む。
「なるほどな。やっぱり普通の血筋ではなさそうだね」
視線を僕に戻したロッシェルドさんは意味あり気な笑顔を作る。
「意味が………」
「気にしない、気にしない」
ロッシェルドさんが真面目な顔をすると気になるよ。それでなくても別邸を賭けの対象にするようなろくでなしのロッシェルドさんなのに。
「でも、それだけで地方統括になれたのですか?」
「うん?」
「だって、貴族ならやりたがる仕事なのでしょう? 多くのやりたい貴族を退けて前セルゲレン侯爵にどうして白羽の矢が当たったのか不思議で」
住むところも食べ物にも不自由していないのに、ヒカリ達の命を狙うあたり、余程に欲深い人間なのではないかと思うし、そんな人を何故地方のまとめ役として選んだのか。
「それは更にその前の地方統括が根を上げたからさ」
「根を上げた?」
「セウスは帝国の砂漠は見たかい?」
「あ、ええ。来るまでの間に」
美しい海とは対照的な色のない世界だった。
「ここセルゲレン地方にも砂漠化はひと昔前から広まっていてね。それがちょうど前々任の時からだったんだ。それで急激に農作量が落ち込んだのさ」
「農作量……」
「セルゲレン地方の北部は農耕地が多かったんだが、その砂漠化のせいで小作人達は失業してしまってね。その場合、生活をある程度保証する制度があるんだが、急落した作付けと失業者の増加で、当時の地方のお金も統括の首も回らなくなったのさ」
「でも、海もありましたよね? 漁は出来たのでは?」
「……本当にセウスは目端が利くね」
「それって褒め言葉ですか?」
「もちろんだとも」
笑顔のロッシェルドさんの言葉は、やっぱり警戒してしまう。
「海側なんだがな、実はあちらもあちらで問題が起こってな」
「……問題だらけですね」
「そうだな。帝国の西側の海には、いつからか血糊だけ残して漁村の住民が姿を消すという事件が立て続けに起こったんだ。解決できない奇妙な事件のおかげで、一人、また一人と西の海からも漁民は去っていったのさ」
「それも、数年前から?」
「……きっかりとした始まりはわからないが、そうだな。それも十年ほど前からかな?」
「それから行方不明なままなのですか?」
「そうだ。行方不明になって見つかった者は誰もいない」
「………」
何か引っかかる………。
僕でさえ引っかかるこの話を、あの腹黒が気づいていないとは思えない。
だけど。
「何年も解決が出来ていない?」
僕はぽつりと言葉をこぼす。
それにロッシェルドさんは首を傾げる。
「そう。原因がわからないままだ」
「………」
「そんなわけで当時の地方統括も暫く頑張ったみたいだが、一向に改善されない状況に、とうとう匙を投げて職を辞し、次に決まったのが前セルゲレン侯爵だ」
「前任のセルゲレン侯爵は、問題なく地方を管理出来たのですか?」
「彼の場合は作物だけでは無く、金貨で足りない税などを補填していてね。すでに軌道に乗っていた商会の力を借りたのだろう」
「商会……」
僕は昨日忍び込んだ工房の様子を思い出す。
地下には帝城が把握していなかった武具の数々が並んでいた。
でもあれって、やってはいけない方法で金銭を作っていたんだよね?
そう考えれば、この不毛な地に対応できる人間は居ないのではと、僕は他人事のように考える。
「ロッシェルドさんはまだホーシャ商会の武器のことは聞いていませんよね?」
「武器?」
「まだでしたら、その話はあとでセドリックさんに聞いてください。僕はこの国の規則はまだ分かりませんので、上手く説明は出来ませんので」
そんな僕に代理をやらせようとは、本当にあの腹黒はどうかしている。
ロッシェルドさんがセドリックさんに視線を向けると、セドリックさんは固い顔で頷いた。
「わかった。あとセウス」
「何でしょう」
「明日にはドーマに戻るから、そのつもりで」
「……はい?」
「ドーマ伯爵と顔合わせをして欲しいんだ。そのあと、地方の各所を回るからそのつもりで」
「え、え?」
「早速代理のお仕事を始めてもらうよ。沢山修行していってくれ」
「………」
僕は渋面をロッシェルドさんに向けるしか抵抗が出来なかった。
昼食が終わった後、僕は頭を整理したくて、商館の裏口から外へと出る。腹ごしらえに商館の中庭を散歩し始めた。
ノクロスさん達は寝ていないこともあって、夕食までは休むことにしたようだ。
よく体が持ったよねと、僕の散歩に同行していたユーシスと話しながら壁を曲がると、建物を背にして座っていたマイルスと目が合った。僕達を見ると、マイルスは立ち上がって低頭する。
「あ、僕達のことは気にせず休んでいて」
僕がいると休めないかなと、その場から離れようと飜るとマイルスに呼び止められた。
「セウス様、いえイロニアス侯爵。昨日はありがとうございました」
「え、ありがとうって何が?」
僕は驚いてマイルスに問う。
「仲間を助けていただいた事と、自分を止めていただいた事です」
「止めたって……」
「『怒りに任せて冷静さを欠くのは、力のない人間がやることだ』と」
「……あれで止められたの?」
思いつきで言ったような言葉だったのだけれど。
「ハンリーさんに言われていた言葉でした」
「ハンリーさん?」
「スライムの中から出てきた人です。まだ、目は覚ましていませんが」
「……そう」
息のあった二人のうち、もう一人はまだ目を覚さない。その人のことだろう。
「新人の頃、私の教育係をされていた先輩で、色々お世話になっていました」
視線を下げて懐かしそうにマイルスは語る。
「あの言葉は、私が新米の頃に周囲も見ずに動いてしまった時に言われた言葉なんです」
「へえ」
「とは言っても、特別な言葉ではなく代々近衛達の間で使われている言葉のようですけれどね。ハンリーさんもその前の先輩に言われた言葉のようでした」
………代々。まさかね。
僕はオズワードさんの顔を思い浮かべると、苦い顔になった。
****
ー アンダーバレス商会 会長室 ー
顔合わせが終わり、会長室の中は閑散としている。
ほとんどが食後の休憩や仮眠を取りに部屋から出て行ってしまった。そんな中、ロッシェルドは部屋に残り会長席に座りながら、セドリックから渡された報告書に目を落とす。
「……それで、結局ルイアス商会の尻尾は掴めなかったのか?」
「はい。商会と工房でかき集めた資料から所在地へ向かわせましたが、今朝方、それらしき建物は見つけたのですが、中は空き家になっていたと」
「ふーん。工房への調査を気づかれて先に逃げられたか、最初から存在していなかったかのどちらかだな」
「ええ」
「幽霊商会か」
「………」
「ルイアス商会にいた人間が誰かもわからないんだな?」
「今のところは」
セドリックからその返事を受けたロッシェルドは、書類を机におくとため息をつきながら天井を見上げた。
「何年も、気づかないとはね」
ロッシェルドは天井を見上げながら、そんな事があるのだろうかと考えていた。
「つまり、リシェル達が最も知りたかった事はわからずじまいってことか」
「はい」
帝城側では掴みきれなかったルイアス商会の正体を、ホーシャ商会から忍び込んで探ろうとしたけれど、それすらも叶わなかったということだ。
「生還した調査官は?」
「普通に話せるようになるまでには少し時間はかかりそうです」
「何も見ていないって?」
「……一人だけ男が来ていたと」
「男?」
「年は二十代。金髪で右側うなじ辺りにほくろがあり、彼が来ると商会の副会長が大変丁寧に対応していたと」
「それで?」
「それ以上は……」
「まだ話せないか。頻度は言っていたか?」
「彼の話では一度だけ見たようで、あとは………」
「潜入がバレたのか」
「そのようです」
ロッシェルドは腕を組みながら、考え込む。彼らの潜入がそんなに早くバレるものだろうか、と。
彼らの体格が良いのは否めないが、戦場を駆ける人間ならともかく、ただの商売人が力仕事を生業としている人間との違いを見破ったとも思えない。
「………只者ではないだろうな」
「ええ」
「消えた副会長とその男を追えるか?」
「いま、手配中です」
「そうか。では、そちらは引き続き頼む」
「御意」
セドリックが低頭すると、ロッシェルドは会長席から立ち上がり、側近を連れて部屋を出ていった。
****
一ヶ月も更新していない事実に震えています。