奇妙なお茶会1
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ー 帝都セルゲレン侯爵邸 セルゲレン侯爵ー
金銀光る調度品が多いご自慢の談話室で、平民では到底買えないほどの高価な食器に注がれた茶をすする青年は平然としている。中堅貴族でさえ、その茶器を出せば恐縮しながら茶をありがたがって飲むものの。
先代から考えればもう二十年という長い付き合いにもなる商会だが、現代表のその青年の姿は少し奇妙に見える。若い割には、老人ほどの落ち着きを見せている。時々、どちらが若造かわからない程だ。
そんな青年が時々見せる微笑みは貴族のような気品さもある。先代もそうだったが、時々平民には見えなくなる。貴族相手の商会なのだから、そういったものも自然と備わるのかもしれないが。
「お味はいかがですかな?」
その質問に目の前の青年はどこか驚いたような顔をすると、少しばかり顔を逸らして手で口を隠す。
「何か?」
「あ、いえ。うちから購入されている茶葉ですので、味は私も存じています」
そう可笑しそうに返事をする。
いくら同じ茶葉だとはいえ、わざわざ高級品の食器で出されたのだから、愛想の一つでも「美味しい」と言えないのだろうか。その青年の軽薄そうな様子にイラッとするものの、ここは貴族の頂点でもある自分が大きな器を見せねばならないだろうと、その青年の不躾な態度に目を瞑る。
「そういえば、帝城は大変な事になっているそうですね。継承権一位のアフトクラートが、毒で倒れてしまったとか」
「そうか……」
私は持っていたカップをソーサーに静かに置いた。
「その件でどうやら皇帝は、なりふり構わずに怪しいところを調査するように指示をされたとか」
「……怪しいところ?」
「アフトクラートが倒れた件で、皇帝が皇后の実家すらも調査対象に入れろと指示を出されたとか」
「何?!」
焦る私に、足を組み直した青年は可笑しそうに笑う。
「それだけ立場を関係なく調査をしろという意味でしょう。実際にはなされるかどうかはわかりませんよ」
「だが皇后の実家までを調べるだなんて、やりすぎだ。陛下自ら首を絞めるような事を指示するとは思えん」
「確かに。なぜそこまでするのか不思議ですね」
飄々としていた青年は、急に真剣な顔をすると眉を顰めて考え始める。そんなことよりもだ。
「まさか、うちも調査の対象に?」
「どうでしょう。皇后のご実家に調査が入れば、例外はないって事になりますね、きっと」
「うちは皇子妃の実家だぞ?!」
「………」
私の怒声に目の前の青年は目を伏せると、お茶の入ったカップを置いた。
「そういえば、トルス皇子妃はご健在ですか? 皇子が皇太子を退位されてからは、すっかり影が薄くなってきたようですが」
わしの気にしていることを、臆面もなく口に出してきた青年をジロッと睨む。
「まさかアフトクラートが現れるなんて、思ってもいませんでしたからね」
「本当、急に現れましたね。本来なら、お孫様が帝国の皇帝になられるはずでしたのに」
「……まだ望みは捨ててはいない」
ライラ皇女の孫だとぬかす双子のアフトクラートを帝城での披露宴で見てきた。
今まで散々現れた裏のある偽物皇族かと思ったが、ライラ皇女に関して一分の齟齬さえも許さないと有名なあのクラーディ公爵が、ライラ皇女のお孫だと双子を認めたと聞いた。大貴族院でもその立場を変えていないらしい。
仲間に彼らの出自を突っついてもらったが、ことごとくクラーディ公爵とあの生意気なクシフォス宰相補佐官に返り討ちにあったようだ。
「へーリオス侯爵の息子がその島にさえ行かなければ……」
「……直接、ライラ殿下の護衛だった男と話をしてきたとか。もしかしたら騙されているかもしれませんね」
青年は首を傾げる。
「騙されている?」
「皇女の勲章を持ち物を持ち帰ったそうですが、ご本人は死去されていたという。死人に口無しです」
「……そうだな」
「荷物だけを奪略して、それらしく語ったということはないでしょうか」
「確かにあり得るな」
私はごくりと唾を飲み込む。
皇女ご本人がいらっしゃる訳ではない。ということは、我々は騙されているのか。
「だが、アフトクラートの容姿は……」
「ご存じですか? その護衛の男の家系は元は皇族の傍系から別れた家なのだとか。血筋なのであれば、アフトクラートに似た容姿が生まれてきてもおかしくはないでしょう」
「……そうなのか?」
「その可能性は、ありますよね?」
目の前の青年はにっこりと笑う。
「では、容姿は似ていても皇女の孫だという保証はないのだな?」
「……へーリオス侯爵の御子息が言いくるめられている可能性はありましょう」
「そ、そうか。ならばこうしてはおれぬ」
早急に彼らを引き摺り下ろして、トルス皇子の立場を元にもどしてもらわねば。
バンッと膝を叩いて立ち上がろうとする。
「では、トルス皇子の正当性を訴えに………」
「ですが侯爵」
「ぬ。なんだ?」
「二人のアフトクラートの存在は大貴族院で認められてしまいました。侯爵がそれを訴えても、なかなかに覆らないのではないでしょうか」
「そ、そうだな……」
青年は焦る私の顔を見ながら、柔らかく笑う。
「やはりトルス第一皇子は皇帝になるに相応しいご人格だと思うのです」
「そうだろ、わしもそう思う」
何より可愛いレオスの父親だ。
私は力強く頷いた。
「ここからは私個人の戯言になりますが、今は外野が口を出さず、皇子自らに決起いただき、ご自身が正当な後継者だと訴えられると良いと思うのです」
「な、なるほどな」
確かに、あの双子が正統な後継者だと信じきっている人間に訴えたところで、効果など知れているだろう。大貴族院で決まったことを覆すことは難しい。であれば、早速トルス皇子に動いていただけるように、アリアンナに手紙を書かねば。
「そういえば、侯爵がお送りになったお手紙の効果か、帝城では様々に動きがあるようですよ」
「動き?」
「ええ。リトス侯爵が見捨てられ始められている……とか」
「なんだと?」
そう言うことは早く言え。
「毒を飲まれてから起き上がれないのか、公に姿を現さず、回顧派の何人かもリトス侯爵から心が離れてしまったとか」
「そ、そうか! では……」
トルス皇子に決起いただくまでもないではないか。
「ですが、もう一人いらっしゃいますよね」
「ぬ?」
「リトス侯爵の双子の妹であるバシリッサ公爵」
「……ああ」
女のくせにアフトクラートというだけで継承権第二位に収まっている。以前の宴で見た限りでは、生意気そうな兄とは違って、妹は右も左もわかっていないような間抜けな面をしていた子供だった。あんなのに、うちのアリアンナとレオスが劣っているはずがない。
「兄のほうは虫の息。そしてもう一人は垢抜けない妹。やはり、帝国の頂点に立つべきは将来の皇帝として育てられてきたトルス皇子なのではないでしょうか」
「そう思うか?」
「ええ。ご立派な方ですので」
そうだ。トルス皇子があの双子に劣っているはずはないのだ。
「そうそう。近々、帝城の敷地内でお茶会をなさるそうですよ」
「お茶会?」
「ええ。数人だけの小さなお茶会らしいのですが、どうやら庭園でなされるそうです」
「誰のだ?」
「これは内緒にしていただけますか?」
「ああ」
青年から聞いた内容に、思わず息を呑んだ。
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私は朝から機嫌が悪い。
理由の一つは、キツキのお見舞いが今日から出来なくなったこと。
朝食の後にリシェルさんが来て、今日からキツキの面会は出来なくなったと伝えられた。
どうして出来なくなったのかと問うと、リシェルさんの表情は重くなり、そのまま言葉を詰まらせた。
嫌な予感がした私は、朝食の途中だったけれど、周囲の制止を振り切ってキツキの部屋まで行ったものの、部屋の扉の前で待ち構えていたカロスに止められた。
押し問答をしたものの、カロスはダメですの一点張り。一言だけ体調の変化がありましたと言って、それ以上のことは教えてくれなかった。せめて顔だけを見たいと懇願をしたけれど、カロスはこれっぽっちも譲歩してくれず、キツキの一大事なのにと痺れを切らした私が強硬突破をしようとしたら、あのカロスが阻止しようと私に手をかざしてきたのだ。
いつもとは違うカロスの姿に、ひんやりとする汗はかきつつも、何としてでもキツキを一目見たかった私は、半ば脅しのつもりで風魔素を出したのだが、「貴方が引かなければ、私も引くことは出来ません。キツキの寝ている部屋も含めて周囲が見事に吹っ飛びますがいいですか?」と、手から魔法陣を出していく真顔のカロスに聞かれ、泣く泣く魔素を引っ込めて引き返したのだ。
その後は部屋で自担駄を踏んでいた。
いつもはそんな私のなだめ役を真っ先に買っていたセウスが今はいない。
セウスはノクロスおじさんと一緒に、ナナクサ村へと帰って行ったのだ。
ノクロスおじさんの爵位を継承した後に、庶民にしては高級で、そして貴族にしては地味な衣装を身につけて、もう出発するよと一昨日の早朝に挨拶に来た。村の様子や今後についての相談もしなくてはいけないから、一ヶ月かそれ以上は戻れないと言われ、浮気をしないようにとも念を押しながら名残惜しそうに私の手にキスをすると、部屋を出ていった。
その後は荷馬車やら数人の侍従やら護衛やらを率いてノクロスおじさんと馬に乗って出発をして行くのを、高階のバルコニーから見ていた。下まで見送らずにそんなところから見送ったのは「帝城の正面の広場は貴族なら比較的誰でも入れてしまうので、下まで見送らないでください」とノクロスおじさんに言われたからだ。
そんなセウスと入れ替わるかのように、私の近くにはランドルフがいる。キルギスさんと午前午後で当番制にしたようで、午後はランドルフの時間のようだ。
お昼ご飯をボイコットした私は、まだ私室でごねていた。
キルギスさんと交代した時に、運ばれてきた昼食に手をつけていない私にランドルフは驚いた視線を向けていたものの、事情がわかったのか今は私の座る長椅子の後ろに静かに控えながら、私の長ったらしい愚痴を聞いている。
「珍しいですね。クシフォス宰相補佐官が殿下に対してそこまで強硬とは」
「うう。そうなの」
キツキに会えなかった事も悔しいが、あのカロスが私に対して攻撃をしかけようとしてきたのが、兎にも角にも悲しかった。
最近よそよそしい気はしていたけれど、何か嫌われるような事をしてしまったのだろうか。
「……嫌われたのかな」
迷惑ばかりかけてきたのだから、そうなったっておかしくはない。
私のその言葉にランドルフは笑うどころか、冷静な口調で答える。
「彼の仕事だと考える方が妥当でしょう」
「そうかな?」
「公私どちらにせよ補佐官が殿下達に本当に危害を加えようとは思ってはいないでしょうから、何か深い事情があったのでしょう」
「そう思う??」
「はい」
ランドルフのその言葉に、少しだけ冷静になれる。
ふぅっと息を吐き出して、ずっと羽交締めにしていたクッションから力を抜くと顔を擦り付ける。
………それにしても妙だ。
あのランドルフが、俺様口調をやめただけではなく、カロスを貶す事もなくなった。おかしいとは思うものの、それでも今のランドルフは話しやすい。セウスもカロスも私の傍からいなくなり、相談相手がいなくなってしまった私は、ついつい話しやすくなったランドルフに色々と聞いてしまう。
「カロスを信じて、キツキの事を任せればいいかな」
「今は、それが一番かと思います」
「……そうだね」
どちらにせよ、今の私に出来ることはないだろう。キツキの側に行けたとして、キツキの体をさするか、泣いて手を握ることしか出来ない。それか騒ぎを起こすか。
そう冷静に考えると、確かに邪魔せずに、カロスやキツキの体を診てくれている人達に任せた方がいいのだろう。それを少し寂しく思うけれど、それでも私以外にキツキを気にかけて助けようとしてくれている人がいるかと思えば、それはそれで幸いなことなのかもしれない。
それにしてもお腹は空く。
いじけ続けてご飯をボイコットしたかったけれど、冷静になってくると、体も気が緩んだのかキュルキュルと鳴き出す。それを周囲に聞かれたと顔を赤らめていると、後ろからプッと吹き出す声が聞こえてきた。
「ランドルフ!」
当たったのか、背後からコホンッとランドルフの咳払いが聞こえる。
「お身体は正直なようですね。お食事を召し上がりませんか?」
笑ったはずのランドルフから冷静な言葉が出てくる。チラッと肩越しに見るけれど、ツーンと澄ました顔をしている。笑ったのは一瞬か。私はランドルフの言葉に唆されて、テーブルに出された料理に視線を流す。運ばれて来てから既に一時間は経過しただろうから料理は冷めてしまっている。
「わかった。残すのは嫌だから、食べる」
「今、新しいものを……」
「いい。私が冷ましたんだから、冷めたものを食べる。私の我儘で厨房の人達の手を煩わせたくない」
「せめて温め直させましょう」
「いい、食べる」
「ですが」
うるさいランドルフを睨みつける。自分が冷ましてしまったんだから責任持って食べるわ。
「……承知しました」
そう言ってランドルフは食事が置かれていたテーブルの椅子を引いて、私をそこの席へ促した。
遅い昼食をとった私は、少し満足した顔で椅子に座る。
昼食が終われば近衛の交代時間があるのだが、知らない間に午前にはいなかったシキがいた。シキのその姿を目の端で捉えるものの、視界の中心に収める勇気は、私にはまだない。
ランドルフのおかげで拗ねる気持ちも無くなってしまた私は急にやることがなくなり、手持ち無沙汰の私は近くにいたランドルフに話しかける。暇なので疑問に思っていたことを聞いてみた。
「ねえ、どうして私の護衛をやろうと思ったの? お父さんに言われたから?」
ランドルフに最初に会った時は最悪だった。そしてその後はさらに最悪だった。
そんな出会い方しかしていないのに、私の護衛なんて嫌ではなかったのだろうか。ランドルフは普段の仕事を止めてまでここに来ているらしいし。あのお父さん、強引そうだしね。
「自分から父にお願いをしました」
「自分で?!」
驚いて振り返る。
「はい。殿下の近くで仕事がしたいと、願い出ました」
ランドルフは真面目な顔を私に向けた。
そんな意外な返事に私は言葉を失う。後ろを見ていた体は前を向き、混乱した私はそこにあったクッションを抱えると、ぐっと力を入れる。クッションからミシミシと軋む音がする。
私の近くで仕事をしたいとは一体どういう意味だ? まさか、更なる嫌がらせをしたくて??
はっ! やりそうだわ。ランドルフなら、なんかやりそうだわ。
オンドラーグ地方での仕打ちを考えれば、それしか考えられない。
わざわざそんな事のために来るなんて、ランドルフは結構根に持つ気質なのかな。あの時は腹がたったから、私も後先考えずにランドルフに喰ってかかったもんね。
私は自分の答えに納得すると、さっきまで自分の愚痴を聞いてもらっていた事も忘れて、敵視するような目でランドルフを睨む。
「婚約の話は?」
こっちもやっぱり嫌がらせでお父さんの話を承諾したのかしら。確かにこの上ない嫌がらせだわ。セウスが返り討ちにしてくれたから、今はまだ話が大きくならずに済んでいるけれど。
ひいお爺ちゃんがそういう約束をしたってのはわかったけど、生意気でこの国にいる令嬢と呼ばれる女性達のように可愛らしくもない私とわざわざ結婚をしたいなんて思えない。
そう考えればこれは罠ねと、ギロッとした目でランドルフを捉えるけれど、そのランドルフは顔を赤くしたまま急に口籠る。
「それは、ですね………」
ははーん。やっぱり嫌がらせだったのね。「嫌がらせをしたくて」なんて答えられなくてまごまごとしているわ。おじいちゃん譲りの私の推察力の前では、ランドルフのやろうとしていることなんて朝飯前でわかっちゃうもんね。
答えの返ってこないランドルフは、口を手の甲で塞いだまま、視線を逸らせてしまった。
「ふ、残念だったわね」
私は余裕のある大人の女性のような笑みを浮かべる。生前のキリッとしたおばあちゃまを想像すると、腕を組んだ。
「……え、何がでしょうか?」
「私には、ランドルフの考えることはお見通しってことよ」
「お見通し……」
ランドルフは私の言葉にさらに顔を赤くする。
はっはーん。やっぱりそうだったのね。
セウスがいなくても、こんな罠に引っかかる私ではないわ!
内心で勝ち誇っていると、コツンコツンと黒い制服を着た男性が、壁側から近付いて来た。
見上げるとそれは銀色の髪の男性で、その姿をまだ視界の中央に入れてはいけない人だった。つまりどうなったかというと、まだ正面から見る勇気もないのに、彼から視界の中央に急に入ってきてくれたおかげで、私の頭は許容範囲を超越してボフンッと爆発をしたのだ。
そんな不審な私に、後ろにいるランドルフからの視線が刺さる。
「殿下」
「な、なななな何? シキ」
再び余裕のある大人の女性のように微笑みたかったけれど、それは今度にしよう。シキの前では微笑むどころか、顔のどこに力が入っているのかさえわからなくなる。絶対変顔になっている。
今は返事をするだけで精一杯だ。
そんな私を前に、シキはいつもの澄まし顔。仕事中でも女の子達に囲まれていても変わらない、そんな顔だった。
「……お話し中に失礼します。少しだけ伺いたいことがございまして。少しお話しをさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「は、話??」
私の声は急に高くなる。ドキドキドキドキして脈が早くなるし、顔が沸騰を始めている。
「えええっと、何?」
「出来れば少しの間、人払いを」
「人払い?」
シキの視線は私の後ろへと流れる。振り向くと私の真後ろにくっつくかのようにランドルフが立っている。きっとこいつのことだろう。
「ランドルフ。しばらく離れていて」
そう言うと、ランドルフはどこか納得のいかないような表情をしたけれど、頷くと近衛騎士達の立っている廊下側ではなくて、窓側へと離れていった。
「こ、これでいい?」
「はい、ありがとうございます」
そう軽く頭を下げるシキを見上げる。こんな至近距離で真っ正面からシキの顔を見るのは久しぶりで、なんだか泣きそうになって、その気持ちを堪えるかのようにぎゅっとスカートを握りしめた。
少し俯いてしまった私を心配そうに見ているが、シキは話を切り出す。
「その、ナナクサ村から帝国に帰られる際に、私は何か失敗をしたでしょうか?」
「失敗?」
何のことだろうと、視線を上げる。
「何か失敗したの?」
「あ、いえ。その」
シキは歯切れが悪くなると、気まずそうに視線を逸らす。
「たとえば、殿下に“傷”を負わせてしまった、とか………」
「傷?」
特にそんな事はなかったとは思うけど。
「それか、帝国に帰った時ではなくて、西の道づくりの時にでも……」
一体何を聞きたいのか。
「シキがいた時に、怪我なんてしてないけど」
その返事にシキはどこかホッとした顔をした。
「そうですか。少し気になったものですから」
「気になる?」
「あ、いえ。こちらの話です」
シキは柔らかく笑う。その顔を凝視出来なくて、私の視線は下を向いた。
「そ、そう。もう話は終わった?」
「あ、はい……。その、しばらくセウス殿はお戻りになりませんが………」
「セウス?」
どうして急にセウスの話を持ち出してきて何だろうかと一瞬考えたけれど、表向きはセウスと恋人同士ってなっているから、シキだって他の人たち同様、私達のことはそう思っているということだ。
シキにはその事について弁解をしていない。
その事に気がつくと、心にジワリと焦りのようなものが滲み出て来て、私の体はドクドクドクドクと脈打つ。
「セ、セウスの話はやめて」
違う。セウスの事は誤解だと言いたかったんだ。焦るあまり言葉を間違う。
言い直そうとしたけれど、急に無言になったシキと私の間の空気はひんやりとする。
「……シキ?」
「……そうですね。寂しいお気持ちに拍車が掛かってしまいますね。余計な事を申しました。お時間をありがとうございました。失礼します」
「え、あ………」
誤解を解きたかったけれど、吃る私の口からは上手く言葉が出てこない。そうこうしている内に、シキは知らない人のように私に丁寧に礼をすると、元の場所へと戻っていく。それと入れ替わるようにランドルフが戻って来た。
「お話は終わりましたか?」
「あ、うん。たぶん……」
私の腑抜けた返事に、ランドルフは首を傾げる。
そんなランドルフの事なんか目には入らずに、私から離れていくシキの背中だけをずっと見ていた。
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ー 執務室 カロス ー
私の執務室に来ていたキルギスは、私の席に近い窓側の壁に寄りかかり、腕を組みながら部屋に戻って来た私をジトッと睨む。
「なんだ、キルギス。来ていたのか」
「ええ、いただいた徽章のおかげで、坊っちゃまのお部屋まで入れますよ」
「良かったな。保証人要らずで」
「ええ、ええ。もっと困らせてやれば良かったですよ」
「冗談だ。で、何の用だ?」
せっかくキルギスが来ているのに、第一秘書のアンディーノの姿は見えない。
席に座ろうとする私を、四十近いキルギスはむーっとした顔で見てくる。
「男性から見つめられるほど嬉しくないことはない。早く用件を話せ」
「もっと穏便になさった方が良かったのでは無いですか?」
「何がだ?」
「キツキ殿下の部屋の前での話ですよ」
その言葉で書類をめくろうとしていた手が一瞬止まる。
それは朝、キツキの部屋に入れるわけにはいかなかったヒカリとのやり取りの事で、彼女の護衛に入っていたキルギスはその一部始終を見ていた。
「お前が間に入って、彼女を助けてくれるのだろう?」
「何をおっしゃいますか。そもそも、バシリッサ公爵に対して坊っちゃまが攻撃なんてするわけないでしょう。脅しだとしても、少しやりすぎですよと注意したのです」
自分の行動を見抜いているキルギスに、イラッとした視線を送る。
「ああも言わないと、ヒカリは引いてくれないからな。私以外では彼女を止められないだろうから、仕方ない」
「ご事情があるのはわかりますが、坊っちゃまのやり方に慣れないバシリッサ公爵は大変ご立腹なさっていましたよ」
「それはそうだろう」
読んでいた書類を机に置くと、ペンを持つ。書類の下部にサインをするとその書類を机の横に寄せた。
「強硬手段を取りましたね」
「時間が惜しくてな」
「へえ」
私の言葉をこれっぽっちも信じようとはしないキルギスは、呆れた顔をすると寄りかかっていた壁から動く。
「で、今日はどこら辺ですか?」
「なんだ。用件は私への小言だけではなかったのか?」
「どの口が言いますか。毎日のように手伝わせているくせに」
「冗談だ。今日は帝城北西近辺にいる警衛隊だな。様子を見てきて欲しい」
「今日も兵団ですか」
「そうだ。警衛は年齢がバラバラだからお前の顔を知っている者がいるかもしれない。気をつけろよ」
書類を手渡すと、キルギスはふむふむとその内容に視線を流す。
「バレたら逃げ切って見せますよ」
「もう若くないから程々にな」
「一言多いですよ」
「見つけても手は出すな。報告だけだ」
「御意」
そう言ってキルギスは窓の近くに置いてあったパンパンに詰まった大きめの袋を持ち上げると部屋を出て行った。
「さて、うるさい小姑がいない間にやっておくか」
キルギスの出ていった扉を見ながら呟く。
引き出しに入れておいた書類を取り出して立ち上がると、それを見ていた秘書が近付いてくる。
「お届け物でしたら、私目が」
「いや、他にも用事があるから私が行ってくる」
「そうでしたか」
頷いた秘書は部屋の扉を開けると、いってらっしゃいませと私を送り出す。
目的は宰相補佐官達の部屋。
リシェルとは別の補佐官達だ。
しばらく静かな廊下を歩くと、部屋から少し離れた目的地に辿り着く。扉の両端に立っていた警備が私を見ると敬礼をした。
「ラリス補佐官はいらっしゃるか?」
「はい、在室中でございます。お待ちを」
そう言って、警備は扉をノックして私の来訪を室内に伝える。中から「入ってもらえ」という声が聞こえるのと同時に扉は開いた。
「失礼する、ラリス補佐官」
扉から一歩進んだ先は私の間取りと同じ部屋なのだが、置かれている調度品の違いからか雰囲気が違う。ラリス補佐官の執務室は私の目からは装飾が過剰過ぎて少しごたついて見える。
「何用ですかな、クシフォス補佐官」
奥の席から立ち上がったのは、自分よりも一回り以上年上で、最近は目尻の皺が目立つようになってきた男性だった。
「こちらの仕事をお願いしたい」
歩みを進めて奥の席まで進む。手に持っていた封筒を手渡しすると、ラリス補佐官は訝し気にその封筒を眺める。
「このような届け物など、秘書にやらせればよろしいのに。わざわざあなたがお持ちになられたのですか?」
「ええ。秘書は全員出払っていまして」
それを聞いたラリス補佐官は鼻で笑う。
「お忙しいようだ」
「ええ」
「キツキ殿下が倒れられて、大変なご様子。私は今の時期は暇ですので、お手伝い出来る事がありましたらなんなりと申し付けください」
チラッと目の前の男性の顔を覗き見る。言葉とは裏腹に、いつもと変わらずに私に嘲弄的な表情を向ける。
「……ですので私の仕事分の振り分けです」
「そうですか」
そう言ってラリス補佐官は、封筒の中に入っていた書類を取り出す。
「この程度のこと、私目が早めに終わらせますよ」
「よろしくお願いします」
そう言って部屋を出ようとした時に、ラリス補佐官は独り言のように話し出した。
「父も気に病んでいましたよ。あなたに任せっきりにしてしまっている事を」
「……宰相のご体調はいかがですか?」
「もう年でしょうね。さっさと私に宰相の座を私に譲って引退すれば良かったものの。そうすればクシフォス宰相補佐がそのように寝る間も無く働く事は無かったのですがね」
相変わらず状況のわからない人だと、ゆらっと体をラリス補佐官に向ける。
「ご心配、痛み入ります」
「ご無理をなさらずに。あなたはまだ若く新人なのに、陛下の甥というだけで大層判断の難しいお仕事をなさっている。私に任せれば、もっと手短に終わらせるものを」
「手短、とは?」
「あっという間に、今回の事件の犯人を捕まえて見せるって事です」
「………それは頼もしい。私もその意気を見習いましょう」
「限界を感じていらっしゃるのでしたら、いつでもご相談ください」
「ありがとうございます」
部屋を出ようとした時に、わざとらしく思い出したかのように振り向く。
「そういえば、各地方の統計資料の管理はラリス補佐官の管轄でしたかな?」
「ええ、南側は私が」
「昨年までのセルゲレン地方も?」
「ええ、ずっと私の持ち分でしたが、何か?」
「宰相もご覧に?」
「ええ、そうです。………何か?」
あれを見ても何も気づかなかったのか、この親子は。
「いえ。元となった資料は手元に?」
「いえ、戻しましたが」
「戻したとは、どちらへ?」
「それは………」
彼の返答を聞いて私は礼を言うと、次の部屋へと向かった。
ラリス補佐官の部屋から少し。別の補佐官の部屋の中はこざっぱりとしていて品がいい。調度品も落ち着いたものが並べられている。
「珍しいですね、あなたがいらっしゃるなんて」
「秘書が出払っていましたので、こちらの書類をお持ちしました」
「お忙しいですのに、わざわざありがとうございます」
書類を受け取った男はおっとりとした顔をしながら、封筒から書類を少しだけ引き出すと軽く頷いて再び封筒へと書類を戻した。
「………これは、去年のものですよね。再作成になったのですか?」
「……ええ。他の補佐官の手が空いていなかったのでお願いしようと」
「では、来週末までにはまとめてお届けしますよ」
「それはありがたい、ネオニアス補佐官。担当外ですのに、申し訳ない」
「大した量ではありませんので、問題はありません」
おっとりした男は柔らかい笑みを浮かべる。
「それでは、来週を楽しみにしていましょう」
私はそう言って、彼の部屋を後にした。
<人物メモ>
【キツキ/リトス侯爵(キツキ・リトス)】
ヒカリの双子の兄。毒を盛られて、いまだに意識が戻らずに帝城で保護されている。
【ヒカリ/バシリッサ公爵(ヒカリ・リトス)】
キツキの双子の妹。キツキの一大事で帝都へ戻ってきた。帝城の中で護衛に囲まれる日々。様々な理由でシキを避けがち。
【セルゲレン侯爵】
トルス第一皇子妃アリアンナの父親。子爵だったのに、他国商会であるルイアス商会との取引で、自分の商会を大成功させて、高位貴族からの後押しで地方侯爵まで上り詰めた。
【シキ(ラシェキス・へーリオス)】
ヒカリを孤島の村から帝国へと連れ帰った。帝国の近衛騎士試験に受かり、紆余曲折の末ヒカリの専属近衛騎士となった。
【ランドルフ(ランドルフ・クラーディ)】
帝国の名門貴族の出身。実家の騎士団の副団長をしてたが、とある事情から今はヒカリの護衛をしている。
【カロス/クシフォス宰相補佐官(カロス・クシフォス)】
魔力が異次元な筆頭宰相補佐官。将軍の愚息で皇帝の甥っ子。キツキの事件で、難しいかじ取りを迫られている模様。
【キルギス(キルギス・ボレアス)】
カロスが子供の頃に護衛やら遊び相手やらをしていた元近衛騎士。カロスからの依頼でヒカリの直属の護衛をしているが、空いた時間はカロスの手伝いをしている。
【ラリス宰相補佐官(ルシオ・ラリス)】
現宰相の息子。その縁で宰相補佐官の地位についている。カロスよりも二回り近く年上。
【ネオニアス宰相補佐官】
宰相補佐官の四人の内の一人。とある貴族の子息。常に温和な雰囲気を醸し出している。
※添え名は省略
※以下略(セウス/ノクロス/他)