空いてしまった時間 ーノクロス回想
手に持っていた古びた革表紙の日記を静かに閉じると、目の前のテーブルに置いた。
息を細く吐き出しながら、その日記に書かれていた今までの記録を、複雑な感情と共に整理していく。
「まいったな」
自分が、ここ帝都を離れている間の四十数年間、想像をしていた以上の出来事があったようで、それを上手く心の中で片付けられないのは自分の不明のせいであるとはわかるものの、どうにも渦巻く感情が止まらない。
自分がこんなにも小さな男なのだと、気付かされるばかりで。
俯いて何度も失望の混じった息を吐き出す。
そんな折、部屋の扉が開いた。
入って来たのは、私をあの島まで探しに来たハレスだった。
「父上、読み終わりましたか?」
柔らかい表情で、近づいてくる。
これを読まなければ、何も知らずにその呼びかけを嬉しく思ったことだろう。
「ハレス。自宅と言えど“父上”はやめなさい。誰が聞いているかわからない」
私の言葉が意外だったのか、ハレスは背の高い体を萎縮させる。
「……はい。配慮が足りませんでした」
「手帳は全て読ませてもらったよ。私はずっと先輩に助けられていたようだ」
手帳の主は、“エリック・カルディナ・トーレス・カルディナ”。
先代のカルディナ伯爵だ。
そして、彼の旧姓は“ロンバルディ”。
私達が行方不明になった日、後方にいた近衛騎士のエリック・ロンバルディ先輩だった。
急にいなってしまった私の代わりに、彼がずっと彼女と息子を護ってくれていた。
その彼は一年前に亡くなっている。
「母が離れにてお茶の準備をして待っています。そのお迎えに参りました」
「そうか、ありがとう」
私はハレスの執務席から立ち上がると、案内を始めるハレスの広い背中を追った。
目の前には咲き誇る花に囲まれた小さな館。
その玄関先の屋根付きのスロープには車椅子に乗った美しい女性の姿が見えた。
夢にまで見た女性だった。
「ノクロス、おかえりなさい。庭にお茶の席を準備していますのよ」
女性は記憶通りに柔らかく笑う。
髪に白髪は混じってはいるが、それでも今も大輪の花のように美しい人だった。
「ご招待をありがとう、レティア」
「さあ、あちらへ。孫達があなたに会えることを心待ちにしているわ。紹介させてちょうだい」
「レティア、私のことは……」
「大丈夫よ、ノクロス。あの子達には、あなたが血縁とは教えていないわ。昔の恋人だと伝えているの」
「そうか。高嶺の花と名高かった美しいレティアの恋人とは、光栄だね」
「まあ、ノクロス。あなた私の知らない土地で女性を口説くのが上手になってきたのではなくて?」
「そうかい?」
「そうよ」
「おかしいな。ちゃんと君には正直に伝えていたと思っていたんだが、昔の私は口下手だったか」
「まあ。おほほほほ」
目の前のレティアは華やかな笑顔でコロコロと笑う。
「行きましょう、ノクロス。孫達が待っているわ」
「ああ、私も楽しみだ」
「きゃっ!」
侍女に車椅子を押されながら移動をしようとしたレティアを抱え上げる。
美しい亜麻色の髪と共に、刺繍やレースが彩るドレスがフワリと舞った。
「急には驚くわ、ノクロス。心臓が止まりそうよ」
ハラハラした顔のレティアは、私の肩をしっかりと掴む。
「それは失礼をした。ハレス、庭に少し大きめの椅子を用意してくれ。今日は私がレティアの足になるよ」
「承知しました」
ハレスはそう言って、嬉しそうな笑みを浮かべながら私達に礼をした。
「本物?!」
「本当に?」
目の前のセウスぐらいの男の子二人は、目を見開かんとばかりに私を凝視する。その様子が、大人であろうとするセウスよりも、そんなことは考えもせずに年相応な反応を見せるキツキやヒカリに似ている。
その挙動不審な動きがおかしくて、吹き出しそうになる口をぎゅっと窄めた。
「まあ、あなた達。ご挨拶もせずに、初対面のお相手に対してとても失礼よ」
レティアに諭されて、男の子二人の動きは小さくなる。
「失礼しました、イロニアス侯爵。息子達が相当に楽しみしていたようでして」
「カルディナ伯爵、ここではノクロスと。レティアの前で堅苦しいことはしたくはないので」
「承知しました、ノクロス殿。では、私のことはハレスと」
「ああ、わかった」
「ふふ。ノクロスが侯爵位を賜るなんて、なんて素敵な事なのでしょう」
レティアは嬉しそうに私とハレスの話に入り込んでくる。
帝都に戻るや否や、私には今までの近衛騎士としての莫大な報酬と特別賞与が支払われ、更には陛下より侯爵位まで賜ったのだ。これは過去の功績と、ライラ殿下とその御子孫を、何もない地で護り続けたことへの功績だった。であるならば、この称号はオズワードさんにだって与えられたものだろう。彼が生きていれば、ライラ殿下の夫に相応しい輝かしいものとなったはずだ。
私の身には、過ぎたものにしか思えなくて。
「おばあさま、早く僕達を紹介してくださいよ」
「あらあらいけない。ノクロスを独り占め出来ないなんて、寂しいわね」
「それは我々が帰ってから存分にどうぞ」
「ほほ。気の利く息子ですこと。ノクロス、ハレスの横にいるのが妻のマデラン。ノクロスの向かいに座っているのが長男のセルジオ。そして隣が次男のニキアスよ」
レティアに紹介されると、マデランは軽い会釈を、孫の二人は椅子から立ち上がって私に礼をする。
その姿をレティアもハレス夫妻も嬉しそうに見ていた。
「セルジオは十八歳。帝国騎士学校を卒業したばかりで、それと同時に見習いから騎士へ昇格したの。そして、ニキアスは十五歳よ。今は帝国貴族学校の学生で、来年はセルジオと同じ帝国騎士学校へ進みたいって言うけれど、ハレスとセルジオの話では危ないって言うのよ? 秋には試験だから、もしノクロスの体が空けば、時々剣の稽古をつけてくれると嬉しいわ」
「おばあさま、僕は問題ありません。試験も大丈夫ですよ。でも、ノクロス様に稽古をつけてもらえるのなら、喜んで」
それをを横で聞いていた兄のセルジオは、ピクッと反応をする。
「あー。最近剣の成績が悪いんだよなぁ。俺も一緒に稽古をつけてほしいな。近衛騎士を目指しているしなあ」
「まあ、この子ったら」
「だって、伝説の人だよ? おばあさまとのご縁がなければ、永遠に気にもかけてもらえないんだよ??」
「そうだよ。貰ったチャンスは掴んで引き寄せなきゃ!」
二人の孫の前向きな言い分に、レティアとハレスはため息をついた。
夫人のマデランだけは二人の姿を見て嬉しそうに微笑んでいる。レティアに雰囲気の似た控えめな女性で、温和な女性をハレスは迎えたようだ。
「夫人のご実家はどちらですか?」
「実家はドーマ領のドーマ伯爵家ですの」
「ドーマ伯爵……」
ドーマ伯爵は昔と変わりがなければ、ノイス王国との国境北側を護っている辺境伯のはずだ。つまりはドーマ領は国境に面している場所になる。
「では、セルゲレン地方のご出身で?」
「ええ、そうです。今は兄がドーマ伯爵を継いでおりますの。ドーマ領は片田舎の辺境で特に話せる特産品もなく、お恥ずかしいですわ」
マデランは恥ずかしそうに視線を下げた。
四十数年前のあの時、殿下の護衛でノイス王国に入る前に最後に入ったのがドーマ領だった。あの時見た光景は、ノイス王国との交易で栄えていた領地で、当時の皇帝のご側妃がノイス王国ご出身だったこともあって、ノイス王国との境は、どちらかと言えば敵を防ぐ城壁というよりかは、物流の関所として華やかに機能していたことを思い出した。人々の行き来の多さが地方都市としてはなかなかのもので、大変賑やかだったはずなのだが。
だけど、それが今ではノイス王国と交流を止められてしまっているそうだ。
交易に頼っていたならば、領内の特産品を産むほど生産に重きを置いていなかったのだろう。
「いいえ、国境の警備を任されているだけでも、大変名誉なことだ」
「軍資金を潤すためにも、うちの領地で栽培している薬草の苗を移植できないかと、何度か義兄上にお渡ししているのですが、気候や砂漠化の影響のせいか、どうも上手く育たないようでして」
「兄が頑固なのです。辺境で国から最低限の軍事費が入るとは言えど、普通に生活している領民もおりますのに。もう少しこの人の言葉に耳を傾けてくだされば、兄も領民も苦労はしませんのに」
ハレスは気落ちする妻の背中を摩る。
ご実家との仲は少し拗れているようだけど、二人のその姿を見ただけでも仲睦まじいのだとわかる。それをふっと目を細めて見る。
ハレスが幸せそうで良かった。
「西側はほとんどが砂漠だったね。あれでは確かに大変そうだ」
「ええ。マデランの実家の領地の端も、その砂漠化が進んでいるのです」
「そうなのか」
交易が止まり、さらに領地の一部で砂漠化となれば、二重苦だろう。それは大変だろうに。
私たちが帝国にいる間には、あんな地はなかった。
それを帝国の力をもってしても解決ができなかったのだと、ハレスから聞いた。
そんなはずがあるかと思ったけれど、帝都へ向かう馬車の窓から見えた景色は、半分近くが色のない世界で言葉を失ったのだ。
あったはずの街すら失われていたのだ。
今まで緑色だった地面が、理由もなしに数日後には焼かれた亡骸のようなサラサラな砂に変化するだなんてことがあるだろうか。
帝都でその話を聞けば、ライラ殿下がいなくなったことによるプロトス皇帝神からの警告だと言う人さえもいた。あまりにも不自然に広がるそれは、とうとう神の域の話にまで足を踏み込んでいた。
「そういえば、謁見の際に陛下の周囲や帝城にいる近衛騎士の数が少なかった気がするけれど、今はあんな感じなのだろうか?」
近衛騎士になると、騎士舎以外にも担当する皇族の住まいの近くに部屋が用意される。だから、時間外の近衛騎士が近くをうろついていることが多いはずなのだが、謁見中の陛下の周囲はもちろんのこと、帝城の廊下や陛下のいらした謁見の間近くにそういった近衛の姿が目につかなかった。
最初は何の話かわからないと言った顔のハレスだったが、何かに気がついたのか、ああそうかと納得したように呟いた。
「実は先帝から近衛騎士の数を減らしたのです」
「減らした?」
「はい。ですから難しかった近衛騎士の試験が、さらに難易度が上がっているようですよ」
「定員は?」
「六十人です」
「六十?!」
その数に驚いて思わず飛び上がりそうになる。
我々の時の半分以下じゃないか。なんだってそんなことになっているのだ?
「どうしてそんなことに?」
「それがね、先の皇帝の時に二百から百近くまで減らして、今のレクスタ皇帝陛下がさらに減らしたそうなの」
「何故だ?」
「そこまではわかりません。ですが、陛下の一声で変わってしまったようです」
私は呆然とする。なぜ陛下がそんな自分の身を危険に晒すことをしたのだろうか。敵が怖くないという外へ向けての見せつけなのかとも考えるが、それでも減らしすぎだろう。いくら考えても合点がいかない。
「今は少人数だから、報酬は上がったけれどかなり過酷な仕事になっているとは聞いてはいるわ。なかなか帰れないそうよ? だから四十歳になる前に近衛騎士職を返上してしまう人が多いみたい」
そうなるだろうな。一人当たりの範囲も広くなるし交代要員だって少ないのだろう。短期間なら良いが、近衛の仕事は場合によっては一日寝ずの番だってある。休みが少なければそれだけ体に負担が多くなるし、若いうちは良いが歳を取ると体にそれがすぐに現れてくる。近衛職の制限が四十歳迄となっている所以だ。
「それでもセルジオは近衛騎士になりたいって言うのよ?」
「厳しくたって、近衛騎士を三年勤めれば出世が約束されたようなものですよ。その後は軍務省どころか、帝皇省や宮廷省の役付きにだってなれる」
「まあ、この子は。三年で辞める気なのかしら」
「実績として見られるって話です。やるならそんな短い期間では辞めませんよ」
いらぬ心配はしないで欲しいですと、さっきまで子犬のような顔をしていたセルジオは大人びいた顔でレティアにピシャリと反論しているが、小生意気なセルジオの態度をそれでも可愛いものだと目を細めてしまう。
「はは。そうだな。でも、家の都合で辞められている人もいたから、あまり頑なに考えないほうがいいよ」
「そうなのですね」
さっきとは打って変わり、セルジオはキラキラした目で私を見てくる。やっぱり経験者は違うなと、帝国では半年ぐらいしか勤めていない私を持ち上げるものだから、苦笑いするしかなかった。
「もう。仕事のお話は楽しそうになさるのね。本当、昔から仕事人間なんですから」
「そうだったか?」
「そうですよ。お仕事の終わった時間を使ってちょっとしたデートの約束をしても、残業だっていっつもお遣いの人から言付けをいただきましたけど?」
レティアはセルジオに懐かれた私に嫉妬をしたのか、珍しく口を尖らせると面白くなさ気な顔を私に向けた。
そんなに仕事人間だっただろうかと、思わず逃げるように視線を上げて昔のことを思い出す。
あの当時はとにかくレティアに会いたくて、仕事が終わって一目散にレティアの元へと急ごうとすると、決まって帝城に残っていた先輩達から、何かと理由をつけられて首根っこを掴まれては、ズルズルと連れ戻された黒い記憶が浮かび上がる。レティアとは周囲には公認の仲だったから、余計にお相手のいなかった先輩達に邪魔をされたのかもしれない。
おかげでレティアには、残業をするほど仕事が好きな男だと、勘違いされたままのようだ。
ここで「違うよ」と言ったところで、ではなんでデートがキャンセルされたのかと恨みに近い長い問答が始まりそうなので、もう勘違いされたまま唾を飲み込むしかなかった。
「あー、うん。そうだったね」
私の敗北に、レティアはニコニコと嬉しそうな表情だ。
「あの、ノクロス様はこのあとはお時間はありますか? もしよろしければ、剣の型だけでも見ていただけますと嬉しいのですが」
「あっ、俺も! ニキアス、抜け駆けはずるいぞ」
「抜け駆けではありませんよ、兄上。おばあ様もおっしゃっていたでしょう? 私の面倒を見てくださいと。ですから、僕が指導を受けるのは正常な流れなんです」
「それを抜け駆けと言うのだ。俺だって近衛騎士を目指しているんだから、ご指導いただきたい!」
「はは。私はもう年だからね。若い人の相手になるとは思えないけど、手加減をしてくれるなら、この後に少しだけで良いのなら見てみようかな」
「「本当?!」」
「まあ、二人とも! お礼はきちんとお伝えしなさい」
レティアが叱ると、子犬のように二人は席から飛び上がる。
「お引き受けいただきありがとうございます。ノクロス・イロニアス様」
さっきまで子供のような顔をしていた彼らは、一端の大人のような礼をした。
「今日はありがとう、ノクロス。孫達も大変喜んでいたわ」
「はは、お礼を言うのはこっちだよ。本当に楽しい時間だった」
お茶会が終わった後、レティアの今の居住であるカルディナ伯爵邸の離れに戻ってきた。
レティアご自慢の庭が一望できるテラスで、彼女を抱えるように長椅子に座っている。この場所で、彼女の髪から花の香りが漂ってくると、昔のことが少しずつ思い出されていく。
彼女の柔らかい髪に触るのが好きだったな。
「で、どうかしら。ニキアスは大丈夫なの?」
「構えや型は悪くなかったよ。だけど、体力がないね。息の上がりが早かったから、もう少し体力をつけておかないと、学校に入ってすぐの上級生との合同練習で根を上げてしまうかもな」
「まあ、やっぱり! お菓子を食べすぎなのよ、あの子。末っ子だから、お嫁さんが甘やかしちゃってて」
「甘やかしているのはレティアもでしょう?」
図星だったのか、レティアはチラッと私を睨むと、んもうっと小さな抵抗を見せたが、それ以上は口をつぐんでしまった。
「……エリックさんの手記を読ませてもらったよ。君には苦労をかけたね」
「本当はね、ハレスにあなたの存在を伝える気はなかったの。だけど、あの人が亡くなる時に、ハレスに自分の手記を渡したのよ。自分の存在が親子の邪魔にならないようにって」
「そうか……」
死ぬまであの人はあの人のままだったな。彼女のことで揶揄われもした事はあったけれど、二十歳で入ってきた小生意気な私の面倒を、嫌がらずにみていてくれた先輩だった。
「二人の話を聞いてもいいかい?」
「……ノクロスは嫌じゃない?」
「どうだろう。でも、知っておかないと、彼の墓参りの時に頓珍漢なことを言いそうでね」
「そんなことを言っても、あの人は怒らないわ」
「おや、もうそれだけで嫉妬しそうだな」
「まあ、それは大変ね。これから延々と話をしないといけないのに」
「それは困ったね。どうしようか、先に嫉妬を鎮めておこうかな?」
そう言ってレティアを眺めると、気がついたのか彼女は頬を染める。
「もうおばあちゃまよ、私」
「知ってる。私もおじいさんだ」
そう言いつつ、彼女唇に軽くキスをした。
「あの日、ずっと一緒にいようって約束したのに。ごめん、レティア。約束を守れなかったよ」
細めたレティアのハニーブラウンの瞳には、薄っすらと涙が溜まる。
「謝らないで。それを言ったら私も約束を違えてしまったから」
「それは、ハレスを守るためにエリックさんが君に結婚を提案したのだろう。君が裏切ったわけではない。」
「だけど」
「君は子供を守るために最善を尽くしたんだ。その決断をどうか重荷にしないでくれ」
「ノクロス……」
彼女の細くなった肩をぎゅっと抱きしめる。
自分の作り出してしまった彼女の境遇を考えると、自然と息苦しくなってぐっと目を閉じた。
あの護衛の仕事が終わって帝都に戻れば、すぐに婚約をして間を置かずにすぐに結婚をするはずだった。そんな予定にしたのは、近衛騎士になって実績もない新米の夫よりは、一つぐらい見栄えのある実績を残してから結婚しほうがいいだろうと、見栄を気にしたのだ。
皇太子ライラ殿下の隣国即位式への参加のための護衛。新米にとってあれほど誉れな仕事はなかった。
だけど見栄なんか気にしてないで、さっさと結婚して二人で新婚旅行にでも行っておけばよかったのだ。
実家に金があるとはいえ、当時の私は男爵家の三男坊。レティアとのお付き合いは当時のカルディナ伯爵は良い顔はしなかった。彼女には高位の家から届く結婚の申し込みが尽きなかったからだ。それでも、私が近衛騎士の試験を合格したことを聞けば、カルディナ伯爵は大喜びで私の婿入りを快諾してくれた。そこで満足すればよかったのだ。もう少し箔をつけようとしたのがそもそもの間違えだ。
「あの時、変な見栄を張らずに、君と帝都にいれば良かったよ」
そうポソリと呟けば、私の腕のなかにいるレティアは驚いた顔をする。
「まあ! 即位式へ向かわれる殿下の護衛をあなたが嫌がったところで、帝城はあなたを必要としていたのですから、どうあがいても外されることはなかったはずよ?」
「そうかな?」
「そうですよ。休暇でうちに来ていても、すぐに帝城からの遣いの人間に見つかって連れて行かれてしまっていましたもの。その度に仕方ないと思いながらも、やぱり寂しかったわ」
「あー……。あの時は配置で揉めていたんだ」
新米なのに、殿下の馬車の真横とか耳を疑って団長に変えて欲しいと何度も交渉したけれど、魔法よりも剣の技術が飛び抜けていたおかげで「近くではなくてどこで能力を発揮するのだ?」とひっどいことを言われた。それに「未熟な部分を補佐するために副団長を横につけるから」だなんて、一緒に聞いていたオズワードさんなんか新人の補佐扱いに怒るどころか、二つ返事でその案を了承していたんだ。
………あの鬼畜団長と温厚な副団長の二人。今考えればバランスが良かったよな。
確かに、帝城からの遣いが私の実家でもないカルディナ伯爵邸までわざわざ来ては、レティアとの逢瀬を邪魔していた。
上級雷使いが操れる探知魔法が体につけられてしまっているのかと思うほど、宿舎や家以外の場所であっという間に捕まっていた事を不審に思って、何度も体を確認したけれど、その痕跡はなかった。
婚約もしない状態で、一ヶ月以上も任務でレティアと離れなきゃいけないのに、そんなこんなでレティアと会う時間がなかなか取れなかった。他の誰かに取られてしまうのではないかと、とにかく不安で仕方がなかった。
あの時と同じ花の香油がレティアの体から香る。
思わず確認するかのように唇を重ねた。
「ノクロス?」
この瞳と見つめ合ったまま、この別邸で体を重ねたのだ。
甘い匂いが、今なのかそれとも昔の記憶なのか混濁する。
レティアの頬にそっと触れると、その手にレティアの白い手が重なる。
「エリックさんに会ったのは、あの即位式の後から?」
「そうよ。あなたが、いなくなってしまったのは自分のせいだと謝罪にいらしたの」
「あの人のせいではないんだけど」
律儀だなと視線を下げると、その先輩を想って苦笑する。
「その時にね、私が吐き気をもよおしてしまって、その姿を見た彼がお腹にややこがいるのかと聞いてきたの。答えられなかったけれど、私の真っ青な顔でわかってしまったのでしょうね。すぐに結婚しましょうって、真剣な顔で言われたわ。私はとても驚いて何を言っているのかと思ってお断りしたのですが、では誰がその子供を護るのかと問われてはっとしたわ。あなたが戻らなければ、お腹の子は私生子になってしまう」
「……そうだな」
この国の法律では、私生子では帝国内の爵位称号を受け継ぐことが出来ない。
だから最初会った時に、ハレスがカルディナ伯爵を名乗っているのを見て疑問に思ったけれど、ハレスの話とエリック先輩の手帳からそのカラクリがわかった。
ハレスは予定よりも一ヶ月早く産まれたことになっている。
もともと本来の予定よりも少し早く生まれもしたようで、それで世間には彼の子だと思わせることが出来たようだ。
「あの時この館にいた侍女は私の味方をしてくれた。そして医者も抱え込んだわ。彼はあなたとも見た目が近いから、大丈夫だと言ってくれたの」
「エリックさんも、茶色の髪と瞳だったからね。少し明るいけれど」
エリック先輩の母親は、正妻に子供が出来ずに召し上げられた平民出の側妻だ。うちの家系も帝国貴族にしては珍しい茶色髪と瞳だけれど、うちは数代前に平民から貴族にあがった成り上がりの家だった。エリック先輩が私の面倒をよく見てくれていたのは、私相手では気兼ねがなかったからなのかもしれない。
「でも、身長だけは難しいなと愚痴っていたわ」
「はは」
ハレスの身長は私を超えている。エリックさんとは頭一つ近く差がついたに違いない。きっと俺の時のように「見下ろすなよ」と無茶なことを思っていたかもな。
レティアからエリックさんとの生活を聞きながら、落ち込む話もあるものの、それでもあの時とそう変わらない目の前の景色に何処となく安堵する。
「君は昔からとりわけ桃色の花が好きだったね」
「ええ。春の色ですもの」
二人で眺める庭には、夕焼けに照らされて、なお一層赤く照らされた花がなお美しく咲き誇る。
「今年も美しく咲いたわ。来年は、お嫁さんにお願いしなきゃ」
「来年もここにくるよ」
「ええ、ありがとう」
レティアの余命は一年。
来年もここからこの庭を眺められるかはわからない。
ここは彼女が子供の頃から世話をしている庭だった。
ハレスが大金を積んでまで、私を探したのは母レティアのためだった。
彼女が息を引き取る前にもう一度、私と引き合わせたかったのだ。
もう亡くなっていたかもしれない私が生きているとハレスが確信したのは、帝城勤めの友人が酒の席でポロッとこぼした「あのノクロス・パルマコスが、殿下の暮らしていた村でまだ生きているらしい」という言葉からのようだ。
その一言だけで、彼は仕事に支障をきたしてでも私を探した。
だから、彼の想いにも応えたい。
レティアの前髪をかき上げて、額にキスをすると彼女をそっと椅子に座らせてから立ち上がる。
「もう帰ってしまうの?」
「ああ、また来るよ」
「夕食も一緒にしていけばいいのに」
「そうしたいけれど、陛下のご高配で用意してくださった西宝殿を、そう留守にするわけにもいかなくてね。夕食には戻ると宝殿の執事には伝えてある。夕食会のお誘いをくれれば、喜んで来るよ」
私の今の住まいは、帝城が準備してくれた八宝殿のうちの西側にある西宝殿。
他国の貴賓や皇族が使う宮殿に恐縮するも、実家は代替わりをしていて私には帰る場所がなかった。
だからと言って、私が朝から晩までここに居座れば、過去に恋人だったとしてもれティアに良い噂は立たない。彼女とはお茶をするぐらいの仲にしておくのが一番良い距離だ。
それ以上は、私の大事なものを護ってくれたエリック先輩の顔にも泥を塗ってしまう。
「ここから西宝殿は少し遠いわね。南宝殿なら近いのに」
とはいっても、ここから南宝殿も馬車で程々にかかる。
「気持ちは君の側にずっといるよ」
「まあ、本当にお上手になったこと」
レティアはおほほと朗らかに笑う。その顔を見ると、余計に後ろ髪が引かれてしまう。本当はもう少し側にいたいけれど。
「では、また」
「ええ、お気をつけて」
レティアの手からスルッと手を離すと、彼女に背中を向ける。だけど、数歩歩けば、何故だか不安になってしまい、振り返った。
「どうしたの、ノクロス? 忘れ物かしら?」
「……あ、いや。なんでもない」
そこにいた変わらない彼女の姿にほっとする。
手が届くところにいるけれど、ずっとここにはいられないのだと、彼女の元に戻りたい自分に言い聞かせ、足を外へと向ける。
館の執事に案内されたエントランスの扉をくぐると、閉めらえた扉の音に胸の奥が強く打たれた。
<独り言メモ>
ギリ……いや、アウトか?
<人物メモ>
【ノクロス/イロニアス侯爵(ノクロス・イロニアス・パルマコス)】
帝国の剣豪で近衛騎士だった。四十二年前にスライムに取り込まれてノイス王国から姿を消していた。
宰相代理のカロスに帝国に戻るように命令をされて帰ってきた。高待遇で迎えられ、さらにはイロニアス侯爵位と同名の家族名も賜った。
夢にまで見た昔の恋人・レティアと再会を果たす。
四十年間の間にあったことを、先輩だったエリックの手記で知る。
【レティア(レティア・カルディナ)】
ハレスの母。
ノクロスの恋人だったが、ただならぬ理由でノクロスの先輩だったエリックと結婚をした。
昔から高嶺の花と言われるほど、美しい女性で、今もその名残を残している。
花を育てるのも愛でるのも好きで、子供の時に自分用の庭をもらい、今もその庭を愛でれる館に居住している。
医師に余命一年もないと言われている。
【エリック/カルディナ伯爵(エリック・カルディナ・トレース)】
旧姓:エリック・ロンバルディ
ノクロスの昔の同僚で、ライラ皇女の近衛騎士の一人だった。行方不明になってしまったノクロスの恋人と子供を護ろうと、レティアに結婚を即座に申し込み、カルディナ伯爵家に婿入りした。
プロローグの登場人物。
【ハレス/カルディナ伯爵(ハレス・カルディナ)】※添え名全てカルディナ
レティアの息子。ノクロスの息子でもある。
実父が生きていると知って、大金を費やして母のためにノクロスを探し出す。
先代が築いた鉱山や薬草の栽培で領地は潤っている。大きな商会も運営している。
【マデラン/カルディナ伯爵夫人(マデラン・カルディナ・ドーマ)】
ハレスの妻。穏やかな人だけど、辺境伯の娘だけあって、芯は強い。
帝国の西南西辺りにあるドーマ領ドーマ伯爵家出身。
【セルジオ(セルジオ・カルディナ)】
ハレスとマデランの長男。見習いから正騎士に上がったばかりの十八歳。出世のためでもあるが、ノクロスに憧れて、近衛騎士を目指している。ハレスと同じ焦げ茶色の瞳と髪の男の子。
【セルジオ(セルジオ・カルディナ)】
ハレスとマデランの次男。十五歳。兄と同じように騎士になろうとしている。こちらはレティアとマデラン似で、亜麻色の髪と青い瞳を持っている。大人びいた事を言うことが時々ある。