姫の涙 ーランドルフ回想
雪の残る中庭を臨める部屋に一歩足を踏み入れると、部屋の中にはその足音だけが響き渡る。立ち止まれば全ての音は消え、凛とした冷たい空気だけが部屋の中に充満していた。
白い床と壁で覆われたこの部屋は、まるで汚れのない聖域。
横から入る冬の太陽の光を受けると、燭台の飾りであるクリスタルに反射して、蝋燭に火が灯ってもいないのに、部屋中に光が行き渡っていく。
城の中心から離れた北側にあるこの部屋は、父クラーディ公爵のお気に入りの場所であり、彼がいなければ使用人達もそう近付かない。
今日は母主催の昼食会が城の中央で開かれている。
母に言われて顔だけ出して来た俺は、早々にその会から逃げて来た。いつものように、俺を取り囲む女性達の足の引っ張り合いがはじまったからだ。
そんな喧騒から逃れて来た俺は、物音一つしない部屋の中央にある特等席のような椅子に腰を下ろした。
目の前には、柔らかい金色の髪の女性が描かれた肖像画。
自分の母でも祖母でも先祖でもない女性の絵が、城の最も美しい部屋に飾られている。
今まではそれをとても不快に思っていたけれど、最近はどうも違う。
彼女の面影が強いその肖像画を、最近では帝都にいる父に代わって、毎日のように眺めに来ていた。
「どうしたんだよ、一体」
自分で自分に問いかけれるが、その答えを自分が知らないのだから、問いかけられた自分だって答えられるはずはない。ただ、いつの間にか心寂しくなってしまい、その度にここを訪れてしまっていた。
本当、おかしい。
父を凌駕するほどの騎士になりたくて日夜訓練を重ねて来た俺が、こんな無駄な時間を使うだなんて、今までの人生の中にはなかった。
それでも目の前の女性を見ていると、とても心が落ち着く。
今まで感じたことのない安堵するようなこの気持ちは、おそらくは“幸福感”なのだろう。感じれば感じるほど満たされていくのに、その反面もっともっと欲しくなる貪欲な心も一緒に生まれてしまっていて。
「最低だな」
欲深い感情なんて、自分にも周囲にも良い影響なんて与えない。
無いものを欲しがれば、それだけ時間を無駄に使われてしまうなんてことは、今までの経験で知っているけれど。
その気持ちをどうやっても止められない。
ー いや、いい
周囲に流されそうなポワポワした砂糖菓子のような女の子は、俺からの誘いを迷いもなく断った。彼女にとっても大事な話だったはずなのに、それを関係ないと言わんばかりのそっけない態度だった。
「なんで俺の話は聞かないんだよ」
動かない女性を目の前にして、誰もいない部屋でポツリと不満を漏らす。
黒髪の男の言葉は少しも疑うことなくホイホイ聞いていたのに、俺の話なんて聞く前から全て打ち切られていた。
こんな仕打ち、初めてだ。
「ああ! くそっ!!」
放った言葉を後悔するように、天井を見上げると腕で目蓋を閉じた。
本当は最初から彼女には会わないつもりだった。
それに、父からの提案も断るつもりでいた。
そう心に言い訳をしながら、こんなことになった今までの経緯を思い出していた。
オンドラーグ地方の北部で雪が降り始めていたあの日。大貴族院からの招集で、帝都にいた父から至急の手紙が自分の元に届いた。
不思議に思いながらもその手紙を開くと、「すぐに帝都に来るように」と認められていた。あの父が三男の俺を帝都に呼び寄せる事は非常に珍しく、何があったのだろうかと、地方を護る長兄に説明に上がった後、供を数人付けて帝都にある屋敷へと向かったのだが。
そこにいた父の姿に驚いた。
いつも冷徹で家族にさえ笑う顔を滅多に見せないような人だったのに、そんな人が頬を綻ばせて俺の到着を今か今かと待っていたのだ。
過去に“帝国の狂剣”と呼ばれたほど、敵には残忍な人間がだ。
一体何が起こったのか分からず驚愕する俺達に、更に追い討ちをかけるかのように帝都までやって来たことを労うのだから、いよいよ俺は目に映る全てのものが信じられなくなる。
そんな父がすぐに俺だけを執務室に招き入れて、何を語るかと思えば俺の結婚話だった。
ただいつもと違うのは、その相手が普通の高位貴族の令嬢ではなかったことだ。
「“神隠しの皇女”のお孫?」
俺は訝し気に父の言葉を繰り返す。
これから雪が深くなるという時期に父が帝都に呼ばれたのは、どうやらその“神隠しの皇女”であるライラ殿下のお孫が見つかったという理由からのようだ。
「そうだ。神隠しの皇女の話は知っているだろう?」
「……それなりに」
帝国の歴史的にも有名な話だ。
それに皇女の話は、今まで親族達の口から何度か聞いたことがある。聞いたというよりかは、噂話をしている大人達から聞こえてしまったというのが正しい言い方だが。
そして、その時に皇女と父の関係も知った。
「だけど父上。御令孫と言っても、本物かどうかも怪しい。今まで散々、そういった輩が現れていたでしょう?」
「はは。あんな見てすぐにわかる偽物と一緒にするな。今回のお二人は全く違う。双子だったのだがな、彼女の宝飾品を二人とも身につけていた。私が確認をしたのだ。あれは絶対に、絶対に彼女のものだ」
父には確信があるのか、ぐっと手を握りしめる。
この人の必死な顔は、その皇女が絡んだ時にしか見ない。
普段は冷ややかで、何事にも動じない人なのだが。
「おお、すまない。話が逸れたな。先程の話だが、お二人が国に落ち着いてから、この話を進めさせていただこうと考えていたのだが、困ったことにクシフォスの小倅が何を思ったのか、彼女の孫娘に手を出し始めていた。あの狡賢い小倅のことだ。立場の揺るがない初代皇帝似の夫に納まろうと考えたのだろう。宰相代理の男が、こちらとの“約束”を知らないはずはない。私が何も言わないことを良いことに、都合よく“約束”を忘れているふりをしているのだ」
クシフォスの小倅とは、あの将軍閣下とは到底似つかない、異国の髪を持った男か。
帝都の貴族に招待された茶会や宴で、何度か見かけた事はあったが、愛想も可愛気もない子供だったせいもあって、昔から貴族の間ではよく噂の的にされていた。どちらかと言えば、悪い方の、だが。
でも、あの男は女嫌いで有名だったはずなのだが。
……ああ、そうか。権力をより盤石にするために、皇女の孫に近付いているのか。
帝国に来るや否や、利用されるだなんて、本当に哀れなものだな。
「何度か手紙を送らせていただいてはいるが、一向にお返事すらいただけない。このままでは、クシフォスの……」
「その前に、“約束”とは?」
俺からの質問に、さっきまでクシフォス家と争う勢いだった父は、急に冷静な表情になると、俺をジッと見た。
いつもの背中がひんやりとする目だ。
「……今から言う事は家族以外の者には漏らすな。国との密約なのでな」
そう言って、父から聞いた話は三十年前に国と交わした密約の内容だった。その話の内容に、気持ちが重くなる。
「それで、今回その約束が果たされると?」
「そうだ。陛下もご存じだ。契約を履行しなければいけない皇族側の人間は知っていなければいけない。もちろん宰相代理であるクシフォスの小倅もだ。当時は恨みもしたが、まさか私が生きている間に、その約束が果たされる日が来ようとはな。それも、彼女そっくりの孫娘とだ」
そう言って父はどこか嬉しそうに高笑いをした。
「お相手はこの話をどこまで知っているんですか?」
そう質問すると、父は視線を逸らせた。
「そういえば、どうなのだろうか。まだ帝都に来て日が浅い。クシフォス側のあの様子だと、知らせていない可能性が高そうだ。ご存じなければ、こちらからご説明に上がらないといけないな」
そう言って真剣に考え出す父の姿に目を細める。
俺としては父がやろうとしていることは、そのクシフォス側と大して変わらないのだと思うのだが。父のこれまでの経緯に多少の同情はするものの、誉れ高きクラーディ公爵家の人間がそんな昔の約束を使ってまで、何も事情を知らない余所からきた少女に結婚を迫ろうなどととは。
俺の心は次第に沈んでいった。
「父上。今回の話は、お断りしたい」
「っ?! 何を申すか! こちら側から断るなどと、何を畏れ多いことを言っているのだ」
断るも何も……。
相手は知らないのだろう?
「だけど……」
「いいから一度だけでも会ってみなさい。彼女の愛らしさの虜になるぞ?」
そうなったら、ただの腑抜けだろうが。
父は俺に何をさせたいのか。
「俺は……」
「それに、彼女と結婚するならば、“クラーディ公爵”はお前に譲ろう」
「は?」
父のとんでもない発言に、俺は目を見開く。
クラーディ公爵位はそこらの公爵とは歴史が違う。帝国に存在しているもっとも古い爵位を、優秀な嫡子である長兄を差し置いて、俺に渡すと父は宣言したのだ。
確かに父はあと少しで60歳になる。爵位を明け渡さないといけない年齢だ。
だからと言って、誰にでも渡していいようなものではない。ましてや、長兄のように武芸にも秀でた才人で、親戚からも家臣からも信頼を置かれているような人を差し置いて、俺なんかが継いだら家門内で戦争が起こってしまのは目に見えてしまう。
「それは兄貴が!」
「アフトクラートの皇女にご降嫁いただくのだぞ? こちらも皇女を娶るに相応しい人間で迎えねばいけない」
父が言いたい事はわかる。
普通の皇女でさえ、低い階級の家とは結婚を許さない。
それにアフトクラートの女性が、降嫁するなんて歴史上一度もない事だった。
だけど、それでは家の中がおかしくなってしまうだろ。
「それなら、その姫君と兄貴達との結婚を考えられてみては?」
「馬鹿なことを申すな。既にグレキアスとバーナードには妻子がいる。そんなところに皇女を降嫁させる訳にはいかないだろう」
「それは……」
「グレキアス達の事なら心配するな。私から説明をする。そんなことよりも、お前はもう二十歳を超えたのだから、身を固めて領地の数個を統治するぐらいの覚悟をいい加減持つべきだ。いつまでも兄達の影に隠れているな」
「そんなつもりは……」
反論したかったが、兄達ほどの活躍をしているかと問われれば、俺はクラーディ軍のことすら、兄に相談して指示を仰いでいる身だった。
それに長兄も次兄も、地方侯爵としてご自分達で取り仕切っている。俺の仕事量なんか、二人の比じゃない。
父の冷たい視線に、何も言い返せなくなってしまった。
「まずはお約束を取り付けてくる。一度でもいいからお会いしてみなさい」
「……わかりました。だけど一度だけですよ? それで俺の気が変わらなければ、この話はなかったことにしてください」
「お前は絶対に気に入るよ」
父は自信あり気に、俺にそう言った。
結局その後、俺はその孫姫に会う機会はすぐには訪れなかった。
俺はそのまま帝都の屋敷に待機させられ、地方に帰る事も出来ずに帝都の屋敷で公爵家の手伝いをしていたが、当然ながら俺単独で出来る帝都の仕事なんてそう多くはなく、暇を持て余していた。その間も父は先方へ手紙や使者を送ってはいたものの、目当ての双子は大貴族院での発言を証するためと言って、何もない西の砂漠へと赴いてしまったと聞いた。予測の出来ない行動に、あの父が何も出来ずに手をこまねいているらしい。
「はっ! あの親父を弄する双子か」
俺は思わず失笑してしまう。部下からの思いもよらない報告に、どんなお孫なのかと、僅かながらにも俺の興味を引いた。
「あの人が手を出していないのか?」
「はい。どうやら閣下は、ラシェキス様に関わるその証明の邪魔をしたくはないようで、お二人の居場所や状況だけを人を使って把握しているようです」
「へえ、ラシェキスねぇ」
皇女の孫娘の方は、ラシェキスが一人であのサウンドリア王国の中を護衛しながら連れ帰ってきたと、父が誇らし気に語っていた。
あいつ、ノイス王国で行方不明になったと聞いていたんだが、生きていたんだな。それどころか、全く行方の分からなかった皇女ライラの孫を連れ帰ってくるとは。相変わらず、強運の持ち主だな。
それにしても、兄の方は大貴族院でラシェキスを庇ったと聞いていた。大貴族院でそんなことを言えば、無かったことになんかされない。知らなかったとはいえ、その兄も三ヶ月で証明するとは大きく出たものだ。
トルス第一皇子の脅威となるアフトクラートが失敗なんかしたら、皇帝派の奴らは大喜びだろうよ。
「そんなにラシェキスとその双子は仲が良いのか?」
「兄であるキツキ様は大層信頼していると聞いています」
「まあ、あいつは昔から下からも上からも好かれるからな。好かれないのは同年代からだな」
俺は、ハッと嘲笑う。
出来すぎるあいつは、昔から嫉妬の対象にしかならない。
「ラシェキスに関わることなら、確かに邪魔はしないよな、あの人は」
相変わらず、叔母家族には激甘だ。
自分の家族よりも愛しているのだろう。
「それにしても、スライムねぇ」
あのラシェキスが、大貴族院でスライムが皇女と自分をノイス王国から別の地へと運んだのだと証言したものだから、その議会の後も帝都の高位貴族達の間ではその話で持ちきりになったようだ。
俺だって、従兄弟がどこか頭を強く打ったのではないかと少し心配だ。
「失礼します、ランドルフ様」
「どうぞー」
扉の向こうから、父の従者の声が聞こえて来た。俺は椅子にのけぞりながらその扉に向かって声をかけると、扉は開いた。
「旦那様より、明日の宴へ行く準備をされますようにとの言付けです」
「宴ってどこ?」
「クシフォス公居城の北城です」
「何しに?」
「嫡子カロス・クシフォス様の21歳の誕生パーティとのことです」
「なんで俺がそれに参加しないといけないの?」
「ライラ殿下御令孫のヒカリ様が、ただいま北城にいらっしゃるそうです」
「………へえ」
俺は正面を向く。
「わかった。準備しておく。父にそう伝えて」
「承知しました」
従者は礼をすると、部屋から出て行った。
その宴の当日。
父は挨拶をしていった黒髪の公子の後をつけてまで、目的の少女に近付いた。
「彼女を私にも紹介いただけないだろうか? カロス殿」
父の行動に驚いた公子の横にいた少女に視線を移す。
波打った明るい黄金色の髪、金色の瞳に少し赤の混じった変わった瞳。
ずっと母を苦しめてきた女性そっくりな面影を持った少女を目の前にしても、やっぱり興味は湧かなかった。
さっさと挨拶して終わろうかと、彼女の手を取ると名を告げた。
帝国で未婚の女性の手にキスするのは“求婚”を意味する。
俺のその行動に、彼女の横にいた男の表情は変わる。
「私の主催で勝手な真似を………」
目の前の黒髪の男から、情けない言葉が漏れる。
何が勝手な真似だよ。
右も左もわからない少女をたぶらかして、付け入ろうとしている奴が。
俺の目は据わる。
「はっ! このぐらいで女々しい奴め。そんなに大事なら首に紐でもつけておけよ」
「………チリとなりたいのか?」
「お前程度に俺が負けると思っているのか?」
こんな帝国貴族の風上にも置けない奴、さっさとぶっ飛ばして彼女には早く離れるように説得をしよう。
そう思ったのだが。
「はい、しゅーりょーでーす! そこまで!」
さっきまで触れていた小さな手が、俺のみぞおちをぐいぐいと押しているのが見えた。
その行動に目を見開く。
俺とクシフォス公子の間に、こうも易々と入ってくる人間がいるとは思わなかった。俺達の間には、近衛騎士だって入りたくないだろう。
一瞬唖然とはしたが、何をやっているんだというイラッとした感情が湧いて来た。このタイミングで俺達の魔力を防げない人間が入り込んで来れば、俺達のとばっちりを受けて大怪我をしてしまうのが目に見えたからだ。女性の顔に、ましてや皇女と同格の少女に傷なんかつけたら大事だ。
「邪魔ですよ、お姫様。女は下がっていてもらえますか?」
「は? あんたこそどつくわよ?」
その言葉に輪をかけて驚く。贔屓にしている鍛冶屋の親父と同レベルの言葉使いだったからだ。
誰だ。愛らしいなんて誤報を俺に流したのは。
とてもじゃないが、皇女とも令嬢とも思えぬ言動だった。
彼女の手から一歩下がる。
「なんだ、全然姫なんかじゃないじゃないか」
「姫じゃないけど」
俺にこんな口を効く女性も初めてだ。
「じゃあ何だよ?」
「ナナクサ村村民よ」
「…ナナ………村民?」
皇女が、村民?
鍛冶屋の親父だって城下の市民だぞ?
その思わぬ回答に、俺の限界は突破した。
思わずブフゥッと、口から盛大な息が漏れてしまったのだ。
「わっははははは!」
宴の最中、周囲の目を気にせずに大笑いしたのは生まれて初めてだった。
父も俺のその姿を見て、目を丸くする。
俺だって自分が貴族達の集まるこんな場所で、大笑い出来るだなんて初めて知ったよ。愛想笑いか、嘲笑しかしないものだと思っていた。
「わかった………くくっ、わかった。今日は俺の負けでいい。面白いものを見せてもらったよ、お姫様」
腹がよじれる。
「勝ち負けじゃないけど。それに姫じゃないってば」
「わかったわかった。今日は撤退するよ。じゃあまたな、お姫様」
俺はもう笑いが止まらなくて、姫に手を振ると会場を出ようと足を進めたのだが。
そこに立っていた困惑した顔のラシェキスと目が合った。
「ははっ。なぁ、ラシェキス。お前、面白い姫を連れ帰って来たな?」
「え?」
ラシェキスは俺の言葉がわからなかったのか、もう一度俺に聞き直してくる。
「いや、なんでもない。神隠しの皇女そっくりの孫娘と聞いたから、美人を鼻にかけている女かと思ったけど、こりゃぁいい」
そう言って微動だにしないラシェキスの肩をポンッと叩くと、笑いを堪えながら俺は会場から出て行った。
窓から入る朝の光は柔らかく明るい。
外の景色だけではなく、目の前の料理さえ鮮やかに見せる。
「気に入ったのだろう?」
目の前には得意顔の父親。
俺はそれを上目遣いで観察する。
何度目の質問だろうか。
「……少し、興味を引いただけです」
しつこい父にとうとう根負けをしてそう答えると、何事もなかったかのように料理を口に運んだ。昨日は勝手に一人で屋敷に戻ったものだから、朝から昨夜の姫の感想を答えるまで質問され続けていた。
「ふっ。どんな美人と見合いをしても、首を縦には振らなかったお前の興味を引いただけでも大したものだ。そう思わないか?」
「どうでしょうね」
「約束だ。このまま話を進める。良いな?」
「ですが、彼女らは今はラシェキスのために動いているのでしょう? まずはそれが終わるのを待たれては? それに俺は一度オンドラーグに戻りたい。春の騎士団再編の前に、やらなくてはいけない仕事が溜まっていますので」
「そうだったな。長く席を空けてしまったか。では、リトス侯爵のおっしゃる証明とやらが終わる春以降に約束を取り付けたら、連絡を入れよう」
「……わかりました。数日の内にこちらを出ますので」
「ついでにグレキアスへ手紙を運んでくれ」
「承知しました。では」
俺は席を立ち上がると、部屋へと戻った。
この時は、まだ彼女とどうなりたいかなんて思ってもいなかった。
“興味が湧いた”。本当にその一言だったんだ。
だったけれど……。
目蓋の上に置いた腕を退かす。
明るい天井を見上げながら、俺の顔は浮かない。
あんなことは初めてで。
ー 何でそこまであいつを信用してるんだよ!
なんで、あんなにムキになってしまったのだろうか。
あの男から引き離すにせよ、もう少し穏便にやる方法だってあったはずだ。
それなのに、彼女があの男の話だけを聞き入れる姿に苛立ちを覚えたせいで、必要以上に彼女を追い込んだのだ。
……嫌われてしまっただろうか。
「はーーー」
俺は思い切り息を吐く。
「悩んでるねぇ」
誰もいなかったはずの部屋から声がする。
驚いて勢いよく振り向くと、豪華な椅子の背もたれのその奥に、居なかったはずの長兄が壁に寄りかかっているのが見えた。
「どわぁ! 兄貴、なんだよ。いつの間に入ってきたんだ?!」
「はは。お前がこっちに歩いて行くのが見えてな。俺が来たのがわからないぐらい、熱心に考え事をしていたようだったけれど、今年の軍の編成には問題はなかったのだろ?」
「ああ、そっちは問題はない」
兄がそっと入って来たとして、気が付かないなんてことはない。俺は途中から寝てしまっていたのだろうか。
俺のバツの悪い顔を見た長兄のグレキアスは、おかしそうに笑う。
「“そっち”ねえ。じゃあ他に気になることがあるのか?」
「…………」
こんな女々しい話、兄になんて話せない。
「悩み事なら聞くぞ? ほら。お兄さんに話してごらん?」
「そういう顔をしている時のグレキアス兄は、これっぽっちも信用できないな」
「お前は俺の奥さんよりも、俺のことをよくわかってるのな」
兄貴はおかしそうに笑う。
真面目一徹な兄だが、人の目が無くなると、急に人が変わったかのように弟に甘いだけの兄貴になる。
そういや、リシェル兄もそんな感じだな。血筋か?
「悩みってほどのものじゃない」
「そうか? 帝都から戻ってきてから、お前の覇気がないと家臣達が心配していてね。お前が腑抜けていればクラーディ軍の沽券にも関わってくる。統括を任されている私としては見過ごせないな」
「それは……悪かった」
「どうした。帝都で、父が紹介したっていう皇女のお孫にでも惚れて帰ってきたのか?」
兄は壁から離れると、おかしそうに背後から近付いてくる。
そうじゃないと反論したかったけれど、俺の目に残る残像は、部屋に飾られている肖像画の女性によく似た女の子の凜としたあの顔で。それが寝ても覚めても何をしていても、消えてくれない。それが最近の俺の行動を妨げている事は確かなのだ。
兄は俺の座る椅子の背もたれに肘をつくと、子供を相手にするようなニマニマした顔で俺を見てくる。そんなふうに扱われたくはなくて、俺は不貞腐れた顔を正面に向けた。
このままじゃ兄の言うように、いずれは軍の士気にだって影響を与えるかもしれない。
「確かに、沽券に関わるかもな」
膝の上で組んだ手に、ぐっと力が入るのを、伏せた目で見つめる。
俺はどうすれば良いだろうか。クラーディ軍のお荷物になんかなりたくはない。
答えの出せない陰気な顔をぐっと持ち上げて、もう一度目の前の女性と視線を交わした。
「なあ、兄貴。俺がいなくなっても、クラーディ軍は機能するよな?」
「は?」
チラッと上目遣いで背もたれにいる兄の顔を覗けば、さっきまで俺で遊ぼうとしていた兄の顔は青くなる。
「まさか、うちを出ていくつもりか?」
兄は俺の正面へと回り込みながら、俺の顔を覗き込む。
「一年だけ、時間をくれないか?」
「どこへ行く気なのだ?」
「帝都」
「帝都? 何を……」
青い顔の兄がハッとする。
「孫娘のところへか?」
「そのつもり」
「行ってどうするのだ?」
「……俺を知ってもらうために、彼女の側で仕事をしたい」
兄は言葉を失う。
クラーディ公爵家の人間が、女々しくも一人の女性のために仕事を放って帝都へ行きたいと言ったのだから、見限られても仕方がない。俺はごくりと唾を飲み込みながら、兄の返事を待ったけれど、兄の口から出て来たのは意外な言葉だった。
「……なるほどな。わかった、了承しよう。では、ランドルフ。私が父に手紙を書くから持って行きなさい。そして帝都へ行ったら、父に推薦状を書いてもらいなさい。あの人の推薦状があれば、この国でならほとんどの仕事が出来るはずだ」
「いや、そこまではいいよ」
彼女に会って、まずは謝ることが出来ればいいんだ。
「何を遠慮している。あの人が自分の息子だからといって、それだけで推薦状を易々と書く人間に見えるのか? お前が数年やって来た仕事はなんだ? 帝国軍に次ぐクラーディ軍を、私の代わりにまとめて来たことだろう。それが易い仕事ではない事は私が一番知っている」
「でも」
「あの人は、かつて25歳で帝国騎士団の副団長をしていた伯爵子息よりもお前を評価していると思うよ」
「……兄貴。その人の話は、親父の前では禁句らしいぜ?」
その名を出すだけで一瞬でその場の空気が凍ると、帝都の屋敷で聞いて来た。
「ははっ、そうか」
兄貴は何が面白いのか、ククッと笑い出す。
「で? お前も、クシフォス公子に彼女を掻っ攫われていくのを、眺めていたいのか?」
「っ!」
冷んやりとしたものが体を伝う。
「違うのだろ? 使えるものは使いなさい。お前はそれを使うだけの努力もきちんとしてきているよ」
「……兄貴」
「それに帝城内は未だ皇帝派が牛耳っている。うちは皇帝派ではないから、縁故で帝城の仕事につくにしても、他派閥ってだけで隙を見せれば落とされていく場所だ。そう考えれば、リシェルはまあまあ腹黒だな」
「いや、へーリオス家は一応皇帝派側って思われてるだけでしょう。当主は陛下の従兄弟で将軍とも仲が良い」
そうだなと兄の視線は上を向く。どうやらリシェル兄を優秀な人とは素直には認めたくないらしい。
「まあ、とにかくだ。うちの教育を受けた人間がそんなことで蹴落とされるとは思ってはいないよ。どちらかと言えば、邪魔な奴らを蹴落としてくるんだろ?」
「まあね」
二人で目を合わせるとクスッと笑う。
「はは。では父に手紙を書こう。お前がいない間の軍は私が執り仕切ろう」
「悪いね、兄貴。海賊が頻発しはじめる時期なのに」
「クラーディ軍は問題児もいるが、基本優秀だからそう困ることはない。まあ、お前が抜けて細かいところまで目が届くかはわからんがな。そこはいままでお前が居て、安穏としてこられた家臣どもにやらせるさ。たまにはお前のありがたみを感じてもらうのも悪くはないだろう」
「ははっ。なんだよ、それ」
「それに父上がお前に皇女の孫娘をあてがおうとしているのを母上が知って、それに対抗して全国からお前と釣りあいの取れたご令嬢達を大量に呼んだ盛大なお茶会を立て続けに計画しているらしい。そろそろ春だしな。今日の昼食会もその事前選別会だったって知っていたか? お前が腹をくくるまで軟禁する計画のようだ。逃げるなら早いほうがいいぞ」
「うげ、マジで?」
母上の細かい計画を兄が知っているということは、おそらくは母上と仲の良い義姉上から聞いたのだろう。
兄が死んだような目で俺を見る。これはマジで軟禁される。
「母上が本気になったときの恐ろしさはお前も知っているだろ? 伊達にクラーディ公爵夫人を何年もやってはいないよ」
皇女の姿絵に視線を向ける兄の顔は青い。
俺たちが幼い頃、次々と現れる留守がちな父の愛人と名乗る女性達の嘘を暴いては、城から追い出すなんてことは日常茶飯事だったが、それどころか父の留守の間を狙ったかのように現れた海賊の大群を目の前にしても、混乱する軍を自ら指揮を執って動かし、完封なまでに撃破したことだってあったようだ。結婚前は深層の令嬢と呼ばれていたようなのだが、噂なんてあてにならないって今回のことも含めてよくわかったよ。
「帝都に行く時には側近達も連れて行けよ。あと、私側の人間も貸すから連れて行け。クシフォス公爵家相手ではなかなかに大変だろうからな」
「一対数人かよ、カッコ悪いな」
「何を言っている。あっちは皇族が味方だ。こっちが何人いたっていいさ」
確かに言われてみれば。
黒髪のカロス・クシフォスは貴族達には好かれてはいなかったが、皇帝陛下や皇子達には可愛がられている。皇女ライラでアフトクラートの孫に周囲が気安く手を出せないは、そういった権力図が少なからずあるからだろう。
「そろそろ太陽が傾いて来たね。昼食会は終わっただろう。この部屋は冷え始めるから、中央へ戻ろうか」
「ああ」
兄は扉へと向かって歩き出したので、俺も追いかけるように椅子から立ち上がる。少し歩くと、兄は何かを思い出したかのように、スッと振り返って俺を見た。
「そうだ、ランドルフ。そろそろ言葉使いを直しなさい。それでは皇女の側役は務まらないよ。反抗期はもう終わったのだろ?」
兄が俺に見せたのは、弟を甘やかす顔とは違う地方侯爵の顔だった。
「……はい。私の勝手でしばらくご迷惑をおかけします、兄上。ご配慮、感謝申し上げます」
俺は兄に向かって礼をする。いつもよりも頭を低く下げた。
それに満足したのか、兄の口角が少しだけ上がる。
「クラーディ公爵家の一員として、帝都でしっかりと務めて来なさい」
「はっ!」
それだけを言うと、兄は前を向いて再び歩みを進めた。
俺はそれを感じるけれど、兄に下げた頭を上げられない。
彼女の側に行ける。
俺の歩む道を狂わすほどに、あの時の彼女の顔が、頭からずっと離れない。
それは泣き叫んで自分の悲劇を周囲に訴える姿でも、弱々しく嗚咽を漏らす姿でもなかった。下を向かず、俺から視線も外さずに凜とした表情で一筋の涙を流すだけの泣き顔。
初めて女性の泣いた姿を美しいと思った。
「ほら、置いていくよ?」
「はい、ただいま」
兄に促された俺は、彼を追うように白い部屋を出た。
<人物メモ>
【ランドルフ(ランドルフ・クラーディ)】
クラーディ公爵の三男(21歳)。銀髪銀眼でシキの従兄弟。性格は父の影響もあって至って好戦的。だけど心の内は様々な気配りをしている意外な面がある。
【クラーディ公爵(イオニア・クラーディ)】
ランドルフの父親。帝国最古の公爵位称号を持ち、帝国に強い影響力を持つ人間。三男のランドルフに条件付きで公爵位譲渡を提案してきた。神隠しの皇女ライラのことになると、異常なまでの執着を見せる。
【グレキアス兄/オンドラーグ侯爵(グレキアス・クラーディ)】
クラーディ公爵の長男で、オンドラーグ侯爵。ランドルフの兄でシキの従兄弟。オンドラーグ地方とクラーディ軍の総括を任されているけれど、実情は父親がトップ。武は近衛騎士レベルの実力者でもある。落ち着いた性格で、達観しているところがある。弟のランドルフに甘い。
【クラーディ公爵夫人】
クラーディ公爵の妻。一族の物静かな深層の令嬢だったために、イオニアの妻として選ばれたようなのだが、思っていたよりも豪傑な女性だった。
【ヒカリ/皇女の孫娘】
普段は適当なくせに、変なところで負けん気が出てしまう性格が災いしたのか、ランドルフの心を掴んでしまう。祖母ライラと瓜二つだとナナクサ村のおばさん達は語る。
【ラシェキス(ラシェキス・へーリオス)】
ヒカリはシキと呼ぶ。ナナクサ村から帝国へヒカリを連れて来た。
母親がクラーディ公爵の年の離れた妹。ランドルフ達とは従兄弟になる。母と共に、クラーディ公爵には可愛がられている。
【カロス/クシフォス宰相補佐官(カロス・クシフォス)】
魔力が異次元な筆頭宰相補佐官。将軍の愚息で皇帝の甥っ子。生まれつき魔力が異次元で、帝国の人間が扱えない魔法を使う。母親譲りの黒髪を持つ。ヒカリが好き。
<更新メモ>
2022/10/16 修正(主に兄の名前変更 orz…。ついでにちょこちょこ加筆)