深淵2
今日も私は上の空だった。
ここ数日、私はおかしい。
あの夜のセウスの行動を、私は止めようともしなかった。
小高くなっている北西の川辺に腰を下ろして村を一望する。
今日も暖かい日差しに照らされて、村は平和だ。
フィオンは近衛の二人と同様に、少し遠巻きに離れ、林の木陰に隠れるように立っている。
本来なら、今日はスライム狩りの予定だったんだけど、私の心身の都合で延期してもらったうえ、工房ではこれっぽっちも役に立たず、あちこちの干し竿を転倒させる私は、とうとうミネに工房を追い出されてしまったのだ。
数日前の夜のことを少しでも思い出すと、どうしても気が動転してしまう。
どうしたんだ、私?
「ヒカリ様、大丈夫ですか?」
工房を追い出された私の側を、エレノアは片時も離れない。
可愛いエレノアにとても心配されてしまっている。
ぼーっと村を眺める私は、エレノアに何も返事が出来ない。
エレノアに説明したいけれど、そうなればセウスにされた事も、自分の行動も説明しないといけなくて、このややこしい状況を上手く伝える自信は皆無だった。
セウスと私の『お付き合い』はお芝居だ。
村で生活が問題なく出来るように、支え合うのが最初の目的だった。
そして、相手が嫌がる事はしないという最低限のルールがあってこその関係だ。
それがわかっていたのに。
セウスのあの行動を私が拒否しなかったら、承諾したってことになる。
私は承諾してしまったのだろうか。
「どうしよう……」
膝に顔を伏せる。
心の中に、もやもやするような怖気づいてしまうような、それでいて少しふわふわしたようなややこしい感情が屯ろしている。
今朝も緊張してセウスの顔を見られなかった。
あの夜について、何をしてくれているのかと怒涛のごとく怒れば良かったのに、それがこれっぽっちも出来なかった。
夜は変わらずに一緒に寝ている。
だけど、あの日からセウスに腕を回されるだけで、私の心臓はばくばく激しく揺れ動き、なかなか寝付けなくなってしまっていた。
変だ、私。
そんなことは一度だってなかったのに。おかしい。
本当、どこかおかしい。
セウスの顔を見るだけで、声を聞くだけで、何だかとても落ち着くんだ。
笑顔を見ると、少し照れ臭くもなる。
どうしてなのだろうかと悩むけれど。
もしかして、これって。
「これが、“好き”ってこと?」
微かな声が、ぽそりと口から漏れたんだけど、自分で言っていて恥ずかしい。
恥ずかしすぎて顔を上げられない。
どうしよう。まさか、そんな。
あのセウスを?
「サボってる子、みっけ」
その声にギクリッとする。
声をかけられたのに、顔を上げられない。
「あれ、無視?」
さくさくと草を踏みながら近付いてくると、声の主は私の横に座った。
隣に腰を下ろすと、伏せている私の顔を覗き込もうとする。
「どうしたの? 工房にいったら休んでるって聞いたけれど、体調悪いの?」
「……どうしてここだってわかったの?」
「愛の力?」
伏せていた顔がボッと赤くなる。
「うそうそ。ヒカリの近くに近衛がいるから、遠くからでも見つけやすかったよ」
近衛の制服は、ナナクサ村では作ることの出来ない綺麗な黒色だ。だから、制服を着ていると、どこに近衛がいるのかすぐにわかる。
「体調が優れないんだったら、明日のスライム狩りは翌日に延期する? あと一日ぐらいなら、なんとか船に間に合うから。あ、でもヒカリが足を引っ張るのなら、それはわからないかな?」
「…………」
セウスの話に相槌も横槍も入れずに沈黙をしていたら、さすがに心配になったようだ。いつものふざけた調子がセウスから消えた。
「……具合悪いのなら家で休もう? 付き添うから。立てる?」
セウスはそう言って私の腰に腕を回すと、体を持ち上げた。
抵抗もせず、なされるがままだったけれど、顔だけは上げられなかった。
「エレノアさん、付き添いありがとう。ヒカリは家に連れて帰るから、エレノアさんも今日は休んで。フィオン、彼女を送ってやってくれないか?」
セウスがそう言うと、少し寂しそうな顔をしたエレノアは礼をする。そしてフィオンを連れ立って工房へと帰っていった。
エレノアを見送ると、セウスは私に向く。
「大丈夫?」
そう聞かれるけれど、返事はできない。なんだか心臓がバクバクしてやっぱり顔を上げられなかった。
「本当にどうしたの? ヒカリらしく………」
顔を覗き込んできたセウスの言葉が止まる。
「……今日は一日休んでいなよ。僕も休みを取って来るから」
言葉を止めて、急に優しいことを言い出した。
そのまま、セウスに抱えられるようにして村長の家へと戻った。
近衛騎士と家の前で別れる。
セウスはゆっくりと玄関扉を閉めると、居間で突っ立っている私の手を掴んだ。
「もしかして、この前のことを気にしているの?」
高い背をかがめて、私の顔を覗き込む。
セウスの茶色の瞳と視線が合うと、弾かれたように顔を逸らせた。
「ち、ちがう」
「あれから、ヒカリの態度がおかしいとは思っているんだけど。大丈夫?」
「そう思うなら、あんなことしないでよ」
「……ダメだった? 僕はそろそろ良いかと思っていたんだけど」
「ダメっていうか…………。うん、ダメ」
視線を合わせずに答えると、セウスはスーッと息を吸いながら天に仰いだ。
「あー、ヒカリ。そういった顔は他の男に見せないように」
「?」
セウスは数回、息をスーハーと深呼吸して何やらぶつぶつ呟くと、ようやく頭を元に戻した。
「でもあれは未遂で終わったよ。ヒカリがギリギリで手で防いだでしょ?」
そう。セウスの唇が近づいてくる間、私は動けずにいたんだけど、触れそうになる一歩手前で我に帰ると、手でセウスの侵攻を防いだのだ。
でも、本当にギリギリだった。
なんだか、それが当たり前のように違和感も緊張感もなかったから、判断が遅くなってしまった。
でも、それって……。
「ねえ、ヒカリ。ヒカリは僕の事をどう思ってる?」
「どう、って?」
「んんー、ほら。かっこいいなとか、素敵だなとか、好きだなぁとか」
笑顔で誘導させたい言葉ばかりを並べてくる。
流石にそこまでは単純じゃないわよと、セウスを軽く睨んでやった。
「それはないけど」
「あれ、残念だな」
「だけど、最近はセウスといると安心する」
「あんし……? ふふっ」
セウスは嬉しそうに笑う。
「何よぉ」
「いや、意外だなって思って」
「じゃあ、取り消す」
「あ、取り消しはできません。もう僕の胸の中に刻まれてしまったからね」
「ちょっと!」
膨れると、セウスは私の手に軽くキスをした。
「僕はヒカリが好きだよ。結婚したいぐらいに。可愛いと思っているし、ドジだとも思っている」
「……ねえ。最後のは取り消して」
「取り消すのは最後だけでいいの?」
「ぐ……」
なんか謀られた気がする。
セウスはしたり顔で笑う。
やっぱり本性は悪魔。
「じゃあ、ヒカリ」
呼ばれて視線を上げる。
「シキさんのことはどう思ってる?」
「?! ………あ、……と。その」
急に話を振られて吃ってしまう。
「……わからない」
「僕に対してと、似た気持ち?」
「………少し違う」
「安心しないの?」
シキの顔を思い浮かべるだけで、心が乱れる。
怖い。
「うーー。考えると、苦しくなる」
「おっと!」
セウスは何かを見つけたのか、カーテンに向かって指を伸ばした。そこからジュワッという音が聞こえてきた。
「さ、続きをしょう」
「ねえ、それは答えないと駄目?」
「この関係を始める時の約束の一つだよ。ヒカリを苦しめているものが何かを知るという約束」
「なんで、シキの話なの?」
「……その答えは、まだヒカリの中に出ていないでしょ?」
「だって、嫌だ」
「何が?」
「シキの事を考えたくない!」
ブワッと私の体から炎が飛び出すけれど、セウスは水魔素で消していく。
「……火が」
「気にしなくていいよ。キツキから水魔素をたらふく貰ったから」
「なんで、こんなことをするの?」
「早く忘れて欲しいからだよ」
「え?」
「ヒカリには早くシキさんを忘れて欲しいからだよ。いつまでもどこまでも、僕が何をしたとしても、あの人がヒカリの心を掴んでいるなんて許せない」
セウスの言っている意味がわからない。
だけど、目の前のセウスはいつもの飄々とした表情ではなくて、眉間に皺を寄せて私なんかよりも辛そうな顔をしている。
なんでそんな顔をしているのよ。
「それと、魔素が体から飛び出てしまうぐらい、ヒカリが何にダメージを受けているのか知って欲しいからだよ」
「言っている意味が……」
「ヒカリは僕が、そうだな。……例えばアカネさんとか、他の女の子と話をしているのを見ると、苦しくなることはある?」
「それはないけど」
「それなら、シキさんは?」
その問いに下を向いてしまう。
「他の女性と話しているのを見るだけも、嫌……」
すごくおかしなことを言っているは、自分でも気がついている。
「シキさんが他の女性とキスをしてたら?」
そんなことを考えたくはないけれど、自然とシキの婚約者の顔が浮かんでくる。
あの人ともキスをしたのだろうか。
そう思うと、体が熱いのか寒いのかさえわからずに、手が震えてくる。
これ以上は無理だ。
「……考えたくない」
セウスの瞳が細くなる。
「じゃあ、シキさんが婚約者の女性と結婚したら?」
「……やめて」
「シキさんがその女性を抱いたら?」
「やめてっ!!」
自分の悲鳴と共に、炎が私達を囲むように広がるが、セウスは動揺せずにその場に立っている。
「ヒカリ。これが、ヒカリの心の中だよ。苦しくて苦しくて、ヒカリの心の中はずっとこの炎に焼かれてるんだよ」
「セウス………」
「こんなに苦しんでるのに、シキさんのことを何とも思っていないなんて答えないでよね。さあ、ヒカリ。何でここまで君はシキさんのことで苦しんでいるの? もう、答えを出そうか」
涙がボロボロと溢れる。
セウスは私の頬に手を当てて、炎が上がる部屋から逃げようとはしない。
「うー………もうやめて」
「逃げちゃ駄目だよ。僕も逃げない」
「こわい」
「僕もだよ」
「ひぐぅ、ううぅ……ぐす」
涙が溢れてきて、言葉が上手く出ない。
セウスを止めたいのに、止めることも出来ない。
そんな中、玄関ドアが勢いよく開くと、ハムイと近衛騎士達が入ってきた。
「何事ですか、セウス様!」
炎の中心にいる私たちを驚いた顔で見ていた。
セウスは動揺することもなく、彼らに開いた手だけを向けて入ってくるなと制止する。
「ああ、もう少し待って。答えが出せそうなんだ」
「しかし」
「消火は自分でやるから」
セウスは私から視線を逸らさずに、そのままさっきの話を続ける。
「ほっといたら、ヒカリは死ぬまでその気持ちから逃げるだろ? 僕はこの話をここでお終いにする気はないよ」
「何で?」
「言っただろう? それでは永遠に君はシキさんに囚われたままだ。気が付かない振りをし続けて、永遠にシキさんを意識をするんだ。僕としては許せない」
「セウス……」
セウスは深く息を吸う。そしてぐっと目を閉じて開くと、炎の影と鋭利な光を瞳に宿した。
「何でシキさんが他の女性とキスをするのも、抱くのも嫌なの? ヒカリにとったらシキさんは無関係な人だろ?」
「……違う」
「シキさんが誰と結婚したって、ヒカリには関係ないだろ?」
私は言葉が出ずに、顔をブンブンと横に振る。
「シキさんはヒカリのことを、これっぽっちも気にしてなんかいないよ」
「! 違うっ!」
「どうして?」
「………キスしてくれたもん」
「他の女性にもキスしているかもしれないじゃないか。いたんでしょ? ヒカリには知らせなかった婚約者が」
私は返事が出来ずに、私はグッと手を握り締めるとコクリと頷いた。
いたんだ。婚約者が。すごく可憐で可愛い婚約者だった。
なのにシキは私にキスをした。
私を大事そうに抱えて、優しいキスをした。
それを思い出すと涙が出てくる。
あの時は嬉しかったはずなのに、今は苦しい涙が出てくる。
セウスの言う通り、私が知らないだけで、私以外の女性にキスをしているのかもしれない。
私のことなんか、これっぽっちも気にしていないのかもしれない。
じゃあ、知らなかったら良かったの?
知らなかったら、シキがキスをしてくれた事は嬉しいことなの?
違う、そうじゃない。
“シキ”が、じゃなくて。
「違う。私が……。“私”が、嬉しかったの。キスしてもらえて」
「どうして? 僕のキスは止めちゃうくせに」
どうして?
どうしてそれが嬉しかったの?
部屋に広がる炎が、私の心を急かしながら揺れ動く。形が変わるその刹那その刹那、ドクン、ドクン、と跳ねる心音と重なる。
頭の中の紐が少しずつ解けて、何かが壊れるような感覚がした。
「………き…」
「うん?」
「シキを“好き”だから、嬉しかったの……」
瞳から大粒の涙が溢れる。
セウスはそんな私の頭をぎゅっと抱きしめると「答えが出たね」と小さな声で呟いた。
「そうだね。ヒカリはシキさんが好きだから嬉しかったんだよ」
「……うん」
「好きだから、他の女性と一緒にいるのを見ると苦しかったんだ」
「……うん」
「だからシキさんが、婚約者の女性を隠していたことが悲しかったし、許せないんだ」
「……ん!」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしたまま、セウスの胸の中で頭をコクコクと揺らす。
セウスの声が落ち着くから、彼の言葉が胸の奥深くまで突き刺さる。
「だけどヒカリ。婚約者がいた事を知らなかったのはヒカリのせいじゃない。シキさんの問題だ。それだけは言っておくよ」
セウスは抱きしめる腕にぎゅっと力を入れる。
少しだけ息苦しいけれど、自分の涙を消してくれるみたいで、今はそれがありがたかった。
「おっといけない」
セウスは思い出したかのように、私を抱えながら今に水魔素をばら撒いた。キツキから貰ってきたと言うだけあって、居間の炎をあっという間に消してしまった。
あちこち焦げてしまったけれど。
「ごめん、セウス」
「うん?」
「ごめんね」
「その『ごめん』は何について謝っているのかな?」
焦がしたことについてに決まっているじゃない。
だけど、しゃくり上げてしまった私にはそれ以上は話が出来なかった。
セウスに抱えられるように抱き寄せられて、少し放心している。
沢山泣いた。
シキと婚約者の二人でいる姿を見て、“悲しい”気持ちは自分でもわかってはいた。
でもセウスに言われて、私は初めてシキに“怒り”を持っている事に気がついた。
「……なんで、セウスはわかったの?」
「うん?」
「私が怒っているんだってこと」
自分でも気づかなかったのに。
「ははっ、何でだろうね。僕にもわからないけれど、でもヒカリを見てたらそんな気がしてただけ。“悲しみ”は時間と共に薄まって消えるけれど、“怒り”はずっと付き纏うからね。それにちょっとした事で再燃もするしね」
……なんでそんなことがわかっちゃうのかな。
セウスの顔を少し不貞腐れたような顔で覗き込む。その顔をセウスはどこか可笑しそうに見ていた。
「だから言ったでしょ? 死ぬまでシキさんを想うだなんて許せないって。ヒカリが何について怒っているのか、その理由に気がつかないと、それを鎮める方法も出てこないんだよ」
「ぐぅ、……大人め」
セウスはかんらかんらと笑うと、「ヒカリよりもね〜」と、嬉しそうに私の頭を再びギューッと抱きしめる。
そんなセウスの袖を、私もぎゅっと握りしめた。
<独り言メモ>
気がつくと、ページが分裂して終わりがなかなかやってこない。
<人物メモ>
【キツキ/リトス侯爵(キツキ・リトス)】
ヒカリの双子の兄。祖父の家の爵位を継いでリトス侯爵になる。今は祖父の故郷である帝国にいる。
【ヒカリ/バシリッサ公爵(ヒカリ・リトス)】
キツキの双子の妹。バシリッサ公爵。セウスと付き合うことになった。のだが?
【セウス】
キツキの故郷であるナナクサ村の村長の息子。
人望が厚く、働き者のうえに剣の達人。帝国では伝説のノクロス・パルマコスの唯一の弟子。
妹のヒカリのことが好きで、一度結婚の申し込みを断られたはずなのに、今はヒカリと付き合っていることになっている。
【シキ(ラシェキス・へーリオス)】
銀髪の美丈夫で帝国の騎士。ナナクサ村へ漂流してきて、ヒカリと一緒に帝国へと戻った。
婚約者と噂される女性がいる。




