嵐の前哨戦1
「いいかい、キツキ。
非常事態という言葉は、
いつも通りだと思っている日常の中から発生するものなのだよ。
見慣れた景色がおかしくないか、
身を預ける建物に異変はないか、
装備に問題はないか、
直ぐに行動し戦えるか。
常に準備して気を配っておきなさい。
一番の油断は、見えていたと思っていた、見えていない隙間だよ」
俺はおじいさまの言葉を思い出していた。
あれから、時々現れる領主から派遣された令息令嬢達は、イリヤやエルディによってだいぶ精査されてきたようで、一時期のような混乱もなく、落ち着いた日々を送れていた。
時々、問題を起こす者もいたが、それらは直ぐにお払い箱にした。
もう問題は起きないだろう。
そう思っていた矢先の事件だった。
ハメルーン東領地邸に入ってから雪が止まない。
それでも道には火と水の魔素を合わせたお湯の出る魔石を敷き並べているので、雪で道が使えないということは避けられているけれど、新しく作る道に関しては雪で視界が悪くなってくると作業は停止状態となり、思うようには進まなくなった。
午前はなんとか作業はできたが、午後からは作業の見込めない程に雪が降り出して来てしまった。
歯痒い気持ちで執務室の窓から外を眺める。
外には白と灰色の色のない明暗しか見えない。
仕方なしに午後は書類仕事を進めることにした。
「ねえ」
ヒカリが何故か俺の部屋にいる。
俺のベッドに腰をかけ、両手で頬を支えて目だけを動かして着替え中の俺の姿を追う。
「何だ」
俺が上のシャツを脱いでいてもヒカリはびくともしない。
妹とはいえ、そろそろいい年頃の女性なのだから少しは恥ずかしがって欲しいのだが、もうシキさんとのキスの魔法は解けてしまったのだろうか。
部屋のクローゼットで俺の服をいそいそと探しているエルディは、ヒカリがこの場にいる事に疑問を持たないらしい。
「最近、おじいちゃんみたいな話し方になってきたね」
「は?」
「気がついていない? 『早速だが』とか、『ああそうだ』とか、『では頼む』とか」
ヒカリは俺の真似をしたいのだろうか。百面相のように顔をコロコロと変える。
「そんな話し方をしていたか?」
「してたよ。本当、おじいちゃんに似てきたなって思ったわ」
ヒカリは呆れているのか感心しているのかわからない言い方をする。
「仕方ないだろう、急に立場が変わったんだから。話し方の手本がおじいさましかいないんだ」
「今までのままでいいじゃん」
お前はな。
俺がヒカリの提言に呆れていると、エルディが着替えを出してきた。
エルディの持ってきた服に余計な飾りがないか舐めるように確認してから袖を通す。
「簡単に言うなよ。話し方は周りにいる人間の士気にも関わる。ヒカリとはいつも通りだろ。問題はないんじゃないか?」
「そうかもしれないけど」
ヒカリは俯く。
「どうした?」
「キツキだけが先に行っちゃった感じがして、寂しい」
寂しい。
そう言われるとこれほど困る言葉はない。寂しいと言われて、手に抱えている大事な物を捨ててヒカリの手を引く訳にもいかない。
「……ヒカリは暇だから余計な事を考えるんだろう。よし、追加で魔素を入れる仕事をくれてやる。頑張ってこい」
俺は廊下に続く扉に向かって指をさす。暗に出て行けと言っている様にしか見えないが、その通りだ。
ヒカリはムッとしたものの、仕方ないという諦め顔でトボトボと部屋から出て行った。
ヒカリの背中を見送ると、俺はやれやれと着替えの続きを始めた。
俺はエルディに所用を頼んだあと、執務用の机の上でこれまでの進捗や各拠点の報告書に目を通していた。
窓の外はまだ日の登っている時間だというのに薄暗く、雲は重々しかった。
そして雪は降り止む気配を見せない。明日、雪が止まれば良いが。
窓から書類に視線を戻したその時だった。
ドガーーーン!!
ガガガガガガッ!!
爆撃音が部屋中に響き渡り、机にも振動が伝わる。
何だ?!
俺は席から立ち上がって窓の外を見るが異変は見られない。
外ではなさそうだ。俺は席を離れて廊下へ向かう。
廊下の先からはさっきの爆発音のせいだろうか、悲鳴や騒ぎがあちこちで上がっていた。
どうやら異常事態のようだ。
悲鳴が上がる方向へ急ぎ足で歩いていくと、向かいからエルディが走って来た。
「何があった?」
息の上がったエルディが俺の横を歩きながら説明を始める。
「それが、ヒカリ様を攫った不届き者がいたようでして……」
「はぁ?!」
「フィオンがすぐに気がついて事なきを得たのですが……」
「事なきを得たはずなのにこの爆発音か?」
爆発の発信源はヒカリか?
「丁度、その現場をクシフォス宰相補佐が目撃されてしまい……」
「なっ! カロスが来ているのか?」
「はい。その、ヒカリ様の着衣が少々乱れておりまして……」
「しでかした相手は抹殺しておいたか?」
俺の目は据わる。
「あ、いえ。その前に宰相補佐が……」
そうか、黒公爵がトドメを刺したか。
ヒカリが作業していたという倉庫近くに向かうと、砂埃の上がる先の一部の外壁と内壁が消えて無くなっていた。
「どこかで見たような光景だな」
「……はい」
その埃が落ち着きだしているその先には、フィオンとカロスが片腕でヒカリを抱き寄せたたまま離れない姿があった。
目の前には魔物に化している黒公爵の激昂している顔が。
カロスの足元で気絶している何処ぞの子息を見て、本当に面倒くさい事をしてくれたなと睨んだ。
怒り心頭に発しているカロスと目が合う。
「リトス侯爵、お約束を覚えていますか?」
「お前との約束は全て覚えている」
「では、今すぐにでもヒカリの身は四宝殿に移させていただきます」
それは困る。まだ働いてもらわなくてはいけない妹だ。
「待て、それはあくまでリトス邸で発生した場合の話だろう。それに、事なきを得ていると報告をもらったが?」
「事なき? あと一歩でヒカリの名に傷がつくところだったのですよ?」
カロスはヒカリを抱きかかえて離そうとはしない。ヒカリもどうやら困惑をしているようだ。
「カロス、一度落ち着こう。俺もヒカリから事の始終を聞きたい。当事者以外の人間が騒いでも、事実から逸れるだけだ」
とりあえず座って話を聞きたいから場所を移そうと促す。
カロスは少し落ち着きを取り戻したようで、ヒカリを抱えていた腕の力を弱めた。
「すまない、痛かったか?」
カロスが心配そうにヒカリの顔を覗き込むと、ヒカリは首を横に振った。
カロスはようやく安心した表情を見せると、ヒカリの肩から腰に腕を回して俺たちの後ろを歩き始めた。
止めたいところだが、今は無理に引き離せそうには無いだろう。先程のカロスの顔は俺でさえ、一瞬心臓が止まるかと思ったほどだ。二度も見たくは無い。
応接間にカロスとヒカリを通す。それに当事者のフィオンもだ。
目を回していた子息は後で話を聞くことにして、エルディにお縄をつけてもらってさっきの場所に放置してきた。
カロスはやはりヒカリとは離れず、長椅子に並んで腰をかける。
「で、ヒカリ。何があったんだ?」
ヒカリの向かいの椅子に座ってそう聞くが、ヒカリはまだ困惑しているようだ。
「まとめようとしなくていい。あったことを順に言っていけ」
眉間に皺を寄せたヒカリが指を頭に当てて目を瞑ると、一つ一つ思い出しながら話しはじめた。
ヒカリは倉庫から魔石の入った小袋を取り出して、倉庫横の部屋で魔素を入れていた。
フィオンも傍にいたけれど、とある使用人からフィオンに「エルディ様がお呼びです」と声をかけられたフィオンが離れた時にちょうど袋の中の魔石が空になったので、新しい魔石の小袋を取りに倉庫へと向かうと、後ろから口を押さえられてしまい、作業していた部屋とは別の部屋に連れ込まれて扉のついた収納に押し込まれたところ、フィオンが助けてくれた……と。
もう完全に黒だな。
次にフィオンに事の仔細を聞く。
部屋を出て少し歩いた所で、いつも用事は自ら伝えにやって来るエルディが自分を呼び出したことに違和感を持ち、振り返って部屋を覗くと既にヒカリの姿はなく、近くの倉庫前から何か引き摺る跡が見られた。それを追うとその先に収納があり、事を止める為に扉の外から剣をぶっ刺し、子息が悲鳴をあげたところで、もう一度剣を抜いて再び刺したところ、これまた悲鳴が上がったので、収納の扉を開けた。
更にタイミング悪く、その時にフィオンの後ろにカロスが現れて、衣服と髪が少し乱れたヒカリと愚かな子息が収納に収まっているところを目撃したカロスが子息を引きずり出した瞬間に爆発が起こった、とね……。
まあ、殺されても仕方ないな。
「フィオン、剣を二度も刺したのか?」
「はい。一刻を争うと判断しましたので直ぐに止める手段を取りました。ヒカリ様に当てない自信はありましたので」
それは子息には剣を当てる気は満々だったのだろうか。
どうやらヒカリの身長よりも高い位置を刺したようだ。それなら子息からしたら目線の位置に剣が刺さってきたのだろうな。
投げるように剣を刺した方が早いと判断したその考えは怖いが、でもやはり長さのある剣を突き刺した方が扉を普通に開くよりかは早いのは確かかもしれない。
「キツキのところの護衛は物騒だね」
カロスは呆れたような顔で言うが、壁を破壊した人間に言われたくは無い。
「カロスは何で来たんだよ」
「指輪から不穏な波動が流れてきたからですよ。急いで来てよかった」
肩を抱きながらヒカリの顔を見る。
お前が来なくても終わっていたがな。
「ごめんね、キツキ。大騒ぎになっちゃって」
「そうだな。ヒカリが火魔素で相手を丸焼きにしておけば済んだ話だな」
ヒカリは「んもうっ」と膨れる。
ヒカリが人に向かってそんなことは出来ない事は知っている。フィオンをつけておいて本当に良かった。
「あの倒れていた奴は何か言っていたか?」
そう聞くとヒカリは少し恥ずかしそうにする。
「なんか、この場を見られれば既成事実を作れるから、少しだけ服を破くとかなんとか?」
「なんだそれは」
「名汚しですよ。男性と事に至っている所を使用人にでも目撃されれば、その令嬢の名は瞬く間に貴族の間に広がります。そうなれば何処からも普通の結婚の申し込みはされなくなる。特に家格の高い家ほどそういった問題のある令嬢を避けたがりますから、結果として逢引きしていた男性以外と結婚が出来なくなるのですよ。もしくはとても条件の悪い結婚話か後妻の話しか来なくなる」
カロスはムスッとした顔で説明をする。
「要は俺の許可の必要もなく、簡単にヒカリと結婚する方法ってわけか」
「そうです」
「じゃあ、きっと発見する役の使用人も近くに潜んでいたんだろうな」
「おそらく」
その使用人はカロスの引き起こした爆発に巻き込まれていそうだがな。
俺は長いため息を吐くと眉間に皺を寄せた。
なんて怖いところなんだよ。
ヒカリを連れて来た事を後悔しそうだ。
……いや、連れてきたのはシキさんだったか。
そうか、下手をするとシキさんと結婚が出来なくなる可能性も出てくるのか。
「万が一、ヒカリがそうなったとしても結婚の申し込みは尽きないでしょうけどね」
むすっとした顔で何でだよとカロスに聞くと、カロスは渋い顔で説明を続ける。
「初代皇帝似の皇女は今までは皇帝位になる定めでしたが、ヒカリは兄であるキツキがいます。ですからヒカリは結婚して嫁に行くことができるのです。自分の家門に初代皇帝似の皇族の女性を迎えるチャンスは帝国史上、初めての事なのです。ですからヒカリを狙っているのは高位貴族だけでは無いのですよ。その程度の噂だけではどこも手を引っ込めませんよ」
「帝国史上、初めて………」
「ええ。どこも隙を狙っていますね」
ー ヒカリを巡る敵は内外共に多い
「カロスが以前言っていた意味がよくわかったよ。それは確かに大変そうだ」
「近衛はこちらに向けて出発させていますが、この雪です。少し到着が遅くなるかと思います」
それは俺が断ったせいなので、仕方のない事だ。
「そういえば、ヒカリ。二週間程前にも少し変わった気が流れ込んできていたけれど、何か良いことでもあったかい? あの時は特に緊急性が無さそうだったので放っておいたけど」
「二週間前?」
「ああ、少しくすぐったいような、暖かくて嬉しい気持ちだったようだけど」
カロスがそう問いかけるとヒカリは頬を赤くしてピタッと止まる。俺も一緒に止まる。
その様子を見てカロスは「ん?」とヒカリの顔を覗く。
……あっぶね。
その時にヒカリのところにカロスが飛んで行ってたらシキさんとの仲がバレてるって事じゃないか。
「……それはヒカリがリトス邸に帰った日だろう。大叔父様がお元気で久しぶりにゆっくりと話が出来て嬉しかったって言ってたから、その時じゃないか?」
「おや、そうだったのですか」
「うん……」
ヒカリも俺の話に乗っかる。頷いたヒカリを見たカロスはどうやら納得したようだ。
なんとかカロスを欺く。
カロスがヒカリに渡した指輪の効果を疑っていたけれど、思いの他凄すぎて冷や汗が出てくる。
「なあ、カロス。その指輪は要らないんじゃないか? ヒカリにはフィオンがいるし、近衛だってあと数日で来るんだろう?」
「いいえ。今回は何事もなくて良かったですが、これが誰もいない場所まで運ばれてしまっては大変な事になります。絶対に外せません」
カロスはヒカリにも外しては駄目だと注意を入れる。
くそ、守りは硬いな。
「ちょうど良い機会です。明日から三日、ヒカリをこちらで預かります。北城は警備がしっかりしていますし、戻る頃には近衛達もこちらに追いついている事でしょう」
「明日から?」
「ええ、本当は夕方に伝えに来る予定でしたが。少し早くなっただけですよ」
「……急だな」
カロスの顔は綻ぶ。
「ええ、急に三日空きましてね」
嬉しそうに笑みを浮かべるカロスのそんな姿を、俺は呆れて見ていた。
この国で誰よりも多忙なお前が、急に三日も空くはずがないだろう。
きっとどこかの文官か秘書官に、仕事を丸投げしてきたのだろうと容易に想像が出来た。
「え、明日っ? 私何も準備してないよ?」
「ヒカリはその身一つでくれば良い」
なんか嫌な言い方だな。
「キツキ、悪いのですが君のところの護衛は連れては行きませんよ。北城には十分な護衛がいますからね」
「……わかった」
どうせ、ヒカリにくっついていたいからフィオンが邪魔なのだろう。フィオンならカロスをも刺しかねないしな。
「今日はこのまま私も泊まらせて頂きます。ヒカリ、夜は一緒に食事をしよう。今夜は私が護衛をするから安心なさい」
それは最強の護衛だ。普通にヒカリに話しかける下心のない子息をも攻撃してくれそうだ。
ヒカリにくっついて嬉しそうな顔をするカロスを見ながら俺の口は横に開いたまま閉じなくなった。
夕食時、ヒカリとカロスは目立った。
相変わらずヒカリに世話を焼かれ、嬉しそうにヒカリに引っ付く手懐けられた黒い猛獣は健在のようだ。二人は令息令嬢達からの視線を独占していた。
カロスは明日以降の事が待ち遠しいのか、周囲には滅多には見せないような緩んだ顔をヒカリに向けている。
なんだか、こいつが一番危険な気がしなくもない。
「おい、カロス! くれぐれも、くれっぐれもヒカリに手だけは出すなよ?!」
中央のテーブルに座ったカロスに釘を刺すが、その釘が引き抜かれそうなほどカロスは浮き足立っている。
三日はやはり危険だっただろうか。
カロスの事は気になるが、俺は今は目の前の問題を片付けなくてはいけなかった。
同じテーブルに座る管理者達の顔を見回しながらそれぞれの状況を聞きながら問題の洗い出しをする。
「やはり西側になればなるほど状況は悪いか」
「はい、砂漠化は西側から始まっていますので、西側へ進むほど領地邸の状態は酷くなる一方です。復旧も今までよりも時間がかかるかと」
「そうか。この雪で資材の輸送に遅れは出てい……」
「ドレスを一通り揃えさせているんだが、ヒカリはどんなドレスが好きだい?」
「……道の進み具合だが、この雪で…」
「耳飾りは外せないだろうからそれ以外の宝飾品は準備をさせたよ」
俺はダンッとテーブルを叩く。
「カロス! こっちの話に被せるな!! お前達あっちいけ!」
「おや、キツキ。食事のテーブルを叩くのは行儀が悪いですよ」
お前はシキさんか。
「あ、キツキ。私達はさっさと食べて出ていくからもう少し待ってて」
ヒカリはそう言って急いで食べ始める。その様子になんだか毒気を抜かれ、俺たちも先に食事を食べてしまうかと仕事の話を一旦止めて食事を進めた。
俺の苛立ちとは逆に、目の前のカロスは横に座るヒカリを見ながらさっきからずっと嬉しそうな顔をしている。うっすらとピンク色の春の香りが周囲に漂うカロスを見ながら、幸せそうだなと眺める。
カロスは悪い奴ではない。
時々余計な事をするし手加減も間違えるけれど、とにかく妹のヒカリを大事に思ってくれているし約束も守る。
そんな人間を嫌う方が難しいだろう。今は迷惑だけどな。
「ヒカリ、この後は時間は空いているかい?」
「時間……」
いつもはあまり考えずに返答するヒカリが、珍しくカロスからの質問に言い淀む。
視線を少し上げてしばらく考えると、持っていたスプーンをトレーに置いた。
「ごめんなさい、食事の後はやる事があって」
ヒカリはまだ少し残っていた食事をそのままにトレーを持って立ち上げると、そのまま食器を片付けてカロスを置いて食堂から去っていった。フィオンはそんなヒカリの後を追いかける。
残されたカロスと俺達は、いつもとは様子の違うヒカリの背中を見送った。
どうしたのだろうか。
わざと誘いを断るヒカリは珍しいな。
「昼には暇だと騒いでいたんだがな」
「リトス侯、わざわざ私の傷を抉らなくていい」
カロスは俺を軽蔑した眼差しを向ける。
今日の昼間の出来事が、謎防御力でも防ぎきれずにショックだったのだろうか。
カロスも珍しいヒカリの反応に、少し戸惑っているようだ。
「後で様子を見てくるよ。明日は約束通り行かせる。お前だって急に三日も休みを取るのは楽ではなかっただろ?」
そう聞くと図星だったようで、カロスは視線を少しだけ俺から逸らす。
「ええ、助かります」
「約束は忘れないでくれよ。船の移動の手伝いな」
「忘れるわけがないでしょう?」
そう言ってカロスも立ち上がると、部屋に戻ると言って食堂を出て行ってしまった。
まったく、忙しい奴らだ。
呆れながら視線を下げると、目の前にはカロスの食後のトレーが。
「あ、あいつ!」
「あらー、宰相補佐にはここのルールは難しいようですね。私が片しておきます」
エルディは立ち上がると、自分のトレーと一緒に片付け始める。
カロスめ、ヒカリが居ればやるくせにな。
まったく。
俺は頬杖をついてため息をついた。
先程の邪魔をされてしまった打ち合わせを続行する。みんな食事は終えて、お茶の入ったカップだけが各自の前に置かれ、少しまったりとした感じで話し合いは続く。
拠点の劣化が西へ進むにつれて激しくなっていくという話以外には、道路の作業についてはやはり雪で作業が停滞しているという問題点が上がった。
「イリヤ、拠点の修復は主要な場所を優先的に修復させてくれ。先ずは厨房と食堂だな。ヘイブ、道だけは凍らせないようにしてくれ。火と湯の魔石は足りているか? 馬の休憩場を優先して最悪物資の移動が滞らなければ良い。苗は雪が止むまで中止、街灯の作業は二の次にしてくれ」
俺の指示に対してイリヤとヘイブの二人は首肯した。
「エルディ。帝都に使いを出して建設資材を送り始めるように指示を出してくれ。時間差を考えれば今からでないと間に合わなくなるだろう。資材の輸送がこちらに追い付いたのなら拠点の端にでも置いといてもらってくれ」
「はい」
大貴族院での発言から一ヶ月が経つ。あと一週間で西側の海に到達したいが、この雪の様子では難しそうだ。ティノと相談したけれども、この様子では少なくともあと十日はかかるという。
「まだまだ、時間がかかるな。まあ仕方ない。今日はこれで解散だ。エルディだけは残ってくれ」
管理者達は立ち上がるとそれぞれに食堂を出て行った。
彼らがいなくなると俺は椅子の背もたれにだらんと寄りかかり、視線を天井へと移して考え事をしていた。そんな俺を見ながらエルディはまだ話が始まらないのかと急かす様子も見せずに、俺の横でのんびりとお茶をすすっている。
今日の出来事を振り返っていた。
今回は普通の部屋だったから良かったが、女性専用の場所にまでは何の権限もないフィオンは出入りは出来ないだろう。事件が男性が入れる場所で起こるとも限らないしな。
目を瞑ってうーんと悩む。
ヒカリの近くに居られる女性が欲しい。
護衛とまではいかなくても、何かあればヒカリの代わりに助けを呼んでくれるだけでもいい。出来れば信用が置けてヒカリの周囲に目を配ってくれる良識ある女性がいないだろうか。
横でまったりとするエルディの顔をじっと見る。
「どうかされましたか?」
「なあ、ヒカリの側にいてくれる女性をつけたいんだ。仕事というよりは友人としてでいい。報酬や経費ならもちろん払う。フィレーネにいたエレノア嬢にお願いしたいんだが、連絡を取れるか?」
「それは侍女として………えっ?! エレノア嬢ですか?」
さっきまでまどろみの中にいるように腑抜けた顔をしていたエルディは顔を白くさせて目を大きく開く。
「ああ、知っているだろう? ダウタ城にも来ていたんだから」
「存じてはおりますが……」
珍しくエルディからいつものハキハキとした返事が返ってこない。
「なんだ、彼女では不都合でもあるのか?」
本当は性格に難があるとか。
俺はお茶を飲み終えたカップを持って席から立ち上がる。
「いえ、彼女に問題はありません。連絡をとってみます」
エルディも俺に倣ってカップを持って立ち上がったけれど、視線は泳ぐし動きはぎこちない。
なんだか様子が変だな。
彼女に問題はありません、か……。
なら、問題があるのはエルディの方だろうか。
カップを片付けもせずに持ったまま食堂を去ろうとするエルディの挙動不審な様子を心配しつつも、彼の背中を見送った。
<用語メモ>
アフトクラート・・・初代皇帝の姿に似た貴人の呼び名。造語。
<人物メモ>
【キツキ】
ヒカリの双子の兄。祖父の実家を継いでリトス侯爵となる。
【ヒカリ】
キツキの双子の妹。祖母の爵位を継いでバシリッサ公爵となる。恋愛に対しての謎防御力の強い女の子。
【カロス/黒公爵(カロス・クシフォス)】
帝国の宰相補佐。黒く長い髪に黒い衣装を纏った二十歳の男性。魔力が異次元すぎて一部から敬遠される。ヒカリに好意を寄せる将軍の愚息。
【エルディ(エルディ・ダウタ)】
カロスに引き抜かれてキツキの側近となる。辺境伯であるダウタ伯爵の次男。何事も器用にこなす働き者。キツキの一つ年上。
【フィオン(フィオン・サラウェス)】
ダウタ兵団の兵士でエルディの子供の頃からの遊び相手。あまり表情はださないので冷たい印象を持たれがち。キツキからの依頼でヒカリの護衛役となる。
<更新メモ>
2021/11/10 加筆