プロローグ1
『いつも通り』という言葉が嫌いだ。
それは未来を約束してくれる魔法の言葉。
明日も明後日も、今日と変わらない日を迎えられる。そう確信と希望が入り交じった言葉。
その言葉が持つ魔力は、『いつも通り』布団にもぐり、朝に目を覚ますと『いつも通り』の朝が始まり、『いつも通り』朝に外へ出掛けた家族が、夕刻になると『いつも通り』朝出掛けた状態と変わらず帰ってくると確信をさせる。そんな都合の良い魔法。
そんな魔法に彼らは惑わされたのだろう。
ある日『いつも通り』の魔法が一斉に崩されたのだ。
それは『神』と呼ばれる者の仕業だったのかも知れない。
ただの人では及ばない力だったのかも知れない。
『いつも通り』ではない時間の訪れを、ある者は諦め、ある者は抗った。
『いつも通り』の魔法の副作用に苦しみ続けた人々は本来の形を変えていき、最後には国の姿をも変えていってしまった。
………か。
窓にぶつかる雨を見ながら頬杖をつく。
もう片方の手は、膝の上に居座るぷよぷよと小さく丸い生き物を、自分も知らぬ間にぎゅむぎゅむと揉んでいた。
始めるとなかなか止められない中毒性のある触り心地なのだ。
木で出来た厚くも落ち着いた色調の机の上には、補佐官が入れてくれた熱々のお茶が冷め始めていた。
手触りのよかった丸い生き物を床に放つと、ぽーんぽーんと床を飛び跳ね移動する。分厚い新旧の本がみっちり詰まった壁いっぱいの本棚に数回ぶつかると、ようやく進路を変えて気を取り直したかのように再びぽーんぽーんと陽気に跳ねて行く。
その様子をしばらく眺めると、目の前に置かれた古い資料の束の一つを手に取った。
報告者の名前は“エリック・ロンバルディ”。
ぺらっと一番上に置かれた鑑をめくる。
そこには事の詳細や備考がびっしりと書かれていた。
窓を打つ雨足が次第に強くなると、部屋の中も次第に薄暗くなっていく。
隙間風が入るのか、それとも自分の吐息なのか。時々机の上の蝋燭の灯りがゆれると、自分の背中に伸びる影も呼応する様に揺れた。
資料をじーっと眺める。
すべてが『いつも通り』ではなくなってしまった事の始まりは、やはりここからなのだろう。
ー皇暦1310年、春月10日ー
連日、新国王の即位式のために色めき立っていたその国は、城内も城下町もお祭り騒ぎだった。我々は式や祭典の日程を全て終え、その日は朝から自国の騎士や近衛達が国に帰る準備に追われていた。
城と城壁の間では、貴人たちの豪華な馬車や、屈強そうな護衛達の列で埋め尽くされていた。
我々もそのうちの一つだった。
馬車の近くで待機していた私は、登り始める太陽を忌々しく見つめていた。
朝早くから出発する予定のはずだったが、出発時刻よりも既に二時間近くは遅れていたからだ。
いつもは静かな騎士達がざわつきだす。
それもそうだ。我々の護衛する殿下は時間に遅れる事が滅多にない人だった。そんな人が何も連絡も無しに二時間も遅れを出している。落ち着けというほうが無理な話だろう。
「どうやら、第一王子に引き止められているようだよ」
斜め前にいた2歳年下のパルマコスが私にひそひそと話しかける。
騎士達がざわつき出した背景には、騎士達の間で城内での話が真しやかに囁かれ始めていたからのようだった。
本日の宿はここから少し遠い。
殿下が少しでも早く戻ってこれるようにと、最短のルートを事務方達が選んだのが原因だった。
自国とは地続きなので全て馬車での移動となる。
今日の帰路にはひと気も街灯もない、岩肌の見える細い山道をしばらく通らねばならなかった。
殿下に仇なす者がいれば狙うならばこの場所であろうと、事前会議で騎士団長から強い口調で説明があった気を緩められない道を通るのが、このままでは夜になってしまう。
安全を尽くし、国の半分近くの近衛騎士と上級騎士を殿下のお供に回した。
しかし細く暗い道が争いの場となった場合には、多数が一体どれほど役に立つのであろうか。
騎士達の顔に焦りが見えはじめる。
これ以上遅くなるのは危険だと誰もが思っていたからだ。
騎士団長には嫌味の一言でも言ってきて欲しいぐらいだった。
話が弾んだにしてはあまりにも長すぎる。それに帰り際に引き止めるなどとは一国の第一王子と言えど、無礼にも程がある。
相手を誰だと思っているのか。
「これ以上は危険ではないでしょうか」
近くにいた副団長に申し入れる。
普段は温厚な副団長の顔にも少し苛立ちが見えていた。
「そのまま待て」
副団長は馬を俺に預け、城へ向かった。
しばらくすると殿下が副団長と数人の近衛騎士を伴って城から姿を表した。
その姿を見てようやく騎士達は胸を撫で下ろすことが出来たのだ。
馬車が動き出す頃には、すでに二時間も遅れていた。
俺の前には副団長とパルマコスが殿下の馬車の左右に並ぶ。
二人とも近衛騎士の中でも優秀な騎士だ。
パルマコスなんかはここ数年、剣で負けたところを見たことがない。
男爵家の三男だが、高身長で秀麗だ。
この仕事から帰ったら、すぐに美人伯爵令嬢と婚約と言っていた。
高嶺の花と有名な美人令嬢とだ。羨ましいなんてもんじゃない。
日は次第次第に下がる。
懸念していたことが少しずつ現実を帯びてくる。
かといって戻ろうにも最後の街は更に遠い上、後戻りできるほど道幅に余裕はなかった。
街灯のない道、岩肌の見える細い崖道。日が落ちると視界はだいぶ悪い。
馬車と並ぶには道が狭く、前にいた副団長とパルマコスは馬車の後ろに移動した。
沈む日とは逆に月が姿を現し始めた。その時の衝撃を覚えている。
なんという大きさなのだろうか。空からこぼれ落ちそうだった。
真っ暗闇かと思われた夜道は月の明かりに照らされ始める。
護衛の最中だったが、月の堂々とした美しさに、目をしばし奪われていた。
「敵だ!」
不意に後方から声が響き渡る。異常事態を知らせる声だった。
どうやら列も乱れているようだ。
「人数は?」
「複数!」
「いや、人ではない。これは!」
後ろから別隊の小隊長と騎士とのやりとりが聞こえるが、敵の姿は未だ見えない。
警戒していた通り、奇襲されるのならこの細い崖道だった。
だが、事前の打ち合わせもしていたのにも拘らず、どうやら後方の現場ではかなり混乱が生じているようだった。
そんな大掛かりの奇襲なのだろうかと緊張が走る。
そんな折、何か違和感をもった。
それが何なのか、すぐにはわからなかった。
疑問が次第次第に確信に変わっていく。
地面が………揺れている?
「副団長、何か来ます!!」
咄嗟に声を上げる。
その声に副団長とパルマコスは馬車に更に近づき警戒を始めた。
なんだ、どこだ?
姿が全く見えない。
おかしな振動と、後方から混乱した声と共に多属性の魔法の光と音だけが夜の世界に響く。
それは俺だけではなく、馬車の前後にいる騎士達だって感じているようだった。
一瞬、空が暗くなる。
予想もしないところからの襲撃に肝を冷やし、ばっと空を見上げた。
何か、黒く大きいものが浮いているかと思えば目の前から消えた。
ドサッ
大きな振動を感じ、目を前方に戻すとそこには何もなかった。
目を見開く。
本当に何もなかったのだ。
馬車も護衛の騎士二人も馬も。
「殿下! 副団長!!」
俺は叫んだ。
この異常な事態を理解できないまま。
消えてしまったのだ。一瞬で。
前を先行していた騎士団長が引き返してくる。
大量の松明で周囲を照らすが、痕跡が一切見当たらない。
引きずられた後も、攫ったと思われる大人数の足跡も。馬の蹄も馬車の轍も彼らの姿も。
全てそこで消えていた。
目の前にいたはずなのに、そんなことが起こるのだろうか。
私だけではない。後方にいた騎士達も、自分の目が信じられないかのように目を見開いていた。
だが、これほど騎士がいたにも拘らず、誰も犯行の瞬間を目撃していなかったのだ。
薄暗かったということも作用したのかもしれない。
こんな神隠しのような事が起こるのだろうかと、俺を含め数人がその場で呆然と立ち尽くしていた。
犯人の姿を見たものは誰もいない。
騎士団長からの質問に、周囲にいた騎士は口を揃えて「黒いものが空から降ってきた」と証言をした。
光り輝く月夜の下に煌々と灯る松明の火が延々と道に延び、朝が来るまでその灯りが消えることはなかった。
<メモ>
更新メモは最新2つまで残しています。
<更新メモ>
2021/10/24 誤変換修正
2021/06/28 誤字などの修正、少しだけ加筆