行々林
急に立ち上がったあずみは何を思ったか散歩をしようと言い出した。
お堂の裏手にある林。そこは僕があずみに住んでいると言った場所。
「どんな所なのか見てみたいわ。行きましょう」
「あっ! ちょっと! あずみ!」
今までは怖がって林に近づかなかったあずみが、僕が静止しようとする間もなく足を踏み入れる。
学び舎ではイジメられているらしいあずみだけど、その実負けん気が強いことを僕は知っている。だけど、怖いのは苦手でこの裏手の林には近付こうとしなかったのに今日は違った。
元気なあずみもそうじゃないあずみも知っているが、今日のあずみは何か変だった。凄くわくわくしているような、それでいてどこか悲しげな雰囲気を纏っている。
この林の奥にあずみを行かせたくない。いや、立ち入らせてはいけない。
「あずみ、サンダルなんかで林に入ったらせっかく綺麗な足が傷ついちゃうよ?」
「平気よ。気をつけて歩くから」
「虫とかもいっぱい出るよ? 蚊に食われるし百足に刺されるし」
「私、虫は怖くないの」
一向に足を止める気配がないあずみは、まるで何かに取り憑かれたかのように歩き続ける。
いけない……瘴気が立ち込めてきた。
「あずみ! 忘れたの? この場所には妖怪が出るんだよ? 人喰いの妖怪が!」
あずみの足が止まった。最初からこう言えばよかったと胸を撫で下ろし「さあ、戻ろう」とあずみの腕を引いた。
だけど、あずみは僕に向き直るだけで、戻ろうとしない。
「ねえ、きみは……私のこと好き?」
「え?」
白い頬を薄紅色に染めて、あずみは少しだけ微笑み僕に訊いた。目を合わせずそっぽを向くあずみ。艶やかな着物姿と綺麗に結い上げた髪の毛の下に覗く白いうなじがいつになく大人びて見える。
なぜ急にそんな事を問うのか? 唐突なその問いに対する僕の答えは決まっている。だけど、僕はその答えを飲み込んだ。
僅かな沈黙の後、あずみが更に口を開いた。
「いい加減、きみをきみって呼ぶの変じゃない? 名前教えてよ」
今更むし返す名前を教えろとの問いに困ったなと溜息を吐く。
「だから……名前はないんだって」
「行々林の神代刑部」
あずみの口から発せられた言葉に、僕はぎょっとする。そして思わず弾かれたようにあずみを見つめると、僕の反応を確かめるかのような、覗き込む視線を向けるあずみ。僕のその反応を見て、意味深な微笑を浮かべた。
「きみでもそんな表情するんだね」
「知ってたのか?」
表情が険しくなるのが自分でもわかった。声色も自然と低くなる。
「ううん。前々から違和感を抱いていただけよ。だけど、今のきみの反応を見て確信したわ」
あずみは軽やかな口調で楽しげに続ける。
「それにしても『行々』って書いて『おどろ』って読むなんて反則よね。ずっと『いくいく』って読んでたし、言ってたから恥ずかしいわ。由来知ってる?」
無言であずみを睨みつけるが、それでもあずみは意に介さない。
「いけどもいけども林が続くおどろおどろしい事から名付けられたんだって。図書館の『九十九町の歴史』って本に載ってたのよ。でね」
微笑みを絶やすことなく僕に語り続けるあずみ。
「本には色々な逸話も書いてあったわ。その中に行々林には神代刑部という妖怪が住み着いていて、最も古い記述では江戸時代に存在が確認されているですって。……きみは、二五〇歳くらいだと言っていたもんね」
最早隠しだてることは不可能だろう。こうなった以上は手段を選ばず一刻も早くこの場所を離れなければならない。
「そこまで調べたってことは、書いてあったんだろう? 神代刑部は人を喰らう妖怪だって」
「書いてあったわ。その怒りを鎮める為に行々神社を建立し、決して林を侵さぬよう立入禁止区画にしたって」
「そう。林を侵す人間を喰らい地獄に落とす妖怪、僕がその神代刑部だ。あずみ、これ以上進み続けるというならばきみと言えど例外じゃないよ」
「いいよ、きみになら食べられても。確か初めて会った時、きみは私を林の中に行ってみる? って誘ったね。でも、次の年には近づかない方がいいって言って、今日に至っては林に入ることを止めた。……ねえ、きみの中ではどんな心境の変化があったの?」
どうでもいい人間の女の子。初めは林に連れ込み喰らえばいいと思っていた。それが段々と自分の中で大きな存在になっていき、あずみが傷付き悲しむ様子を見るのが堪らなく嫌になったんだ。そして、妖怪であるにも関わらず今ではあずみのことを……。
だけど、それを言霊に乗せるわけにはいかない。ほら、想像するだけでみるみる周りに瘴気が立ち込めるんだ。早くこの場所を去らなければならない。
「あずみ、林から離れるんだ。僕の事を妖怪と知った上でこれ以上仲良くする事はできない」
「まださっきの問いの答えを聞いてないわ。それとも、私から言わないとだめ?」
集ってきている。蠢いている。わらわらと破滅の使者たちが。妖怪である自分が人間の女の子と仲良くしているんだ。それが許されざる行為なのは重々承知している。
「あずみ! もう黙るんだ! これ以上言霊に想いを乗せるな!」
「私は! 君のことが好きです! 妖怪だとしても、私の話を一生懸命聞いてくれて、私のことを考えてくれるあなたが好きです!」
もう、遅い。
単なる夜の暗がりとは違う。辺りが禍々しい闇に覆われた。




