ジェレミー
あの日、久しぶりにデュボワ家の屋敷を訪ねた理由はもう思い出せない。覚えているのは、従弟の横に、やけにキラキラした笑顔の女の子がいたことだけ。
いつも無愛想で、何を考えているのか分からないマルセルと彼女は、まったく不釣り合いに見えた。
彼女はデュボワ家の隣にあるモンタニエ伯爵家のアナベル嬢だとマルセルから紹介された。
自分の屋敷に帰ってからも、翌日になってからも、俺の頭の中でアナベル嬢の姿がチラチラしていた。今日も彼女はマルセルと一緒にいるのだろうかと考えると、落ち着かなくなった。
しばらくして、再びデュボワ家に行く機会があった。マルセルは先日と同じ庭の東屋で本を読んでいたが、その隣にアナベル嬢はいなかった。
「この前の、あの娘は、今日は来てないのか?」
口にしてから後悔した。マルセルに対して自ら弱みを晒してしまった気分だった。
だが、マルセルの表情は特に変わらなかった。
「アナベルのこと? 別にいつも一緒にいるわけじゃない」
それはそうだ。だから俺がこれまで彼女と会うこともなかった。
俺はホッとする一方で、残念にも思った。
「呼んでこようか?」
そう言うと、俺の返事を待たずにマルセルは立ち上がり、歩き出した。
マルセルが向かったのはモンタニエ家のある方だったが、両家の間にある壁の手前で足を止めた。俺が訝しんでいると、マルセルは懐から小さな鏡を取り出して、それに日光を反射させ、モンタニエ家の屋敷の2階にある窓にあてた。
少しの間待っていると、その窓からアナベル嬢が顔を出し、右手を上げてまた消えた。
「いつもこうしてるのか?」
「太陽が出ていて、アナベルが部屋にいないと駄目だけどね」
やがてアナベル嬢が俺たちの前に姿を現した。
やはりキラキラした笑みを浮かべていたアナベル嬢は、俺に気づくとわずかに目を瞠り、ぺこりと頭を下げた。
東屋に戻って再び本を読みはじめたマルセルのそばで、俺はアナベルに話しかけた。子供っぽいたわいもない話だったと思うが、アナベルは微笑を浮かべて聞いていた。
それからも俺は折を見てデュボワ家を訪ねた。マルセルの隣にアナベル嬢がいることも、いないこともあったが、いなければマルセルが呼び出した。
そのうちに俺は気づいた。アナベル嬢にあまり歓迎されていないことに。
彼女は俺の話を聞きながらも、そばで本を読んでいるマルセルを気にしていた。俺の話を聞いている時よりも、マルセルと短い言葉を交わす時のほうが嬉しそうな顔になった。
少しずつ俺はマルセルを嫉ましく思うようになった。
マルセルが特別な合図でアナベル嬢を呼び出すことも。呼ばれたアナベル嬢がいつも駆けてくることも。互いに名前を呼び捨てにしていることも。
俺がアナベル嬢の気を引きたくて色々話題を考えても、ただそこで本を読んでいるだけのマルセルに敵わない。
俺とマルセルは同じ歳だから小さい頃から何かと比べられた。特に母はマルセルには絶対に負けるなとしばし口にした。だが、俺自身はそれほどマルセルのことを意識していなかった。
俺は侯爵家の嫡男で、成長するにつれ自分の容姿が女性受けすることを知り、人と上手く付き合う術も身につけてきた。
マルセルは伯爵家の次男たが、見た目はパッとしないし、愛想もない。そのうえ、伯爵家は我が家からの経済的援助を受けている。
学問に関してはマルセルのほうが出来が良いようだったが、他はすべて俺が優位なはず。それなのに、アナベル嬢のあの笑顔はすべてマルセルに向けられる。
俺はマルセルばかりを見ているアナベル嬢が憎らしくなり、何とか彼女を笑わせよう、彼女の意識を俺に向けようとする努力を放棄した。
もう会いに行くのもやめようと思ったが、アナベル嬢がマルセルとふたりきりだと喜ぶ姿を想像して苦悶し、せめてそれを少しでも阻止してやろうとデュボワ家に足を運んだ。
アナベル嬢の心中を想像するのは容易かったが、マルセルが何を考えているのかはやはり分からなかった。
マルセルは俺を迎える時も、アナベル嬢を呼び出す時も、大して頓着していないようだった。マルセルは俺の気持ちもアナベル嬢の気持ちも気づいていないのか、気づいてはいるが興味がないのか、それさえも俺には読めなかった。
無益とも言える日々を過ごす中、やがて俺は知った。モンタニエ伯爵には娘しかおらず、将来は長女のアナベルに婿養子を迎える予定で、マルセルがその候補だと。
居ても立ってもいられず、俺は父にアナベル嬢との婚約を強請った。
俺との婚約が決まると、アナベル嬢は「どうぞよろしくお願いいたします」と笑顔を見せた。だが、それは決してキラキラしたものではなく、淑女として儀礼的に作ったものだった。
一方、マルセルは珍しく笑みを浮かべて「おめでとう」と言った。
アナベル嬢が、俺の隣でわずかに顔を歪ませた。俺は昏い喜びを感じた。
マルセルが国の北部にある高等教育学校に入学することになったのは、その直後だった。
マルセルが旅立つ前にふたりで最後に顔を合わせた時、マルセルはいつもの無表情で俺に告げた。
「アナベルのこと、大事にしてあげて」
「そんなこと、おまえに言われるまでもない」
「そうだな」
マルセルがこのまま帰らなければいいと思いながら別れた。
アナベルは俺の前では常に、侯爵家嫡男の婚約者に相応しい淑女として振舞うようになった。それは俺が欲しかったものではなかった。
アナベルが俺にマルセルの話をすることはなかったが、彼女の目は俺がふたりの仲を裂いたと責めているように見えた。マルセルが遠くへ去ったことさえ、アナベルは俺の仕業だと考えていたのかもしれない。
俺はそんなアナベルに対してどんな風に接していいのか分からなかった。
いや、マルセルに言われたとおり、大事にすればいいことは分かっている。だが、アナベルはただ隣で本を読んでいただけの男に惹かれていたのだ。今さら何をすればアナベルの気持ちは俺に向けられるのか。
他のどうでもいい相手は向こうから寄って来るし、適当にあしらえる。だが、アナベルには俺から近づかなければ彼女がそばに来てくれることはない。しかし、いざアナベルを前にしても俺は途方にくれるばかりだった。
社交の場にふたりで出るようになったものの、俺はアナベルとある程度の時間を過ごした後は、目の届く範囲で距離を置くようにした。
不自然ではないはずだった。婚約者と始終べったりしているなど、それこそ嗜みがないことだ。
ところが、ある夜会で友人に言われた。
「ジェレミー、アナベル嬢とあまりうまくいってないようだな」
やはり俺に対するアナベルの頑なな態度に、皆が気づいたのだろうと思い、俺はアナベルを庇った。
「そんなことはない。アナベルは婚約者として良くやってくれている」
「アナベル嬢がどうではなく、彼女と一緒にいる時のおまえはいつも不機嫌そうだ」
他人の目には、俺のほうがアナベルを冷遇しているように見えていたことを初めて知った。
次にはそばにいた令嬢までが言う。
「ご婚約者がそれほどまで意に沿わぬ方なら、婚約を解消されたらいかがです? ジェレミー様でしたら他にいくらでもお似合いの相手がいるはずですわ」
その言葉は俺とアナベルが似合いではないという意味にもとれた。俺は苛立ちながらも表面的には穏やかに言った。
「俺はアナベルとの婚約を解消するつもりはありませんよ」
「お優しいのですね」
俺が優しい人間なら、そもそもアナベルをマルセルから引き離すなどしなかったはずだ。本当の俺を知るのはアナベルだけだった。
4年ぶりにマルセルが戻ったと聞き、俺は慌ててデュボワ家に向かった。
マルセルは庭にいると言われて東屋を覗いたが姿はなく、モンタニエ家の方へ歩いていくと、あの場所で見つけた。マルセルの前では、アナベルがキラキラと笑っていた。
「アナベル」
俺は感情を抑えきれずに大声で彼女の名を呼び、ふたりに近づいていった。
「君は俺の婚約者だ。他の男とふたりきりになるな」
「他の男って、マルセルですよ」
アナベルが不快そうに言った。
「マルセルだって男だ」
本音を言えば、アナベルが一緒にいたのが別の男だったなら、俺はまだ我慢できただろう。マルセルだからこそ、俺の気持ちはこれほどに波立つのだ。
「アナベルを呼び出したのは俺だ。おまえの婚約者なのに勝手なことをして悪かった」
マルセルが頭を下げた。だが、相変わらずその表情からはマルセルの心は読み取れなかった。
「軽率なことをして申し訳ありませんでした」
マルセルに倣うように、アナベルも俺に頭を下げた。
「アナベル、今日はもう帰ったほうが良さそうだ。近いうちにまた話そう。もちろんその時は誰かに一緒にいてもらうよ」
マルセルの言葉に、アナベルは頷いた。
「ええ、また。失礼いたします」
もう一度俺に一礼すると、アナベルは去っていった。婚約者ではない男の言うことを素直に聞く彼女の姿に、俺の気持ちはさらに苛立った。
「ジェレミーにとって、アナベルを大事にするってああいうことだったのか?」
唐突にマルセルに言われ、俺はそちらを振り向いた。
「婚約者の立場で縛りつけて、自由を奪うこと?」
俺がアナベルを縛れたことなど一度もない。彼女の心は今でもマルセルに向いたままだ。
だが、それをマルセルに言えるはずがない。
「俺とアナベルの問題だ。おまえには関係ない」
「俺も口出しするつもりはないよ。アナベルがそれで幸せならね」
俺を見つめたマルセルの目は、昔より冷たく感じられた。
「とにかく、アナベルが俺の婚約者だということは忘れるな」
それだけ言い捨てて、俺はデュボワ家を後にした。
アナベルがマルセルとふたりで会っているのではないかと思うと気持ちが落ち着かず、俺はたびたびアナベルに会いに行った。
まるで昔に戻ったようだった。今はもうアナベルは俺の婚約者で、マルセルに対する俺の優位は絶対のはずなのに。
アナベルに笑顔で迎えられても、心の中では迷惑がられているような気がした。
それを裏づけるように、俺とアナベルのいる部屋に、必ずと言っていいほどアナベルの妹リゼットもやって来た。
俺とふたりでいるのが嫌で、アナベルが呼んだのだろう。アナベルがリゼットを追い払うことはなく、俺も仕方なく婚約者の妹の相手をした。
それから少しして、マルセルがリゼットと結婚し、将来はモンタニエ伯爵位を継ぐのだと聞いた。
マルセルがアナベルの実家に入ることに関してはあまり良い気はしないが、リゼットと婚約してしまえばマルセルとアナベルも義理の姉弟として相応しい距離を保つはずだと思って安堵もした。
アナベルとともに夜会に出た。マルセルもリゼットを連れて参加していた。
マルセルに婚約者らしい姿を見せつけてやりたかったが、突然いつもと違うことをできるはずもなく、結局俺とアナベルは最初にダンスをしてからは別々に過ごしていた。
だが、アナベルとマルセルがダンスをしたり、話したりする様子もなかった。
そんな中で、俺に近づいてきたのはリゼットだった。
「ジェレミー様、実は婚約のことでご相談があるのですが」
咄嗟に思ったのは面倒だということだった。マルセルがいるのにアナベルから目を離すのも気が進まない。
「それなら、次にお屋敷を伺う時に聞くよ」
「でも、屋敷ではお姉様もいますし、できればふたりきりでお話したいんです」
どうせ相談というのは、マルセルとは結婚したくないといったことだろう。
リゼットはマルセルに嫌々エスコートされているのが丸わかりだったし、ふたりがダンスをすることもなかった。それでも、アナベルは羨ましそうにふたりを見つめていたのだが。
もしもリゼットもアナベルの本心に気づいているなら、姉の前でマルセルの悪口は言いづらいかもしれない。
俺は渋々ながらリゼットと一緒に休憩用の客室に向かった。
ソファに向き合って腰を下ろし、部屋に用意されていた果実酒を飲みながら、リゼットが口にしたのは案の定、マルセルと婚約するのは嫌だということだった。
リゼットはさらに言った。
「ジェレミー様、お姉様との婚約を解消して、私と婚約しませんか?」
「何を言ってるんだ。そんなことするわけないだろう」
「でも、ジェレミー様もお姉様との婚約は不本意だったのでしょう? だからあんなにお姉様に冷たいんですよね」
リゼットからもそんな風に見えていたのか。
「違う。それは君の勘違いだ」
「いいえ、私には分かっています。ジェレミー様はお姉様より私の方がお好きでしょう? お姉様にはマルセルの方が合ってるわ」
言い返したかったが、頭に血が上ったせいか、クラクラして言葉が出て来なかった。目が回る。
「ジェレミー様、大丈夫ですか? ご気分が悪そうですわ。どうぞ横になって」
そばまで来たリゼットの手を払うこともできず、彼女に言われるまま俺はソファに寝そべり目を閉じた。
「今、姉を呼んで来ますから、お待ちください」
その言葉の後で、扉が開いてまた閉まる音が聞こえた。果たしてアナベルがわざわざ俺のところに来てくれるのだろうか。
しばらくして、再び扉が開いた。アナベルの声が聞こえる気がするが、何を言っているのかは聞き取れなかった。
俺は額に触れた手を握りしめ、彼女の名を呼んだ。
目を覚ますと、俺はベッドの中にいた。すでに明るくなっていた。
おそらく昨日の客室だろうということは分かった。だが、どうして隣でリゼットが寝ているのかは分からなかった。
とにかく帰ろうと考え、ベッドを出た。頭も体も重かった。
ところがリゼットも目を覚ましてしまい、扉を開けたところで捕まった。揉み合っているところをその屋敷の使用人たちに目撃され、リゼットをつき飛ばして逃げた。リゼットが大声で私の名を叫ぶ声が聞こえたが、無視した。
どうにか屋敷に戻って部屋で休んでいると、昼前頃に父に呼ばれた。
「おまえは何をやっているんだ。よりによって、婚約者の妹に手を出すなど」
「私はリゼットに手を出してなどいません」
昨夜の記憶はないが、今朝目を覚ました時、私もリゼットも服は身につけたままだった。多少の乱れはあったが、眠っている間のものだろう。
父は嘆息した。
「実際に何かがあったかどうかではない。おまえが一晩をリゼット嬢とふたりきりで過ごし、それを他人に知られたという事実が全てだ。アナベル嬢との婚約を望んだのはおまえ自身だから言い難かったのだろうが、リゼット嬢に心変わりしたならこんなことをする前に言わぬか」
「心変わりなどしていません」
「今さら嘘はいい。おまえたちの不仲は有名だったではないか。どちらにせよ、妹に手を出した以上、アナベル嬢とは結婚できん。まったく、良い令嬢だったから惜しいことだ。それに比べてリゼット嬢の評判はいまいちだな……」
足元が崩れるような感覚だった。
なぜこんなことになったんだ。俺はリゼットの罠に嵌ったのか。いや、アナベルがリゼットにやらせたんじゃないか。アナベルはそこまで俺を嫌っていたのか。
俺は急いでモンタニエ家に向かった。現れたアナベルはもはや俺に対する軽蔑を隠しもせず、俺をきっぱりと拒絶した。
なす術もなくモンタニエ家を去るしかない俺が馬車に乗り込もうとした時、名前を呼ばれた。見れば、門の近くにマルセルが立っていた。
俺はマルセルとともにデュボワ家の東屋に向かった。
「馬鹿なことしたね」
マルセルはいつもどおり淡々と言った。
「俺は何もしてない」
「リゼットとふたりきりになったのは間違いないんだろ。アナベルにはあんなこと言ってたくせに」
「だとしても、きちんと説明すればアナベルも分かってくれるはずだ」
「リゼットのこと、振り払って置き去りにしたらしいね。そんなことするから説明する機会も与えられないんじゃないか」
呆れたようなマルセルの言葉に、俺はムッとした。
「……おまえ、何のために俺を呼びとめたんだ?」
「アナベルを傷つけるようなことしておいて、慰めてもらえるとでも思ったの?」
マルセルの声が低くなった。腹を立てたのだろうか、あのマルセルが。
「アナベルは返してもらうよ」
俺は目を瞠った。
「返すって……」
「こうなったら、モンタニエ伯爵はアナベルに婿をとるだろう。婿は俺。元に戻るだけだ」
「ちょっと待て」
「4年もあったのに何もしなかったのはジェレミーだ」
俺は何も言い返せなかった。マルセルの言うとおりだから。
「俺は婚約者だからと言ってアナベルを縛りつけるつもりはないから、好きに会えばいい。もちろん、アナベルが嫌がらなければだけど」
俺は初めて気がついた。マルセルは俺の気持ちもアナベルの気持ちもちゃんと分かっていた。そしておそらく、アナベルに横恋慕して奪った俺を恨んでもいたのだ。