アナベル
よろしくお願いします。
私がずっと大好きだった人は、私のことを見てはくれなかった。だから私はその初恋を心の奥に閉じ込めた。
馬車の向かいで、ジェレミー様は今夜も不機嫌そうに溜息を吐いた。
そんなに私と一緒にいるのが嫌なら、婚約者の義務なんて果たさなくていいのに、彼は夜会に参加する時は必ず私をエスコートするし、最初のダンスは私と踊る。きっと周りの目を気にしているのね。
ジェレミー様は私以外の人に対しては常に穏やかな笑みを浮かべ、柔らかい物腰で接する。
そのうえ、とても整ったお顔立ちをしているラングロワ侯爵家のご嫡男に憧れを抱く令嬢はたくさんいた。
2つ歳下の妹リゼットも「お姉様が羨ましい」とたびたび口にする。ジェレミー様の私への態度は知っているくせに。
私がジェレミー様と初めてお会いしたのは、我がモンタニエ伯爵家のお隣デュボワ伯爵家のお屋敷だった。
私はデュボワ家の次男マルセルと仲良しで、いつも一緒に過ごしていた。ジェレミー様はマルセルの従兄弟だった。
当時、私は10歳、マルセルとジェレミー様が11歳。
それから時々、私はジェレミー様にもお会いした。最初の頃のジェレミー様は私に対しても愛想が良く、無表情なマルセルとは大違いだった。
だけど、いつからかジェレミー様は私に冷たく当たるようになった。何がきっかけだったのか、私には今も分からない。
ところが5年後、どういう訳かラングロワ侯爵家から我が家にジェレミー様と私の婚約が打診され、私の父はそれを受けた。
それを聞いたマルセルは、珍しくその顔に微笑を浮かべて「おめでとう」と私たちを祝福した。
その直後、マルセルは国の北方にある全寮制の高等教育学校に入学し、それ以来4年も都に帰って来ない。
彼は昔からお勉強が好きで、本をたくさん読んでいたし、難しいことを色々知っていた。きっと、マルセルにとって勉強漬けの日々は楽しいものなのだろう。
私とのダンスをさっさと済ませると、ジェレミー様はご友人方のところに去った。ジェレミー様を慕う数人の令嬢方もその近くに寄って行き、彼は和かな様子で会話を始めた。
私も知り合いを見つけて彼女たちのところに向かった。
「あら、アナベル様、ジェレミー様とご一緒でなくてよろしいの?」
「ええ。婚約者だからと言って、いつもそばにいる必要はありませんわ」
「あんなに女性に人気の方がご婚約者なのにずいぶん余裕ですね」
私は曖昧な笑みで誤魔化した。
数日後。
私は自分の部屋のソファでジェレミー様のお母様にお借りした本を読んでいた。
ふと視界の隅で何かが動いたような気がして顔を上げると、壁で光が踊っていた。太陽の光を鏡に反射させて、窓から私の部屋に入れる。それは、マルセルから私への合図だった。
私が慌てて窓辺に駆け寄ると、高い壁や木々の間、わずかにお隣の庭が覗く場所にマルセルが立っていた。
マルセルは私が顔を出したことに気づくと、首を傾げてみせた。「来られる?」という意味だ。私も右手を上げて「すぐ行く」と返事をし、そのまま部屋を飛び出した。
子どもの頃と同じように、裏門からお隣の庭に向かうと、さっきの場所でマルセルが待っていた。
「マルセル」
淑女らしくなく走ってきてしまったので、息が切れていた。
「そんなに急がなくても良かったのに」
「だって、いつ帰って来たの?」
「昨夜」
「もうずっとこちらにいるの?」
「そのつもりだよ」
「ちっとも帰って来ないから、このままあちらに住むのかと思ったわ」
「向こうの研究所に入らないかと誘いはあったんだけど、やっぱりここが懐かしくてね」
私はマルセルの顔を見つめた。4年の間にずいぶん大人びたけど、相変わらずの無表情。
「マルセルでも故郷や実家を懐かしいなんて思うのね」
「何それ。俺を何だと思ってるの?」
マルセルの口調は穏やかなままだから、機嫌を損ねた訳ではなさそうだ。
「本があってお勉強ができるところのほうがマルセルは好きでしょう?」
「まあね。でも俺にだって他にも大事なものはあるから、王宮付属の研究所に紹介してもらったんだ」
「そうなのね。おめでとう」
王宮付属研究所は、かなり優秀な人でないと入れないはずだ。
「アナベル」
もっと色々とマルセルの話を聞きたかったのに、突然、苛立った声に名前を呼ばれた。
振り向くと、ジェレミー様がこちらに歩いて来るのが見えた。マルセルの帰宅を聞いて会いに来られたのだろう。
「君は俺の婚約者だ。他の男とふたりきりになるな」
「他の男って、マルセルですよ」
「マルセルだって男だ」
私は嘆息しそうになるのを堪えた。
私のことを鬱陶しく思っているのに、こんな時ばかり婚約者振るなんて。
「アナベルを呼び出したのは俺だ。おまえの婚約者なのに勝手なことをして悪かった」
マルセルが私を庇うようにジェレミー様に軽く頭を下げた。それを見て私も冷静になり、頭を下げた。
「軽率なことをして申し訳ありませんでした」
「アナベル、今日はもう帰ったほうが良さそうだ。近いうちにまた話そう。もちろんその時は誰かに一緒にいてもらうよ」
「ええ、また。失礼いたします」
私はマルセルに向かって頷き、ジェレミー様にはもう一度頭を下げて、自分の屋敷に戻った。
しかしその後、私はなかなかマルセルに会えなかった。マルセルの研究所勤務が始まったせいもあるが、ジェレミー様が我が家をしょっちゅう訪れるからでもある。
今までそんなことはほとんどなかったのだから、マルセルに会いに来るついでかもしれない。
私としては、婚約者のジェレミー様とふたりきりになるのは気詰まりだ。ジェレミー様はいつもの不機嫌な顔で黙っているばかり。
そのうちに、ジェレミー様に憧れを抱くリゼットがやって来て一緒にお茶を飲むようになった。リゼットが話しかければ、ジェレミー様は愛想良く相手をする。きっと、私なんかより可愛いらしいリゼットのほうがジェレミー様だって良いだろう。
部屋の空気が軽くなって、私もホッとする。
ごくたまにマルセルから合図が来て私がお隣の庭に行くと、彼はひとりで私を迎えてくれた。
ある日、私とリゼットは話があると父に呼ばれた。居間に行くと、母も揃っていた。
「話とは他でもない、リゼットの婿のことだ」
モンタニエ伯爵である父の子は私とリゼットだけで、私はラングロワ侯爵家のご嫡男と婚約しているので、リゼットに婿を迎えることは決定事項だった。
「お隣のマルセルに決まった」
「嫌よ。あんな地味で暗い人」
リゼットが叫ぶように言った。
「そんなことを言うな。マルセルは優秀な男だ。彼が私の跡を継いでくれれば我が家は安泰だ」
「そうよ。マルセルは優しいし、話してみれば楽しい人よ」
私がそう言うと、リゼットは私をキッと睨みつけた。
「だったら、お姉様が代わってよ」
「そんなこと、できるわけないでしょう」
「ほら、偉そうなこと言って、お姉様だってマルセルなんかよりジェレミー様のほうが良いんじゃない」
「これはそういう問題ではないわ」
「だったら交換してよ」
こっちの気持ちなんて知りもせず、リゼットは子どものように喚いた。
「リゼット、いい加減にしなさい。アナベルの言うとおりだ。婚約者の交換などできん」
父に厳しい声で言われ、リゼットは泣きながら居間を出て行った。
翌日、久しぶりにマルセルから合図があって、私は彼に会いに行った。でも、私の足はいつもより重かった。
「聞いたんだろ、俺がアナベルの家に婿入りすること」
「聞いたわ。両親と妹のこと、よろしく頼むわね」
婚約が決まったのだから、本来なら「おめでとう」と伝えるべきなのだろうけど、私の口からは出てこなかった。
「実は、結構前から言われていたんだ」
「だから、こっちに帰って来たの?」
「まあ、そうだね」
それなら、マルセルの「大事なもの」というのはリゼットのことだったのだろうか。
それからしばらくして、私はジェレミー様と夜会に出かけた。
まだ正式な婚約を結んでいないものの、マルセルとリゼットもふたりで参加した。リゼットは不満げな顔を隠す気もないようで、私は複雑な気持ちでふたりを見つめた。
そろそろ閉会という時間になった。しかし、いつもなら私のところに迎えに来るジェレミー様の姿が見当たらなかった。私はラングロワ家の馬車でここまで来ていたので、これでは帰れない。
仕方ないので、我が家の馬車で来ているリゼットとマルセルの姿を探した。マルセルはすぐに見つかった。
「マルセル」
「アナベル、どうした?」
「実は、ジェレミー様が見当たらなくて。あなたたちの馬車に乗せてくれない?」
「もちろん。というか、助かるよ。リゼットから俺とは一緒にいたくない、馬車は使って構わないからひとりで帰れと言われてしまって。だけど、俺ひとりでモンタニエ家の馬車を使うのは気まずいと思っていたんだ」
「リゼットがそんなことを? それは本当にごめんなさい」
私は頭を下げた。
「いや、アナベルが謝ることじゃない。俺なんかで女性が満足できるはずないさ」
「そんなことないわ。あなたは優しくて立派な人よ。リゼットが我儘なの」
「ありがとう。アナベルにそう言ってもらえて嬉しいよ。とにかく帰ろう」
「ええ」
私はマルセルと一緒に我が家の馬車に乗った。
「残念だったな」
マルセルの呟きに私は身を縮めた。
「本当にごめんなさい」
「ああ、違うよ。初めて夜会に出たのに、ジェレミーの目が気になってアナベルをダンスに誘えなかったから」
「え?」
「せっかくアナベルが綺麗な格好してるのに、やっぱりもったいなかったな」
馬車の中が暗くて、私の表情がマルセルに見えなくて良かった。
「本当、誘ってくれれば良かったのに」
「言っておくけど、かなり下手くそだよ」
「別に気にしないわ」
「じゃあ、次回は誘うよ」
「楽しみにしているわ」
翌朝。騒がしい雰囲気で私は目を覚ました。
「何かあったの?」
メイドのロザリーを呼んで尋ねると、彼女は困惑の表情を浮かべた。
「実は、リゼットお嬢様が先ほどご帰宅なさいまして」
「ええ」
朝帰りをするなんて、リゼットは何を考えているの。ああ、昨夜、探し出して無理矢理にでも一緒に連れ帰るべきだったわ。
私は急いでベッドを出ると、ロザリーに手伝ってもらって身支度を整えた。
部屋を出て階段へ向かうと、下から父の大声が響いてきた。
「この馬鹿娘が。おまえはいったい何を考えているんだ」
「私の言うことを聞いてくれないからではありませんか」
階段を降りていくと、玄関ホールで父とリゼットが向かい合い、父の後ろでは母がオロオロしていた。
「お父様」
私の声に振り向いた父は、今までに見たことのなかったほどに険しい顔をしていたが、私の顔を見ると苦しそうに嘆息した。
「お姉様、申し訳ありません」
リゼットの突然の言葉に今度はそちらに目を向けると、妹の表情はとても謝罪を口にしたとは思えないものだった。
「黙れ、リゼット」
父の怒声を無視して、リゼットは続けた。
「私、今までジェレミー様と一緒でした。ふたりきりでいるところを見られてしまったので、すぐに噂になってしまうと思います」
リゼットの顔に浮かんでいるのはおそらく優越感だろう。ずっとほしかったものを私から奪えたと、勘違いしているのだ。ジェレミー様が私のものだったことなど一度もないのに。
「こうなってしまったら、もうお姉様はジェレミー様と結婚なんてできませんわよね」
私はリゼットのそばまで真っ直ぐ歩いていくと、右手を思いきり振りかぶってリゼットの頬を打った。リゼットは悲鳴をあげて床に倒れ込んだ。
「何をするの? ジェレミー様のお気持ちを掴めなかったくせに、嫉妬なんて醜いですわ」
私は深く溜息を吐いた。
「私があなたを叩いたのは、あなたが我がモンタニエ伯爵家の名に泥を塗る真似をしたからよ。それから、私とジェレミー様がこのまま結婚するかどうかを決めるのはお父様とラングロワ侯爵であって、私でもジェレミー様でも、もちろんあなたでもないわ」
私が再び父を見ると、父は呆気にとられたような顔をしていた。
「差し出がましいことをして申し訳ありませんでした」
「いや、アナベルの言うとおりだ。私はリゼットを甘やかしすぎたようだ」
その後、私と両親は重苦しい雰囲気のまま朝食をとったが、リゼットは自室に籠もって姿を現さなかった。
昼過ぎになって、ジェレミー様が我が家を訪れた。私は再び玄関ホールに向かった。
ジェレミー様は私の姿を目にするなり、口を開いた。
「アナベル、これは何かの間違いだ。俺は君との婚約を解消するつもりはない。頼む、俺を信じてくれ」
今さら何を言っているのだろう。私とジェレミー様の間には、とうとう信頼関係など生まれなかったのに。
「もう、私に対して婚約者の義務を果たしていただく必要はありません。もっとあなたのお心にかなう方を新しい婚約者になさってください」
「義務などではない。俺はアナベルだけを……」
「あなたに私を憐れむ心があるのでしたら、どうぞそれは全てリゼットにお向けください。あれでも私にとってはただひとりの妹なんです」
おそらく、リゼットはジェレミー様と結婚できなければ、修道院にでも入るしかなくなるだろう。
「では、私はこれで失礼します」
「待ってくれ。俺の話を聞いてくれ」
私が自室に戻るために階段を上っていくと、踊り場に青い顔をしたリゼットが立っていた。リゼットは私が何かを言う前に、背を向けて駆け去った。
次の日、私は父の書斎に呼ばれた。
「おまえとジェレミーの結婚は白紙に戻す」
「そうですか。では、リゼットとジェレミー様を?」
「それはまだ分からん。あちら次第だ。だが、もはやマルセルとリゼットを婚約させることはできないし、あの娘にこの家を継がせるつもりもない。となると、必然的にアナベルに婿を迎えることになる。急なことですまないが」
「いいえ。ジェレミー様との婚約がなければ、そうなるはずだったのですし、私はそれで構いません」
「それならば、ジェレミーとの婚約が正式に解消されたらすぐに、マルセルとの婚約を結ぶ」
私は目を瞬いた。
「マルセルと、なのですか?」
「そうだ」
「リゼットがあんなことをしでかしたのに、マルセルは我が家への婿入りを了承してくれたのですか?」
「ああ、マルセルのほうから言い出してくれて、正直助かった。一から新しい相手を探すのは大変だからな」
私の心の奥のほうで、私が捨てられずに閉じ込めたものが、ここから出せと叫び出した。
いいえ、やっぱり駄目よ。だって、彼は好きこのんで私と結婚する訳ではないのだから。
自分の部屋に戻ってから、私はソファに座って呆然としていた。
ふいに、壁の上で光が踊りはじめた。
私が窓から顔を出さずに、直接マルセルのところへ走ったので、彼は驚いた顔で私を迎えた。
「いないのかと思った」
いつもと変わらぬように見えるマルセルに、私は頭を下げた。
「ごめんなさい」
「来てくれたんだからいいよ」
「ごめんなさい」
「……アナベル、もしもリゼットの代わりに謝っているつもりなら、必要ないよ」
私は首を振った。
「違うわ。私は私自身のことを謝っているの。きっとあなたはリゼットに裏切られて、傷ついて、仕方なく私と結婚してくれるのよね。でも、私はそれを喜んでしまったから」
「そう。アナベルは喜んでるんだ」
マルセルが嘆息するのが聞こえた。私が恐る恐る顔を上げると、マルセルの顔には笑みが浮かんでいた。
「今、俺がどんなに嬉しいか、アナベルは全然分かってないね」
マルセルが私の濡れた頬を優しく拭った。
「嬉しい? マルセルはリゼットが好きなのではなかったの?」
「どうしてそんな勘違いをしたのか知らないけど、俺が好きなのはアナベルだよ。昔からずっと」
私はマルセルの言葉を信じられずに、彼の顔を見つめた。
「だって、私とジェレミー様の婚約が決まった時、『おめでとう』って」
「あの場では、ああ言うしかないだろ」
「その前だって、私が一緒にいても本ばかり読んでいたわ」
「本を読んでる時もアナベルにそばにいてほしかったから、わざわざ鏡を使って呼んだんだ」
「帰ってきたのは、リゼットと結婚するためじゃないの?」
「まさか。アナベルに会いたかったからだよ」
「本当に私でいいの?」
「この前、言ったよね。俺がモンタニエ家に婿入りする話は前からあったって。ジェレミーと婚約するまでは、婿をとるのはアナベルのはずだっただろ。その頃から、俺が候補だったんだ」
「そんなに前から?」
「俺は大して取り柄もないから、その立場を守るために必死に勉強してた。だけど、ジェレミーに呆気なく奪われて、君を忘れたくて離れてみたけれど、やっぱり無理だった。それなら少しでもアナベルの近くにいようと決めて戻ってきたんだ」
私の顔は、きっと涙でぐちゃぐちゃだ。だけど、私を見つめるマルセルの瞳には、確かな熱が込められている。
「アナベル、俺は多分、君が考えているよりもずっと執念深くて重たい男だと思うよ。それでも、俺の妻になってくれる?」
「ええ、喜んで」
私が応えると、マルセルの腕がそっと私の体を包み込んだ。




