第四章
春。
夏。
秋。
どれも大切な季節。
じゃあ、冬は?
冬にはいっぱい生き物が死んじゃって、生き残る子達はそのために必死で努力しなくちゃいけない。
冬は、厳しい季節。
冬は、必要なの?
朝起きると、また気だるさがやってきた。気持ちが深く沈んだまま寝てしまった時特有の症状だ。またあの余命宣告された次の朝くらいに戻ってしまっている。結局、ほとんど眠れなかった。そして俺は、ふと疑問に思ってしまった。
俺は、本当に生き残りたいのか?
そもそも、ここに来た発端は自殺未遂だ。その時の俺は、もう何もかもが嫌で、こんな生活が続くくらいなら、もう未来なんかいらないと思っていた。それは、今も変わらない。
あれは、最悪の環境だ。
漠然とした「将来」のために、心をすり減らされる生活。もうあんな生活には戻りたくない。俺が生きるのを諦めれば、その分で誰かが助かる。そんな風に考えてしまうんだ。
だからと言って死を選ぶことなど、できない。怖い。死ぬのが、怖い。これまで自分の為してきたこと、それらが全て無になるのが、怖い。
よく考えれば、そんな人間も多いんじゃないだろうかと思う。
ただ死ぬのが怖いから、生き続けている。ただそれだけの、虚ろな人間。
なんなんだよ一体。自分が絶対助からないとなれば、もう諦めて、楽しく生きようとすることが出来る。なのに、自分がもしかしたら助かるかもしれないとなると、とたんに深い迷宮に入り込んでしまう。つらい思いをしないといけなくなる。
みんなはどうしてるだろう。眠れただろうか。そして、どうしたいと思ったんだろう。
ふと窓の外を見るが、そこには誰もいない。
時計を見ると、もうそろそろ朝食の時間だった。
トレーを受け取って、定位置に行く。夏海は、まだ来てなかった。仕方ない。一人で食うか。よく考えれば、一人で食うのはこれが初めてだ。これまでは夏海がそこにいてくれた。そうだ。昨日まで俺がまあまあよく過ごせていたのも、夏海のお陰だった。
その夏海は……。
「おはよ。春風」
平然と俺の前に出現した。いつも通りの姿でー―いや。
「ちょっと寝坊しちゃったわ。まだえさやりもやってないの」
そう屈託なく笑う夏海の目の下には、くっきりとクマが出来ていた。こんな図太い神経持ったやつでさえ眠れなかったと言うわけか。
「参ったわね。秋空と冬音が来る前に終わらせないと」
昨日の高橋の話については、全く触れてこない。夏海もこうして違う話題を振ってきてくれているわけだから、ここはそれに載らせてもらうべきだろう。
「今日はどうするんだ? 昨日みたいな過密スケジュールは勘弁してくれよ」
海に入ったり、アライグマ探させられたり。あれはなかなかきつかった。
「近くにある神社で、ちょっとイベントがあるから、それの手伝いに行くみたいよ」
こいつらはそんなボランティアみたいなこともやってるのか。
「あ、あのさ」
俺は、この話もしておかないとと思い、切り出す。
「昨日の高橋の話、どう思う?」
だからって、これはないだろう。なにやってるんだ。
夏海は、一瞬だけ表情を強張らせて。
「まあ、焦ることはないんじゃない? 高橋だってそういってたし。ゆっくり考えればいいと思うわ」
「……そうか」
そうだな。あんまり考えすぎて、ぎくしゃくしてしまうのも考え物だ。
「だからとりあえず、今日はその話題禁止ね。分かった?」
俺は、とりあえず了承しておくことに決めた。
「やっほ、なつみん、春風」
「お、おはようございます」
俺と夏海が、第二棟のエントランスで待っていると、集合時間に少し遅れて秋空と冬音が入ってきた。
秋空、今日はなんだか化粧が濃い気がする。アイラインをかなり強く書いてるような。
冬音は今日はいつもにもまして、元気がない。
「冬音、大丈夫か」
「はい、なんとか。昨日は色々ありましたからね……」
目に涙を出しながら、ふぁーと欠伸をする冬音。
「二人とも、わたしの携帯見なかった? ちょっとなくしちゃって」
「さあ? 夏海見たか?」
「私も知らないわ」
「そっか、残念。また警察にでも行ってみるよ」
海で落としたのだろうか。それとも肝試しだろうか。
「ま、四人揃ったことだし、さっさと行くわよ。二人は自転車持ってきたわよね」
「もちろん、ちゃんと乗ってきたよ!」
秋空が勢いよく叫ぶ。
「じゃあ、出発ね!」
自転車で目的地に向かいながら、冬音から神社に関する説明を聞いておく。
まずこの辺りには、熊野古道という昔から使われている古道が残っているそうだ。それに伴い、様々な伝説が残されている。そして今から向かう神社は熊野古道の真っ只中で、この近所で盛んに作られているみかんや梅の豊作を願う祭りをやるらしい。
だが、ここは田舎。人手が足りず、ちょっと困ったことになっている。そこで、俺達も手伝いに入ることになった。
これまでも、地域のイベントに参加しているらしい。ただ遊びまわっているだけではないようだ。
神社の入り口の所に自転車を止めて、境内への階段を上る。そこそこ大きめの神社だ。いくつも木造の古そうな建物がある。わりと参拝客はたくさんいるようだ。
「まずは実行委員のところいかないとね」
階段を上りきって、正面にある一番大きい本殿へ。
そこの裏口には、「staffonly」と書いてあった。神社なのに。
中に入ると法被をきた年寄りが、三十畳くらいの部屋を忙しそうに走り回っていた。
どうでもいいが裏方はフローリングなのな。
「神主さーん! ちょっと来て!」
秋空が叫ぶと、向こうのほうで年寄り連中と話をしている、四十くらいのおっさんがこっちにやってきた。
「やあみんな、来てくれてありがとう。一人増えているようだが」
「うん。新鳥春風っていうんだよ。春風は、春の風って書くよ」
俺が、「あ、どうも」と頭を下げると、神主さんは。
「ほう、これで四季がそろったのか」
まあ、そうなるよな。
「はるか、この人が神主の末永さん。もう四十になったの?」
「あと二週間は三十台だ!」
どうやらこの人にとっては大事な問題らしい。
「じゃあ早速着替えてもらおうか。女の子ふたりはあの部屋。秋空ちゃんはあの部屋で、春風君は……、ここでいいかい?」
「ええ、まあ」
この人達は秋空の性別のことを知ってるらしい。
にしても俺も着替えるのか。あの祭り衣装だろうか。
「じゃあ、この服で頼むよ」
神主さんが持ってきた服を見て、俺は固まってしまう。
床に置かれた綺麗に畳まれた巫女服。赤と白のコントラストが美しい。それはいいんだ。神社だからな。みんなのこの姿も期待持てそうだ。
だがひとつ問題が。
四着ある。
「え? そんなの決まってるじゃん」
そして秋空はとんでもないことを言い出す。
「春風がこれを着るんだよ!」
「くそっ! 遅かった!」
逃げようとした直前、俺の量腕を屈強な若い男二人が掴む。ろくに鍛えてもいない俺は逃げれそうもない。
「おい、どういうつもりだ。お前ら」
「え? だって手伝いに着たんだよね」
あっけからんと言う秋空。こいつ……。
「大丈夫! わたしのメイクはプロ級だよ! はるかは素質ありそうだから、絶対可愛い女の子になれるって! 一度やってみたかったんだよね!」
楽しそうに鞄からメイク道具一式を取り出す秋空。今日やけに鞄が大きいと思ったら。
「じゃあお兄さん達。はるかをあっちの部屋に!」
「「おう!」」
「やめろー!」
俺ごときの腕力じゃ、逆らえるはずもなく、はずるずると引きずられていった。
「うぅ……。俺、終わった……」
男として。
大男二人と秋空によって強引に着替えさせられた俺は、メイクとウィッグも完璧に、一人広間でうずくまっていた。
完全に巫女服きせられました。
しかもなんで下着まで。下はなんとか死守したが。上はつけさせられた。
「これね、パット入りぶらって言ってね。一応BとCの間くらいのやつ。よかったらあげるよ」
いらない。こんな恰好で表に出ろというのか。何の罰ゲームだ。
他のメンバーで一番早く着替え終わって出てきたのは、秋空だった。まあ見てくれはいい感じだ。着慣れてる印象を受ける。コスプレとかよくするのだろうか。
「秋空!」
「どうしたの?」
「夏海と冬音が出てくる前に、頼むから戻してくれ。あいつらに見られたらマジで終わる」
「もう。はるかは自分の実力がわかってないんだよ。あ、ちょうどここに鏡が」
やめてくれ。トラウマを作りたくはない。
おそるおそる顔を上げる。鏡の中では、なんとなく見覚えがあるようなかわいい少女が、不思議そうな顔でこっちを見ていた。
秋空が俺の髪を触ると、少女の頭にも、
「って俺かよ!」
自分に向かってかわいいって言い切るとか痛すぎるだろ。秋空じゃあるまいし。
「やっぱりわたしの目に狂いはなかったね。いいよ、はるか! これならわたしにもなつみんにも冬音ちゃんにも負けないよ!」
とりあえず自己嫌悪は置いておくとして、俺はもう一度鏡の中の自分を観察する。
もともと線は細めで顔は中性的だし。全然鍛えてないから、手足も細い。喉仏も、これなら注意して見ないと分からないだろう。
つまり。今日の仕事、いける!
「なかなかこの服きついわね……って」
部屋から出てきた夏海は、俺の方を向いて固まる。
「えっと……どちらさま?」
「俺だ。俺」
当然だが俺は秋空みたいに、声をどうにか出来たりはしない。
「は、春風?」
夏海が叫ぶ。冬音も目をまるくしていた。
「すごいです。完璧に女の子です」
そう言う冬音は、その清純な雰囲気に、巫女服がもろにマッチしていた。
一方、夏海は力強い感じとのミスマッチがいい。あと、胸が……。きつそうだな。
「やあ、着替えおわったんだね」
神主さんが戻ってくる。
「四人には足りないところをやってもらおうか。足りてないのは、受付がふたりと境内掃除がふたりだが……」
神主さんは俺を見て、
「春風くんに受付は無理だ」
まあ顔はともかく声がな。
「じゃあもう一人掃除は誰にしようか」
「あ、わたしいきまーす!」
「残りの二人も、それでいいかい?」
「まあ、いいけど」
「はい。わかりました。
「やったね。一緒にがんばろ。は・る・かちゃん」
俺の腕にしがみついて、ウインク。こうして、俺の神社ボランティアは、幕を開けた。
しかし。こんなテンションが続くわけもなく。
「どうしたのはるか、早く行こうよ」
「ちょっと待ってくれ……」
俺は弱々しく呟いた。
箒をあっちで受け取って、客の前に出て行こうという段階で、俺は身動き取れなくなってきた。
簡単に言うと熱が冷めたって感じか。
だってそうだろ。わざわざ女の格好で、しかも巫女服まで着てるなんてどうみても痛いやつじゃないか。秋空でもなければできることじゃない。
「大丈夫だよ。こういうの怖いのは最初だけ。慣れたら楽しくなってくるから」
出来ればそんなことには慣れたくない。
「わたしだって、最初にこの姿で歩く時は勇気要ったよ」
「……そういえば、お前本当にその声、どうしてるんだ」
俺はずっと感じていた疑問を口にする。ほんとすごいな。そのアニメ声。
「あ、これ? 声変わり中にちょっと頑張れば、ほとんど声って変わらないんだよ?」
全く役に立ちそうにない知識だ。
「でも声変わっちゃても、出すだけなら練習すればできるよ?」
遠慮しとく。
結局無理やり手を引かれて、境内に引っ張りだされる。そこにはさっきよりも多くの人が集まっていた。
「こ、こんなところで作業するのか」
これは思っていた以上に精神的につらそうだ。
もし男とばれたら。その不安が頭にこべりついて消えない。
「まあその恥ずかしさを楽しむのもいいと思うよ。ばれるかばれないかって言うどきどきが。もう前立腺のあたりきゅんきゅんしてメスイキしそうになるよね」
「俺にそんな趣味はない!」
やばい。叫んでしまったせいで、何人か奇異なものを見る目でこっちを見ていた。
頼むからやめてくれ。人として終わってしまう。
ここにはもういられそうになかったので、他の場所に移動する。
ここでいいか。俺は適当に掃き掃除を始める。ところでこの神社、秋でもないのにこんなにも掃除係がいるのは、「巫女が掃除してるのは絵になるから」だそうだ。
道を掃く。
「…………」
そこの一枚の落ち葉を横に追いやる。
「…………」
この作業、飽きた!大してごみもない、落ち葉もない境内だ。
秋空は向こうだし、夏海と冬音はどこにいるのかも分からない。つまり、誰かと喋ることすらできないということだ。
今更だが、この役職、いらないよな。
だってそうだろ。大して落ちてもいないゴミを掃いて、一体なんになるんだ。
受付は声ださないといけないから無理だって? だったら巫女服なんか着せるな。
「ねぇ、キミ」
振り向くと、そこにいたのはいかにもヤンキースタイルの、男二人組だった。
「キミ可愛いね。よかったら俺達と一緒に遊ばない?」
すごいな。こいつら白昼堂々ナンパしてるぞ。
「おれ巫女さんって大好きだからさー」
ああそうか。お前の趣味は良く分かった。だからもう帰ってくれないか。
と言ってやりたかったが、俺は秋空とは違うので、声は出したくない。
「いいじゃんか。どっかいこうぜ」
腕掴むな。気持ち悪い。
「ちょっと、待ちなさい!」
その時、いきなり夏海が俺の前に現れる。夏海はヤンキーたちにびしっと指をつき立て。
「あんた達。この子に声かけてたでしょ!」
「お前仕事は?」
「そんな細かいことはどうでもいいの!」
そうか? そんなに細かいことだろうか。けっこう大事な気がするんだが。
二人組みは、そんな夏海を見て。
「また可愛いのがもう一人増えたぞ」
「すげぇ、胸でかい。これでちょうど二人じゃね?」
「あんた達、今すぐ引かないと、一生後悔することになるわよ!」
ヤンキーたちはニヤニヤして、
「へぇ、どんな風に」
「あんた達、気づいてないのね。こいつ、男よ!」
言いやがったよこいつ!
二人組みはしばらくポカンとしていたが、やがて笑い出して。
「なにを言い出すかと思えば」
いや、本当のことだが。仕方ない。こいつらにちょっとトラウマ植えつけてやるか。
「じゃあ、いくか」
なるべく低い声で言ってやった。
「お、お前……」
二人は妖怪でも見たかのような目で。
「「よるな変態!」」
いやこれは俺が望んでやったことじゃなくて、無理やり……。
しかし連中は何度も転びながら、必死で逃げて行った。
「あそこまで拒絶しなくても……」
「大丈夫だった?」
「まあ、なんとか。でもいいのか、持ち場離れて」
「なによあんた助けてもらっておいて。いま冬音が二倍働いてるから問題ないわよ」
こいつあっさりと言いやがった。
「うるさいわね。後で私もその分働くわよ。ちょっとあんたの近く通ったら、声かけられてたの。それで助けに来たってわけ。文句ある?」
どこまで歩いて来てるんだ、とは言わなかった。
「なつみん、こんなところでどうしたの?」
箒を持った秋空が、こっちに来た。
「ああ、ちょっとな」
俺はさっきの話をする。すると秋空は。
「じゃあ、昨日からまともに男の人に声かけられてないのって、わたしだけ? ひどいよ! なつみんと冬音ちゃんはともかく、はるかなんか男の娘初心者なのに!」
気にするとこそこかよ!
祭りの終盤。本殿の一番大きな部屋で、神主さんの話を聞くというイベントがあった。俺含む巫女装束たちは、客のサイドに正座させられている。これが終わればやっとまともな姿になれるのか。早くしてくれ。
「本日は起こしいただき、まことにありがとうございます」
末永さんが神主姿で登場し、頭を下げる。
「では、ふたり手伝ってください」
「はるか、いくよ」
えっと、俺?
「じゃあ、そこの二人」
おっさん、絶対面白がってるだろ。
俺と秋空は、巻物のようなものの両サイドを持って開く。どうでもいいが、今のこの作業やってるのは二人とも男なんだな。
「それでは、本日は、この地域に伝わる昔話をしたいと思います。
神主さんは、ゆっくりと語りだす。
「それは七世紀前半のこと、清姫と安珍という美しい男女がいた」
神主さんの話は結構長いので、要約しておく。
熊野古道のあたりに、安珍と言う美形(当時基準)の僧がやってきた。
清姫は安珍に一目ぼれし、アプローチするのだが安珍は、ここを出て行く時には寄るから今は待ってくれと断る。しかし安珍は清姫を放っておいて、熊野を去ってしまった。
ブチ切れた清姫は、安珍を追いかける。安珍は、川を渡って逃げた。
すると清姫は龍に変身し、安珍はどこかの鐘に隠れる。清姫(龍)は、鐘に撒きつき炎を鐘に吐きかけて、安珍を蒸し殺してしまった。熊野古道の途中にある大木のなかは、この清姫の恨みによってねじれた木があるらしい。
まあ今で言ったらストーカー殺人だな。秋空風の言い方をすればヤンデレか。
ふと巫女席を見ると、冬音がなにやら必死で顔を拭っていた一瞬だけ見えたその目は真っ赤で、目からわずかにこぼれているわずかに輝く涙。
「……冬音?」
その顔は頭のなかにずっと焼きついて、消えなかった。
今日はいつもと変わらない日だった。でも心の中では、あの高橋の言葉が消えない。一見普段どおりにも見えたが、みんなただ取り繕っているだけのような気がする。
事実、あいつらもたまに暗い表情を見せることがあった。
いつまで俺達の平穏は持つのだろうか。多分そう遠くない日に崩れてしまうんだろう。
いや、もしかしたら。もう崩れ始めてるのかもしれない。
俺はそのあたりで思考を中断し、部屋のベットにもぐりこんだ。
♦ ♦ ♦
今日一日、ずっとあの子のことを見ていて確信した。
このままじゃ、あの子は壊れる。
頭の中で、あの子と他の二人を天秤にかける。ふたりも大切な友達。でもやっぱりあの子には適わない。やるしかない。そう決意した。
本当にそれでいいのかと、何度も何度も自問自答を繰り返す。こんなことしたら、三人共に強く恨まれる。でもそれでいい。
それであの子が助かるのなら、どうなってもかまわない。
計画はしっかり練って、今日は隙を見て準備もした。
「…………」
鏡の中の自分を見て、ふと思いつく。
これをすれば、少しは成功率は上がるだろうか。
そんなことを思いながら、ハサミを取り出す。自分の髪に手をかけて、少し手が止まる。
……本当にいいの? 頑張って手入れして来た、自慢の髪なのに。
いいよ。全ては、あの子を助けるため。
ジョキリ、という髪の切れる音。床に髪が舞い落ちる。一度やってしまえば、もう歯止めは効かない。ひたすら髪を切り続ける。短くなった髪を見て、もうここまでやっちゃったんだ、と思った。とりあえず髪は袋に集めて、鞄にでも入れておく。
じゃあ、明日に備えよう。 携帯のアラームをセットしてベットに入ると、すぐに睡魔が襲ってきて、あっというまに眠りに落ちた。
アラームがなる前に、目が覚める。
気分が高揚して今にも心臓がはち切れそう。でも冷静に思考は回ると言う不思議な状態。
夏なのに、なんだか肌寒い。
ちゃんと計画は練った。きちんと準備はした。あとは実行するだけ。
さようなら。楽しかった毎日。
♦ ♦ ♦
次の朝。
いつものように朝食を食べて、夏海の手伝いに行く。犬達は元気に駆け回っていて、それを見た俺はふと違和感に気づく。
「一匹多くないか?」
トイプードルなんていなかった。
「ああ、それね。太田さんが昨日拾ってきたらしいわ。私も今朝気付いたの」
次に狸のえさやり。やっぱ順番決まってるんだろうか。
「あ、いた!」
むこうから聞き覚えのある、ロリなアニメ声が聞こえる。なぜだか秋空が、息を切らせて走ってきていた。
「どうしたの秋空」
「大変なんだよ。冬音ちゃんが。冬音ちゃんが……」
「冬音が?」
秋空の様子を見る限り、ただ事ではなさそうだった。
「冬音ちゃんがいなくなっちゃった!」
それは俺達の幸せな日々が、崩壊したことを告げる言葉だった。
「ここが冬音の部屋か……」
あの後、俺達はすぐに冬音の部屋に向かった。
秋空がすぐに大人達に伝えたが、朝の忙しい時間と言うこともあり、あまり人員を割けていないらしい。
冬音の部屋は、一言でいうと物のない部屋。あるのはわずかばかりの本とマンガ、そして衣服だけのようだった。ベットのシーツはきちっと揃っており、これと言って変わったところはない。
「本当にどっか行ったのか? 案外どっかにいるんじゃないのか?」
「もちろんそれも考えたよ。病院の人にも手伝ってもらって、全部探したし。それにスリッパがそこにあって、スニーカーがないんだよ」
秋空のいう通り、ベットの下には丁寧にスリッパが揃えてあった。
冬音は自主的に外に出たと言うことか。
「裏口の監視カメラにも冬音ちゃんらしい人が映ってた。もうこれは出て行ったとしか考えられないよ」
監視カメラのない正面玄関が開く朝八時以降に、誰にも気づかれずに外出するのはまず無理だろう。俺も夏海もここまで論理的に説明されたら、否定できなかった。
冬音が、失踪した。
「これまでにこんなこと、あったのか?」
「冬音ちゃんはそんなことしないよ。絶対」
だよな。俺も冬音がそんなことしないと思う。
「とにかく一緒に冬音ちゃんを探そうよ。なんとなく、このままじゃ大変なことになりそうな気がするんだよ」
「……そうだな」
とりあえず、ただ事じゃないのはわかった。
「警察は?」
「自主的に出て行って、まだ数時間だから、きっと取り合ってくれないよ」
まあ警察もヒマじゃないだろうからな。
「とにかく、手当たり次第に探そう。いくよ!」
秋空が急いで病室を飛び出す。俺達もあわててその後に続いた。
正面入り口から外に出る。
「早く、早くしないと……。冬音ちゃんが……」
焦りに焦る秋空の様子を見ていると、ただでさえ平静を保っている状態なのに、パニックになりそうになる。
俺はようやく秋空の焦りの意味が分かってきた気がした。
自分が犠牲になって、他人が幸せになれば、それで満足する。
冬音は、そういうやつだ。そんな冬音なら、やりかねない。
自分が生きるのを諦めることで、他のやつらを助けようとする。
そんな冬音が行方不明。これは、とんでもないことだ。
その時だった。ポケットの携帯が振動して、メールが来たことを知らせる。
第二棟を出た時に電源を入れておいたのだが、焦っていたせいで第一棟にはいったとき、着るのを忘れていたようだ。
メールの送り主は、冬音。
『砂浜にいます。すぐに来てください』
なんだか大変そうなメールだった。
「貸して!」
秋空は俺から携帯を強奪してメールを打つ。
横からメールの文面を覗きこむ
『どこの砂浜?』
秋空はポケットからハンカチを取り出して汗を拭く。すぐに返信はきた。
『良く分かりません。大きなホテルが見えます』
そういえば、あの千里の浜とかいう、ジュースおごらされたウミガメの浜辺りに大きなホテルがあったような気がする。
秋空は「ごめん、はるか。慌てちゃって」といいながら携帯を返してくる。
「じゃあ、行こうか」
俺と夏海は自転車で第一棟に来ていたから問題ない。
秋空はそう言えば、と苦い顔でいう。
「該当する砂浜、もう一個あるよ」
聞けば、ホテルは道を分断するかのようにそびえる岬の先にあり、北側にあるのが千里の浜で、南側にもちいさな砂浜があるらしい。
「じゃあ北ははるかが行ってくれる? 狭いから。千里の浜はわたしとなつみんで」
「わかった。行こう」
四日前はけっこう時間をかけてここまで来たわけだが、直行すればかなり早くあの岬が見えてきた。椰子の木が永遠と並ぶ道路を俺達は走る。
「はるか。南の砂浜はあの向こう側だから」
秋空が指差す先には防波堤があった。あれを超えたところの砂浜ってことか。
階段の前に、俺は自転車を止める。
「じゃあはるか、そっちは任せたよ!」
「ああ!」
俺はそう秋空に言った後、木の階段を下りる。
下にあるのは公園。ホテルの宿泊客用なのか、かなり新しい綺麗な公園だった。そのむこうにはさっき秋空に言われた防波堤がある。
防波堤の切れ間から砂浜に出る。そこは全く人がおらず、閑散とした狭い砂浜だった。波の音がまたもの悲しさを醸し出している。
俺は辺りを見渡すが、冬音らしき姿はない。こっちじゃなかったか。そう思ったが一応調べておく。砂浜の端の方にある岩陰を覗いてみた。
「冬音……?」
いた。こんなところに。
「冬音!」
冬音は岩場に転がされていた。あろうことか両手両足をロープで縛られており、気を失っているようだ。
「冬音! 冬音!」
すると冬音は、ぼんやりと目を開け……。
「春風……さん?」
よかった、気がついたみたいだ。
「大丈夫か、怪我してないか?」
「はい、なんとか……」
俺は冬音を縛っているロープを解こうと。けっこう硬いな。全然解けない。
しばらく奮闘して、ようやく腕の方が解けた。次は足だ。
足首が固定されている。これも厄介そうだ。
なんとか足の方も解けたが、かなり指が痛い。
「あ、ありがとうございます」
痛そうに手首足首をほぐしながら、冬音は立ち上がる。一度コケかけたが大丈夫そうだ。
「すみません迷惑かけちゃって……」
「とりあえず、秋空と夏海の所いこう。そのときに話きかせてもらっていいか?」
「はい」
さっきの防波堤の所から、公園に戻る。
「おかしい……」
「え?」
「何も異常がない」
明らかに冬音は誰かの手によってあんな目に合わされた。でも、その犯人らしきやつがどこにもいない。逃げ出そうとする俺と冬音を全く妨害してこない。
まさか冬音が見つからないとでも思っているのか? 確かに分かりにくい場所ではあるが、それはないだろう。
「冬音、ちょっと分かることだけでいいから、教えてくれ」
本来なら、何よりも先に逃げ出すべきだ。なるべく遠くに。でも、今はどうしても聞かなくちゃいけない。
「昨日の夜は……、普通に帰って寝ました。そういえば、帰る途中にメールが来たんです」
「メール?」
「はい、秋空さんからでした。『午前三時裏口に来て欲しい。それまでわたしには何も聞かないで』って」
日の出前に呼び出した……?
「それで、うまく警備員さんの目を盗んで外に出たんです。そしたらわたしの目の前に同じくらいの年の男の子がやってきて、いきなりわたしを取り押さえてなにか飲ませたんです。しばらく抵抗してましたが、ぼぅとしてきて。それで気がついたら春風さんに起こされました」
いきなり物騒な話になってきた。同年代のやつが、冬音になにか飲ませのか。
「どんなやつだった?」
「えっと、よく見えなかったんですけど、背は春風さんよりは低め。髪は少し長めで、声はちょっと高めでした」
これといった特徴がないな……。なんとなく当てはまりそうな秋空は、声はロリなアニメ声だし、髪も長いからな。そういえばあいつ、携帯なくしたとか言ってたよな。
「誰か、犯人に心当たりは?」
「――ないです」
少し迷ったような言い方だった。
本当に、ないのか?
そう疑問に思ったが、それを追求したら話が進まなさそうなので、おいておく。
「手の込んだ犯人だな。秋空の携帯を使った辺り、俺たちの事情にくわしい。……え?」
そういえばさっき冬音、言ってたよな。
「目が覚めたのは、さっき?」
「はい、そうですけど」
「じゃあ、このメールは誰が送ったんだ?」
冬音の「すぐに来てください」というメールは、誰が打ったんだ。
冬音は、あわててワンピースのポケットを探る。
「ありません……」
犯人は秋空と冬音の携帯を持っている?
これも犯人から送られてきたメールか。
犯人は、こうして俺達に冬音を見つけさせたかった……?
何のために? そもそも、犯人はどうして冬音をさらった……?
「待てよ……」
こう考えてみたらどうだろう。この状況を作り出すことそのものが目的だと。
そう考えると、俺の中で何かがつながった。
思い出せ、今朝の会話。
「その海岸、二つあるんだよ」「じゃあ、はるかはそっち行ってくれる?」「私、携帯持ってないのよ」「昨日なくしちゃったんだよね」
……そうか。なんとなく、見えてきた。
だとすると、あいつの目的は……。
「…………っ!」
俺は冬音を放っておいて走り出す。
「春風さん、どこいくんですか?」
「秋空と夏海のところだ!」
やばい。気づくのがあまりにも遅すぎた。もっと早く気づいていれば。そうでなくても、あいつの言うことに不審さを感じ取れてさえいれば。
冬音が行方不明と聞いて、そんな細かいことには気づかなかった。
このままじゃ、大変なことになる。多分、冬音はここに置いておいて問題ない。
危ないのは、夏海だ!
「くっ!」
自転車に飛び乗る色々と分からないことはあるが、今ここまでの俺の考えはまず間違っていないはずだ。とにかく、急がないと。
少し坂を上って丘の頂上へ、あとは一気に駆け下りる。梅の木とビニールハウスに挟まれた、カーブした道を猛スピードで走る。
この焦りが、まずかったんだと思う。 急カーブを車顔負けのスピードで走ったせいで、どうにも曲がりきれそうにない。ガードレールがないため、俺は畑に落ちてそのまま森に突っ込んでしまう。坂を転がり落ち、派手に転倒してしまった。
「いて……」
幸いにも砂がやわらかかったから大きなけがはしてないようだった。全身すりむいているが、そこの意思で頭を強打するよりはましだろう。
こんなところで痛がっている場合じゃない。はやく、行かないと。
俺は体に鞭打って立ち上がり、ここの森の中を少しいけば千里の浜に出ることに気づく。
これは運がいい。俺は海のほうに向かって歩き、浜に出る。頼む。間に合ってくれ。
砂浜に出た俺は、すぐに二人の姿を見つける。すぐそこを夏海、その後ろを秋空が歩いていた。
「ここからだとホテルが見えないわね」
「もう少しむこうなら見えるかもしれないよ」
「そうね……」
そして、俺は見た。秋空が、そのバッグの中から、取り出すものを。
鈍く輝く、バール。
夏海は気づいていないようだった。秋空はゆっくりとバールを振り上げる。
迷ってるヒマは、なかった。俺は強引に力をこめて、秋空に向かって突進する。
砂浜で足を取られて走りにくいが、そんなこと言ってる余裕はない!
「は、はるか!」
秋空はようやく俺に気づいたようだ。でも、もう遅い!
秋空に強烈なとび蹴りをぶちかます。秋空の体は予想外に軽く、砂浜を転がっていく。
俺も転んだが、すぐに立ち直った。
「よかった。間に合った」
「春風じゃない。どうした……の?」
未だに良く分かっていないらしい夏海が首をかしげる。
後少しでも気づくのが遅かったら、そう思うとぞっとする。
「はるか。まさかこんなに早く気づいて、ショートカットしてくるなんてね……」
バールを握ったまま秋空は立ち上がる秋空。俺を睨みつける。
「あ、秋空……」
その目は、いつもの柔らかくて楽しそうな目ではなく、殺気立った狂気の目。
目の前の相手を必ず殺す。そんな決意に満ちた目。
怖い。だが物怖じしてられない。
「ちょっと、どうしてあんたがここにいるの? それと、秋空が持ってるのって……」
「こいつが、冬音の件の犯人だ」
そう。全てはこいつの自作自演だった。わざわざ冬音の携帯からメールを送ったり、冬音をあんなところに放置しておいたり、普通の誘拐にしては変な点が多すぎた。
すると答えはひとつ。一般的な誘拐での犯人の目的とは、別の狙いがあった。
犯人の目的は、俺が一人で冬音の方へいき、こうして夏海と二人っきりになることだ。
簡単そうに見えて、けっこう難しい。昼間はいつも四人でいるし、道もたまには人通りもある。その点、この浜なら釣り人しか来ないし、それにしたってこんな真夏の昼間に来たりはしないだろう。
夏海をこっそり呼び出そうにも、夏海はほとんど俺といる上、不確定要素が多すぎる。だから、わざわざ冬音をここまで連れてきて、俺をそっちに向かわせているうちに、
夏海を、殺そうとした。
思えば、今朝の秋空の発言には、いくつか変なところもあった、全部このためと考えれば説明はつく。全部秋空が計画を進めるために差配を決めたんだろう。
それとあそこまで冬音をつれてくる方法だが、何時間もあれば十分可能だろう。
わざわざ携帯をなくしたふりもしていたんだ。なぜならそうでないと、冬音からメールが来たことにするには、携帯を持っていない夏海を除いて、俺と秋空の両方に送らないとおかしい。俺が返信をする前に、秋空は俺の携帯を奪って勝手に返信した。あらかじめ冬音の携帯で文面を用意しておいて、ポケットに手をいれた時に送信ボタンを押したんだ。
自分にメールが来ていたら、俺の携帯を奪って返信することに正当性がなくなる。
こいつは昨日から準備していたんだ。おそらく高橋の話を聞いた夜の段階で、すでに夏海殺害の計画を練っていた。
「……まさかそこまで分かってるなんてね」
秋空はポケットから二つ携帯を取り出す。ひとつはなくなったはずの秋空自身のもの。
そしてもうひとつは、冬音のものだった。やっぱり、そうか。
「まだ分からないことがある。冬音は男に襲われたといった。あれって、お前なのか?」
「そうだよ」
その声は、いつものアニメ声とは違っていた。トーンが高めの、普通の男子高校生の声。
「これが本来の声だよ。いつも必死でボイストレーニングして身につけた声で喋ってるけど。髪も短く切ってね。これはウィッグ。気づかなかった?」
「……そこまでして、なんで夏海を。夏海を殺してまでして、治療薬を自分のものにしたいのか?」
あの秋空が夏海を殺そうとする理由なんて、これしか考えられない。
秋空は、またいつものロリな声で。ふふっ、と笑った。
「そんなもの、どうでもいいよ。……まあ出来るものなら助かりたいけど。わたしにはもっと大事な事があるから」
「大事な事?」
そして秋空は、言う。
「冬音ちゃんを、助けること」
「冬音を……?」
わけがわからない。こいつは夏海を殺してまで、冬音を助けたいのか。
「いいよ。教えてあげる。わたしね。冬音ちゃんのことが好きなの。恋してるの! あの子のためなら何でもできるぐらいに、大好きなの!」
秋空は冬音のことを……?ちょっと待て。でもこの前。
「お前、恋愛対象は男なんじゃ……」
「そうだよ! わたしもそう思ってたよ。でも好きになっちゃたものはしょうがないの。自分の気持ちに嘘はつけないの!」
♦ ♦ ♦
わたしは女の子になりたかった。
というより、心は完全に女の子だった。でもどういうわけか男の子の体に生まれちゃって。もうその瞬間からわたしの苦悩は始まっていたんだと思う。小さい頃から、ずっと女の子と遊んでいた。そっちの方が、わたしにとっては自然だった。親からはもっと男らしくするように言われたけど、そんなのわたしにはどこ吹く風だった。
小さい頃はそれでもよかったけど、小学校に入った辺りから、周りはわたしに奇異の目を向け始めた。小学生は、一番異端者を攻撃する時期だ。当然わたしはその対象になる。
喋り方が気持ち悪い。そう言われた。そんな服着るなんて変態だ、そう言われた。
少しだけ男の子らしくしようと時期もあったけど、やっぱりわたしには会わなかった。
中学になったら、少しはましになるかな、なんて甘いこと考えてたけど、全然そんなことはなく、むしろエスカレートして行った。
もう誰も口を聞いてくれない。無視される。
いじめの対象として、決定されてしまった。
物を隠される。壊される。殴られる。蹴られる。唾をかけられる。油性で机や鞄に落書きされる。先生までも、「お前……もう少しどうにかならんのか」なんて言い出す。
どうして。どうしてなの?わたしはただ、ありたい姿でいているだけなのに、どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないの?
親は「いじめられたくないなら、そこは直すべきところだ」と主張する。
これはもともとわたしが気に入らなくて、これをチャンスとばかりに言ったんだと思う。
お父さんもお母さんも、世間体を優先していた。GIDかどうかの診断のために病院へ生かそうともしなかったから。
さらにわたしの前に、更なる問題が立ちはだかる。
二次性徴期。わたしのような人間にとって、もっともつらい残酷な時期。
わたしは運よく肩幅も胸骨もあまり広がらなかった。男性ホルモンが少なめなのかな。
女の子っぽい顔も、維持できた。でも声だけは、どうにもならなかった。
女の子でも通せた声は、高めとは言え、完全な男の子の声になってしまった。
どうしようもなく、つらかった。大人になれば、声も体も女の人に近づくためのいろんな医学的手段はある。でもそれまで何年も耐えなきゃいけない。でもがむしゃらに、手当たり次第に何か方法がないか調べていくうちに、少しは手段があることが分かってきた。
声は、練習すればアニメ声なら出せることを知った。女の人が体を魅力的にするためにやるストレッチは、男の子でも有効だと知った。食べ物から、女性ホルモンに似た物をとれることを知った。
もうそこからは、努力の日々だった。できることを、ただひたすらやる。肌や髪には気を使う。手入れは絶対に怠らない。声のトレーニングは、毎日こっそり人気のない所でやる。ストレッチも欠かさない。
必死の努力で、ようやくフルタイムで女の子として生活できるレベルにもなってきた。
これなら、成人するまでなんとかなりそうな気がした。高校では立場を確立できた。アニメとかが好きな人が多くて、そういう人にはわたしは歓迎された。「リアル男の娘」って。
ようやく報われた。そんな、気がした。でも、そんな時間も、長くは続かない。
突然の、余命宣告。
世界って本当に残酷だ。わたしに男の子の体を押し付けて、それに適応したらすぐに殺しちゃおうとする。
わたしは田舎の病院に、入院した。
そこで出会った女の子。鈴代冬音ちゃん。儚げで地味だけど、とっても可愛い子。
冬音ちゃんはわたしより少しだけ早くここに来たらしい。すぐに打ち解けて、毎日楽しい時を過ごした。わたしが男の子だって知った時も、冬音ちゃんは。
「秋空さんは秋空さんじゃないですか」
ありがちなセリフだけど、それでもわたしは嬉しかった。それだけが原因とは思えないけど、いつからだったんだろう。
冬音ちゃんといると、満たされる。冬音ちゃんと喋ったり、冬音ちゃんの顔を浮かべるだけで、胸が熱くなって、苦しくなってくる。あの子といるだけで、心が温まる。
これまでそんな経験がなかったから、気づくのに時間がかかった。これが恋なんだって。
そう気づいた時、最初に来たのは戸惑い。
女の子に恋するなんてありえないと思ってた。なんとか抑えようと頑張ったけど、もうとっくに手遅れ。取り返しがつかないほど想いは強くなって行った。
しばらく経って、新しくやってきた女の子。蒼葉夏海ちゃん。なつみんってよぶことにしようか。病室はわたし達と違って第二棟だったけど、他に同い年の子なんて居ないから、わたし達は仲良くなった。
ある日、なつみんが打ち出した。とにかくこの辺りで遊びまわる。毎日元気に笑っていると言う決まり。これは、本当に良かったと思う。
だって、冬音ちゃんの笑顔を、見る機会が増えたから。あんまり寂しそうな顔をしなくなったから。それまで、わたしといるときは大体笑ってたけど、一人の時の顔は、なんだか悲しそうだった。それも、このあたりから減って行った。
本当は、冬音ちゃんのことが好きなわたしがどうにかするべきなのに。情けない。
でもまあいいや。冬音ちゃんが少しでも明るくなったなら、それでいい。
次にやってきたのは、普通の男の子。はるか。なつみんと同じ第二棟で、わたしの目には、なかなか二人、いい感じに写るね。そこでわたしは、ふと気づいた。
ここでわたしははるかのこと好きだってことにして、冬音ちゃんへの気持ちを誤魔化そうって。そう考えた。これなら、みんなにわたしの気持ちがばれることはないだろうから。
それまでは冬音ちゃんへの気持ちが態度に出ちゃう事があった。もうこの辺りからは、そうなったならはるかに胸押し付けちゃえって。
はるかは「男は絶対無理」という構えだった。これはわたしにも都合がいい。
わたしはさりげなく、冬音ちゃんに好きな男の子のタイプを聞いて見た。
『男らしくて、優しい人がいいです』
そうだよね。わたしなんか男らしさの対極だね。最近ではわたしみたいなのが好きな子もいるみたいだけど、冬音ちゃんは違ったようだ。結局わたしは冬音ちゃんに想いを伝えることもなく、死んで行くんだろうか。
そう思っていた、その時だった。
わたし達のうち、二人を助けられるという健吾の言葉。
わたしが思ったことは、ただひとつ。
冬音ちゃんを、助けたい。そのためだったら、わたしはなんだってやる。
嫌われてもいい。恨まれてもいい。
でもあの子は、発症が圧倒的に早い。ほぼ確実に、一番に死ぬ。
だから、わたしは蒼葉夏海を殺す。
もうなつみんは、わたしの大切な仲間だった。かけがえのない友達だった。でも冬音ちゃんのためだったら、殺せる。
計画を練る。場所はあそこ。必要な物は……。ロープはそこらへんの農家にある農家の工具入れに忍び込めば簡単に盗みだせる。あとは薬を手にいれないと。
病院のコンビニにそんなの売ってるわけないし、。病院の人に「眠れないんです」と言うっていう手もあるけど、大して強い薬もらえそうにないし、なにより足がつくようなことはしたくない。結局、ほかの患者さんのものをこっそり盗むことにした。ボケた人なら少しくらい薬減っても気づかないし。
神社で神主さんの話を聞いている間、ついに見てしまった。冬音ちゃんが、泣いているのを。わたしには、明らかに、自分のせいでみんなが生き残る確率を下げていることに負担を感じているように見えた。この子は、自分が要らない子で、誰からも必要とされていないと思い込んでしまっている節がある。
わたしはこんなにも冬音ちゃんが好きで、必要なのに。
このままだと、「わたしは生き残れなくていいです」と言い出しかねない。
わたしは、決行を決めた。後考えないといけないのは、はるかが冬音ちゃんを見つけた時、あっさりとはるかが、わたしが冬音ちゃんをつれて行った犯人だとばれてしまう件について。だからわたしは髪を切って、わざと男の子向けのメイクをした。
あとは上手く呼び出して、薬をいっぱい飲ませて、効くまで取り押さえ眠らせる。
いくら冬音ちゃんが軽いとは言え、あの場所まで運ぶのは大変な作業だった。
わたしは何気ない顔で第一棟に戻って、冬音ちゃんが行方不明だとかいう騒ぎが流れるまで待つ。そして第二棟へ行って、あとははるかの知る通り。
♦ ♦ ♦
「こんな感じかな。こんなに上手く行ってたのに、最後の最後で春風に邪魔されるなんて」
「夏海が殺されるのに、黙って見てられるわけないだろ」
その時、俺は夏海の様子がおかしい事に気づく。
「夏海……?」
胸を押さえて、なんだかとても苦しそうな顔をしている。
「なんでよ……、よりにもよってこんな時に……」
夏海は、不意にぐらりとよろめいて。
「夏海!」
バタンと砂浜に倒れこんでしまう。
「夏海、どうしたんだ。おい!」
全くわけが分からない。何が起こったって言うんだよ!
「おい、秋空! お前なにかしたのか?」
「さあ、何も。いっとくけど本当だよ」
あせる俺をよそに、冷静に答える秋空。
「でも……」
ぞっとするほど冷酷な声で、バールを構える秋空。
「これは、わたしにとって幸運なことだね」
嘘だろ。こいつはあくまで、夏海を殺すと言うのか?
秋空の目には、くっきりと暗い光が宿っている。
「はるか、のいてくれないかな。わたしけっこうはるかのことは気に入ってるから、ここで蒼葉夏海をおいていけば、はるかと冬音ちゃんはそれで助かるよ」
「そんなこと言って、どうせ助かるには俺が死ぬ必要があるんだろうが」
「ないよ。だって、わたしは蒼葉夏海を殺した後、ここで死ぬから」
一瞬、耳を疑った。ここで、自殺する?
俺は理解した。こいつの目的は冬音を助けること、そのためなら人の命なんてどうでもいいんだ。たとえそれが、自分の命であっても。
「さあ、はやくここから立ち去って」
俺の間下で、うずくまる夏海。
こいつを、見逃せって? そんなの、無理に決まってるだろ!
「言っとくけど、電話で助け呼ぶなんて認めないよ。その間に春風か夏海のどちらはか殺せるから」
あくまでこいつは本気のようだった。
どうすればいい。どうすれば、秋空を止められる?
相手の持っているのはバール。いや、それだけとは限らない。あのポーチ、何を隠し持っているのやら。秋空はかなり周到だ。なにかまだ隠し持っている可能性も否定しきれない。こんな状態の夏海をつれて逃げるなんて、不可能だ。
放って逃げたら、夏海は死ぬ。となると、ここで秋空を何とかしないといけない。
説得はどう考えても無理だ。こんな秋空を口で抑えるなんていう芸当は、俺にはできそうにない。そう考えたら、選択枝は一つしかない。
こっちも厳しいが、この秋空を論破するよりははるかにましだ。
俺はそこに落ちている木の棒を拾う。そんな俺をみて、秋空は嗤う。
「へぇ、そう来るんだ」
そして木の棒を構える。
そう、俺の選んだ選択肢は、秋空を倒すこと。
「頭脳派のはるからしくないね。そんな強引な手に出るなんて」
「これでもちゃんと考えた。これが最善だよ」
正直、木の棒は武器としてあまりにも心もとない。剣道だって、学校の体育でやった程度だ。こんなのじゃ、せいぜいバール攻撃を何回か防げればいい方だろう。直接秋空にぶつけたところで、大してダメージを与えられるとも思えない。
「面白いね。はるかと決闘なんて」
だが、ないよりははるかにいい。なにより秋空への威嚇になる。
「じゃあ」
秋空はバールをグッと握り締める。
「いくよ!」
動き出す、秋空。
思っていたより、速い!
一撃目は接近しての振り下ろし。
暗い色のバールが、太陽の光を受けて一瞬だけきらめく。振り下ろされる鉄槌。俺は棒を突き出すことで、防ぐと同時に攻撃を繰り出した。
秋空は予測していたかのように、自然に横から棒を手で掴む。
「甘いよはるか。必ずこの攻撃が来るって分かっていたよ」
読まれていた?だが、大丈夫だ!
手に掴んでおいた砂を、秋空に向かってぶちまける!
「……っ!」
意表をつかれて、木を掴む力を弱めてしまう秋空。俺はそこを見逃さず、捕まれた棒を秋空の手から引き剥がす。
そしてそのまま大きく振り上げて、秋空の顔面めがけて振り下ろした。
しかし秋空は冷静に後ずさり、あっさりと俺の攻撃をかわす。
「砂はちょっと予想外だったけど、問題ないね。そんなんじゃ、わたしは止められない。……じゃあ、こんなのはどうかな」
再び走ってくる秋空。構える俺。そのとき、俺は秋空の左手で、何かが鋭くきらめいているのに気づく。大きく斜め後ろに飛ぶと、さっきまで俺がいた場所を、回転しながら銀色の何かが飛んで行くのが見えた。
それは、夏海の近くに落ちる。
――ナイフ。
どう見ても、その物体はそう見えた。-運が悪かったら、刺さっていた。
「あちゃ、はるかかなつみんの、どちらかにぶつけるつもりだったにな。」
もう少しコースがずれていたら、もう少し、夏海に運がなかったら。
夏海の背中に刺さっていた。そうなれば、終わっていた。
「なに油断してるの、かな!」
しまった!
すこし余所見している間に、かなり近くまで接近されていた。でも、大丈夫だ。これなら間に合う。
その時、突然の頭への衝撃。一瞬頭が真っ白になる。
そこから立ち直る間も与えず、秋空の本撃が飛んでくる。
頭を少しそれて、肩にあたるいバール。
俺は無我夢中で秋空の原を蹴り飛ばした。
秋空が後退し、ようやく何が起こったかを悟る。
今の頭への一撃は、秋空が投げた石だ。俺がよそ見している間に投げたんだろう。
こいつは一瞬たりとも容赦してくれないんだ。利用できる隙はなんでも使う。
「はるかひどいよ。女の子を蹴るなんて」
既視感のあるセリフを言う秋空。
「冬音のことが好きで、こんなことするやつにいわれたくないな」
「はるかは、レズビアン形トランスって聞いたことない?」
「どういうことだ?」
「まあ、健吾にでも聞いてみれば?」
高橋に?
その話は終わりとばかりに、バールを確認する秋空。
俺は夏海を守るため。
秋空は冬音を守るため。
戦う。
お互いに絶対譲らない。
分かりやすいじゃないか。
「ねえ、はるか」
少し下がる秋空。
どうやら俺に本気で聞きたい事があるらしい。
「なんだ」
「はるかは、なつみんのこと、好きなの?」
こんな時に何聞いてるんだ。
「だってあまりにもなつみんを守るのに必死だから。もしかしたらそうなんじゃないかなぁて思ったんだよ。そうでもないとこんなことできないよ」
「ふざけるな。夏海は大事な仲間だろ。殺されるのを黙って見てられるわけがない」
「本当にそれだけ? 本当に、友情しかないの?」
痛い質問だった。確かに。俺が夏海に持っている感情は、異質なものだった。
「俺は、わからない。これが恋愛感情か、なんて」
秋空はくすくすと笑う。
「やっぱりそれは、はるかがなつみんのこと好きになってるって言うことだよ。はるかがなつみんを見る目、明らかにそうだもん」
分からない。分からない。でも、これだけは言える。
俺は、夏海を守りたいと!
「でもどうするの? ここまでわたしが押してるけど」
これは挑発だ。俺の勝利条件は秋空を止めることだが、秋空は夏海を攻撃出来ればいい。
こっちから攻めたら、少しのミスで夏海の所にたどり着かれる。
俺はなるべく夏海から離れちゃいけない。しかし、この苦しんでいる夏海を少しでも早く病院に運ばないといけない。だからなるべく早く決着をつける必要がある。
ならば、一か八か……。俺は持っていた棒を横に放り投げた。
「何やってるの? 唯一の武器を捨てちゃうなんて」
「いいんだよ。お前には拳一発直接ぶちこんでやりたいんだ」
夏海を殺そうとしたこいつに。もちろんこれは正直な気持ちだが、別の意味もあった。
これなら、素早く上手くいけば一発で勝てる。でもその代償は大きそうだ。
俺は一度大きく息をすう。
よし。やれる。腹をくくった。
「こい!」
秋空は再び突進を仕掛けてきた。
振り上げられるバール。俺は秋空に急接近して、全体重をこめて拳を繰り出す。
秋空の鳩尾に向かう手。バールは俺の顔めがけて振り下ろされる。
どっちが早いか。それが勝負を決める。どうか、間に合ってくれ!
直後、右手から伝わる、柔らかい感触。
それによって秋空の攻撃はずれ、バールは腕に当たる。
秋空はすこしよろめいた。この隙を、逃さない。
これで、終わりだ!
俺は強烈な右ストレートを、秋空の顔面にぶち込んだ。今度は歯の硬い感触。秋空の体は頭から砂浜に倒れ伏した。
俺はすかさず秋空からバールと鞄を奪い取る。
「はぁ。はぁ……」
勝った。
勝ったんだ。秋空は動いているものの、起き上がりそうな気配はない。問題なさそうだ。
だが喜んでいるだけの余裕はない。
俺はすぐに夏海に駆け寄る。
「大丈夫か、夏海」
「春風……。大丈夫。心配しないで」
俺が夏海を背負おうとすると、秋空はゆっくりと起き上がった。
「わたしの、負けだね」
口から血を流しながら秋空は言った。
「もうこんな状態じゃ、春風を押しのけることなんてできないや……」
そうしてポケットから何かを取り出す。
ちいさな子瓶。
――まさか!
「やめろ!」
俺はバールを秋空に投げつける。
秋空の腕に当たって、手からポロリと瓶が落ちた。俺は瓶を掴んで、バールと共に海に向かって放り投げる。
「なにするの!」
「こっちのセリフだ!」
「だってわたしが死ねば、冬音ちゃんが助かる可能性が上がるんだよ!」
そんなの、みとめられるわけないだろ!
俺はもっと、この日々が続いて欲しい。一人でも死んだら、そこで終わりなんだよ!
秋空にだって、俺は死んでほしくないんだ。
「とりあえず、病院に帰るぞ。みんなで」
今度こそ夏海を背負う。思ったより軽い。
けっこうある胸が当たってるが、今はそんなことに興奮している余裕もなかった。
とりあえず、冬音と合流しよう。
「秋空、いくぞ」
「…………」
無言で海の方を見つめる秋空。まあいい。したいようにさせておこう。それで問題なさそうだしな。
俺は夏海を背負いながら。砂浜を歩く。
誰か救援を呼ぼうか。いくら夏海が軽くても、これで病院まで帰るのはきつい。
「春風さん」
俺を呼ぶ声の方に向かって、顔を上げる。
そこには、哀しそうな目をした冬音が立っていた。
「やっぱり、あれは秋空さんだったんですね」
そう言い残して、どこかへ走って行く。
「おい、どこ行くんだよ」
しかし冬音は止まろうとしない。
待てよ……!
冬音は、むこうにある小高い岬に上って行った。
「冬音! 待て!」
そして、冬音は、頭から飛び降りた。
岩の上に落ちて倒れる冬音の体。
嘘、だろ?
冬音が、岩場に向かってに飛び降りた……?
「何やってるのよ! 私なんかいいからいますぐ冬音のところ行って!」
俺はどうするべきか少し迷ったが、夏海をそこに降ろし、冬音の落ちた辺りにむかった。
頼む。そうであってくれ。そんな願いは、無残に打ち砕かれる。
目を見開いて、岩場に横たわる冬音。その周りに広がる。真っ赤な液体。
腕はありえない方向に曲がっていて、まるで、まるで。
「あぁぁぁぁぁああああ!」
なんなんだよこれ!
目の前の光景を認識した瞬間だった。
腕に、足に、力が入らない。しびれる。冷たくなる。崩れ落ちる。
何とか顔を打たないようにするので精一杯だった。
頭を掻き毟る。髪の毛の感触が違う。触覚がおかしくなっている。指の先が、体の末端が冷え切ってる。血が通ってないかのようだ。
眩暈。息が、苦しい。鼻腔によく分からない刺激。空気を吸うだけでよく分からないものが舌の上を通る。周りの音がゆがむ。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。全てが狂ってる。歩けない。立てない。呼吸すら満足に出来ない。
「冬音、ちゃん?」
いつの間にか、秋空がそこに立っていた。
秋空は黙って歩き出す。
まさか……!
「待て、秋空」
悲鳴を上げる体に逆らい、無理やり立ち上がる。
フラフラしながらも、なんとか歩き出す。なんて役に立たない体だ。肝心な時に動かないなんて。
秋空も精神的なショックが強かったらしく、上手く歩けていない。
冬音のためなら、大切な親友、夏海ですら殺せるようなやつだ。
そんなやつが、あんな光景目にしたら、どんなことをしでかすかわかったもんじゃない。
一刻も早く助けを呼ぶべきなのか? それとも、秋空を止めるべき……?
俺はどうすればいいんだ!?
少し考えたのち、結論を出す。仕方ない。秋空を追いかけながら助けを呼ぶしかない。血が通ってない震える手で携帯を取り出す。触覚が完全に狂ってるのでただそれだけでもかなりの苦労をした。俺は秋空の後を追いながら電話を掛ける
『どうした。新鳥』
高橋の声だった。どうやら電話帳が一個ずれたらしい。まあいいどうせ病院に電話するつもりだったんだ。
「冬音が怪我をした。本当に死にそうなんだ。千里の浜あたりまで来てくれ!」
呂律が回らないが、なんとか言い切る。
「鈴代が……? 詳しく聞かせろ」
「今はそんな余裕ないんだ!」
電話を切って携帯をそこに放り投げる。今はポケットに入れる間すらもどかしい。
秋空は、どうやら冬音が飛び降りた岬、さっきの場所の真上に向かっているらしい。
どう考えても、冬音の後を追うつもりでいやがる。秋空の足はそんなに速くない。この状態でも、なんとか追いつけた。
「やめろ、秋空!」
最後の力で、秋空の足に飛びついた。秋空はバランスを崩して、俺もろとも倒れる。
崖の先端はすぐそこ。かなり危なかった。
「離してよ!」
秋空はまだ諦めようとしない。踵で顔を思いっきり蹴られる。でも離すものか。秋空の膝辺りにしがみつく。もうこれで蹴ることもできないだろう。
「はるか……。離してよ。お願いだから」
なんとか馬乗りになって押さえつけた。こうでもしないと逃げられる
こいつ、ただでさえまともな精神状態じゃなかった。そこにあんな光景を見せられたら、動転するだろう。
「冬音ちゃんが死んだら、もう生きてる意味なんてないよ!」
「とりあえず落ち着け!」
秋空はしばらく抵抗していたが、それも収まって行く。
「さっき助けを呼んだ。冬音は助かる!」
本当は助かるのか、そもそも今生きてるのかすら分からないが、今はとりあえずそういっておくことにしよう。
「わたしの、わたしのせいだよね。わたしが、なつみんを殺そうとなんてしたから。あの子、自分が生きてることで、わたしたちが助かる確率を下げてるって思ってるから」
見る見る顔が青ざめていく。
「違う。予兆は昨日からあっただろ。お前は一昨日から気づいてたんじゃないのか?」
「うん。それと、はるかにとっても冬音ちゃんは大切な仲間だよね」
「ああ」
即答する。
俺はただ、元通りの日々を取り戻したい、それだけだった。
「よかった……」
安堵の様子を見せる秋空。それは、さっきまでの狂気じみた雰囲気などなく、いつもの普通(かどうかは分からない)少女(?)のものだった。
そして秋空の目から、涙がこぼれだす。
「わたしは冬音ちゃんのためにここまでしたのに、大事な友達まで傷つけたのに、なんで逆の結果になっちゃうの……?」
俺は、なんていっていいか、分からなかった。
『やり方が間違ってただけなんだ』なんて、言いたくなかった。それを言ってしまったら、冬音を助けるためにこいつがした覚悟を、無にしてしまう気がしたから。
「とりあえず病院に戻ろう。な?」
「分かったよ……」
秋空はうなずいてくれた。
「あ、よく考えたら、この体制けっこうアブないよね」
あわてて飛びのく。
少しだけ空気が和んだ気がした。
秋空は自転車で帰ると言った。俺が止めるまもなくどこかへ行ってしまう。
まあ、夏海と同じ車に載れというのも酷だろう。
救急車と共に車で高橋がやってきた。とりあえず冬音を乗せた救急車が病院へ行き、俺達は高橋の運転する病院の車で帰った。
俺達をみて高橋は、
「……和泉と鈴代になにがあった」
俺は夏海の方を見る。
「…………」
夏海はぷいとそっぽを向いた。
「秋空は、ちょっといない。それで、冬音は助かりそうか?」
「わからねぇよ。てっきり車にはねられたとか、どっかで打ったりして脳震盪起こして血がてるのを、お前らが大げさに心配してる程度だと思っていたら、まさかこんな惨状だとは思わなかった。正直、いつ死んでもおかしくない」
普通なら、即死の高さだ。
途中で岩に当たったのが即死しなかった理由らしい。
「冬音……」
なんでだよ。
なんでこんなことしたんだ。
誰も、その答えを返してはくれなかった。
第一棟に着くなり冬音はすぐに大勢の医者が治療を始める。そして夏海はそこで検査を受けていた。テレビもパソコンもつける気にはならず、ただひとりベットに体育座り。
「冬音……」
そして突然胸を押さえて倒れた夏海。なにがどうなってるんだ。
つい昨日、いや俺の主観では秋空がくるその瞬間までいつもどおりの日々だった。
きっと思い出を作り続けて、そしてそれらと共に消えていくんだと思ってた。
ようやく受け入れ始めてたのに。一体いつから狂い始めたんだろう。
決まってる。高橋の話を聞いた時からだ。それが秋空を狂行に走らせて、そこから玉突き事故のようにつぶれていった。なんてことをしてくれたんだ。高橋への怒りがこみ上げてくる。こうなることは予測不能じゃなかったはずだ。本当は今すぐにでも殴り込みをかけたいところだが、冬音の治療を妨害するわけには行かない。
どのくらい、一人で考えていただろう。俺は部屋の扉がノックされたことに気づく。
「あ……」
部屋の前にいたのは、夏海だった。
「ど、どうした」
「今、検査終わったわ。問題なかったみたい」
問題ないって……。じゃあなんであんなこと。
「ちょっと話があるの、来てくれる?」
「いいのか? こんなことして、さっき発作が起こったばっかりなのに」
「大丈夫よ。許可ももらってるわ。時間は二十分以内だし」
さっき秋空に呼ばれたせいで中断していたえさやりをしながら会話する。
「春風、ひとつ聞いていい?」
「なんだ?」
「私がいたことって、少しでもあんたは助かった?」
今更こんなことを言うのは恥ずかしかったが、夏海が真剣に聞いてくるので俺もまじめに返すことに決めた。
「ああ。俺がこうしていられるのも、お前のお陰だと思う。
こいつがいなかったら、今俺はどうなっていたのか分からない。
「そう、よかったわ……」
そうして夏海は話し始めた。
「私ね……。この病気にならなかったところで、大して生きられなかったのよ。せいぜい三十歳くらいが限界ね」
俺は夏海の方を見た。その目に宿されていたのは悲しみ、全てを諦観したような絶望。
「生まれた時から心臓に異常があって、もう何回も手術してるし、ほとんどずっと入院してるわ」
ちょっと待て、何を言ってるんだこいつは。
先天性の心臓疾患だと?
「ちょっと長い話になるわ。聞いてくれる?」
♦ ♦ ♦
人は誰でも、自分の生まれ育った環境が「普通」になる。私の場合、それは病院だった。
常に病院のベットの上が当たり前だった。小さい頃に家にいた思い出なんて、私にはほとんどない。検査とか、色々な制限とか、今から考えれば大変だったけど、その時の私はそれを異常とすら思っていなかった。だって私にとっては、それが「普通」だから。
走り回ったりできないのも「普通」だった。でも、私と同い年の子が小学校に行き始めた頃、体調がいい時にたまに母親と公園に出かけていて、ふと頭に浮かんだものがあった。
すっごく楽しそう。
私も、遊びたい。…………だめ、なの?
どうして?どうして他の子はいいのに、私だけだめなの?
すると母親は私の左胸に手を当てて言った。
『ごめんね。私が夏海を健康に生んであげなかったから。夏海はここがすごく弱いの。だからあんなふうに走りまわれないの』
私、心弱くないよ?
母親は悲しそうに『そうだね』と呟く。その時の私には、心臓がどうとか理解できるはずがない。不満だけがつのる。
もうそこからは、不平不満の連続だった。
どうして学校にいけないの?
どうしておうちに帰れないの?
どうしてこんなにお薬飲まなくちゃいけないの?
どうして?
どうして?
両親は申し訳なさそうに謝るばかりだった。
やがて私は大きくなって、自分の状況を理解してきた。
自分の命が短いことも。
その時、私は本当に自暴自棄になった。
こんなに耐えてきたのに、何よそれ! 結局私は死ぬんじゃない!こんな病院の中で一生を終えるの? こんな束縛された思い出しか持つことを許されないの?
私は周りの人間に八つ当たりし始めた。あんなに頑張り続けてくれた両親にも。
私が何を言ったのか。思い出したくもない。そのくらい、ひどいこと言った。
こんなことしてたからバチが当たったのね。
血液検査で異常が見つかって、気づいたらこの病院にいた。
最近は行動制限はましになっていて、もう軽い運動ならできるレベルになっていた。
それなのに、なにもかも全部奪われた。
ここに来たら、二人先客がいた。そう、秋空と冬音。部屋の関係で私ひとり第二棟に回されて、毎日第一棟に通う。
うん、秋空の性別知った時は、驚いたわ。
でもそれよりこれで夏秋冬。あと春が来たら面白いって話してた。
初めはただ喋ってるだけだったけど、やがて私は提案した。せっかくこんなところに来たんだから、毎日楽しく過ごさない?
私達の間には、いつもどことなく暗い空気が流れていた。でもそんなんじゃ駄目。勢いで全部全部吹き飛ばしてやる。
それは私の長い闘病生活で手にいれた、なけなしの処世術。
これですこしでも、この二人が救われればいい。それが周りに迷惑をかけ続けた私にできる、せめてものお詫び。
それに私は取り戻したかったんだ。
遊べなかった、時間を。少しでも。時間は戻ってこないけど、それを後悔して有意義に過ごせば、取り戻すことはできるから。
私達は海に行ったり、釣りしたり、虫取りしたり、雨の日はトランプしたり携帯ゲームしたり、地域のイベントに参加したりした。
まあ海って言っても、私は運動制限で泳げないんだけど。
他にも私は動物が好きだから、世話とかやって、年寄りの友達もいっぱいできた。
みんなが、笑顔になってくれた。こんな私でも、役に立てると知った。
♦ ♦ ♦
「……まあ、こんな感じ」
夏海は鼻にすすりながらそう言って、目の辺りをこする。
「こんなこと話したのは、あんたに聞いて欲しい事があったからなのよ」
「聞いて欲しい事?」
「そうよ。同じ棟の唯一の同年代。あんたに言っとくべきだと思ったのよ」
夏海は、あの「高橋の件よ」と言った。
あの、薬の話しか。夏海は逡巡していたようだったが、やがて決意を決めたように。
「私、その薬いらないわ」
「そ、それじゃあお前……」
「死ぬわ。でもどうせあと十年前後の命。だったら、あんたたちが、助かった方がいいじゃない」
あっけにとられる俺をよそに、夏海はこぼした食パンを拾って森に投げる。また狸が取りに来た。
「それにね。もう私のやりたいことはほとんど叶ってるの。だからもう汚れる前に、綺麗な思い出の中、ここで死にたい」
「そんな……」
俺はそれ以上言えなかった。夏海の決意に下手な文句は言えなかった。
だけど、納得できなかった。
我慢できなかった。
夏海が生きるのを諦めてることが。
あんなに明るく振舞っていた夏海が、こんなにも思い悩んでいたなんて。
夏海の話を聞いていると、胸が苦しくなってくる。
「さ、私は抜けたわ。あとは知らない。三人で薬をわけるか、もう一人諦めるかね」
「……のか?」
「え?」
「お前は生きたくないのか!」
この苦しさを、少しでも払拭したくて、俺はつい叫んでしまった。
「未来が欲しいって、思わないのか? もっと生きたいって、思わないのかよ!」
ああ、なんで俺はこんなに冷静さを失ってるんだろう。あんな話し聞いた後、なんでこんな言葉が出てくるんだろう。
「私だって、私だって生きたいわよ! でもどうしようもないの! どうせここを乗り越えてもすぐ死ぬの! だったら未来のあるあんた達が生き残った方がいいじゃない!」
「だからそう言うこと言うなって!」
「うるさいわね! どうしてあんたにそんなこと言われなくちゃいけないの?」
俺は、何をいってるんだ。夏海を責めて、これ以上苦しめてどうするって言うんだ。
「なんでだよ」
「でも……」
夏海が静かに言う。
「私、秋空が襲ってきた時に、そのことを言えば済んでたわ。でも私は言わなかった。言えなかったのよ。本当は私も迷ってたんだと思う。そこは本当に謝るわ。あれは、冬音のことは、私のせいなの」
夏海にしては珍しく、素直に頭を下げた。
その視線は、俺の腕に注がれていた。秋空の攻撃で受けた傷。
「弱いわね。私は」
夏海は哀しげに呟く。
「なんとか人の役に立ちたい。自分を犠牲にしてでもって思ってたのに。いざってなると自己保身に走るのね」
死を見つめながら。
「こんな私が生きるのを諦めるだけで、未来のあるあんたたちが助かるの。だったら私は自分の命を差し出したっていい」
やめてくれ。そんなこと言ったら、皆が悲しむ。秋空が、冬音が。
なにより、俺が。
その時だった。むこうから、ショートパンツにチューブトップ、アクセサリを着けた少女のような容姿の人間が、現れる。
秋空だ。
秋空はぴたりと立ち止まる。俺も夏海も、何も言えない。
「冬音ちゃんは、少しだけ安定したみたい。でもまだ油断できないって」
そして、夏海に向かって。
「なつみんはわたしの顔なんて見たくもないだろうね。約束する。わたしは治療を辞退するから、もし冬音ちゃんがだめだったら、はるかとなつみんはそれで生き残れるよ。許してなんていう気も権利もわたしにはない。もう二度となつみんの前には現れないから」
「……いいわよ。別に」
「……え?」
「別にこれからも普通に接して。というか許して欲しかったらそうしなさい。私、どうせここで助かっても大して生きれないから薬は辞退する気だったのよ。あんたは私を殺す必要もなかったわ」
「じゃ、じゃあもしはるかが間に合ってなかったら……」
わなわなと震える秋空。
「でも俺が間に合った。それでいいだろ」
秋空は「ありがとう」といって俺に抱きついてきた。作り物の胸を俺に押し付けてくる。
「はるか……ドキドキする?」
「するか!」
偽物だって分かってるのに。
「えへ……」
わざとらしいセリフだ。
でも、この三人の関係を、上辺だけでも修復できて、本当によかった。
「大変です!」
そう叫びながら西田さんがやってきた。
俺達の前で立ち止まり、ぜーぜーと肩で息をする。
「どうしたんですか?」
まさか……。最悪の事態に?
その覚悟を決めながら、西田さんの言葉を待つ。
「鈴代さんが、目を醒ましました!」
♦ ♦ ♦
親との思い出。
わたしの場合、暴力を受けた記憶しかありません。いわゆる虐待、DVです。
お母さんが変わってすぐ、毎日体中に痣をつくるようになって。今ならとんでもないことだと思いますが、当時は疑問に思ってすらいませんでした。
春風さんが来る少し前に夏海さんが言ってた言葉があります。
幼少期の環境は、たとえそれがどんなものでも「普通」になる。
そう、わたしにとってそれは当然だった。
おかしい、そう思うことすら、許されていなかった。でも、知らないスーツ姿のおじさんとお姉さんが、たまに訪れるようになってから、少しだけ暴力はへりました。
またすぐ元に戻りましたが。ある日わたしはその人達につれて行かれた施設で生活することになりました。そこの大人達は優しくて、友達もできて、それでようやく自分の環境が異常だったことを知ったんです。
そこでの生活は、楽しいものでした。ですが、今度は学校が問題になりました。
いじめ。
初めは落書きされたり、物を隠される程度でしたが、やがて無視されるようになってきて、すぐにわたしはみんなにとっては存在していなかった。すぐそれは伝染していきます。
最後には、施設まで。
施設の子達は、皆同じ学校に通います。こうなるのは、時間の問題でした。
おとなの人達は、わたしに気を使ってくれましたが、わたしは分かってたんです。
わたしは、要らない子だと。だから本当のお母さんにも捨てられた。お父さんにもお前さえいなければといわれた。
わたしがいなくなったら、少しは平和になる。
そして高校二年生になって、残りの命が少ないことを知らされます。せいぜい三ヶ月の命。もし神さまのような存在がいるのなら、もう消えてしまえって言いたかったのでしょう。わたしは延命も断りましたが、施設の人に熱心に勧められて、結局治療をうけることになります。
しばらくわたしは一人。ぼんやりと過ごしていました。そんな中、同じ病気、同い年の女の子、秋空さんがやってきました。
秋空さんはわたしに笑顔で接してくれて、わたしは毎日一緒に過ごしました。ただ喋るだけですが、わたしにとってはとても楽しかった。そしてわたしは秋空さんが男の子だと知ります。
その時からわたしは、秋空さんを意識するようになりました。わたしは可愛いタイプの男の子がタイプだったので、ここまでのはちょっと。いいんですけど、むしろこういうのもいいんですけど。世間体と言うか……。
それに秋空さんは男の子が好きなようです。
でも、わたしは秋空さんのことが好きになってしまいました。ある日生まれた感情は、日に日に大きくなって行く。
絶対に叶わない恋。悲しいです。
やがて夏海さんがやってきました。こっちは正真正銘女の子です。夏海さんの提案で、わたし達は毎日いろんなことをして楽しく過ごしました。
これ以上ないくらい楽しい日々。
次に来たのは、春風さん。こちらは男の子です。
恋のライバル。どうして異性が恋のライバルなのかは疑問ですが、きっと考えたら負けです。
ある日、秋空さんに聞かれました。
「冬音ちゃんは、どんな子が好きなの?」
「男らしくて、やさしい人が好きです」
つい正反対のことを言ってしまいました。いえ、優しい人は好きですよ?
秋空さんは男らしさとは対極の人です。
海。栄養を取れなかったせいかは分かりませんが、貧相な体なもので。胸なんて秋空さんに少し勝ってるくらいですよ。
あと春風さんの巫女服姿はすばらしいです。秋空さんには及びませんが。
四人の楽しい日々は終わりを告げます。
高橋さんの、言葉。
わたし達四人のうち、二人は助けられる。すぐに辞退を決意しました。
生き残っても仕方ないから。
わたしが生きるのを諦めれば、他の誰かが助かります。わたしなんかが生きているせいで、他の誰かが死ぬなんて、耐えられません。
次の夜、秋空さんからメールで呼び出されました。わたしを襲ったのは秋空さんだと、すぐに分かりました。秋空さんは、自分が助かりたくて、わたしを殺してしまうつもりでいたのでしょうか。
なら、かまいません。どうせ死ぬつもりでした。それが少し早くなっただけなら。
でも、事態はわたしの想像外の方向に転がっていきます。秋空さんは、夏海さんを殺して、さらに自分も死ぬことで、わたしを助けようとしていたのです。
わたしは気づきました。わたしは、一刻も早くいなくならなければいけない。
近くに、岩場がありました。
そして、わたしは決意します。もう、これで終わってしまおうと。
どうせ生き残っても、施設に戻されるだけ。ならもういっそここで死のうと。
さようなら。そして、秋空さん。好きって言ってくれて、嬉しかったです。
わたしのことを、本気で愛してくれたのは、人生の中であなただけでした。
目が覚めると、そこには白い天上が写ります。
続いてやってくる、頭の痛み。
……わたし、いきてるんですか?
「鈴代……」
そこには、安堵の表情を浮かべる高橋さんがいました。高橋さんは、すぐに周りの人に指示を出します。どうやら他ののお医者さんを呼んだそうです。
「鈴代。お前自分の名前とか言えるか?」
わたしは難なく答えます。一問答える毎に、明るい表情を見せるお医者さん達、反面わたしは暗い気分になっていきます。
わたし、死ねなかったんですね。
やっと開放されたと思ったのに、また皆さんに迷惑をかけることになるんですか。
これから、どうなっちゃうんでしょう。
はやく、死にたい。
とりあえずわたしは誰がなんと言おうと辞退します。あと一人、生きるのを諦めるか、三人でわけるのか……。
どうせわたしは、春夏秋冬の冬です。冬と言う季節は、多くの生き物が死んでしまい、死なない生き物も、多くの苦労を強いられる。
わたしさえいなくなれば、すべてがうまく回ります。
♦ ♦ ♦
俺達は、集中治療室に案内された。そこにはいくつかのベットがあるのだが、埋まっていたのはひとつ。冬音の所だけだった。
一番に駆けだして行ったのは秋空だった。
「冬音ちゃん、どうしてあんなことしたの!」
「秋空さんの方こそ、どうしてわたしなんかのために夏海さんにあんなことしたんですか」
「もしかして、それで?」
「あれがきっかけではありますけど、関係ありません。わたしなんかがいるから秋空さんは暴走して、今もわたしはみんなに迷惑かけて」
「そんなことないよ、わたしは冬音ちゃんにはいて欲しいよ」
「なんで死ねなかったんですか。生きるのがつらい。本当につらいです」
そのとき秋空が冬音の頬をパンッと叩く。大きな音が鳴り響いた。
「そんな悲しいこと言わないで!」
その秋空の叫び声が、部屋中の注目を集める。
「どうして? どうしてそんなこと言うの? わたしはこんなにも冬音ちゃんのことが好きで好きでたまらなくって、冬音ちゃんなしじゃ生きていけないのに、だから、そんなこと言わないでよ!」
秋空は涙を流しながら外に走り出してしまう。
「ちょっと、秋空!」
夏海は秋空を追いかけて部屋を出て行く。
「秋空さん……」
冬音が呟く。
……そうか。
そうなんだ。やっと、気づいた。
どうしてこんな簡単なことに気づけなかったんだろう。少し考えれば分かることなのに。
俺達は、一人たりとも欠けちゃいけないんだ。
みんながみんなに必要とされていて、ひとりでも欠けたら、すべてが崩れてしまう。
新鳥春風、蒼葉夏海、和泉秋空、鈴代秋空。
四人で春夏秋冬。
だから全員揃っていないと駄目なんだ。さて、秋空を追いかけないと。心臓弱い夏海じゃ追いつかないだろう。
その前に、冬音に話しておくことがある。
「冬音、知ってるか? どんぐりなんかはリスとかが冬眠前に埋めていたものが、リスがたまにそれを忘れることによって広く分布できる仕組みになってるんだ」
「…………」
「それと、もうひとつ。秋にできた木の実を、冬の間ずっと暖かいところにおいておくと、次の春に植えても、全然育たないんだよ」
そう言い残して、俺はその場を去った。
「冬音ちゃん、どうして……」
エントランスで、ソファーに座って泣きじゃくっている秋空を見つけた。
その横にいたのは、夏海。
俺は二人から少し離れたところに腰をかける。
「わたしは、どんなことをしても冬音ちゃんを助けたいって思ってた。でもそれって、勝手なわたしのエゴだったんだね……」
「私だって、卑怯だったわ。他の三人が助かればいいなんて立派な事言いながら、肝心な時に言えなかったのよ。……でもね、私と違って、未来のあるあんたが簡単にそんなこと言わないで! あんたが育つのにどれだけの人が苦労してきたか分かってるの? 生きるのを諦めるって言うのは、そういう人の想いを全部無為にするってことなの! あんただって冬音に怒鳴ったくせに、平気で自分はいいって言ってるじゃない!」
秋空に強く怒鳴りつける夏海。
夏海は、なんども死の淵に立っている。だから誰よりもよく分かってるんだ。
生きてるってことが。こいつは正しいことを言ってると思う。ただひとつの論理の穴を除いては。
「じゃあ、お前はどうなんだ」
振り返って俺の方を見る夏海。
「どういうことよ」
「お前だって、治療を諦めて、あっさり死ぬことを選んだじゃないか」
「どうせ私はここを超えても大して生きられないのよ? だったら私なんかよりも未来のあるあんた達が生き残った方がいいじゃない」
「だからさっき言ったことを話してるんだ!」
俺が叫んだせいで夏海が少し後ずさる。かまいやしない。
「お前の両親だって、お前の余命が短いって知ったら治療を諦めたか? 違うだろ! お前にせめてそのくらいは生きて欲しいって、そう願って続けたんじゃないのか?」
だがいつまでもひるんでいる夏海じゃない。すぐに反論し始める。
「だから、あの時は私が助かっても、誰にも被害は及ばないじゃない。でも、今は私が助かることで他の誰かが死ぬのよ? 分かってるの?」
ああ、なんで俺は叫んでいるんだろう。夏海と言い争っているんだろう。
決まってる。俺は夏海に生き残って欲しいんだ。
結局俺も秋空の同類か。自子中心的に他人に生きることを強いる。
でも、どうしても諦められない。
「もしかしたら俺が助かっても、交通事故で一年後死ぬかもしれない。もしかしたらここ数年でお前の治療法が見つかるかもしれない。これからどうなるかなんて、わからないんだよ!」
夏海は面食らったような様子を見せる。
「……ありがとう、夏海。お前のお陰で俺はこうしていられる。この五日間は、俺の十七年間よりも遥かに重かった。お前がいなかったら、どうにもならなかったんだよ」
そして、俺は言った。
やっと見つけた、答えを。
「全員、自分の命を、運にかけよう」
高橋の提示した、第三の選択肢。四人で二人分の薬をわける。生存率はそれぞれ五十パーセント。完全な運まかせ。
こいつらは全員、もう生き残れなくていいと言っている。
だったら、別にこれでもいいはずだ。
「それでもし、四人とも生き残ったら、またみんなで遊びに行こう」
「ちょっと、待ちなさい!」
夏海が言う。
「あんた何勝手に言ってるのよ! 私の言ったこと効いてなかったの?」
「それだと、お前がいないじゃないか。言っただろ、また『みんなで』遊びに行こうって。だれ一人死んじゃいけないんだ!」
まるで、子供のわがままだ。ただの理想論。
俺の心に蘇るのは、父親の言った言葉。
『お前はいつも理想論ばかり。学歴が全てじゃないだとか、こんな進学校で育った連中が社会の上に立つ風習だから社会は駄目だとか、社会を舐めるな。そんな甘い理想論は通用しない。そんなことを言っているからお前は駄目なんだ』
だが理想論は、それが実現できた時、無上の結果を生み出すんだよ!理想論を言えなくなったり、理想論を馬鹿にするようになったら、そいつは生きる人間として、とっくに終わってる!
もう、疑わない。
俺は、夏海が好きだ。だから、夏海もいなくちゃ駄目なんだ!
「……俺、お前らに謝っておくことがある。実は、高橋が病院の意向は生き残った二人を助けることって言った時、内心ほっとした。これで助かるって。そんなことを自分勝手に思っていたんだよ。でも、何よりも大切なこの場所を投げ出して、他に行くところなんてないんだ。秋空だって、冬音だってそうじゃないのか?」
ずっと、つらかった。生きているのが、つらかった。
自分はなんて不幸なんだろうって思っていた。でも、今日一日でその考えは一転する。
みんな、気丈に振舞っていたが、心の奥底では何かを抱えていた。
俺はこれまで、狭い視野でしか物事を見ていなかったんだ。
それを、知った。
みんな、自分勝手だったんだ。
俺は、自分だけ生きのこればいいなんて考えて、さらには自分の過去におぼれていた。
夏海は、勝手に死ぬとわめいていた。
秋空は、自分の理想のために夏海を殺そうとまでした。
冬音は、自殺未遂までして、ずっと死にたいといい続ける。
みんな、愚かで勝手だった。だから、もういいじゃないか。
せめて、最後に理想を得られるかもしれない道を選ぼう。
もし奇跡が起こって、全員生き残ったら最高の結果だ。
そもそも、四人で春夏秋冬。こうなる確率は、途方もなく低い。
この時点で、奇跡は始まっていた。
そんなあまりにも低い確率を乗り越えて集まった俺たち。だったらい十六分の一なんて、奇跡でもなんでもない。
もしかしたら、俺達が揃うように世界ができていたのかもしれない。
非科学的だが、そう考えた方がポジティブじゃないか。
「いいの? あんた達、私がいない方が助かる可能性は高いのよ?」
夏海は秋空の方を見る。秋空はしっかりとうなずいた。
「やっぱりわたし、みんなで生き残りたい! 一番大事なのはやっぱり冬音ちゃんだけど、はるかやなつみんとも一緒にいたいよ!」
一度は破滅へのトリガーを引こうとした、秋空。でも、やっぱりこいつは俺達の仲間だった。そしてこいつも俺達のことをそう思ってくれていたんだ。
想いの強さなら、誰にも負けない。
「ああもう、あんた達ほんと馬鹿ね!」
夏海は自分の顔をグッと拭う。
「でも……、嫌いじゃないわ。よく分かったわよ。あんたの理想。みんなで生き残るわ!」
「ああ!」
これで三人。あとは冬音か……。
「はるか、冬音ちゃんの説得、わたしがやっていい?」
確かに、俺よりこいつの方がいいだろう。
「頼んだ!」
「任せといて!」
俺達は、再び集中治療室のベットの所に戻る。
「どうしたんですか。皆さん」
冬音は少し疲れたような目を向ける。
「冬音ちゃん」
秋空は一歩、冬音に近づいた。
「わたしたち、薬四人でわけることにしたから」
その言葉に、冬音の表情は一瞬で憤りを含んだ物へと変わる。
「だから、何度も言ってるじゃないですか!」
「もう決めたの! 私達全員で生き残るって、誰一人欠けちゃ駄目なんだって」
「で、でも……」
冬音に、秋空は必死で訴えかける。
「どうしてなの? どうしてそんなに生き残るのが嫌なの?」
「だから、さっきいったじゃないですか。どうせ生き残っても施設に戻されるだけ。だったいっそもうここで……」
冬音は施設でいじめにあってたんだっけか。それがこいつの全てだったんだな。
「施設変えてもらうわけには行かないの?」
「秋空さん、なにも知らないでそんなこと言わないでください。出来るわけないじゃないですか」
「……分かったよ。それじゃあ」
そして秋空は、言った。
「冬音ちゃん。施設出よう」
「え……?」
驚いた様子で秋空の方を見る冬音。
「町内会の人に頼んでみる。冬音ちゃんを引き取ってくださいって、みんな人情厚いから、きっと誰かが買って出てくれるよ」
確かに、あの人達なら不可能ではないだろうが。
「も、もし無理なら、どうするつもりなんですか」
秋空は少し無言になる。それは、まるで覚悟を決めているようだった。
「その時は、わたしと暮らそうよ」
さすがにこれは俺も面食らった。
「ど、どういうことですか」
「そのままだよ。わたしがここで働いて、冬音ちゃんと一緒に生活する」
「そんな。秋空さん、自分の人生をもっと大事にしてください。こんな一時の感情で全てを捨てないでください!」
「いいんだよ。わたしは。冬音ちゃんといられれば!」
時が静止する。
どれくらいの時間が経っただろう。うつむいていた冬音が、ゆっくりと顔を上げる。
「秋空さん」
「何?」
「ありがとうございます」
その目は真っ赤で、でてくる鼻水をすする。
「こんなわたしのために……、本当に、ありがとうございます」
やっと。
やっとそろった。
春、夏、秋、冬。
ようやく団結できた。
この場所で出会った四人。大切な、仲間。
もしも俺達が揃ったことが必然ならば。
助かることも、奇跡が起こることも、必然。
一度はバラバラになったが、今はこうして団結で来ている。
もう二度と、崩れない。
今はこうしてみんなで生き残ることを望む。
未来を願える。
「いいな! 絶対全員生き残るぞ!」
大声を出しすぎて、高橋に思いっきり頭をどつかれた。