第三章
秋は、実りの季節。
夏に栄えた植物は、実をつける。実を結ぶ。
冬眠する生き物は、その準備を始める。
冬にその命を散らすものは、最期の輝きを見せる。
秋は、次への希望を示す季節。
秋がなければ、きっと世界は輝かない
第三章
「ちょっと、待ってください!」
俺達がいざ海に向かおうとすると、後ろから呼びとめられる。
振り返ると、そこには私服姿の西川さんがいた。
「あ、西川さん。おーい!」
秋空が西川さんに手を振る。夏海はあからさまに舌打ちした。怖い。
「もう……。ちゃんと南部町と田辺市の外に行く時は、看護師か事務員の誰かに声をかけるように言ったじゃないですか」
西川さんは思いっきり肩で息をする。ああ、そんなルールがあったのか。
思えば、入院患者が外に出れるっておかしいよな。この病気は、少しこうやって自然に触れることで緩和されるようだが。にしてももう少し監視があるものじゃないかと思う。
聞けば、この町と隣の市はきちんと事情を分かってる人ばかりだからそれなりに自由にしても問題ないらしい。
「特に夏海ちゃん。あなたリーダーなんだから」
「今日は、ちょっと忘れてたのよ」
嘘だ。
そうはっきり分かるくらい、不自然な物言いだった。
「まあいいです。どこへ行くんですか」
「ちょっと白浜の方のビーチにでも行こうと思ったのよ」
「あ、海ですか。じゃあ私も行きます。久しぶりに泳ぎたくって」
「あ、いいのよ。泳がなくて。監督だけで」
夏海は必死で訴えるように言った。
「どうしたんですか夏海ちゃん。急にそんな意地悪なこと言うようになって。いいじゃないですか泳いでも」
夏海は不満そうに、なんとか認める。
「なつみん、どうやって行くの?」
「まあ、電車じゃない? そこの芳養駅から、紀伊本線で白浜か紀伊富田辺りまで行けばどうわ」
すると西川さんは。
「私、紀伊富田は行ったことありますけど、あんまりビーチとかないですよ」
「あ、そう? じゃあ白浜で」
こうして、五人での海水浴が決定したのだった。
「とうちゃーく!」
秋空が砂浜に向かって叫ぶ。今は夏休みシーズンと言うこともあり、ビーチはカップルや家族連れでかなりにぎわっていた。
「やっぱり海はいいよね。ねー。はるかっちー」
「のびのびした気分になりますね」
そう言う冬音と秋空は、なかなか様になっている。
「でもどうするんだ? 俺達水着なんて持ってないだろ」
「大丈夫だよ。ほら!」
秋空が指差す先には、大きな建物が鎮座していた。
よく見ると、大手ショッピングモールの看板が貼ってある。
病院の辺りと比べれば田舎度もかなりましなので、こういう施設もちゃんとあるようだこちらは自転車で何十分か走らないとコンビニすらないというのに。
「あそこに更衣室があって、水着や道具なんかも一式揃うんだよ」
そう言えば電車で秋空しきりに携帯見てたっけ。ショッピングモールの中は、きちんと冷房が聞いていて涼しかった。中にもけっこう水着の人がいる。
「せっかくだからさ」
秋空が何か余計なことをひらめいたらしい。
「誰の水着がはるかの心をキャッチできるか、勝負しない?」
「はぁ? どういうことよ!」
さっきから夏海はどうしていちいちムキになるなんだ。
「ルールは簡単。わたし達が水着になって、はるかに決めてもらうの」
「ちょ、ちょっと、何勝手に決めてるのよ」
「嫌?」
「ま、まあ、そうね」
しきりに西川さんの方をみていった。秋空はそんな夏海を見て、
「あれ? なつみんは水着対決で男の子に負けるの? それはいくらなんでも情けないよ」
「西川さんはどうするの?」
「えっと、やっぱり私は監督に徹しようかと」
これだけ混んでると、いろいろ面倒なことになりそうだかららしい。
「え、そう」
なんだか嬉しそうだった。まるで肩の荷が下りたかの様子だ。
「じゃあやってやるわ! いくらなんでも男には負けないんだから! 言っとくけど、手加減なんかしないわよ」
やたらとやる気になった。
「じゃあ、はるかはそれでいい?」
「まあ、いいけど」
俺は内心は喜んでいた。
いいプロポーションの夏海が本気を出すってことは、けっこういいものが見れそうだ。
「受けて立つよなつみん! じゃあ、あっちに水着売り場があるから!」
そして二人はガシガシと売り場の方へ歩いて行った。
「春風さん」
このやりとりに参加してなかった冬音が、俺の方をとんとんと叩く。
「わたしスタイル悪いので、あんまり期待しないでくださいね」
いやいや、清純派の冬音にも、期待大だ。
俺も一応水着を選んだが、レパートリーの圧倒的な男女差ゆえ、ほとんど選択肢はない。適当に選んでおく。俺は先に着替えて待っておくことにした。
そういえば、秋空はどこで着替えるのだろう。男子更衣室? それはないか。女子更衣室か? いや、それはまずいだろ。
けっこう待ったが、誰も出てこない。選ぶのにも時間かかってるんだろうか。
時計の長身が半周したくらいだろうか。
「あの……、お待たせしました」
おずおずと、一番にでてきたのは冬音だった。
「ど、どうですか……?」
おそるおそる、と言った感じで、冬音は俺に姿を見せる。一応セパレートで、下はパレオfr、鮮やかなオレンジだった。やっぱり冬音の清らかな可憐さがにじみ出てる。
「わ、わたし全然胸ないですし、ウエストも……。本当に駄目ですよね」
「いや、そんなこと……」
ない。むしろ可愛い。そう言えないのがモテない男ってやつなんだろう。
しかし冬音は察してくれたようで、にこりと微笑んだ。
次にあらわれたのは夏海だった。
鼻血が出そうだった、
上下共に布面積小さ目の水色だった。大き目の胸と、細いウエスト、綺麗な足。しかもそれを着て恥ずかしそうにしてる姿は、なんとも……。
「ど、どうよ……」
全く持って素晴らしい。俺はカメラを持ってないことを深く後悔した。
「そ、そう言えば秋空はどこで着替えるんだ?」
まともに夏海を見ているとどうにかなりそうなので、俺はさっきから気になってたことを聞いた。
「あいつは、上のトイレで着替えるみたいよ」
やっぱ別の場所か。それにしてもあいつはどんな水着るんだろう。男が自分を女に見せるのは、なるべく露出を控えた方がいいだろう。秋空は普段からいちばん肌色面積の広い格好をしてるが、水着ともなるとわけが違う。さて、どうなるやら。だが忘れてはならないのは、あいつがこの対決にかなりの自身を持っていることだ。
「みんな、ごめんね」
来た。
俺はその姿を見て、空いた口がふさがらなくなる。
学校指定水着。いわゆる、スク水。
いや、これはそれらしい見ためなだけだ。マニア向けの、白スク水だ。
「ふふふ……。はるか、わたしの水着、びっくりした? 実はこれ塗れると乳首部分がちょうど透けるんだよ。
いらない情報を押し付けられた。いいのか、そんなの着て。
「いいに決まってるよ。これぞ男の娘の特権!」
まあいい。俺が本当に驚いたのは、秋空の体型だった。
腰のくびれはきちんとあり、しかも胸が、わずかだが存在していた。冬音より少し小さいくらいだろうか。しかも股間部分の盛り上がりもない。一体どうなってる。
「小さい頃から女の子の体形になるために努力してきたからね。胸はAカップあるよ!」
そんなもので人体と言うのは、どうにかなるものなのだろうか。
こんな声出せるようなやつだから、体形くらいはどうにかしてしまうような気もするが。
「あとは、タックって言って。着替える時に股の間に接着剤で……」
「やめろそれ以上言うな!」
放っておいたら、何を言い出すか分かったものじゃない。
「っていうか、あんたなんでそんな格好なの?」
「決まってるよ。はるかはね、こういうののほうが好きだからげふっ」
俺の蹴りが鳩尾にクリーンヒットした。
秋空はすぐに蘇って、
「ひどいよ。よりにもよって女の子を蹴り飛ばすなんて」
「お前自分の性別をころころと都合のいいように改変するな」
「ねえ、冬音。春風が変なもの持ち込んでないか、調べたくない?」
「そうですね。わたしもちょっと思ってました」
「勘弁してください!」
土下座。
「とにかく。ここははるかの好みを分析できた、わたしの作戦がちだね。勝負は始まる前に決まってるんだよ。じゃあはるか、発表して」
秋空は勝ち誇ったように言う。
俺は黙って夏海に近づき、腕をつかんで振り上げた。そしてダルそうに。
「ういなー」
「ま、当然ね」
夏海はここぞとばかりにドヤ顔を秋空に向ける。
「な、なんで!」
むしろ俺からすれは、なんで勝てると思ったのか疑問だ。
「そんな、せっかく準備してたのに、なにもしてないなつみんに負けるなんて」
「私だって、何もしてないわけじゃないわ」
「え?」
「あんたには勝てると思ってたわ。だから問題は春風が私と冬音、どっちを選ぶか。どっちが春風の好みなのかよ。でもね。春風がここで私を選ぶなら、もし西川さんが入ったら、確実にいろんな要素が二人の中間で、中途半端な私じゃ勝てないわ。だから、なんとか必死で戦いに参加させないようにしてたのよ!」
「な、なんだってー!」
必死だなほんとにこいつら。
念のため言っておくと、冬音もかなり良かったんだ。比べる相手が悪かっただけで。
「ちょっと。フォローするの一人忘れてるよ!」
何の話だろうか。
「ほら、スク水だよ、透けるよ。貧乳だよ。そこの岩陰に連れ込んじゃいたくならないの? そうだとしたらはるか、枯れてるよ!」
なんてこというんだ。大体ノンケの俺がどうやって男にそんな感情抱けと。
「とにかく、負けを認めなさいよ」
「あーもう、納得いかない。第一、はるかはわたしの性別知ってるんだよ。不公平だよ!」
俺を審査員に選んだのは誰だったんだろう。
そんな俺の呟きは、秋空の右耳から入り、左耳から出て行く。
「と、いうわけで、再選を要求します。今度はわたしの性別を知らない人に選んでもらわなきゃ。そうじゃないと不平等だもん」
「どうする気よ」
「夏の海の定番と言えば、ナンパ。今度はそれで勝負するよ」
秋空が発表したルールはこうだ。三人それぞれ行動して、誰がいちばん早く男に声をかけられ食事以上に誘われるかを競う。
「男ならだれでもいいわけ? 何歳でも?」
ん? この夏海の質問、もしや。
「うーん。じゃあ、中学生以上で」
ああ、夏海がひっそり笑った。勝利を確信した目だ。何を考えているんだろう。
……大体想像はつくが。
「えっと、もしかしたら持ち帰られちゃうのですか」
「大丈夫。そんなことになりそうだったら全力で助けるから」
やたらと感情のこもった声で秋空はそういった。
まあ確かに、冬音は注意しないといけないな。男に免疫なさそうだし。
「じゃあ、出発だよ!」
ショッピングモールを出て砂浜へ。
「海だぁー!」
秋空、うるさいぞ。
ビーチはさっきより人が増えていた
「ちょっと待ってて」
秋空はいきなり海に走り出して、ざぶんと飛び込む。
「いやー、ごめんね。このスク水の真の力を出すためにね」
「お前……」
確かに言ってたな。このスク水透けるって。
さすがに下はもう一枚はいてるようだが上はかなりまずい。放送ぎりぎりだ。いや、男だから問題ないのか?
「どう? やっぱり見えてるより透けてる方が男の子の気持ち煽るよね!」
まあ、否定はしない。
「じゃあ春風今度は審判ね。よーいスタート!」
「じゃあ春風今度は審判ね。よーいスタート!」
不意に勝負が始まった。秋空は人が多い方へ走っていく。俺はすばやく横に跳躍する。
「あっ!」
うしろから聞こえる夏海の声。
さっきまで俺がいた空間を、夏海の手がすり抜ける。
こいつ、やっぱりそうなのか。
夏海は、秋空に、男なら誰でも、何歳でもいいのかと質問していた。それはきっと、「誰でも」から目を背けさせるためにいった言葉。本当は対象が俺でもいいのかと言う確認。
秋空が「中学生以上で」と言った。この時点で勝負はついていた。
俺が気づきさえしなければ。
「待ちなさい!」
俺は海にダイブ。そして全速力で逃げた。さっさと秋空に勝負をつけて欲しい。そしてそのままあいつが男達と遊んでてくれば最高だ。
なぜそんなに嫌がるか。それは、夏海に拘束された俺は食事に誘わされる、そしてこいつのことだから確実に「あんたが誘ったんだから」と奢らせるだろう。
さて、それが海の家程度だったらいい。どこに連れて行かれるか……。
あの親に生活費追加をせがむのは嫌なんだよ! なんとしても、逃げる!
夏海は追いかけて来てるだろうか。ふと振り返ってみると、海に入ろうか迷っているようだった。すぐに決意したように飛び込み準備すると。
「蒼葉さん、駄目ですよ!」
西川さん、どこから現れた。
ビーチで私服な西川さんは、けっこう目立っている。その大きな胸も注目を引くようだ。
「そういう無茶しないって言う約束で、遠出を許可したんですよ」
「でも……」
「とにかく、和泉さんとの対決だかなんだか知りませんが、新鳥くんはあきらめて、他の人の所いってください」
「う……」
秋空の方を見ると、早速何人もの男に囲まれて、楽しそうに談笑していた。ああ、男を誘ったんだな。誘われたやつらはなんて運の悪い連中だだ。助けてやらないけど。
で、冬音は。
「あ、キミかわいいね。いまからおれ達とメシでも食いに行かない?」
「え? えっと……」
いつのまにか勝負を終わらせていた。
「まさか冬音ちゃんに負けるなんて……」
ショッピングモールにて、食後のジュースを飲みながら秋空がいう。
ちなみに、あのあと俺が冬音に声をかけたら連中は去って行った。
「そういえばなつみん泳げるの?」
「…………」
「まさか」
「うるさいわね。人間の体は浮かないの」
「知ってる? 脂肪は浮かぶんだよ?」
「何か言った?」
「そうじゃなくて! その憎たらしい大きな胸が浮かぶんだsよ!」
太ってもなくて、ホルモン注射も手術もしていない男が、Aあったらすごいことだと思うんだが。
「その脂肪が憎いよ……」
「それは同意します」
冬音はいつになく真剣だった。まあ、冬音は秋空よりすこしおおきいくらいだからな。
「冬音ちゃんは天然で女性ホルモンいっぱい出るからいいじゃん。わたしなんかマッサージと豆乳とプエラリアで頑張ってるんだよ」
何を言ってるんだか。
「二人とも、そうはいうけど、西川さんなんて私以上じゃない」
「「「あの人と比べるのが間違ってる」」」
夏海、何を言い出すんだ。暑さでやられたか。
「さて、次は何しよっか。水泳教室なんてどう?」
「あのね、人間の筋肉は水には浮かないの。そもそも海で人が息できないのは、人類が海で生きるべきじゃないからで……」
夏海は現実逃避していた。
「そう言えば冬音ちゃんは泳げるの?」
「わたし水が怖くて……、ごめんなさい」
「冬音って、なんかナチュラルにずるいわね」
「え? どういうことですか?」
夏海のいうこともわかるな。ここ数日で知ったが、冬音は素でこんなやつだ。
「まあそれは無しってことで、どうするの」
「そうだ。ボートなんてどう?」
秋空はそこの海の家を指差した。悪くない選択だろう。
「ごめんくださーい」
先陣切った秋空が叫ぶ。するとランニングに腹巻、半ズボンといういかにもなおっさんくさい格好だった。年は六十くらいだろうか。
「おう、これまた綺麗なお嬢さんばかりで」
「ボート二つおねがいします」
「あいよ。料金はそこにある通りね」
ボートは二人乗りで、そんなに重くない。引きずれば一人でも運べそうだ。
「待つんじゃ。小僧」
俺もう十七なんだが。
「本命はどの子じゃ」
「あの、いってる意味がよく分からないんですが」
じいさんは俺の方をバシバシ叩きながら。
「いるんじゃろ。本命が。……ワシの鷹の目からすると、あの白い水着の子と見た」
こいつはどうやらもう痴呆がはじまってるらしい。
じいさんはドヤ顔でみてくる。いや、だから違うって。
「さあいくぞ、みんな」
俺は一人、全速力で二台のゴムボートを海まで運ぶ。多分、今俺の顔は真っ赤だったんだろうと思う。いま、少しだけ夏海の顔を見てしまった。
やっぱり。俺が好きなのは、夏海?
自分の中では誤魔化せたつもりでも、顔が熱くなって茹で上がってしまいそうで俺は海に飛び込んだ。気がついたらあいつのこと考えてたり、思えばここの所はずっと、夏海のことが頭にあった気がする。
「春風、どうしたのよ。そんなに焦って」
「なんでもない、それより! ボートの組み合わせはどうするよ」
「春風となつみん、それからわたしと冬音ちゃんね」
「え?」
意外だった。こいつのことだから、てっきり「はるかとわたしで二人っきり!」とか言い出すと思っていたんだが。
秋空は俺の耳元でささやく。
「分かってるよ。はるかはなつみんと一緒に乗りたいんでしょ? はるかがなつみんのこと好きだって、わかってるから。バレバレだよ?」
なんでそこまですっぱりと言い切るんだ。俺ですら自分の気持ちに整理ついてないのに。
「じゃあ、わたしと乗る?」
「よし行こうか。夏海」
即決した。
三人のうち誰と一番乗りたいかと言われたら、正直夏海だしな。
オールを持つのはこっちは俺。むこうのボートのほうは秋空だった。
少し海岸から離れると、秋空はすぐに違う方向へ行ってしまった。
「じゃあ、ふたりで楽しんでね」
「おいおい。どこいくんだ。ちょっと待ってくれ」
だがそんな言葉で止まってくれる秋空ではないのだった。
あっという間に秋空は、むこうの方へ行ってしまった。
「ほんと、仕方ないやつね」
全くだ。
「まあ、べつにいいけど」
夏海はふと急に静かになる。黙ったまま、じっと海原や泳ぐ人達を見ている。
しばらくして、夏海は、
「綺麗ね」
物憂げな顔で、そう呟いた。
「こんなの見てると、私なんか自分が儚くなってくるわ。他の人にとっては、この夏なんて、人生で何十回とある夏の一回よ。そりゃあ今年の夏は今年にしか来ないけど、みんな今年が駄目なら来年の夏がある。でも私達には、来年の夏なんてないのよ。この夏が終わる頃には、もう私達はもとの私達のままじゃいれない。私だって、まず冬は迎えられないわ。必ず。もう私達にとって今は『冬』よ。私たちは『冬』を越えられない」
それは、俺達がずっと目を背けている、事実。確実に訪れる、運命。
この楽しさに身を任せていれば、とりあえず一時的に和らぐ。
でも、たまにふっと思い出すんだ。そして、思い知らされる。
自分がこれまで積み上げてきたものは、もう何一つ意味を為さないんだと。
高い学歴、偏差値、学力。そんなもの、いくらあってもこうなれば報われない。
ただそんなくだらないものの為に、人生の時間を浪費してきただけだ。
だからせめて、今だけは楽しい思い出を積み重ねる。もちろんそれも、ひとつの終わりまでの過ごし方だろう。だがそれだけでいいのか? それで十分なのか?
分からない。なにが正解なんだ。
夏海みたいな言い方をすれば、俺達は「冬」を越えられないことが分かっている。
ふわりふわりと降り積もる、粉雪に体を蝕まれ、ひっそりと息耐える。
そう分かっていながらも、白の中で舞い踊る。
それが、いまの俺達。
「ごめん、急に暗いこと言って、たまにいきなり暗くなっちゃうのよ。海に来たんだから、もっと明るくするべきよね」
そういう夏海の顔は、いつもの自身に満ちた顔。
でも一枚はがしたら、きっとさっきの顔が現れるんだろう。
「そういえばさ。さっきのおじいさんの言葉って、本当? 秋空が本命って?」
「いや、違うから。あのじいさんの勝手な妄想だ」
よりにもよって秋空とは。
「……いるの?」
「え?」
夏海はなんだか言いにくそうに。
「だから、あんたの好きな、ひと」
「それがな、よくわからない。これが好きっていう気持ちなのかが」
「じゃあ、気になる相手は、いるのね」
「ま、まあな」
今の夏海の表情は、これまで見たどの夏海よりも可愛くて、つい衝動的に抱きしめたくなってしまう。そのとき来た大き目の波でボートが揺れ、向かい合って座っていた俺と夏海の足が、少しだけ触れてしまう。
「ご、ごめん」
「こちらこそ……」
赤面してしまって、まともに顔も見れない。心臓も高鳴って、息苦しい。この鼓動がまるで夏海にまで聞こえてしまいそうで不安になる。
しばらくの沈黙。俺はとにかくなにか喋ることにする。
「あのさ、もう戻らないか? 今ならぎりぎりボート代基本料金だし」
「そ、そうね」
「で、どうだったの。なつみんとは進展した?」
海の家の前で、秋空が小声で聞いてくる。
「せっかくシュチュエーション作ってあげたんだから、感謝してよね」
あれは進展なんだろうか。確かにこいつには、感謝してもいいかもしれない。
それにしてもこいつはよく分からない。いつも散々俺に向かって性的なアピールしてくるのに、今回だけは夏海との間を取り持ってくれた。
「ま、よく遊んだし、帰ろっか」
で泳ぐのは非常に体力を消耗する。
俺しか泳がなかった気がするが、気のせいだろう。
だから帰りの電車はぜひとも眠って置きたかったんだが。
「…………」
眠れない。
と言うのも横で眠る夏海が、あっという間に寝てしまい。よりにもよってこっちにもたれかかってきたからだ。
さっきのボートでの会話のせいもあって、全く眠気がくる気配がない。なんでこいつこんなにぷにぷにしてるんだ。それとこの温かみ。これがあの夏海かと思うと……。
うん。触覚に集中してたらどうにかなりそうだ。視覚辺りに切り替えよう。
向かいに座るは秋空と冬音。どっちも眠っていて、(見た目は)綺麗な少女の秋空と、普通にかわいい冬音が、お互いによりかかって、眠っている様は、なかなか様になる。素晴らしい。
そんなことを考えている俺の頭の中に、さっきの夏海の言葉が蘇る。
「私達には、来年の夏なんてないのよ。この夏が終わる頃には、もう私達はもとの私達のままじゃいれない。私だって、まず冬は迎えられないわ。必ず。もう私達にとって今は『冬』よ。私たちはこの『冬』を越えられない」
こいつらといるのは楽しい。さっきみたいに、ただバカ騒ぎするだけで十分だ。
そう、あの日、夏海に言われた通りだ。その間は、恐怖なんて、吹き飛んでしまう。
ただ、こんな風に現実から目を背けているままで、いいのか?
一般論的には、間違ってる。普通に考えれば、もっと有意義な使い方を考えるべきだ。
でも、現実に目を向けるだけで潰れそうなんだそしてなにより、仲間と自身を持って言えるやつと、いるだけで満たされてる。こんな日々は、俺の人生の中で一度もなかった。
この日々は、俺が心から望んでいた、夏。
昔から、あこがれていた。一度はやって見たかった。
でもそれはずっと叶わないまま高二になってしまって、もう俺はこんな生活、決して送れないのかと、そう思っていた。
だから、この楽しさに身を任せるのも、そんなに悪いことではないのかもしれない。
でもこの理不尽なまでの充実感を感じれば感じるほど、それを失うのが怖くなる。
そして、その時は、必ず訪れる。もう、すぐそこにまで迫ってる。
だからすこしでも、今この時を楽しもう。
そう、思った。
……だからといって、こんなことになるとは。
「じゃあ行くわよ。幽霊の正体を探りに!」
「おー!」
夏海の声に呼応し叫んだのは秋空一人だった。俺や冬音はとてもじゃないが笑えない。
病院に帰るなり、夏海が第二棟で流れている幽霊のうわさ持ち出した。俺は聞いたことないんだが。夏海が仲いい老人達の間での話らしい。
そしてそれを聞いた秋空が、「じゃあ、正体確かめに行こう!」とか言い出しやがった。
「お前ら。海に行った直後だろ。疲れてないのか」
「え? 電車で寝たんじゃないの?」
俺は一睡もできなかったんだが。主にお前のせいで。
とはいえ、夏海が倒れてきたから緊張して眠れなかったとか、言えるわけがない。
たとえ寝れていても、まさか肝試しに行くだけの体力があるとも思えず、こいつらのバイタリティにはつくづく感心させられる。やはり田舎で走り回ってるやつらは体力が違う。
「あのさ、幽霊ってこんな夕方に出るのか。夜のほうがよくないか?」
一度解散して部屋に鍵かけて寝たいんだが。
「何言ってるの! それじゃあ幽霊ヒロインどうしようもないじゃん! ほかのヒロインに潰されちゃうよ!」
まあ、こいつは置いておいて。
「そんなの、決まってるじゃない」
夏海ははっきりと言った。
「その方が二回楽しいからよ!」
ああ、こいつもだめか。変にポジティブで迷惑だ。
「じゃあ、いまから目撃証言を説明するわ」
夏海が集めた情報は、こうだ。
方位は必ず南側。俺も夏海も南側だが、見たことないな。時刻は午前二時から四時。嫌な時間だ。状況は、大体同じ。この時間になると目が覚めて、窓が血まみれになってるんだそうだ。そして森の方から何かが這いよって来ると。
三流ホラーかよ。この時点で大体落ちが見えるのだが。少なくとも秋空や夏海は、もう気づいてるんじゃないだろうか。
夏海と秋空のことだから、こいつ「それをいったら面白くないから」などと言いそうだ。
まあ、少しくらい付き合ってやってもいいか。
「どうした、冬音」
気がつけば冬音は、向こうを向いて、耳を塞ぎぶるぶると震えていた。
「わたしそういうの、苦手で……」
この程度で怖がってたら、これからの調査やっていけないぞ。
というかこいつまだオチに気づいてないのか。
「じゃあ冬音は無理に来なくてもいいわ。目撃者に話を聞きに行きましょう!」
結果、冬音も付いてきて、俺達は太田さんとかいう老人の部屋に行くことになった。
あのフリスビーの人だ。
「あれは、一週間まえのことじゃった」
階段らしい語り出しで、太田さんは話し始めた。
「わしゃあ、ふと、夜中に目が覚めての。時計を見ると、午前三時じゃったけな。滅多にないことじゃ。わしが途中で目を覚ますのは」
もうこのじいさんの言い方で気づくだろう。普通。
「外からずりずりと、はいずるような音。窓を見ると、べっとり血が」
「あわわわわわ……」
冬音は、そんなに怖いのか。まあこのじいさんの語りは、聞いてみたらそこそこ上手い。如何せん話の内容がろくでもないが。
もうそんな冬音を見かねたのか、夏海はあっさりと。
「もういいわ。森に何がいたの」
「なつみん。それ言っちゃおしまいだよ」
「本当じゃ。わしらの苦労をあっさりと」
「四人中三人に気づかれてるあたり、クオリティ低すぎるだろう」
冬音は本気で怖がっているが。
きっと何かいるんだろうな。南の森あたりに。
じいさんはふぅと息を吐き。
「いや、ここは分かっていてもちゃんと森に行って、正体を確かめてくるべきじゃと思うんじゃが」
「ちょっと、冬音が心配だからもういいわ」
「しょうがないの。じつはの。あの森にはアライグマがいるんじゃ」
アライグマか。おお、それはきっとたいそう可愛いんだろう。
「この町には少しいるんじゃよ。夜行性じゃからそろそろ出てくるじゃろ。確かめにはいかんか。というかそうしてくれんと、せっかく計画して、皆に協力してもらったわしの立場がないんじゃ」
本音で出たな、爺さん。で、夏海はどうするんだ。
「ま、いいわ。行きましょう。冬音は?」
「い、いいです」
どうやらさっきの怪談語りが、よっぽどトラウマらしい。
「わしの怪談ツアーを楽しむおなごが一人減るんじゃな」
あんたのせいだよ。
「それはわるいことしたの」
ちっとも悪びれていないじいさんだった。
夜の海と言うのは、真夏でも悲しげなもので、蝉の声もなんだか切ない。夜空では上弦の月がぼんやりと光っていた。
「このあたりね」
病院の南側。夏海は適当に森を照らす。
「こわいよ……」
そう言いながら、俺の腕にしがみつく秋空。
「お前、絶対怖がってないだろ」
「……ノリ悪いよ、はるか。ゲームとかではね、真夏の森、月が照らす夜空の下、汗をかきながら、鼓動を高めあう二人の男女。そして耐え切れなくなった片方がもう片方に!」
もう前提が崩れてるんだよなあ。男女ってあたりが。
「あんたたち、静かにして、逃げちゃったらどうするのよ」
夏海は、懐中電灯を持ちながら、森の中に進んでいく。その時、森の方から、がさがさと音がする。夏海がそっちを照らすと、すぐに何かは茂みの中に隠れてしまった。
「いま、なにかいたよな」
何かいた。夏海のライトが少し間に合わなかったが。子犬くらいの大きさだったな。
「もしかして、ただの狸じゃないか」
それには秋空も同意したが、夏海は険しい顔で。
「似てるけど違うわ。形がちょっと」
さすが夏海、俺達とは動物を見る目が違う。
夏海は「音を立てないで」と言って、ライトを消す。
しばらくして、茂みからぴょこっと何かが立ち上がった。よく見えない。なんだ。
「アライグマ、ね」
夏海が呟く。確かにそうも見える。
アライグマらしき何かは、少しむこうに言った後、こっちを振り返った。
「か、かわいい……」
秋空がほんわかした顔で、そっちに行こうとする。
「待て」
俺は秋空の首根っこを掴んでやめさせる。
「なんで、かわいいじゃん」
「あのな、けっこう危険なんだぞ」
俺なんかよりも、夏海の方が遥かに詳しそうだから、代わりに解説願う。
「えっとね。あれって、相当凶暴で引っ掻いてくるし、狂犬病持ってるのもいるのよ」
それを聞いて秋空の顔は青ざめていた。夏海、フォローしておいてくれ。
「あ、あとラスカルの意味って『悪党』だから」
まさかの追い討ちだった。ちなみに俺が聞いた話では、この町は、アライグマ一匹に数千円の懸賞金をかけているらしい。
「じゃあ、見れたことだし、帰らない?」
「うん。でも、今から春風連れてあっちに行かないと」
「なに変態なこと言ってんのよ!」
「まあまあ、やきもちはいいから」
「違うわよ!」
「あ、ツンデレだ」
「だから!」
俺たちの会話。なんか最近こんなのばっかりだな。
そして、本当にその程度の成果しかなく、俺達は太田さんの部屋に戻った。
「夏海ちゃんは、見つけられたのかの」
「まあね。かわいいのがいたわ」
それは良かった、と太田さんは笑う。
「でも、なんであいつらを飼わないの?」
やっぱり、夏海もそう思っていたらしい。
「万が一夏海ちゃんが、怪我でもしたら、わしらは本気であやつらを、獲らないといけなくなるんじゃ。あまりにもかわいそうじゃろ。あやつらはもともとここにいた生き物じゃないんじゃ。それを勝手な都合で、殺したくはない」
昔の俺なら、きっとバカにしていただろう。なんてくさいセリフなんだろうって。
でも、いまの俺には、とてもじゃないが笑い飛ばすことなどできなかった。
「まあ、いいわ。これからは夕方にも、えさやりしないとね
「あんまり仲良くなりすぎるんじゃないぞ」
「だいじょうぶよ!」
夏海は親指をぐっと突き出した。
部屋を出てロビーへ行くと、そこでは冬音が平然と夕食を食っていた。
「あ、すみません。なんだか高橋さんから話があるようなので、ここで食べるように言われたんです」
冬音の机には冬音のとは別に、トレーが置かれていた。秋空のだろうか。
「なにか言ってた?」
「いえ、ただ下の第三診療部屋に来るようにと」
なにか廊下とかじゃできない話だろうか。
「みなさん、どうしますか?」
「どうするって、行くしかないだろ」
高橋は何の話をするつもりなのか。なぜそれを隠すのか。
いくら考えてもわかるはずがなかった。
「「「「…………」」」」
沈黙の中、俺達は黙々と食べ続ける。
すぐにその時はやってきて、俺達は第三診療室の前に移動する。
「春風、あんた男なんだから、ノックしなさいよ」
「今のご時勢、その言い方は駄目だろ。秋空は?」
「ちょっと、女の子にこんなことさせるの?」
変化自在の性別だった。
俺達の騒ぐ声は、中まで届いていたようで、
「どうした」
扉が開かれて、高橋が顔を覗かせる。
「ああ、お前らか。入れ」
中へと招きいれた。俺達は、おそるおそる部屋の中に入る。
中は普通の診療室だった。ベット一台と医者用のテーブル、テーブルの横にはレントゲンを貼り付ける光る壁があった。中央にちいさなテーブル。そしてその周りにはパイプ椅子が五台置いてある。
「コーヒーと紅茶。どっちにする」
「わたしコーヒーで。ミルクと砂糖もつけてね」
「紅茶。あるならアップルがいいわ」
こんな時でも自分の要求が言える二人が、少しうらやましくもある。俺と冬音はもう適当に見繕ってもらうことにした。高橋は「少し待っててくれ」と言い残して、奥に戻っていく。その後しばらくして、お盆にマグカップを五つ乗せて、高橋が帰ってきた。
「砂糖と牛乳は各自入れてくれ」
秋空は、角砂糖をいくつも放り込んで、ミルクと一緒に一生懸命かき混ぜる。
俺にはとてもそんなことはできなかった。なのでブラックのコーヒーをすする。苦い。どちらかと言えば俺も甘いのがいいんだが、まあ飲めないこともないので我慢する。
高橋は医者用の椅子からパイプ椅子に移動して、
「一応言っておくが、これから言うことは誰にも言わないで欲しい。守秘義務を完全に無視しているスタンドプレーだ。もしばれたら解雇を覚悟した方がいい」
「そんなこと、なんで話すのよ」
「お前らには、絶対に知っておいてもらいたいことだ。だが上は教えるなと言う命令を下しているんだ。オレは、あえてそれに逆らう」
いったい何の話なんだ。俺たちはかたずを飲んで高橋の次の言葉を待つ。
「なあ、お前らは、自分の人生、出来る限りあがいていたいか? 希望があるのにその存在知ることもなく、散っていきたくは、ないよな」
希望。高橋はそういった。
「お前らを助けられる薬が、到着した」
それは、予想をはるかに上回るものだった。もう一度頭の中で繰り返して、ようやくその意味を理解する。
「え……?」
と、いうことは。助かるのか、俺達。
もう、終わりだと思っていたのに、まだ、終わりじゃなかった。そういうことか?
ここの所、ずっと胸を覆っていた霧が晴れた、そんな気がした。
しかし他の三人をみると、みんな険しい表情だった。夏海も、秋空も、冬音も、笑顔や喜びなどどこにもなく、ただただ深刻さだけが渦巻いている。
いったいどうしたんだお前ら。
「海外のチームが研究に成功してな。患者の余命が極端に短い事実を考慮して、異例の速さで許可が下りた。ただ、ひとつ問題があってな」
そして高橋は、最初の発言以上の爆弾を投下する。
「二人分しか、ない」
二人分、しかない?
ちょっと待て。どういうことだ。
俺はようやく結論に到達する。待てよ。それって、つまり。
「つまり、このままじゃお前らのうち二人しか助からない」
コーヒーをこぼさなかった自分をほめてやりたかった。診療室内の時間が静止する。
「なんだよ、それ!」
初めはそれが自分の口から出た言葉だとは分からなかった。
「どういうことだよ。病院が薬足りないって、なに考えてるんだ。そんなのミスが許されるのかよ」
俺が怒りに撒かせて食らい付いても、高橋は冷静に。
「ミスじゃない。生産効率がとてつもなく悪いんだ。どの国も似たような状況になっている。むしろ半分助かる日本はまだ運のいい方だ」
丁寧に言い返されて、俺もようやくさめてきた。怒鳴った自分が恥ずかしくなってくる。
「悪い。取り乱して」
俺は椅子に座った。
「いや、それくらいが普通だ。病院側は、人数が二人になった時点で、その二人を救うことに決めている」
「じゃあ、このままだったら、最初に死んだ二人は、助かる可能性があったことを知らずに死んでいってたかもしれないってことか?」
「かもしれないじゃない。必ずそうなっていた。あのジジイが一旦言い出したら、まず覆らないからな」
高橋は、一本指を立てる。
「お前らの選択肢は三つ。ひとつは、このまま病院の決定に従い、二人が死ぬのを待つか」
高橋は、二本目の指を立てる。
「二つ目は、お前らの中で話し合って治療を受けるやつを決める」
三本目の指を立てる。
「三つ目は、この薬は極めて稀有な例なんだが。量が規定値の半分なら、生存率も約五割になる。だから、これなら一応全員平等で、全員助かる可能性もある。だが同じ確率で、全滅する」
「もちろん、今すぐ答えを出せとは言わない。結論を急ぐな。最悪、一人が末期症状を出すまででいい。オレからは以上だ。和泉と鈴代は、もうすぐ第一棟に行く車があるから、それに乗るといい」
あの後、誰とも会話することなく、
今日の分の点滴が終わったら、すぐに寝ることにした。
月の光が差し込む病室で、俺はベットに横になりながら天井を見上げていた。
俺の人生は終わった。そう思っていた。でも違った。
いきなり示された希望の道。いったいどれを選べばいいんだ。
一番魅力があるのは第三の道。唯一の全員助かるかもしれない道。
こんな日々が、ずっと続いてほしい。その願いが叶うんだ。
俺の人生の中で、この四日間がもっとも充実していたと、俺は自信を持って言い切れる。これまでは、それも長くは続かない。そう思っていた。病院側が俺達に喋りたくないのも分かる。もしこれを選んでしまったら、俺達が三人以上助かるのと同じ確率で三人以上死ぬ。ただでさえ薬に恵まれていた病院の成果がそんなのだったら、一体なんと言われるか。
そんなもののために、俺達の未来は潰されるんだな。なんだかんだ言って、病院の連中にとって患者の命など、病院の評判に比べれば吹けばとぶほど軽いのか。
でも病院の意向通りに進んだのなら、入院が飛び抜けて遅い俺は、ほぼ確実に助かるんじゃないだろうか。
「なに考えてるんだよ! 俺は!」
拳をガツンと壁に打ち付ける。
俺は今、最低の考えをした。
俺の人生で、真実はここにしかなかった。ここにくるまでは全部虚構だった。
あの日夏海に出会って、ようやく俺の人生は本物になった。それを捨てて自分だけ生き残って、また本物を得られるはずがないだろ!
とりあえず、明日皆とちゃんと話し合おう。そう思いながら、布団にもぐりこんだ。
♦ ♦ ♦
新鳥、蒼葉、和泉、鈴代が去ったあとの部屋。オレはもう一杯コーヒーを入れに行った。
もう、話してしまった。後戻りは出来ない。あのジジイにこのことがばれたら、かなり大変なことになる。確実に解雇だな。新しい就職先を探しておいた方がいいのかもしれない。のどかな病院で、けっこう気に入っていたんだが。
だが我慢ならなかった。自分達の都合のために、あいつらの命を扱う病院側が。
患者は病院に、ただ病気なり怪我なりを、治すためだけに来ている。言うなら客と技術者の関係でしかない。別にオレ達に命を自由にしていいと言っているわけじゃない
これも、あいつらのお互いを想う気持ちを、信じられたから出来たことだ。
普通なら、こんなことできない。
この時オレは知らなかった。一人、オレの予想外の思考回路を持ったやつがいたことを。