2節 止計界
本を取り出したはいいものの何をすることもなく、それを机の上にそのまま置いてなんとなく前の男の人に声を掛けてみる。
「あの……」
反応がない。声が小さかったのか。大きめで話しかけてみる。
「あのー……」
やはりダメか。なんとなく彼の頭を叩いてみる。やはり反応がない。それどころか石像みたいに硬くて冷たかった。そして痛かった。
左を見ると女性が座っていた。ノートを真剣に見つめたまま固まってる。そこには先日の板書と先生の話が書かれていた。この状況で女性が側にいるとやってみたいことがある。
「ごめんなさい」
謝ってから手を伸ばせて胸を触ってみる。しかし固く冷たい。私はショックを受けつつも彼女が反応しなくてももう一度はっきり言う。やったことに変わりはないのだから。
「本当にすみませんでした」
やはり反応がない。すると何故か先ほど開けた出口の扉が開く音が微かに聞こえる。
「分かる分かる。こういう時って女の子を触りたくなるよね」
「お前は……」
そこには朝みかけた下駄箱にいた眼鏡をかけた男だった。
「やっぱり君やないか。俺は蟻宗義彦だ。君の名は?」
彼は私の机の方を見るなりそう言う。質問を無視して質問を出す。
「この本をなぜ欲しがる?」
「そんなもん、決まってるだろ?その本が俺を楽にしてくれるからな、タイトル通りに」
なるほど、こいつに渡したらなにか嫌な予感しかしないというアニメ主人公の気持ちが一昨日まで分からなかったが、今では分かる。
それにしてもこいつをどう倒せばいいんだ。私に何が出来る?
「おやおや、何もしてこないのか?それともただのクズか?」
彼は私を見てくるなり、文字を書いて『しそん』と言っている。そんなことをお構いなしに私は本のページを開く。
『止損……命中率を上げる補助スキルなんすよ。お分かりですか、変態さん』
今説明するなよ、この本。というか変態さん言うなよ。触ったけど……なんでもいいが、本にその名前は言われたくねー。
私は文字を書く。
『何をすればいい?逃げるか?逃げればいいんだな?そうだろ?』
「おい、何やってる?」
ほら、お前のせいで近寄らずになぜか教卓に向かうあの眼鏡に叱られたぞ。どうしてくれんだ。
『逃げればいいんじゃね?』
なぜ疑問を疑問で返す。もういいや、この本リュックに突っ込んでリュックを抱えて逃げる。それだ。
私はその通り実行する。リュックが重いので両手で抱えて持つ。そんなに入ってないのに眼鏡のせいである。彼は指で書いて攻撃しているが、何を言ってるか分からないままで逃げきれた。彼が開けたおかげで扉を通ることが可能だった。私は足でその扉を力強く回し蹴りしておく。硬いため、私の足に痛みが伝わってくる。これで彼は閉じ込められるだろう。なにせ、自分でもこの『止』という力を自分なりに活用できない彼なんだから。
エスカレーターが動く音。人が教室の前で戯れている音。存在はあるのに止まっているから音が聞こえない。しかし私の心臓の鼓動の音や歩く音だけは聞こえる。
私はこの建物だけに何らかの時間変化があるのだと思った。しかし現実はそう甘くなかったのだ。
この建物の外の人々も止まっていたのだ。まるで歩く姿をした石像が何個かあるのを私一人だけが美術館で鑑賞しているかのようだった。この鑑賞は大学の外を出ても同じことだった。
さらに私は大学を出てアクシデントに見舞われた。それは大学まで電車通学なので時間が止まったこの状況では帰るのに困難である。バスも一応あるが同じ状況だった。
私は考える間もなく決心した。歩いて帰る、と。
しばらく歩いた時だった。さすがに太陽に照らされながら歩くと周りが黒く見えてしまう。いや、見るのも嫌になってきた。
自動販売機で飲み物を買ってみるようとしたが、あの本を時のように時間がかかる。私は別として自動販売機が動いてないのだ。さらに財布さえも開けるのに時間がかかる。これは厄介な筆術だ。
さらに少し歩くとリュックが軽くなった。横で車が動き回る音がする。人の歩く音もする。どうやら眼鏡が筆術を解いたらしい。私はそこの最寄り駅から電車に乗って引き返すのもなんだか恥ずかしい感じがしたのでそのまま帰ることにした。というよりも駅のホームで本のページに書かれていたのだ。
『早く家に帰れ。両親が危険』と。
何のことかわからないが、その通りにした。大学には友人に一応SNSを通して早退として報告して置いた。母親たちに報告するのはなにか心配されると気まずい感じなのでやめておいた。そんなこんなで私はそこから駅に来た電車に乗り込むのだった。