1節 手にした本
大学の図書館の自動ドアが開く。
白い物体の横にある黒色のドアが自分を止めるが、学生証をかざすことでドアが開き通過することが可能になった。
軽い足取りでしばらく前を進むと下に降りる階段が現れる。
私は迷いもなく下に降りる。
そこの階にはたくさんの書架(=本棚)が並んでいる。それに加えてパソコンや机もある。
いつも自分が見ている図書館の姿である。
階段から下りて右に進み書架と書架の間を歩く。
大量の本が書架に置かれている。
一つの書架を端から端まで渡り終えて出たところは左側には書架が三架、右側には八架ある。そして右に進んで歩く。
両側には茶色の書架の端側にある赤色のプレートが見える。
プレートの文字には経済、国際、科学、工学など専門分野の名前が書架によって分けられている。
どの書架も前後に本が置かれている。
前から三番目の書架の端で立ち止まる。
そのプレートにはこう書かれていた。
『日本文学』
その書架の本を見る。
書架内のスペースが微妙に空いているところはあるが、ここの書架だけではない。他の書架も同様である。
書架内を眺めていると宮澤賢治や樋口一葉などの近代の小説や詩集があるかと思って見ていたら、村上春樹などの現代小説が現れた。それが現れた瞬間、足を止めてじっくり眺める。
いつものやり方である。
しかしながら今日はこの書架の並び方に微妙な違和感があった。
全体的にはいつもと同じ感じである。
その違和感が何かについて眺めていたら理由は分かった。
一冊の本だけが背表紙を奥に向けて置かれているからだ。
その本を手にしてみる。そして背表紙をこちらに向けてみる。
どういうわけか上下逆さまになっていた。
これではまるで高校の時に数学で習った、命題の対偶関係のようであると思ったが本の表紙を読み終えたら今までの状況が一変した。
その表紙は次のように書かれていた。
『この本を手にした物が全てを変える』
本を開こうとした瞬間、書架に置いてあった周りの本が自分に向って一斉に飛んできた。
反射神経が良かったのかは分からないが、無意識に地面に倒れ込んだおかげでそれらから逃げ切ることができた。
しかしそれらの本は止まることなく窓のガラスを突き破り外に出てから地面へと落ちていった。
急に警報機が鳴り出す。
今まで学校のガラスが割れたことは少なくとも自分が見た中で一度もない。
私はその場から少し離れる。
ここにあった書架の本はきれいになくなっていたが、他の書架の本は何もなかったかのように置かれていた。
書架と書架の間を出て周りを見渡す。
周りの人がこちらを見ている。
自分を見て話している者さえもいる。
それだけならあまり良くはないが次の事柄が起きるよりは良かった。
階段の近くの受付の辺りから叫び声がし始めた。
空っぽの書架とは反対側の書架に足を運んだ瞬間、本が自分に向かって徐々に落ちてくる。
足早に歩いたおかげで落ちてくる本に当たらずに済んだが、安心するのは早かった。
その周りは火に覆われている。人も本も燃えている。
さっき落ちてきた本を申し訳ないと思いながら踏み歩く。
そして空っぽの書架を端から端まで通過して窓の付近まで急いで走るが、さっき自分の方に飛んできた本が燃えているおかげでそこからは出られなかった。
後ろ側で立っている気配がした。
そこに立っていたのは受付の女性だった。
「その本を返しなさい。海塚幸平君」
なぜ彼女が自分の名前を知っているのか分からない。
彼女とは全くと言っていいほど関わりもない。
ただ、この本を絶対に彼女に与えてはならない気がするのは確かである。
彼女はさらに言う。
「そうよね。借りたい本を読みたいよね。でもそうはいかないのよね。ヒホウ……」
彼女は言いながら指を動かしていた。まるで何かの文字を書くかのように。
急いで奥の方の書架へと走る。
彼女は焼く気なのかと不意に思いながら走る。
奥から三番目、つまりこの階に来て最初に通過した反対側の書架までたどり着いた。
そのまま階段の方へ走って行く。階段付近は火が付いてないようである。
階段が目の前にあるところまで着いたが、彼女も近くにいた。
ちょうど受付の前に立っていた。
しかしもう一人彼女らしきものが一人いた。受付のイスの上で彼女が黒焦げの姿で座っていた。
「あらやだ。私の本当の姿を見ちゃったようね」
この女は何を言っているんだ。
彼女の後ろが火で覆われている。逃げるなら書架と書架の間を通らないといけないぐらい燃えている。
しかし彼女の姿はそこを歩くところは見えなかった。
「まあいいわ。どうせこの階丸ごと燃やすから」
「本も燃えてしまいますよ」
「死ぬのに口答えするのね。いいわ。コントロールして燃やさないよ。あんたは燃えるけど」
嫌な予感がした。俺は急いで階段を駆け上がる。
「ヒサン……」
自分が階段を駆け上がったとき熱風が後ろから来た。
しかし運良く自分に被害はなかった。
前を向いて走ろうとした瞬間、自動ドアの前にあったあのドアが本で覆い尽くされていた。
それに何だか急に寒くなってきた。
受付の方に目を向けてみると受付の男性が凍っている。
「待っていたよ。海塚君。悪いことは言わないからその本返してもらおうか」
後ろを振り返ると冷凍化している書架からこちらに向かって歩いてくる男性がいる。
受付の優しそうな男性である。
この男も自分の名を知っているのか。
急に怖くなりその場を走りだした。
「図書館は静かにする場所だよ、海塚君」
積み重なった本に向かって飛び蹴りをした。何冊あったかは分からないが、見事に本は雪崩のように崩れていった。
「トウサン……」
危機一髪で外に出れた。もしワンテンポでも遅れていたら自分は彼に捕まっていた。
急いで走る。たとえ誰に見られても。
気が付くと大学の最寄りの駅まで走っていた。
右手を見る。
急いで逃げてきたから、本を貸し出し機に通すことを忘れていた。
いやむしろそんなことはできなかった。
タイトルをもう一度見る。
『この本を手にした物が全てを変える』とは何だ。
答えは本の中に書かれている予感がした。
ひとまず人のいない場所へ逃げなくてはならない。
リュックにその本をしまい込み駅の入口へと入って行く。