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後編

 わたしの車は洗車場にあるし、そのホテルに着くまでかなり距離があるように思われた。車を降りてからも迷いは消えず、ここで断わって、引き返す車内での気まずさとこれからの関係を慮り、わたしは岡田さんに誘われるまま、部屋を決めるのも彼任せで、エレベーター内の僅かな時間も、覚悟を決めることが出来ない自分と、こんな時だけ強引な岡田さんの態度に戸惑い、正しい判断を下せず、とうとう、こじんまりとした廊下にある一室内の扉の奥へと入ってしまった。鍵は岡田さんが持っていた。

 お互い、初めてではないことは普段の会話から理解していた。わたしは部屋を見回すふりをしながら必死に冷静になろうと努めていた。ふいに、大きな衣擦れの音が室内に広がり、反応し振り向くと、岡田さんは上着を脱ぎTシャツの袖を捲くる最中だった。

 肘から肩口にかけミミズみたいな傷痕が、目を覆いたくなるくらいにたくさんあって、一瞬で視線を逸らしたはずなのに、その光景がいつまでも脳裏に焼き付けられてしまった。

「ひくよね、いきなりじゃ…」

 鈍く、重い口調の声に反応し、吸い寄せられるよう傷痕に視線が向かう。また見てしまった。一定方向に刻まれたそれらに逆らうよう幾つかの傷痕も目に入った。それはひどく乱雑な傷痕だった。血の滲んでいる、傷口の開いているものもあった。

「でも、騙してるみたいだから……」

 どうしても確認したかったから、と大学生になった頃から、最初はカッターナイフだったとか勝手に身の上話を彼は始めていたが、実際それどころではないわたしは、どうすればこの状況から無事に帰れるだろうかと、最悪この人に体を自由にさせても仕方ないという考えにまで至っていた。岡田さんがいつの間にか、片手に剃刀を握っているのが見えたからだ。

 これ、この剃刀が、よく切れるんだよ、とつぶやき、それを握る手元も落ち着かない。クスリでもやってんじゃないのかこの人。伏し目がちに濁った瞳の焦点がどこにあるのか分からない。

 その類の人達をわたしも知らないわけではない。でも実際に遭遇したのは初だったし、いきなり痛々しい傷痕を見せられ、彼の子供時代の悲惨な身の上を脈絡も無いまま聞かされ、多少の同情はしたが、そのうえで一体わたしにどうしろと言うのだろうか。

 それでも強引に、混乱する気持ちの中で、頼りない過去の知識を搾り出すようにして思い出そうと意識を集中させる。どこかで見たか聞いたかした、その類の人達の扱い方を。

 反論するのはいけなかったはずだ。でも安易に同情するのもよくない、しかし無言のままでいる訳にもいかない。無視されていると思われて逆上しかねない。なにか言わなければ、

「モノマネします」

 突然、岡田さんが最近テレビでよく見る、正直わたしにはまったく面白さが分からない芸人の一発芸をやりだした。片手に剃刀が握られたままなので、それがいつこちらに飛んできやしないかと身構え、その、大人の男がTシャツ姿で、袖を捲り、自傷痕まみれの腕を振り回し、そんなの関係ないと叫んでいる光景に青ざめ、わたしはぼうっと半開きの口から、よだれがたれているのに気がつくまで、放心状態でその奇行を眺めていた。

 今、ここに狂った人がいる。この人は間違いなく精神異常者だと思った。もしこれがこの人の演技だとしたらなんて考えも及ばないほど、はっきりとそう思わせる強烈な怪奇さがそこにはあった。

 息を切らしてひとしきり踊っていたかと思えば、今度は唐突にしゃがみこみ、膝を抱えた姿勢で黙り込む。肩が大きく上下に動く。気持ちの悪い生き物を見る心地だ。

 こどもの頃、近所に無駄に吠える飼い犬がいて、その道を通る度に慎重な足取りになったものだ。今、その時の慎重な足取りで、目の前の狂人を逆なでしないようにと、わたしはドアまでの距離を詰めようとする。

「ごめんね……」

 まだうずくまり肩で息をしている男の口からそう聴こえると、わたしは必死に堪えていた緊張が一度に解けその場に泣き崩れる。

 しばらくの間、わたしの泣き声が室内に響きわたり、その間息を整えたそいつが、大丈夫、と立ち上がろうとして床に手をつけたから、また恐怖がぶり返し、

「動くな、近寄るな」と泣きじゃくりながら甲高い声で叫んだ。

 大声で目の前の男を制し、わたしは立ち上がり、もう遠慮なくドアまで早歩きで向かう。

わたしに怒鳴られた瞬間、びくっと固まったまま動かないでいた男が、ドアノブに手を掛けたわたしを呼び止めこう言った。

「あの……、清算するなら、一緒に出よう」

 慌てて上着を着ているその男の後姿に込み上げてくる怒りを抑えるため、わたしは両こぶしを固く握り締め、肉に食い込む我が爪の痛みの中、こう考えていた。

 この人はひどい奴だ。わたしにも落ち度はある。勝手に理想の彼を作り上げ、この人ならとここまでついて来たのはわたしの判断なのだから。

 でも、わたしの気持ちを利用し、わたしに対し、一方的な同情を求め、すがりつこうとしてきたこの人も、わたしの想いを裏切り、まだ芽吹きはじめだった愛情を踏み躙ったのだ。彼を非難するには充分すぎる理由ではないか、ずるい……。

 いつの間にか口に出てしまったその言葉に彼が答える。「そうだね、ずるいね、ほんと、俺なんかどうして生きてんだろうね……」

 知るか、勝手に死ねよ――。

 わたしを先頭に廊下を行き、エレベーターは、一緒は嫌だと愚図るわたしに従い、彼は後から降りてきた。清算は彼が済ませていた。そのまま出口まで一直線に向かうわたしを呼び止め、送ろうか、なんてこと彼が言わなかったのはお互いに幸運だった。そんなこと言われていたなら、その場でぶん殴ってやっただろう。

 ホテルから洗車場までの道程は全く覚えていなかった。それでも、タクシーを拾ったり、他人に道を訊くことをしなかったのは、この言い知れない怒りと情けなさを体力で消費させたかったからだ。

 足のひきつる程歩き回った後、夕暮れの建物の上に覗く、洗車場の電光板をようやく探し当てた頃には疲労感でいっぱいだった。それでも洗車場の従業員に、無断駐車がどうのと注意を受けると、怒りは蘇り、切れ気味に謝り、さっさと車内に乗り込んでやった。


 岡田さんは、次の日から連絡も無く欠勤を続け、五日後の夜遅くに社長宅に辞表と菓子折りを持って現れた、と休み明けだったわたしは皆より一日遅れで聞かされた。

おばちゃんは雄弁に語り、岡田さんの離職回数が多いことに最初から疑問を持っていたと、彼の履歴書を覗き見ていたことをこれ見よがしに話し、「前にね、給湯室で薬を飲んでるのを見たことがあったのよ。風邪なのって訊いたら、そうですって」とあの時から怪しかったわね、あの子は、あの素振りは普通じゃなかったわ、そういってまた眼鏡のズレを直す。わたしはおばちゃんの、眼鏡越しの上目遣いが苦手だった。他人の私生活を覗きたいと言わんばかりの眼差しはいつでも周囲を監視していたからこそ、そのことにも気づいたのだと思う。眼鏡、ズレないやつに買い替えてくれないかな。

 陽子さんは、岡田さんのことにまるで無関心で、適当におばちゃんのおしゃべりに相槌を打っている。お弁当を食べる手を休めずに、軽くおばちゃんをあしらう、陽子さんの態度は見事だった。この中で陽子さんが一番幸せに生きているのかもしれない。結局他人に深入りしないほうがいいのだ。男女関係は深入りせざるを得ないのだけど、それでも、あんなことがあったから当分の間は男には関心を抱くまいと、わたしは心に誓う。

 社長は途中になってしまった作業を電気屋を呼んでやらせていた。伝票整理も手作業のままだったが、わたしはひそかに本を買い、エクセルの勉強を始めていた。食事休憩の合間、教本片手にキーボードをたたくわたしの耳に、勝手に社長とおばちゃんの会話が入ってくる。

「やっぱり、男で事務員に成りたいなんて軟弱な奴はダメだな。今度からは女の事務員限定で募集しよう」と。

 それなら、求人誌には、女性が安心して働ける職場です、とか書いておけば大丈夫でしょう、と陽子さんが言った。雇用の男女差別になるから、そういうニュアンスで求人を出せば、よっぽど空気の読めない男じゃなければ応募してこないらしい。陽子さんのさりげない冷淡さに憧れる。既婚の陽子さんと独身のわたしの女性としての違いはそこにあると思えてならない。わたしもそんな風に男をあしらえる女になりたい。

 岡田さんが社長宅に訪れてから一週間もしないうちに、皆もう興味が失せたらしく、彼のことは誰も話さなくなった。元々入れ替わりの激しい職場ではあったから、皆の対応はそれなりに納得がいった。あの体験をしたのは、わたし一人なのだから。

 岡田さんに興味があったのはわたしくらいで、意外にも社内では真面目でパソコンに詳しい人程度の認知しかされていなかった。わたしだけが盲目だったらしい。だからこそ、あんなに、簡単にホテルにまで着いて行けたのだけど、もしあの時、わたしがほんの少しでも妥協した態度を見せていたらと考えるとぞっとする。あとで分かったことだが、男性作業員にわたしの身の回りのことをそれとなく訊いていたらしい。幸いストーカーされることはなかったが、岡田さんのような人達の気持ちを、わたしのような常人が理解できるはずはないのだから、あの時、彼に歩み寄るということは、わたしも狂人の領域に踏み込んでいくということになっていたのだと考えてみれば、あの場面でみっともなく泣きじゃくって、叫んで、突き放しておいて本当によかった。彼が逆上してわたしに襲い掛かって来なかったことも幸運だった。

 彼の身の上には同情はする。だからといって、わたしの足を引っ張り、その世界に引きずり込もうとする行為には納得がいかない。あくまで、その不幸は貴方だけのものなのだから。彼は優しいのではなく、卑しいのだ。

 とは言っても、彼のような人達は、また別の場所で、いい人の皮を被って、依存相手という名の獲物を見定め、その相手を捕獲すべく似たような行動を繰り返しているに違いない。その女性がわたしのように、運よく彼の罠から逃れられるかは、もうわたしの考える範疇ではない。これはもうわたしには関係のないことなのだから。

 わたしは“ふつう”で彼は“異常”その隔たりは大きく、決してささやかな好奇心程度の愛情では埋められるものではないということを今回のことでわたしは学んだ。


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