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前編

 父の馴染みだからという理由で勧められた自動車工場の事務の仕事を始めてようやく二ヶ月が経った。社長は父の同級生だからなのかわたしには特にやさしく接してくれていた。通常の業務にも一応の、自分なりの流れというものを見出し、先輩のおばちゃんとわたしより四つ上の陽子さんとは、表面では愛想よくできていた。おばちゃんの仕事は事務所にかかってくる電話の応対や、たまの来客にお茶出しするくらいの簡単なもので、せっかく一人一台あるパソコンをたたくことも稀で、わたしと陽子さんの受け持ちはもっぱら手作業の伝票整理と、作業員の勤務管理、それと時々銀行への入金や案内状を出しに郵便局へ出かけることだった。ほとんどが陽子さん任せだったに違いなく、おばちゃんがどうして雇われているのか最初は理解出来なかった。パソコンの入力は遅いけど、愛想はいいからわたしよりは来客対応はうまかったから、きっと適材適所なのだろう。

十人程の作業員は出入りが激しく、たまに若い子が入ったかと思えば、よく顔も覚えないうちに辞めてしまっていたし、その度に雇用保険のことでおばちゃんがぶつくさ愚痴っていた。

「せめて三ヶ月は勤め上げてから辞めるのが筋でしょう。堪え性がないのよね、うちにくる男共は」

「結構大変な仕事だからですね」

「ううん。何にも分からんうちからキツイばっかり言ってたって、どこ行っても勤まらんわよ」

 そういっておばちゃんは眼鏡のずれを直すしぐさのついでに、先日辞めていった彼らの代わりになのか、わたしを睨んでみせた。雇用保険の手続きなんてそんなに面倒なのだろうか、わたしが行うわけではないのでどうでもいいのだけど、人がすぐ辞めていくというのが最も気に入らないらしい。

 おばちゃんの隣のデスクで昼ごはんを食べている陽子さんが我慢してねという風に眉をしかめているので、わかっていますという苦笑いを返してやる。陽子さんはわたしが入社する三年も前からここで働いていて、子供がいるから早い時間に帰ることを条件に入社していた。

わたしは大学卒業後、アルバイトばかりしていた生活から抜け出すことができ、初めて正社員として働くことになり、多少の不安もあったが、陽子さんとは何かと話が合い、職場の人間関係はほぼ良好といったところだった。でも、陽子さんの帰宅する五時から、わたしが帰る六時までの間おばちゃんと二人での業務となる。その時間にはやることもほとんどなくただ定時まで居ることが仕事みたいなものだが、その一時間おばちゃんの雑談に付き合わされることが苦痛でたまらない。せめてもう一人いてくれたらなんて考えてさらに二ヶ月が経ち、三人いれば困ることもない仕事内容にも関わらず、ある時社長がもう一人事務員を雇うといいだした。その話を社長がおばちゃんとしているのを聞きながら、わたしはひそかな期待をしていた。これでおばちゃんの愚痴を一手に引き受けずに済むのだと。

 求人誌に広告を出した次の日すぐに希望者からの電話があった。陽子さんが受けた電話の面接希望者は男だった。歳は二十八、電話の感じでは柔らかい物腰の人だったらしい。最近では男性の事務職希望者も多いそうだ。

 でもうちの会社はそんなに給料はよくない。

男の人がこれだけの手取りで大丈夫なのだろうかとおばちゃんは勝手に心配していたけど、面接に訪れた彼は社長の提示した待遇に不満を言わなかったそうだ。

 その次の日から、彼、岡田さんはわたしの隣のデスクで働くことになった。下っ端のわたしが岡田さんの教育係りというわけだ。最初だけ愛想の良い挨拶をくれた岡田さんは仕事に入ると寡黙で、必要なこと以外わたし達には話しかけてこなかった。その時の印象は大人しく真面目そうな人程度だった。

 岡田さんの見た目はふつうといっては失礼だが、特徴のない、それでも毎日のネクタイの柄から身だしなみに気を配っていることは窺えたし、顔立ちだって色白だけど、並程度にはかっこいいと思った。わたしは幾分期待する気持ちもあり、なにかと理由をつけては彼に話しかけるようにしていた。そのうちおばちゃんや陽子さんも、初めのうちは知らぬふりでいてくれたが、おばちゃんがあからさまにそういう話題を岡田さんに振るようになってからは、その度にいちいちわたしはこどもみたいに照れたり怒ったりしていた。

 ある時岡田さんと帰りが同じ時間になった。岡田さんは入社して二、三日後から社長に頼まれて、取引先の情報を簡単に検索するプログラムみたいなものを作成するため、残業をするようになっていた。通常の業務はわたし達でも充分こなせていたし、社長は岡田さんのことを事務員としてではなく、もっと上の責任者として育てたいらしく、取引のある会社の人達の会話の場によく呼ばれている岡田さんを見ておばちゃんが、「どれくらい持つかしら、いい子そうだから長く居てほしいわね」と年甲斐もなく色気づいていた。

その日は、陽子さんが、こどもが熱をだしたからと会社を休んだので、わたしは陽子さんの分の仕事を引き受けることになり、おばちゃんは「がんばってちょうだいね」と自分は歳だから仕事が増えるのはきついからなんて言い、手伝ってはくれず、ひと月足らずで基本業務をこなせるようになっていた岡田さんは社長に気に入られ、また別のことをやらされていた。当初の、人が増えたら楽になる という思惑ははずれ、わたしは陽子さんが、こどものことで、度々休みを取ることが疎ましくなってきた。その日も熱を出したこどもの為に、わたしは残業を強いられることになった。

 駐車場で、車に乗り込もうとする岡田さんを見つけ、仕事の終わった開放感から駆け寄って話しかけてみた。職場外で話しかけるのは初めてだったのでどういう反応がくるか不安だったけど、岡田さんの方も開放感からか、珍しく笑顔を見せてくれた。

「今なんの作業をやってるんですか?」

「社内のパソコンを繋いでいます、ものすごく簡単に説明すると……、まあいろいろですね、なんでも屋みたいにやっていますよ」

「大変なんですか?」

「多少。業者を頼むくらいなら自分でやった方がいいという程度のものですよ。パソコンの数も多くはないですし、基本的な知識があれば出来ます」

「あ、なんかパソコンの資格持ってるんですよね」

「はは、資格なんて必要ないですよ」と岡田さんは、本当は業者を入れるところを社長がケチって、試しに岡田さんにやらせているのだという話を教えてくれ、以前から気になっていたと前置きをして、伝票の整理を手作業でしていることにも触れ、いずれエクセルで出来るようにすることを約束してくれた。確かにエクセルでなんとか出来そうだとはわたしも考えてはいたが、勉強する気が湧かなかったからそのままでいた。もしかして岡田さんはわたしの作業をなんて面倒くさいことをしているんだなんて呆れていたのかも、と急に自分の不勉強さに恥ずかしさを覚えた。そういえば、

「何で敬語なんですか、普通にいいですよ」

「ああ、そうですか、じゃあ、早川さんはこの会社、どのくらい勤めているの」

 岡田さんは多少くだけた物言いになり、まだ半年も経っていないと答えると、へぇ、とだけ頷き口元をゆるめた笑顔をくれた。その後お互いの車について話した。わたしのは、親の軽で洗車なんてしたことないから黒の車体は汚れがひどいことにまた恥ずかしさを覚えた。なかなかそんな暇ないよねと岡田さんは言い、自分の白い車についた汚れを指で触って、

「結構洗ってないからなぁ」

「わたしも手洗いしてみようかな。岡田さんはどこでやってるんですか?」

「うちの近所に大きな洗車場があるから、そこに行ってるよ」

「そこ、行ってみたいな」

「うん、言ってみなよ。安いし、一台ごとのスペースが広いから人気あって、平日の夜でも混むんだよ」

 場所は明日詳しく教えるからと残し、岡田さんは車に乗り込んでしまい、わたしはちょっとした失望を感じ、お疲れ様でしたの声も控えめになってしまう。距離を詰めようとすれば僅かに身を引くような、岡田さんの態度をその時は、彼の遠慮がちな性格からくるものだろうとしか考えていなかった。

 次の日、陽子さんが帰った後、おばちゃんが席を外すタイミングを見計らって岡田さんが洗車場までの地図を渡してくれた。わたしは特に気にはしていなかったのだけど、おばちゃんのことを考えてそうしたのだろう。岡田さんがわたし達の普段の会話をしっかり聞いていたことに加え、密やかな二人だけの遣り取りが出来たことが、岡田さんへの親密度を増していくように思えた。それだけでは我慢できずわたしは岡田さんの帰りに合わせ仕事を遅らせようと、形だけ気遣うおばちゃんを先に帰し、時間調節の為、わざと席を外し、倉庫に備品を探しに行く振りをしたり、トイレに行っては鏡に写る自分をまじまじと眺めたりしていた。

 トイレから戻ると、岡田さんが鞄に手をかけていたのが見えたので、

「もう、終わりですか?」

「うん、ところで、あの地図で分かりそうかな」そういいながら岡田さんは帰り支度を止める素振りを見せないので、慌ててわたしもパソコンの電源を切ってまわった。いつの間にか、陽子さんとおばちゃんのパソコンの電源を最後に切ってから帰るのがわたしの役目になっていた。わたしが普段よりも急いでいる様子を感じ取ってくれたのか、岡田さんはまだ帰ろうとはせず、いったん椅子に座りなおし、デスクの引き出しを開け、中の整理を始めた。わたしがタイムカードに打刻し終えると、

「じゃあ、帰ろうか」と立ち上がり、わたし達は並んで駐車場まで歩いた。その途中で、今度の休みに洗車場で互いの車を洗う約束をしてその日は別れた。


 祝日の午前中に、ホームセンターで待ち合わせをし、そこで洗車に必要な道具を買い揃えた。ほとんど岡田さんの手持ちのやつで済みそうだったので、わたしはスポンジと拭き取りようのクロス、岡田さんはセームという呼び方をしていたが、水に濡らしてから使うものらしい。自動車用洗剤は岡田さんの勧めるメーカーのものにし、洗剤を薄めて使う為の、赤く小さなかわいらしいプラスチック製のバケツを、それはわたしの趣味のものを選んで買った。

 ホームセンターを出て、岡田さんの後について普段通ったことのない道を不安げに進むわたしを気にしてか、前を走る岡田さんの車はゆっくりとした運転を心がけているようだった。わたしの前に割り込んでくる車がある時は、前の車をわざと先に行かせてくれ、おかげでわたしは岡田さんの車を見失うことがなく、安心して初めての車道を走ることができた。

 岡田さんの新車に近いくらい綺麗な流行のコンパクトカーは、少し気取った男達が好きそうなタイプで、ホワイトカラーはいかにも岡田さんらしい、きっと部屋の内装もマンションのモデルケースさながらのよく整理された部屋に違いない、いつか行ってみたいな、なんて期待を抱き、いつかくるであろう岡田さんとの親密な関係を空想の中で繰り広げ走っていたら、洗車場までの道程をどう進んでいたのかほとんど覚えていなかった。帰りはどうしようかな。

 駐車場は岡田さんの言っていたようにとても広く、中央にセルフのスタンドが、洗車する場所と室内清掃の場所を区切るように配置されてあり、洗車スペースは一台ごとに個室のようになっていた。

十台以上ある洗車スペースの奥まった所に空きを見つけ、まずわたしの車から洗うことになった。その間岡田さんの車は、たぶんわたし達のような利用者を想定してか、きちんと待ち合いの駐車場も用意されていたのでそこに停め、小走りでかけてくる岡田さんの走り方がちょっと女の子っぽくって微笑ましくなった。

「じゃあ、まずそこの洗車ガンを握って」と岡田さんは洗車機のコイン投入口に五百円玉を入れ、わたしが、払いますよというより早く「しっかり握っててね、勢いが凄いから」そういって普段見せない意地悪そうな笑顔で、洗車機のスタートボタンを押した。機械音で開始のアナウンスが流れ、突然わたしの両手にびっくりするほど反動があった。その瞬間勢いよく飛び出した水は上方向に向かい、それを見て岡田さんは半笑いで、「だからいったでしょ、一旦止めようか」

 停止ボタンを押しながら、代わりにやってあげるからとわたしの手からガンを取り上げ、慣れた手つきで、スプレーのごとく噴出する水の勢いにも動じない腕力は、やっぱり男の人だなと丁寧な作業の、その後ろ姿を、遠慮なく注視していた。

 その後岡田さんに言われ、バケツに水を汲んで洗剤を入れる。泡立つくらいに混ぜたら、「車体が乾燥してしまうと洗剤が残るから、なるべく早く洗ってしまおう」

 備え付けの台にのり、上は俺が洗うからと岡田さんはやけにきびきびと洗い始める。ワイパーを上げ、わたしはまずウインドガラスから手をつけることにした。泡大丈夫、と岡田さんが訊くので、わたしの方に飛んでこないか気にしてくれてるのかな、

「はい、ワイパーも洗ったほうがいいんですか?」

「そこ洗わないとびびるんだよね」

 その際に、ワイパーが作動中にガツガツと引っかかったような音を出すことをそう言うのだと教わった。わたしは本当に無知なんだなとつくづく思い知らされる。岡田さんはわたしのことをどういう風にみているのだろうか……。車に詳しい女なんてそういないだろうし、今も手を休めず他人の車を洗い続けるこの人にはそんなことどうでもいいことなのかもしれない。それでも岡田さんに対しては卑屈になってしまう。好きになっちゃったんだな、わたし。

 洗車がすんだら室内清掃のスペースに移りすぐに拭き取りを開始して、それもほとんど岡田さんが一人でやってくれ、

「ワックス買うの忘れてたね」とワックスも色によって使う種類が違うことを教えてくれた。 しかたがないのでワックスがけはせずに、次は岡田さんのをと思っていたら、その前に食事をしようと、もう行く店まで決めていたようで、わたし達は一度洗車場を出て近くの洋食屋に入った。

 特別においしいとか有名とかではない店だったけど、二人で食事をするということが嬉しかったので、味なんて本当はどうでもよかった。それでも、

「けっこう美味しかったですね」とだけは、岡田さんの期待していただろう言葉を副え再び洗車場へ向かう。

 昼過ぎの駐車場にはもう空きがなく、岡田さんの洗車は諦め、時間にも余裕があったので、二人でどこかへ行こうかという話になり、岡田さんの言動がよそよそしく、それで勘付いてはいたが、自分から誘うのもためらわれるし、汗もかいているから、できれば初めての洗車で疲労した体でそんなことになるのは避けたかった。化粧だっておちかけてきてるのに。それでも食い下がる岡田さんに多少の不安を感じながらも、わたしは承諾した。

 私の車は洗車場に残し、岡田さんの車で向かう。わたしはまだ戸惑いを消せずにいた。まだ間に合うかも、と信号待ちの度に考え、やっぱり止めますというタイミングをそのつど失い、とうとうホテルの入り口をくぐってしまった。


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