商人
俺とシャロンがいた洞窟を出て北東に馬で一日ほど進めばテンスワード自治領の領内に入る。
とはいえ西端付近は漁村や農村などの小さな村がメインであり、立ち寄ったアーロンという村も多分に漏れない小さな農村だった。
活気はなかった。それはのどかな田舎……という理由だけではない。
「……整理されてる畑に比べて、随分と農夫が少ないな」
加えて言えば元気もない。陰鬱とした雰囲気を纏っている男たちが緩慢とした動作でクワを振り下ろしている様は、農作業というよりむしろ強制労働させられている受刑者のようですらあった。
いや、シャロンの証言からするに、そういった認識こそが正しいのか。
「ユウヤ様、戻りました」
「ご苦労様。水や食料は融通してもらえたか?」
「ほんの少しですけど……。でもこれ以上は望めません。この村も若い人手は奴隷として連れていかれてしまったようなので……」
そう。先程から農作業をしている男たちは総じて初老と言って良い年齢の者ばかり。それもこれも、男女問わず若手が全て奴隷商に連れていかれてしまったからだ。
俺が『真理直結』から聞いたところ、テンスワード自治領には複数の貴族がおり、それぞれが一定地区を管理しているわけだが、シャロンがいた村を含むこの辺りを支配するのはゼルエン男爵という人物らしい。
ゼルエンは割と最近爵位を父から受け継いだようだが、両親が過保護だったのか随分と我儘に育ったらしく、金使いが極めて荒く、そのしわ寄せはすぐさま領民からの税引き上げという形で現れた。
抗議する者、税を納められない者はすぐさま奴隷商に売りつけられてしまったという。奴隷になりたくない領民が必死になって税を納めるも、ゼルエンは増長し更に税を重くしていった。
そうなればまた払えなくなる者が出てきて、奴隷商に連れていかれ、更に税が重くなり……といったことが繰り返された結果がこの光景だそうだ。
私利私欲のために領民を金にして売り払うなど下種の極みも良いところだろう。
更に救えないのが、こういった悪行を周囲の貴族も気付いているにも関わらず、敢えて無視しているということだ。
ゼルエンという男、意外にしたたかというか、近隣貴族には賄賂を贈り友好関係を築いているらしい。ただ欲張りの馬鹿ではないところがなおのこと性質が悪いと言える。
だからこそ、いきなりゼルエン男爵邸に乗り込むというのは得策ではない。
俺も、ましてや力に目覚めたばかりのシャロンも、戦闘経験が足りない。高い能力のゴリ押しでどうにかなる可能性は高いが、頭が回る相手ならある程度以上の自衛手段は用意しているだろう。危険はある。
それにもし仮にゼルエンを討つことが出来たとして、そうなると懇意にしていた奴隷商たちはどうなる? 十中八九、雲隠れするだろう。
そう考えれば、居場所が確定していて動くことはないだろうゼルエンよりも、多くの村人たちが捕まっているという奴隷商を先に叩いた方が救出出来る可能性が高い。
そうシャロンに説明すれば、彼女は拒否することなく頷いてくれた。
「あの貴族は燃やしたいほど憎いですが、まずは家族の安否を確認したいと私も思っていました」
「お、おう」
シャロンの言動がやや物騒なのはそれだけ件の貴族が憎いから……というのもあるんだろうが、多分この村の道中での出来事もあるだろう。
ある程度理解していたが、この近辺の治安は大分悪い。洞窟から最寄りのこの村に立ち寄る途中でさえ、三度も山賊や盗賊の集団にお出迎えされた。
対するこちらは二人とはいえ、スペック上は並を凌駕する。まず負けることはないだろう、なんて思っていたが、結果は更に上を行く。
三回とも全てシャロン一人の一発の魔法で決着となったのだ。
脅威度高ランクの魔物に比べれば山賊などの殺意は微風程度。殺される恐怖も殺す恐怖も強い意志で押し殺したシャロンが止まる理由は一切なく、広範囲殲滅魔法の一撃で焼却された。
魔物ではなく人相手だから少しは堪えるかとも思ったが、シャロンにそういった様子はなかった。それすらも意志でねじ伏せたのかと思ったが、どうも想定外の勢いで吹っ切ってしまったようだ。
それからシャロンの言葉がやや過激になってきたわけだが……まぁ戦場での戦いを乗り越えたやつらの言動が荒くなるのはある意味日常茶飯事だったし、仕方ないといえば仕方ないんだろう。うん。
別に現実逃避じゃないぞ。これが真理というだけだ。
「じゃあすぐにも動くとしよう。あまりこの村に長居しても迷惑になるだけだろうしな」
「はい。……ですけど、奴隷商の場所はわかるのですか?」
「売り手がいるということは買い手がいる、ということだ。奴隷というシステム自体は非合法なものではないから、ある程度大きな街に行けば大っぴらに構えている店もある。そこから探し出そう」
「なるほど。わかりました」
まぁそういった仕組みは全て『真理直結』から聞いた話だが。
というか、そもそも特定個人の居場所が知りたいだけならそれこそ『真理直結』に聞いてしまえば答えは出る。この地区の村民を連れていった奴隷商たちの居場所、とでも聞けば全員の所在地だってわかるだろう。
だがそれは直接的な解決にならない。何故ならこちらの戦力は俺とシャロンの二人しかいないからだ。
例えばゼルエンから領民を買い取った奴隷商をAとしよう。このAは『真理直結』に聞けば場所がすぐにわかる。ならこれを叩けば万事解決となるだろうか?
そうはならない。何故なら流通というものはその途中途中に別の人間が挟まるからだ。AからBに、BからCに、そしてCから……といった形で。更に言えば流通経路が一つだけであるはずもない。つまり捕まってしまった村人たちもあっちこっちに分散しているということだ。
であればAを叩いたところで他の商人たちには逃げられてしまい、他の村人たちの救出が遅れることになる。それも『真理直結』があれば追っていけるだろうが、かなりの時間と手間を費やしてしまうだろうし、時間を与えるということは相手に対応する猶予を与えるということで、更に状況は悪化していくはずだ。その間に救いきれない人間も出てくるに違いない。
つまり、関わった奴隷商を順次叩くという方法は愚策だ。
「でもユウヤ様、お店に行ってどうするんですか? まさか直接聞き込むわけにも……」
「いや、直接聞くさ。奴隷の話ならそれこそ奴隷商に聞くのが一番早い。餅は餅屋ってやつだな」
「え、それってどうやって……?」
ならばどうするか? 単純な話だ。
☆ ☆ ☆
「働き盛りの若い男と、容姿の美しい若い女、これらをそれぞれ五十人ずつくらい欲しいんだが、在庫はあるか?」
――要は、客として出向けば良いだけの話だ。
ゼルエンの管轄地区のお隣、別の貴族の管理下にある街ベルバン。そこの奥地にある奴隷商の店に入って開口一番に俺はそう告げた。
対面に座るウィルソンと名乗った奴隷商の目が胡乱なものに変化する。
無理もない。いきなり奴隷百人寄越せなどと言われたら、でかい客を飛び越えて怪しい客と見なされるだろう。だがいまはこの設定で押し通す必要がある。
「お客様。さすがにその数をすぐにというのも……。それに、あのー、こう言ってはあれですが、相応の持ち合わせはあるのでしょうか?」
当然対応もこうなるだろう。暗に冷やかしなら帰れとその目が言っている。だがその目を変えるのは容易い。
「あるとも。ほら」
目の前に革袋を放り投げる。袋の口は敢えて緩く縛っていたため、テーブルに落ちた革袋はその中身を相手に晒し、
「なっ……!? じゅ、純金貨!? それもこれほどの……!」
この世界に紙幣はなく、上から順に純金貨、純銀貨、純銅貨、旧金貨、旧銀貨、旧銅貨の計六種の硬貨がこの世界の通貨だそうだ。それぞれが十枚で上の硬貨と同価値となる。
でかい金額となると純金貨が山のようになるため持ち歩くのが大変そうだが、そうやって大量の純金貨を動かすのが金持ちのステータスになるらしい。何とも馬鹿馬鹿しい話だが。
で、いま俺が放り投げた純金貨は全部でおよそ千枚。一般的な奴隷の相場が純金貨十枚あるかないかだから、実質百人は買い取れる金額になる。
ちなみにこの純金貨、例の山賊のアジトから拝借したものである。
あそこは山賊連中が中継に使う場所だったから、他の連中が集めたものも一緒に一時保管されていたのだろう。思いのほか多くの金品も置かれていた。持ち運べそうなものは全部持って来ているから、別の山賊が訪れたときさぞや驚くに違いない。レッドベアの焼死体もあるしな。
閑話休題。
商人というのは商機に敏くなければやっていけない人種だ。そしてそれを見つけたときの商人の行動は素早い。それはどこの世界とて変わらない不変の事実だろう。
「これはこれは大変失礼をいたしました! 在庫を確認してまいりますのでしばらくこちらでお待ちください!」
さっきまでの表情はどこへやら。にっこにこと眩しいばかりの笑顔と揉み手までワンセットで速やかに裏に下がっていく。
更に先程まで出されなかった茶請けが出され、やたらと豪勢な団扇のようなものを持った女性が後ろにつきそよそよと涼しい風を送ってくる対応の変化。ここまで露骨だとむしろ笑ってしまう。
「大変お待たせいたしました。いやー、お客様はとても運が良くていらっしゃる! つい先日多数の仕入れがありまして、ええ、ご希望の商品は当店できっちりとご用意することが出来るでしょう」
「そうか。それは良かった。ならある程度見繕ってほしい」
いますぐ奴隷を見せろ、なんて余裕のないことは言わない。俺はいま奴隷を大量に買いに来た富豪という設定だ。ここは敢えて相手に選別を任せ、ある程度の余裕があると思わせる。皮袋一杯の金だって見せてある。そうすれば、
「ありがとうございます。……ところでお客様。先の仕入れですが、思いのほか大量でございまして、もしよろしければより多くを融通させていただくことも出来ますが」
こんな感じで、在庫に余裕があるのならより多くを買わせようとしてくるだろう。
予想通りの展開だが、俺は敢えて渋っているように見せる。
「そうか。仕入れが……。確かに本来はもう五十人ほど欲しいところだが、予備の金を足しても少しばかり足りないな」
五十人。その追加人数を聞き、ウィルソンの目の奥が光ったことを俺は見逃さなかった。
「ほほう、もう五十人……。大量購入していただくとなれば当店にとっても大事な大事なお客様です。ご検討くださるならもちろん誠心誠意お勉強をさせていただきますとも」
「ふむ。具体的には?」
「そうですね。二十一人目から一割引き、三十一人目から二割引きでご提供、というのはいかがでしょう?」
「それではまだ手が届かないな……。にしても、それだけの数を用意出来るのか?」
「当店だけでは無理でしょうが、実はここしばらくは大量の奴隷の売りがありまして。他店で取り扱っている奴隷を合わせれば十分に集まりましょう。……それでは五十人纏めて追加お買い上げいただけるのであれば、全ての奴隷を二割引きさせていただきましょう! これでいかがでしょうか」
全部で百五十人。これはゼルエンによって奴隷として売られた村人たちの総数に近い。どうやらシャロンのように既に売られてしまった方がレアケースで、大半は残っているようだ。
随分と気前の良い値引きだが、おそらく抱えた在庫を処理しきれないのだろう。供給が増えたからといって需要が一気に増えるわけもなし。
なら買い取らなければ良い……とはいかないか。売り手が権力のある貴族様じゃ、断ることも難しいんだろう。ある意味奴隷商側も被害者と言えば被害者か。同情はしないが。
さて、それじゃあ最後にもう一手。
「……ならばその方向で検討しよう。ただこちらも数があれば良い、というわけじゃない。全員を一気に見せてもらうことは可能か?」
「ええ、ごもっともです。ただ何分数が数ですし、他の同業者の在庫も合わせたものですので、すぐにとはいきません。二日ほどの時間をいただくことをお許しいただければ」
「もちろん構わない」
複数分散している奴隷商と元村人の奴隷たちを一ヶ所に纏めてもらう手筈も整える。
これなら逃がすことも雲隠れされる心配もない。
「ありがとうございます。それでは二日後にまた当店へお越しください。時間はいつでも構いません」
「わかった。なら今日のところは失礼しよう」
あたかも富豪であるかのような態度で席を立つ。ウィルソンと他の店員が完全に揃えられた動作で顔を下げるのを視界の隅に映しながら、店を後にした。
ちらと背後を見やれば、外にまで見送りに来たウィルソンがホクホク顔で隣の店員らしき人間と喋っていた。抱えていた在庫を一斉処分出来たとなれば、そりゃあ嬉しくもなるだろう。
だが俺が見たいのはウィルソンではない。その先だ。
「……用心棒らしき戦闘員が十人程度。ただの店員がその倍。地下に奴隷が三十人程度、か。店を構える商人一人の規模が同じだとすれば、単純計算で今回の件で関わらる商人が五人。つまり戦闘員が五十人、か」
実はしっかりと『広域掌握』を使って店内の状況は確認していた。もしもここに百五十人の奴隷がいたならそのまま強襲することも考えてはいたからだ。さすがに数が数なのでありえないとは思っていたけどな。
「前準備はこれで良いだろう。シャロンと合流するか」
☆ ☆ ☆
俺が商館に赴く前に、シャロンには別行動を取ってもらった。
彼女は一度奴隷商に捕まって売られた身だ。それもただでさえ少ない売れた奴隷ともなれば、顔を覚えられている可能性が高い。山賊に売ったはずの人間がしれっと現れたら、警戒を招くどころかその場で目的が露呈することだってあり得る。連れて行けるわけもなかった。
とはいえただ待ってもらってるのもそれはそれで時間がもったいない。そんなわけで俺が商館に出向いている間に、ある件に関して街で調べてもらうことにした。
内容が内容だけにシャロンは首を傾げていたが、それでも嫌な顔せず引き受けてくれた。
「とはいえこっちが終わるのも早かったし、さすがにまだ終わってないだろうが……ん?」
というわけで合流場所に向かうと、なんと予想に反してシャロンが既に待っていた。
内容的にそう簡単に調べられるものもでもないと思ってたんだが……まぁ詳しいことは合流して聞かせてもらうとしよう。
と、何やらシャロンの周囲の空気がややおかしいことに気付いた。道を行き交う人たち、特に男の視線がシャロンを捉えるとなかなか外れないのだ。
無理もないか、と苦笑する。奴隷に捕まった際に着せられていたのだろう飾りっ気のない白地の服装は街中では目立つため、途中で寄った村で服を新調させた。
俺はあまり自分に美的センスはないと自負しているし、小さな村で育ったシャロンもまた服に頓着していなかったが、出来る服屋の店員というのはそういった無作法を許さない。
あれよあれよと着替えさせられ、最終的にこれが一番似合う、と太鼓判を押されたコーディネートは、俺でさえ感嘆の溜息を吐いたほどだ。
ボタン部分にフリルがあしらわれた白いドレスシャツ、その肩と腕を覆うような真紅のポンチョと、同色のフレアスカート。全体的にふんわりと落ち着いた印象の服に赤と白という鮮やかな色合いは少々アンバランスかと思われたが、そこに強烈なアクセントを加えるシャロン自身の容姿と綺麗な金色の髪が加わって、人の目を惹く優雅なものに変化……いや、昇華されていた。
シャロンだからこそ着こなせるコーディネートだ。あの店員はさぞ名のある店員に違いない。
元々シャロンは顔立ちがとても整っている美少女なのだから、着飾ればこんな風に視線が集まってしまうのも当然と言えば当然なんだろう。
「あ、ユウヤ様」
そんなことを考えているうちにシャロンがこちらに気付いて小走りに近付いてくる。相変わらずシャロンのこの動作はなんというか犬っぽい。無性に頭を撫でたくなる。周囲の視線が集まっているのにそんなこと出来ないが。
「待たせたか?」
「いえ、そんなことありません」
……何やら集まる視線が急にシャロンから俺に移った気がする。それも敵意を多分に含んで。
なるほど、つまりこれが嫉妬の視線というやつか。意図していたわけじゃないが、いまの会話はあたかもデートの待ち合わせをした男女のようだったからな。
ま、この程度の敵意、戦場に比べれば気にもならんし。直接何かしてこない以上はスルーで良いだろう。
かといってあまりに目立つのは今後を考えると得策じゃない。立ち止まっていたら注目を集めるようだし、あまり人に聞かれて良い話でもない。歩きながらそれとなく話をしよう。
シャロンもこちらの意図を察してすぐ横に並んだ。
「それにしても思った以上に早かった。そう簡単に調べられるものではなかったと思うんだが」
「元々ここは私が農村から作物を卸していた街の一つでしたから、知り合いもいました。ある程度はそこから」
「なるほど。なら早速報告をしてもらいたいところだが……それは一旦後回しだな」
「え?」
「どうやら客だ」
前方、行き交う人々の中で足を止めている男性が二人。どちらも視線は明らかにこちらを向いていた。まるで……いや、間違いなく、こちらを待ち構えていたのだろう。
俺は用心のために『広域掌握』をある程度の範囲で使用していたが、この二人は最初から動く素振りがなかったからだ。
もちろんどれだけ近付こうとあちらがどく様子はない。スルーは出来そうにないか。
仕方なく目の前で止まると、うち一人の男が慇懃な態度で頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私ははネロ・アイゼンディ。この街でしがない商人をしている者です。以後、お見知りおきを」
シャロンに負けず劣らずの鮮やかな金髪をオールバックで流しているものの、ピッシリと着こなすスーツや眼鏡の存在も相俟って、理知的な印象を受ける。
表情は常に微笑を貼り付けており、声音も穏やか。相手に警戒させない落ち着いた物腰は、商人として大きな強みだろう。十中八九演技だろうが。
しかし隣にいるもう一人の人物が、そんな彼のイメージを暴力的なまでに破壊している。
「そしてこっちはロジャー・デネット。私の用心棒を務めています。無骨者故粗相もあるかと思われますが、ご容赦くださればと」
ロジャーと呼ばれた男もネロ同様スーツだが、ネクタイはないしボタンは乱雑に外されている。一目で無駄が一切ないとわかる引き締まった身体と、二メートル届くかと思しき巨体が合わさり、威圧感が尋常じゃない。口元に開けられたピアスや鋭い目が更に拍車をかけており、折角のネロの好青年っぽい空気を完全に塗り潰していた。
特徴的な二人だ。一度でも言葉を交わせば忘れることなどあり得ないだろう。だが俺の記憶にこの二人は存在しないし、本人も「お初にお目にかかります」と開口一番言っている。
さて、その意図はどこにあるのか。
「挨拶される謂れがないな。自分で言ってるように、俺はあんたたちと面識はないはずだが」
「ええ、面識自体はまだありません。ですが私の待ち人はあなたで間違いありません。だって私がお会いしたかったのはユウヤ・カイザキ様、あなたですから」
どこか含みを込めた言葉が微笑と共に向けられる。
俺はまだこの世界に来て日が浅い。名前を名乗った機会なんて未だ数回数度だ。
そんな俺の名前をフルネームで呼んだのは「何でも知っている」とアピールするためだろう。
相手の意表を突き、情報をちらつかせ、 自分のペースに巻き込んでいく。なるほど随分と優秀な商人なんだろう。
……だが、かと言ってコロコロと掌で転がされるのも面白くない。ここは一つ意趣返しと行こう。
「俺の名前を知っていることや、面識は『まだ』ない、とか含んだ言い方することと言い……あんたはその力で、俺の何を見たんだろうな?」
ほんの一瞬だが、ピクリとネロの眉が揺れた。
それを誤魔化すためか眼鏡の位置を指で正しながら、
「さて、何のことでしょうかね。私には何のことかさっぱり――」
ブラフとでも思ったのか。それとも本当に誤魔化そうとしているのか。
ただ実際に俺は知っている。『広域掌握』は対象の能力さえも把握出来るから異能。それにより知ったネロの力を考えれば、俺の名前を知っていたとて不思議じゃない。それは、
「『未来予知』。あんたが持ってる異能力だ」
次の瞬間、三つの出来事が同時に起きた。
ネロの用心棒たるロジャーが一瞬で肉薄、その剛腕で俺の頭を打ち砕こうとしたこと。
それを前もって予想して火魔法と土魔法二つの強化魔法を使っていた俺がその拳を受け止めたこと。
最後に、攻防自体は見えてなかっただろうが異常を察し、複数の炎の刃を魔法で生み出してロジャーの身動きを阻止するかのように展開したシャロン。
これらが二秒も掛からずに起こった状況である。俺やこのロジャーという明らかに戦闘慣れした男はともかく、予想外にシャロンの反応も凄まじい。この子、これからもっと伸びるかもしれないな。
しかし忘れてはいけないのがここが街中の往来である、ということだ。あまりに早い攻防だったので、見えていたものはいないだろう。だが拳を突き出した格好のロジャーと、実際にシャロンが展開している炎の刃を見れば、少なくとも巻き込まれたくない諍いが発生したことくらい誰にでもわかる。
俺としてはこんな場所で騒がれたくないんだが、それは相手も同じだろう。
そんな意味合いを込めてネロを見れば、同意のようで頷きを返してきた。
「ロジャー、下がりなさい」
「シャロン。君もだ。心配はありがたいが、大丈夫だ」
ロジャーはネロをしばらく見た後、やれやれと嘆息して拳を降ろす。それを見届けてからシャロンもまた魔法を解除した。ただどちらも剣呑な雰囲気は変わらない。
……歴戦と思しきロジャーに睨まれてなお睨み返すシャロンを見て、この前の一件はやっぱ少しやりすぎだったかと思わないでもないが、それはひとまず置いておこう。
「ロジャーが大変ご無礼を。こう見えてなかなかに過保護でしてね」
「別に良いさ。何も本気で殺そうと思ってたわけじゃないみたいだから、これくらいは挨拶みたいなものだろう」
「……ハッ。ボスの力を知ってっからまさかと思ったが、案の定俺の力も知ってたわけか」
未だ一度も口を開いたことのなかったロジャーが、吐き捨てるように言う。その目にはさっきまで以上の敵意を込めて。
もちろんこれも『広域掌握』による恩恵だが、なんとこっちのロジャーも異能力持ちだった。千人に一人って話はなんだったのか。
しかもその異能力は『防御貫通』とか字面からしてやたらと強そうな代物。多分能力を発動した一撃だったら、受け止めた俺の手はぐちゃぐちゃに変形していたんじゃないだろうか。
こっちに接触を持ってきたのはあっちだから、問答無用でぶっ殺すなんてことはしないだろう、と思ってはいたが……こっちの男はあまり挑発するとそんな建前捨て去ってしまいそうで怖いな。少し自重するとしよう。
と、いきなりクツクツと笑い声。誰かと思えば、なんとネロだった。
「いやはや、ある程度驚かせてこちらのペースとしたかったのですが、まさか逆に驚かされるとは。私たちの情報を既に得ている周到さ、更にはロジャーを止めてしまえる実力も併せ持つ。一筋縄では行きませんね。しかし、だからこそ面白い」
その口の端を歪める笑い方はさながら悪役のようではあったが、先程貼り付けていた外向けの微笑とは込められている感情が違う。おそらくこっちがネロという男の素なのだろう。
俺は肩を竦めて周囲の野次馬を見渡しながら、
「緊張は解れたか? ならさっさと本題に入ってほしいところだな。もちろんその前に場所を変えることも提案するが」
「そうですね。全面的に同意します。では私のお店に案内しましょう。先程の商館で出されただろうものより美味しい茶を提供させていただきますよ」
こちらです、と先導するネロと、こちらを一瞥し、何やら嘆息してそれについていくロジャー。
こちらもそれに続こうとしたところで、シャロンの声に止められる。
「ユウヤ様、本当について行って良いんですか? 罠だったりとか……」
先の一件でまだ疑いが拭えないらしいシャロンは慎重論を唱えるが、俺としては問題ないと思っている。
「信用出来るかと言われればさすがに頷けないが……まぁあの手の人間は馬鹿じゃない。馬鹿じゃないなら、悪いようにはならないだろう」
一連の流れで俺たちが一筋縄じゃいかないことを既に示している。ネロは頭が回るようだし、実力差がわからないほど目が曇っているということもないだろう。
頭が良い商人は、絶対に損になることはしない。ロジャーはかなりの実力者だし、実はネロ自身もそうだということは『広域掌握』でわかっている。それでも俺とシャロンなら互角以上に戦えるし、それは向こうもわかっている。下手な手を打って共倒れになりました、なんて展開はあっちこそごめんだろう。
「それに気になるじゃないか。ネロが見て、わざわざ俺に接触を図ってきた原因となった『未来』ってやつも」
おそらくネロは俺に、あるいは俺たちに何かを期待しているのだ。ネロが『未来予知』で見た何かが、そうさせている。
それがこれから俺たちがしようとしていることに影響があるのかないのか。それはわからないが、『未来』を見たネロがこのタイミングで接触してきたことには何かしら意味があるように思う。
「――といった理由で、ついて行こうと思う」
「なるほど……。わかりました」
「なんだったらシャロンはここに残――」
「もちろん一緒に行きます。あの不愉快な男がユウヤ様にまた何かしでかしたら燃やさないといけません」
「お、おう」
物騒な言い方とは裏腹に、胸に手を当てにこりと微笑むシャロン。
……やっぱりあの荒療治は、シャロンという少女を一回りどころではなく逞しくさせたらしい。
シャロンさん、吹っ切れる。