神官殿の場合
「ええと……」
教会の聖務を終えて神官寮の自室へと戻り、さっそくローランを通して貸してもらった閨の教本を開く。
“初心者向け”と称していただけあって、図解入りでたいへんわかりやすい記述となっているようだ。
「これを、ラシェルと……」
ごくりと唾を飲み込んで、真剣な顔で読み始める。医術的な知識で言えば、もちろん子作りの方法や仕組みは知っているし、ふんわりと、何をどうすることがすなわち閨の作法であるかも知ってはいる。
だが、具体的に、ラシェルに苦しい思いや辛い思いをさせたりしないためにどうすれば良いかというところまでは、さすがに医術的な知識だけではカバーできないのだ。
「こっ、こんなことを……」
思わず自分とラシェルが、と想像して、エリーはつい周りを見回してしまう。上級神官に割り当てられる部屋が個室で良かったと、この時ばかりはそれに感謝した。ベッドの上に本を広げ、蹲るようにして図解と説明を読みながら、傍らの枕に幻術を掛ける。もちろん、ラシェルの姿だ。彼女の姿なら脳裏にくっきりと浮かぶくらい熟知している……服に隠れたところを想像で補うしかないが、きっとそれも近いうちに……!
ちらちらと本を見ながら「こんな感じでしょうか」とぶつぶつ言いつつも実践(幻術相手)をやろうとして……。
「あっ」
ぽたぽたと鼻血が垂れた。
今の自分に、たとえ幻術であってもラシェルが相手というのは刺激が強すぎるようだ。
「……ただでさえ、年下というハンデがあるのに」
はあ、と溜息を吐いて幻術を解く。こんな調子では、ラシェルが側付きになったところで口説く以前の問題だ。間違いなく子供扱いされて終わってしまう。それでは、この本に載っているようなことを試すどころではない。
「ローラン、なかなか練習がうまくいかないんです」
「え。練習って、マジでやってたんだ」
ここのところ、ちょくちょくとマメに訪ねていくようになった友人、ローランを相手にぼそぼそと小声で、溜息混じりに話す。
ローランは目を丸くして呆れ顔だが、自分のこの真剣な訓練のどこに呆れる要素があるのだろうかと、エリーは内心首を捻っていた。
「あたりまえです。たとえ初めてでも、ラシェルにちゃんと良くなってもらわないと」
「……ああ、まあ、その、何が問題なんだ?」
げほっと噎せながら、ローランが尋ねた。問題など、言うまでもない。
「幻術だとわかってても、ラシェルがすごくかわいくて……」
「あ、そっち?」
顔に血が上ってしまう。たとえ幻であってもラシェルはとても可憐でかわいかった。思い出し、思わず視線を外しつつ話す自分に、お前のほうが100倍かわいいだろうに、とローランは言うが、この友人の審美眼は少々おかしいとエリーは思う。自分などよりラシェルのほうが1万倍かわいいだろうが。
「まあ……恥じらう女騎士ってのは、それはそれでギャップ萌えとかあるかもしれないけどな」
「ラシェルが恥じらう姿にギャップなんてありませんよ。それより、ラシェルがあんまりかわいくてうまくいかないんです。昨日も、ラシェルが教本のポーズを取った幻影を作ったら……」
「いや、そこまででいい」
いかにラシェルがかわいらしくて困ったかと説明をしようとしたら、ローランに冷静に止められてしまった。
「……そういや、娼館の娘たちが、“なんだかんだ言っても、やっぱり客の脳内でイメージされてるプレイには敵わないのよね”とか言っていたっけな」
少し遠い目でしみじみとローランが呟くので、エリーも「なるほど」と頷く。
「では、ラシェルが想像するような方法を取ったほうが喜んでもらえるってことですね」
「……いや、あのな、そういう意味じゃなくてな」
「ラシェルがどんなことを想像しているのか、調べないと……」
調べるってどうやってだよ、とローランが慌てたようにエリーの肩を叩く。
「そうじゃなくて、最初から幻術ってのが、高度すぎたんじゃないのかって思うんだよ?」
「高度なんですか?」
「まあ……普通はやらんしな」
「そうですか?」
ローランの言葉に首を傾げる。本人を相手に練習ができないのだから、せめて幻術を使ってというのは、理に適っていると思うのだが。
「自分の相手と決めた方で練習を積んだほうが、良いのじゃないですか?」
「あ、まあ、一途なのは悪いことじゃない」
「はい」
エリーは、ちゃんとローランもわかってくれているじゃないかと、少しほっとする。不慣れなことであるし、経験者であるローランの言葉は心強い。
そんなローランは、うん、悪いことじゃない……よな、と、なぜか己に言い聞かせるように頷いていた。
「だがな、もうちょっと段階を踏んだほうがいいと、俺は思うんだ」
「段階ですか?」
いったい“段階”とは何のことなのか。段取りとは違うのだろうか。エリーが問うような視線を投げると、ローランは重々しく頷く。
「いきなり本人の幻影で練習、というのがハードル高すぎたんだよ。お前みたいな未経験には。だから、まずは誰でもない人形でも使ってみたらどうだ? それで基本を抑えてから、幻術にステップアップするんだよ」
エリーは目を瞠った。「なるほど」と呟く。
そうか、まだ未熟だというのに、いきなり高みから始めようとしたことが間違いだったのか。さすがローランだ。こうして、自分が気付いていなかった落とし穴にちゃんと気付くのだから。
「やはりローランに相談して良かったです。確かに、いきなり女神そのものを相手にというのは間違っていたかもしれません」
「お、おう」
エリーはローランの提案を、じっくりと頭の中で検討する。いかに幻であっても、本人の姿を相手にしたらテンパって何をしていいのかわからなくなってしまう。挙げ句の果てに鼻血だ。
ならば、最初はローランの言うとおり、のっぺらぼうの人形を相手に、たとえ無意識にでも手が動くまでに修練を積んだほうが良いのではないか。
そうすれば、いざラシェルを相手にして頭に血が上ってしまっても、ちゃんと手は動いて、ラシェルも呆れずにいてくれるのではないだろうか。
「ラシェルは天高く輝く太陽のようなお方ですし……太陽を直接目にしてはいけないのと同じように、いきなり女神を相手にと考えることが間違っていたようですね」
うん、と頷くエリーに、なぜかローランはほっとしたような笑顔を浮かべた。
「そうか……じゃ、やっぱりうちの教会の娼館から誰か……」
「いえ、それは不要です」
ローランはまた驚きを顔に浮かべて「やっとエリーも玄人のお姉さんに教えを乞う気になったんじゃなかったのか」と呟いた。どうしてローランはすぐに娼館を使えというのだろうか。
「ラシェルでない女性を相手に修練を積んだなんて、ラシェルに失礼じゃないですか。まずは人形で練習してみようかと思います」
「……人形か。未経験のくせに、マニアックなところから入るんだな」
「マニアックですか?」
マニアックとは、何がそうなのか。
首を傾げて目で問うが、ローランはそれに気付いてか気付かないでか、溜息ばかりを吐いている。
「いや、まあ、お前がいいと思う方法でやればいいんじゃないか?」
「はい。頑張ります。また相談に乗ってくださいね」
「ラシェル・イフラクームです。本日より、神官殿の護衛を務めさせていただきます」
高神官への任官を受けて、いよいよラシェルが自分の護衛騎士となった。あの、都の復興式典で初めて顔を合わせてからまったく変わらず……いや、ますます美しくなって、まさに女神という呼称に相応しい出で立ちだと思う。
「よろしくお願いします。ラシェルとお呼びしますね。私のことはエリーと」
「いえ、神官殿に必要以上に馴れ馴れしくしてしまっては、神官殿の品位が問われてしまいますから。私のことは名前で構いませんが、私は“神官殿”とお呼びいたします」
これは計算外だ。ラシェルには自分を愛称で呼んで欲しいのに。
……不満ではあるけれど、しかし、最初から困らせてしまうのはよくないだろう。ゆっくり距離を縮めていって、いつかは……。
「ローラン、もうひと月になるのに、ラシェルが私を名前で呼んでくれません」
「あ、ああ」
「手も繋いでくれません」
「あ、あのな、エリー」
「ラシェルも、そうやってエリーと呼んでくれればいいのに」
じっとりと恨めしそうな目をするエリーに、ローランはなぜか溜息を吐く。
「護衛騎士としてお前の側付きになったんだから、当たり前だろう」
「でも、ちょっとくらい……」
「イフラクーム家の騎士っていったら、お堅いので有名なんだぞ。とりあえず、これ。この前お前が言ってた本だ」
「ありがとうございます。さすがローランですね」
「ああ……それにしても、ラシェルはすごいの読んでるんだな」
「すごい、ですか?」
「ま、読んでみりゃわかるさ」
にやにやと笑いながら肩を叩かれて頷いて、エリーは不思議そうに首を傾げた。
ローランの執務室を出ると、ラシェルが騎士らしく姿勢を正したまま扉のすぐ横に立っていた。
「ラシェル、お待たせしました」
「神官殿、用はお済みですか?」
共に部屋を出たローランに目礼をしながら、エリーに小さく確認をする。
「ローラン司祭殿、それではまたしばらく後に」
「はい、エリファレット神官殿、お待ち申し上げております」
お互い外向きの礼を取ると、ローランはラシェルに向き直る。
「騎士ラシェル殿も、そのうちゆっくりとお話しできればと思っております」
にこやかにローランが言えば、ラシェルもにっこりと微笑んで「光栄です」と当たり障りのない言葉を返し……その横で、エリーがじっとりとローランを見つめていた。まるで、「ラシェルは私のです」と全身で主張しているように。
「さ、ラシェル行きましょう」
「はい、神官殿」
少しむくれたようにラシェルを促して出口へと向かうエリーと、彼に従いその後ろに付くラシェルの背中を見ながら、ローランは肩を震わせていた。
「……おもしろい」
あの、嫉妬丸出しの視線とか独占欲とかくっそ甘い目付きとか、よくもまあ、四六時中一緒にいて、あれを浴び続けて平然としていられるものだ。さすがイフラクーム家の騎士と言うべきか。
「なのに、あんなでろでろのロマンス小説読んでるんだから、人ってわかんねえな」
くつくつと肩を震わせて笑いながら、ローランはふたりを見送った。