友人の場合
女神に出会ってしまった。
「神官殿、いかがされましたか?」
鈴が鳴るように可憐で、けれど凛としたよく通る声。
「太陽と癒しの神の教会の方々はあちらのほうですね。お送りいたします。お手をよろしいですか?」
すっと伸びた背と隙がない所作に相応しく、揃えられた指先は美しい。
「まだお若いのに上級神官でいらっしゃるとは、とても優秀なお方なのですね」
微笑みは天高く輝く太陽のようで。
「あ、あの、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「私ですか? ラシェル・イフラクームと申します」
慌てて問うと、もう一度にこりと微笑んで、彼女は気安く名前を教えてくれた。
「あ、私は、その、このような大きな式典は初めてで……」
「そうだったのですか。
……私も護衛騎士としてこのように多くの尊い方々のおそばに侍る光栄にあずかるのは初めてでして、実のところ、とても緊張しております。
上級神官殿のようなお若い方とお話ができて、少しほっとできました」
立ち並ぶ神官たちにちらりと目をやり、いたずらっぽく笑みを浮かべる顔は、今まで目にした誰よりも魅力に溢れている。
「……さ、到着いたしました。それでは、私はここで失礼させていただきます」
綺麗に一礼をして去っていく女神を呼び止めたかったが、それ以上何を話せばいいのかわからず、ただ、教えられた名前を心に刻み付けるように口の中で繰り返すだけだった。
* * *
「エリー、俺がそれを聞くの、いったい何度目だと思う?」
呆れたように無遠慮に自分を指差すローランに、エリーはむっとした顔になる。
「まだまだ言い足りません。ラシェルの素晴らしさは、言葉になど表しきれないんです」
「はいはい。で、今日は?」
いったいどんな用件でわざわざ自分を訪ねに来たのかと問うと、エリーはにんまりと笑みを浮かべた。
「ようやく高神官への打診を受けました」
「は? もう? お前まだ17だったよな」
「はい。これでようやく専属の護衛騎士を付けてもらうことができます」
もともとのスペックの良さに加えて、この1年半というもの脇目も振らずに頑張っていたからなあ、と考える。まさか教会の大神官たちも、このエリーの努力が全部彼女を護衛騎士として迎えるためだったなんて、思ってもみないだろう。
イフラクーム家への根回しも済んでいますから、もう少しでずっと一緒に居られるようになるんですと、絶好調の笑顔で話すエリーを眺めながら、ローランは肩を竦める。この分ではラシェルとかいう女護衛騎士が逃げきれないことは想像に難くない。ご愁傷さまだ。
「それで、お願いなのですが、こちらの教会の蔵書を貸していただきたいと思いまして」
「蔵書……ああ」
そういうことか、と考えて、ローランも頷く。今度は彼女を落とすほうに全力を尽くすというわけか。
「実施はしなくていいのか? うちの教会が管理してる娼館の中からでよけりゃ、いい娘紹介してやるぞ?」
「いりません。ラシェル以外の女性なんて、冗談じゃありません」
たちまち眉間に皺を寄せてぷいとそっぽを向くエリーに、ローランは軽く瞠目した。まさか、未経験のまま当たってうまくいくとか考えているのかこいつは、と。
「お前……初めてのぶっつけで、うまくいくとか思ってるのか? その子は経験者でリードがあるから大丈夫だとか?」
「なっ! ラシェルはそんなふしだらな女性ではありません! 婚前交渉なんて、そんな……私以外となんて、そんなことは絶対に……!」
顔を真っ赤にして眦を吊り上げ自分を睨みつけるエリーに、ローランはますます呆れる。
「おいおい……じゃあ、まさか初めて同士で何もかもうまくいくとか夢見てるわけじゃないだろうな。初めてなら……お前の調子なら、間違いなく入れた途端に暴発しちまうぞ」
「……そうならないよう、ちゃんと、練習はしますし」
「……どうやって?」
実施がだめなら、いったい何で練習するつもりなのか。また視線を逸らすエリーの顔を覗き込むと、ぽつぽつとやっと聞こえる程度の声で、呟くように話し出す。
「人体の構造はきちんと理解してますから、精巧な、げ、幻覚だって作れますし、いろいろとやりかたはあります」
「まさか、幻覚相手に練習か……」
神術をそんなことに使うと知ったら、太陽神が泣くんじゃないだろうか。“太陽神の寵児”とか呼ばれてるんじゃなかったか、こいつは。そもそも幻覚相手で練習になるのかどうかも怪しいだろうに。
じっとりと眺めるローランの視線に、エリーは抵抗するように続ける。
「幸い、ラシェルは騎士ですから、着ているものも男性の衣服とそう違いませんし、練習用の衣服も入手しやすいですし」
「……」
騎士服手に入れて脱がす練習するのか。なるほどな。
「そろそろ、私も背丈を追い越すはずですし、身体だってそれなりに鍛えていますから……本職の騎士ほどとはいきませんが」
「……」
そこはあんまり問題ではないような。あ、力負けしたらヤバイってことか。
「何度か出産にも立ち会いましたし、女性の身体のつくりだって、理解はできています」
「いや、だが、なんていうか」
そんな理由で癒しの神の神官として出産に立ち会ってたと知ったら、やっぱり太陽神が泣くんじゃないだろうか。
「あとは、技術的な知識を習得して、医術的な知識だけでなく、子作りの一環としての閨房術を学べば、なんとかなるはずです」
「あー……わかった。その辺でいい。いくつか持ってくるから、少し待っててくれ」
「はい」
ほっとしたように笑うエリーに、ローランは溜息を禁じ得ない。こいつ、5年くらい前には神童とか呼ばれていなかったか。
はたから見るだけなら美少女と見紛うほどにきれいなお坊ちゃんなのに、どうしてこう思い詰めて残念な方向に走るんだろうなと思いながら、ローランは教会の書庫へと向かった。エリーは本気で実施訓練なしでもうまく女を悦ばせられるようになるなどと、考えているのだろうか。いや、問題はそこ以前か。
しかも……。
「イフラクーム家の騎士ラシェルか。見たことあるけど、言うほど美人だったか……?」
まあ、見目は悪くなかったとは思う。だが、エリーが讃えるような絶世の美女だったかと言われれば、正直かなり微妙だ。むしろ、ややキツめの顔立ちだったし、あれは男だったらよかったのにと言われるタイプだろう。
おまけに、何といっても胸が寂しい。腰も少し足りない。柳腰と言えば聞こえはいいが、自分はもっとこう、やや肉が付き過ぎくらいに柔らかいほうが良いと思うのだが。あんなに細くて筋肉質では、とても、抱き心地が良い身体だなどとは言えないのではないか。
思えば、エリーの審美眼は、昔から微妙だった気がする。今でこそだいぶ身体もできて女と間違われることはなくなったが、かつてのエリーは10人中9人は細身の美少女と見間違えるような美貌の持ち主だった。何を隠そう、ローラン自身もエリーを女と間違えて声を掛けたクチだ。
なのに、本人はそうと思っていなかった節がある。単に筋肉が少なくて背が低いから女に間違われるのだと、ひたすら鍛えていたこともあるくらいだ。
いちど「そんな美少女顔なのだから、女に間違われても仕方ないだろう」と言ったことがあるが、本人はなぜこの顔が美少女なのだと納得しかねていた。
「もしかして、あいつ、目が悪いのか?」
いや、それはないはずだが……。
なら、やはりおかしいのは審美眼か。
「ほら、持ってきた。まずは初心者向けのだ」
「ありがとうございます」
ぱああと輝くような笑顔で受け取るのが閨房術の教本とはな……。
「……なんていうか、順番は、間違えるなよ?」
「当たり前です」
真剣な顔で本を収めた袋を撫でながらなにやらぶつぶつと呟くエリーに、ふと不安になって念を押すが、果たして通じているのか。
それから数度に渡り違う書物(もちろん、また違うもろもろの房術を解説した教会の所蔵本だ)やら、巷で女性の間に流行っているロマンス小説(あれやこれやの濡れ場ありの、女性向けながらなかなかにハードな内容だった)の入手方法やらをちょくちょくと聞きに来ていたわけだが、あまり深く追求するのはやめておいた。
その意中の彼女が護衛騎士として側付きになってから約半年後、輝くような笑顔で「ラシェルが結婚を了承してくれました」と報告に来てくれたのは記憶に新しい。
「どうやって口説いたんだ」
「ラシェルの好むロマンス小説が、どうも強引に押し倒して有耶無耶のうちに既成事実を作ってという傾向が……」
「あ、わかった。皆まで言うな」
にこにこと説明するエリーの感覚は、やはりどこかずれている。きっと、下手に頭がよい分、初恋だの初めてだのを拗らせて考え過ぎた結果なんだろうと、ローランは自分の心の平安のために考えておくことにした。
結婚式の段取りは、教会こそ太陽と癒しの神の教会で執り行なうことになったが、彼のいちばんの友人である大地と豊穣の女神教会の司祭として、教会外で行わねばならないあれこれの細かな段取りを取り仕切らせてもらう栄誉にあずかることとなった。
おかげで、間近で彼自慢の花嫁を目にすることができたのだが……「絶世の美女でしょう」とエリーに自慢気に言われても、ローランは、その、なんというか、反応に困るなと思ったのだが、そこは司祭らしく分別をもって口を閉じておいた。