第二十六話 『あるひとつの決断』
「ほほぅ。これはまた、大変な事になってしまったじゃないか」
液晶ディスプレイに映された、屋上の監視カメラの映像を見て、nullと名乗る人物は、呟いた。
そこは、nullの部屋。
ローテーブルの上に、液晶ディスプレイが3台横並びに置いてあり、ソフトウェアが起動しているウィンドウが無数に表示されている。幾つかのウィンドウは、忙しなくログを吐き続け、古い表示を上へ上へと押し上げている。
監視カメラの映像を保存し、再生する。屋上にいる人のようなカタチをした何かが、三メートルはあるだろうフェンスをよじ登り、外側へ移動、カメラの死角に消えていく姿が遠目に映し出されている。
「ははは、無様過ぎるだろう」
nullの苦々しい笑いが、四畳半の部屋に響く。
畳の上に、すくっと立ち上がり、古びた木製の扉を開いて外に出る。扉は悲鳴のような音を立てて開き、nullの背中でしっかりと閉められた。
あいつはフェンスを乗り越えて、外へ。十階建ての校舎の屋上だぞ? どこに行くつもりだ? 馬鹿なのか。いや……それとも知能が高いのか?
nullは、右手を顎にあてながら、歩き始めた。
屋上の下は十階、室内プール施設になっている。時刻は十八時ごろ。水泳部の部活は十七時に終わる。ほとんどの生徒はもう帰宅しているだろうが、数名残っていたとしても不思議はない。
あの生き物のパワーは推測できないが、もし知能が高ければ、おそらく、手近な十階から、窓を蹴破って内部に入り込もうとするだろう。
理事長の馬鹿な計画のため、あの生き物は腹を空かしているだろう。水泳部が残っていたら大変な事になる。
学校のサーバに侵入できるようにしておいて正解だったとnullは思った。そうしていなければ、今の事態を把握することができなかったであろうからと。
「だがしかし、水泳部の連中が運悪く(いや、運良くなんだろうか)残っていたら、やつは、十階で食事を終えた後、そこで潜伏するだろう。それが現段階では一番ありがたいが、尊い犠牲を払うことになるが」
nullは小型双眼鏡を取り出し、外から学校の校舎十階辺を覗く。
そしてまた、あの怪物がフェンスを乗り越えた下あたり、落下していたらそこにいるであろう場所を見た。
しかし、何も見ることはできずに諦めてその手を降ろす。
「腹を空かせた猛獣は、やがては麓に降りてしまうぞ」
※※※
「学校の屋上に、何かがいる?」
さすがに美霧の事は言えなかったが、ニーナの追求に負け、わかっている事を伝えた。
学校側によって、屋上へ出れないように閉鎖されている事。null先輩が(ひとまず先輩と呼んでおく)、その何かの姿を見た事を話した。
しかし、なかなか本当に伝えたい事は、言い出せなかった。ニーナは、そんな俺の様子をじっと碧い瞳で見つめていた。
自分から言い出さず、ニーナに悟って貰おうとするのは、卑怯だろうか。やっぱり、卑怯なんだろうな。
何度か、ゆっくりと深呼吸を重ね、自分の気持ちを落ち着かせる。
それでも、何が正しいのかなんて、わからなかった。
ただ、ここで、ニーナに悟らせるのは、自分を守りたいだけの行為に思えてならない。
ニーナを傷つける行為を、自分でしたくない、避けたいだけだ。どのみち、ニーナが悟れば、その段階で傷つくのだから。ニーナが自分自身で傷つくのか、俺から言って傷つけるのかの違いだけだ。
なら、その役は俺がしないとだめなんだろうな。
「ニーナ、これは自分の推測だけど、屋上にいる何かは、ニーナの世界を襲ったやつなんじゃないか?」
さすがにニーナの方を見ては話せなかった。
「ニーナと同じように、ここに飛んで来たんじゃないだろうか?」
ニーナは黙っていた。じっと俺の話を聞いていた。
「そいつは、どうすればいい? どうすれば倒せる? むっちゃやばい奴なのか?」
ニーナの返事がないので、心配になり、彼女の方を見た。ニーナは俯いて立っていたが、やがてゆっくりとその場にしゃがみ込んでしまった。
声をかけようと思ったが、掛ける言葉が見つからなかった。
ニーナはしゃがんで両手で顔を抑えながら、何事かをつぶやいていた。恐らく元のニーナの世界の言葉なんだろう。動揺しているんだろうな。そんな姿のニーナを見るのは辛かった。最近よく笑うようになったニーナ。このままずっと笑っていて欲しかった。やっぱり話すべきではなかったのだ。学校側が対処して、最終的に何事もなかったことになったかもしれないんだ。後悔がずっしりと俺の胸を重くしていった。
窓の外は大雨。強い雨が窓を叩いていた。風も強く、ごうごうとその音が大きく響いていた。その様子はまるで嵐のようだった。
ニーナは突然、すくっと立ち上がり、足早に部屋を出て行った。
突然の事に呆気にとられ、後を追うことができなかったが、数秒後に我に返り、ニーナの部屋に様子を見に行った。
「おい、ニーナ。どうしたんだ?」
ニーナはそれには応えずに、後ろ向きのまま無言で部屋着を脱ぎ出した。
「え? ちょ? ま?」
ニーナは振り返り、「出てって」とだけ言って、また脱ぎ始めた。
慌ててニーナの部屋を出て、扉を閉めた。
なんだ、なにが始まったんだ? とりあえずそのままニーナの部屋の前で着替えが終わるまで待つことにする。
そろそろいいかな? と思う頃合いで、扉をノックしようと思ったら、向こうから扉が開けられた。
部屋から出てきたニーナは、初めて会ったときの格好をしていた。
その姿は、まるで軍服の様な深緑の学生服姿。スカートだけピンク色。頭に大きな深緑のベレー帽を被っていた。
「えっと……ニーナ? どうしたんだ? その格好」
ニーナは、凛とした表情でその碧い眼を光らせて、こちらを見た。
「これは私の責任。だから、私自身がケリをつけないといけない。コーイチの世界は私が守る」
いままで見たことのない鋭い眼光に、俺は何も言えなくなった。
ふっと優しい瞳に戻ったニーナは、最後に言った。
「私が、やつを倒してくる」




