第百五十一話 『目の前の霧』
「おい! 大丈夫か? しっかりしろ!」
石床にうつ伏せになった血塗れの少女の側に駆け寄り声を掛けるが、返事がない。
しかし、微かに息がある。
「NULLさん!」
こういうときの救急対処を自分は知らない。NULLさんなら知っているに違いないと思った。とにかく急がなければならない。それだけは理解できる。
NULLさんは少女の状態を診てからすぐに結論を下した。
「諦めろ。これはもう助からん」
「でも、まだ息がありますよ! 急げばなんとかなるんじゃないですか?」
「急ぐ? 何をどう急ぐというんだ? ここは平和な国、日本じゃないぞ。その子を此処から担ぎ出してどこで治療するというんだ?」
「治療所はあるでしょ?」
「ああ、この子を殺そうしている側の治療所はあるだろうな。それにこの重症だ。背中がぱっくりと裂けている。出血も多い。治療所に辿り着いたとしても、そこでなんとかなる状態ではない」
NULLさんは、少女の側を通り過ぎで奥へと進もうとする。
「待ってください!」
「待てないな。此処に居ても仕方がない。王を追うぞ」
振り返る事なく奥へと進むNULLさんに続いて進む麗美香に襟首を掴まれて引きづられる。
「待て、自分は行かない。此処に居る。離せ!」
「あんたの言う事を聞いて此処まで来たの。次はわたしたちの言う事を聞きなさいよ」
「そんな、待ってくれ。せっかく此処まで来たのに、無駄足だったって言うのか? でもまだ彼女は生きている。なら見捨てて行く事なんて出来ない。離せ! 離してくれ!」
麗美香を振り払おうとするも、彼女の力は強く、びくともしない。
「聞いてくれ麗美香! 死にかけてても治せる奴がいる! 自分はそいつに助けられたんだ!」
「はぁ? あんた何言ってんの? あの子を助けたくて気でもおかしくなった?」
「本当だ! 王都に入るところで反乱軍の群れに自分は踏みつけにされて瀕死の重傷だったんだ。だが、そいつが一瞬で治してくれたんだ」
とっさに思い出した。あのとき、自分を治療してくれたヒーラーがいた事を。
「それはあんたが重症だと大げさに思っただけじゃないの?」
「麗美香さま、それは有り得る話ですよのこと。実際、NULLさまや麗美香さまを治療された方もそんな力をお持ちでしたよのこと」
「はぁ? わたしを治療? そんな記憶ないわよ? いつの話をしてるのよ?」
興奮する麗美香をNULLさんが制した。
「なるほど。思い出したぞ。この世界に来たときの話だな。気が付けば囚われに身だったが、身体は五体満足だった。あのとき治療をされたと言ったな。どうやらこの世界には死にかけた奴を元通り戻す魔法が存在するらしいな。我々がその生き証人だな。そして山根、お前の話ではその魔法が使える奴がここに居るということだな」
「はい。それに、門兵すら覚えていないのであれば、この子が王女だと悟られる可能性は少ない筈です」
「なるほど、確かに悟られないかも知れないか。ふむ名案だ。その子を運び出す準備をしろ。で、そいつの居場所は何処だ?」
「出会ったのは王都の門の外です。今もそこに居るかはわかりませんが」
「行ってみるしかあるまい。急ぐぞ! さすがに死んでしまってからでは治療出来ないだろうからな。それに」
「それに?」
「視ろ、扉が閉まりそうだ」
視ると、両脇から本棚がゆっくりと隙間を閉じようとしていた。
白髪の少女を抱き抱えて慌てて本棚の隙間を抜けようとする。
「まったくとろいわね」
素早く動いた麗美香が、両手を広げて本棚が閉じるのを防いだ。
「ありがとう……」
ほんとに麗美香には世話になりっぱなしだ。いつかちゃんと借りを返さないといけないと思う。ほんとにそう思う。
「早く行きなさいよ」
そう言って彼女は顔を背けた。「ふん」っと言われたような気がした。
「お前が照れるとはな。面白いものを見せてもらったよ」
「NULL公! さっさと行け!」
あの仕草は照れだったのか……?
NULLさんとこんたんが続いて抜け穴から出たのを確認して、麗美香は本棚から離れた。2つ本棚はゆっくりとその隙間を埋めた。
王のベッドからシーツを引き抜き、白髪の少女を包む。
「よし、では、王都の門まで突っ切るぞ」
「今度は門? ほんっとに落ち着く暇がないわね!」
門へ向かう道中は、もう敵らしい敵は存在せず、順調だった。もうすでに勝敗は決したという事だろう。抵抗する勢力は見当たらなかった。
「NULLさん、なんか流れで門へ向かってますけど、NULLさんの目的は王じゃなかったんですか?」
王の間でNULLさんは言った。王の捜索が目的であると。そして王はあの抜け穴に入り王都の外へと向かった筈である。ならば、抜け穴に入り後を追うのが本当だ。まさか自分に気を使って此方の目的を優先してくれたのだろうか? それはそれで有り難いが、なんだかすっきりしないものがある。
「ふふふ、確かに王が目的ではあったがな。王である必要もなかったのさ。王か王女が居れば私の目的は達するんだよ。そして王女が見つかったなら、それでいいんだよ」
「NULLさんはこの子に何をするつもりなんですか?」
「おいおい、勘違いするな。わたしはその子に何かするつもりはないよ。そうだな、むしろ、その子に何かしてもらいたいのだよ。さしあたり我々の生命の保証だな」
「どういう意味ですか?」
「その子がお前の味方であるのならば、我々の味方だ。そしてこの國の王女様なのだろう? 手元に置いておきたいじゃないか」
そう言ってにやりと笑うNULLさん。その顔に、これ以上の詮索は無理だと悟った。今はこの子の生命を救う事が一番だ。問題の先送りになるが、NULLさんの企みについてはその後の話なので今は考えないでおく。それが懸命だ。
程なく門の外まで出る。負傷者を運んでいる事が外見でもわかるようで、治療所の方向へと雑兵たちに案内される。
程なく、松明に煌々と照らされた一際大きいテントが見えてきた。中に案内されて入ると、負傷した兵士が多数寝かされている。自分を治療してくれた子、たしか、メーディウス・マッギフィエアリーとか言っていたな。どこに居るのだろうかと辺りをきょろきょろしていると、衛生兵と思しき者が近寄ってきた。彼は少女の容態を確認すると、その状態に驚いて奥へと急ぎ案内してくれた。その緊急性を悟ってくれたのだ。
テントの奥はさらに幕が掛けてあった。それを潜って中に入ると、厚いフードで全身を覆い、ベッドに横渡って寝ている者が居た。そのフードに見覚えがあった。メーディウスの着ていたフードだ。
衛生兵がベッドに駆け寄り何かを告げると、フードの者が気怠げに起き上がった。
「ん? あぁー、お仕事ね。急患かぁ。ふあぁぁ」
大きく伸びをした後、フードの奥から光る目が此方をじっと見つめた。その表情はフードを深く被っている為見えない。
「ああ、きみかぁー。どっか怪我したのー? 元気そうだけどー?」
間が抜けたような調子で語りかけてくるメーディウス。どうやら此方の事を覚えて居てくれた様だ。これなら話を進めやすい。ならば、ここは一芝居うってやろう。此処に来るまでに一応のストーリーは考えていたんだ。
「ああ、自分じゃない。治療して欲しいのは、この子だ」
抱えていた白髪の少女を彼女の前に差し出す。
「この子は妹で、王都に連れ去られていたんだ。この子を救う為にこの闘いに参加したんだが、助け出す歳に間に合わず、後一歩のところで斬られてしまったんだ。まだ息があるんだ。貴方ならなんとかしてくれると思って、急ぎ連れてきた。頼む! 大ヒーラー メーディウス・マッギフィエアリー様!」
メーディウスに出会って最初に抱いた印象、それは、あいつに似ているという事だ。そう、大魔術師メイ・シャルマールだ。それ故に、最後に大袈裟に名前を叫んでやった。メイ・シャルマールなら泣いて喜ぶ様なセリフだ。あいつに似ているなら、メーディウスも同じ。そう信じた。
「これはまた随分と酷い状態なんだなー。後少し遅かったら手遅れになってたよー。こほん! よし! 力も少し回復したようなのでー、やってみましょー」
よかった。やる気を出してくれたようだ。芝居が功を奏したのかは定かではないが、兎にも角にも、誰も彼女の正体に気づいた様子がないのが僥倖だった。
それと同時に衛生兵が、自分たちに外へ出るように促してきた。
メーディウスの方を視ると、申し訳無さそうに頷いてきた。
どうやら治療中は誰も此処に居てほしくないという事か。そういえば前回、彼女のシワとコブだらけの腕を視た。見せたくないのは当然か。
仕方なくテントの外へ出て、治療を待つことにする。
「あのフードがお前の言っていた魔法使いなんだな」
事態をずっと見守っていたNULLさんがようやく口を開いた。
「はい。メーディウスというヒーラーです」
「それで? これからお前はどうするつもりだ?」
「そうですね。治療が終わった後ですよね」
「何も考えていなかった……という顔をしているぞ」
NULLさんの指摘通り、何も考えていなかった。あの子の救出、そして見つけたときに瀕死の状態だった為、急いで此処まで連れて来たのだ。後の事なんか考える余裕はなかった。
隣で麗美香のため息が聞こえる。
「NULLさんはどうしたらいいと思います?」
「わたしに聞くのか? はぁ……まあいい。どうせお前は言うことを聞かないが、一応言っておく。我々は一刻も早く此処を立ち退き、ニーナと合流すべきだ。王女、えーっと、ルージェーンだったか、あいつが付いて来るとは思えないし、むしろこの王都で一悶着起こすだろう。そしてお前はあいつに付いて行くのだろう? やれやれだよ。まったく」
たしかにNULLさんの言う通りだ。あの子は治療が終わり、元気なったとしたら自分がやろうとしていた事を続行する。それは自分の仲間を救い出す事だ。現王に謀られた後、王女派の人たちの行く末は不明だ。それ故にその消息を確かめ、そして無事救出する。それがあの子の望みであり役目だと思っているだろう。そしてそれは現状途方もなく難しい事だ。それは自分でも理解できる。それとともにあの子が諦めない事も解るのだ。なら自分はどうするべきなのか?
ふと麗美香の方を視る。冷たい視線が突き刺さった。
うん。わかってるよ麗美香。「あんたまだやる気?」って思ってるよね、それ。
そしてこんたんは我関せずと周りを視ては物珍しそうに観察している。こんたんのこういうところは何故か安心できる。なんとかしなければという気持ちが和らぐ。というか和らいでいていいのかとも思うが、今はいろいろと考えたくないのが本音だった。周りの人にあれやこれや言われたくない。助言は欲しいが苦情や批判は辛いのだ。この世界に来てからずっと安らぐ間が無かったせいだろう。正直何も考えずにゆっくりしたい気持ちだった。
そんな自分の考えに浸っていると、テントの方が騒がしくなった。女性の悲鳴が聞こえたと思うと、人が慌ただしく動き回る様子が外からも伺われた。
NULLさんに目配せをしてみんなで一斉にテントの中に躍り込む。
しかし、テントの中に入ってすぐさま違和感に気づく。さっきまで慌ただしく動き回っていたと思われていたテントの中は、異様に静まり返り、物音一つ聞こえない。看護に当たっていた衛生兵も皆、地に伏していて微動だにしない。
敵襲?! あの子は無事か? 王女に何かあったのではないと思い、急ぎ奥の幕を潜る。
そこに視えた光景は、異様なものだった。
いや、予想外の光景だったと言うべきか?
白髪の少女が立ち上がって地面を指差しており、その下にメーディウスが倒れているというものだった。
こちらを振り返った白髪の少女は驚いた顔をした。
「コーイチ!」
彼女はニーナの様な言い方で自分の名を呼んだ。すごく懐かしい響きの様に感じる。
「どうした? 何があった?」
彼女の元に駆け寄り尋ねる。
「それを聞きたいの私の方デスヨ。此処はドコ? この人はダレ?」
片言ながらも日本語で彼女は応えてきた。
いや、その前におまえ……
「声が出るようになったのか?」
生の声を初めて聞いた。以前に屍魔に取り込まれたときの幻覚の様な世界では聞いたがその時は、声というよりもテレパシー的な頭に直接届くようなものだったのだが、今回は普通に口から出る言葉だった。
「うん。なんかデタ。声デタ」
嬉しそうににっこりと笑う。少女らしいあどけない笑顔だった。
「その人をどうした?」
足元に横渡るメーディウスを視ると、フードは被ったままであるが、両手は手袋を外した状態で、シワとコブだらけの皮膚が露わになっていた。
「この人が襲って来たから眠らせたノ」
「襲って来た? どうして?」
「わからなイ。名前聞かれたから答えたら急に襲ってキタ」
なるほど。それでよくわかった。自分が王女ルージェーンだと宣言しちゃったんだな。
「ひとまず、現状を伝えるからな。よく聞けよ」
白髪の少女は、「ウン」と元気よく応えた。返事はいいんだけどな。
白髪の少女に、抜け穴で血塗れになっていた事、この治療所に連れてきた事、そこで倒れている人はヒーラーであることを話した。また、辺境の國々が反乱を起こし、王都に攻め入った事などを掻い摘んで話した。そして此処ではとりあえず、麗美香による王の暗殺未遂と、仮面の男の暗躍については伏せておいた。知ったらどう反応するかわからないし、今は余計な波風を立てて要られない。
「なるほどー、だからこの人、私を襲って来たのネ」
「まったく不運な奴だなこいつは。せっかくお前を治療し、声まで出る様にしたのに、それが敵國の王女で、眠らされてしまうとは。わたしは彼女に同情するよ。しかし、お前の正体を隠して来たのに、バレてしまってはな。厄介な事になったぞ。急いで此処を脱出するべきだな」
「待ってくださイ。私にはやらなければならない事がありまス」
「ああ、お前の仲間の救出だな。だがもう王に処刑されてるかもしれないし、生きていても今回の騒乱で殺されてるかもしれないぞ。どうやって探すつもりだ。お前まで捕まって殺されるだけだぞ」
予想されていた反応だった。ここでNULLさんはなんとかこの子を説き伏せるつもりなのだろう。それが上手く行けば、それはそれでいいと思える。自分もこの子の望みは無謀だと思う。それに付き合った結果など考えたくもなかった。
「大丈夫デス。私は負けまセン。だから」
しかし彼女は毅然として言いのけた。
「どうか私に力を貸してくださイ」
何気ない普通の言葉の筈だった。
しかしこの言葉は、キーンと響き、心の奥深く、また身体の隅々まで行き渡って行く。細胞の1つ1つにその言葉が入り込んで行くようなそんな気配があった。
NULLさんの顔に苦渋の色が浮かんでいる。いったいどうしたのというのだ?
麗美香とこんたんは、ぽかんと口を開けて呆けている。
そうだ。一つ大きな疑問があった。
白髪の少女はどうやって襲って来たメーディウスを倒した? そして、幕の外の衛生兵もこの子が何かしたのだろうか?
いや、そんな事より今、自分は、どうしてもやらなければならないことがあるのだ。
それは他の何ものにも代えられない大事な事なのだ。
そう、それは、自分は何があっても彼女に力を貸さなければならないのだ。
不思議な事に、それは根拠など何もないのだが
だがそれはもう決定事項なのだ。