第百四十一話『別離』
アーシャの料理を一通り食べ終わった。
食事がこんなに幸せな事なんだと初めて実感した。もっと母親に感謝しないとな。うんうん。元の世界に帰ったら、俺、親孝行するんだ……。って死亡フラグ立ててんじゃねーよ!
それはともかくとして、隣に座っている白髪の王女様は、その小さなお腹をパンパンに膨らませていた。入るだけ詰め込んだ様だ。針で刺せば破裂しそうだった。流石にそれは食い過ぎだろう。
「げっふー」
威厳を損なうと思い、自分はげっぷを必死で我慢していたのに、この王女様ときたら遠慮なくしやがった。ほんとに威厳の欠片もない奴だ。まったく!
「王女様、はしたないですわよ」
サーシャンの口調を真似て窘める。この前偶然覗いた王女様の記憶にあるサーシャンを模したのだ。
王女様の表情が目まぐるしく変わる。驚いたり、真っ赤になって恥ずかしがったり、腕までもぐるぐる振り回し、そして最後には湯気を出して怒り始めた。
大口を開けて何か叫びまくっているようだが、くぐもった音しか出ない。
それでも一通り罵声を浴びせ終えたのか、ふーふーと息をついて肩を上下させて此方を睨みつけている。サーシャンの真似をしたせいだなこれは。記憶を覗いた事がバレてしまった。まあ、隠すつもりは元々無かったが。
「でもなぁー、お前だって覗いたじゃねーか。おあいこだよ、お・あ・い・こ」
むーっとした顔で睨まれるが、それ以上は何もして来なかった。じーっとひとしきり睨み終えると、飽きたのか、彼女なりに納得した様だ。いや、納得は流石にしないか。しょうがないと諦めたと言った方が近いのだろう。
「ほんとにお二人は仲がよろしいのですね。まるで兄妹のようですわ」
アーシャの言葉に抗議して、王女様は此方を指差して口をパクパクしている。きっと「こんな奴が兄妹とかないわ!」と言っているに違いない。
「ほんと、仲良しさんですね」
アーシャはもう一度言うと幸せそうに笑った。その笑顔は本当に。
「リーシュが帰って来たら、もう一人産みたくなったわ」
「もう一人って?」
確かまだ子供は居なかったはずだ。まるで既に一人居るような言い方だ。リーシュの記憶には子供の存在は無い。
「今はまだ、お腹の中に居ますわ」
お腹を愛おしく撫でながら、彼女は優しげに笑った。
子供が出来たのか? そんな記憶は無いぞ。いや、リーシュの記憶だけど。そういえば、遠征に出る前のアーシャの様子がおかしかったのは覚えている。子供の事を言おうか言うまいか散々悩んだのだろう。
ああと、曖昧な相槌しか打てずに固まっていると、彼女は話しを続けた。
「リーシュというのは夫ですの。まだ子供の事は話してませんの。でも、もうすぐ帰って来ますわ。遠征軍に参加してたのですが、昨日、その遠征軍が王都に帰還しましたので」
なんだって? 遠征軍が帰還している? そもそもあの遠征軍の目的は何だったのかさえ解らず仕舞だが、屍魔の襲撃でやむ無く帰還したのだろうか?
「帰還後何かありましたか? その噂とかでもいいのですが」
何だか、得も言われぬ強い不安に襲われる。とても嫌な予感しかしない。いったいこの國で今、何が起きているのだろうか? 少しでも多くの情報を集める必要がある。一瞬先は闇。今まで何とか凌いで来たが、この先もそれで行けるとは思えない。一つでも選択肢を間違ったらバッドエンドを迎える様なアドベンチャーゲームの様な状態なのだ。そして今、誰に頼る事も出来ない。自分で考え、自分で決断しなければならないのだ。まあそれは本来当たり前の事なのだろうが、平々凡々と過ごして来たせいで、そういった経験は無く、まったくの初心者マークなのだ。追い込まれて初めてこの世の真相を知った。そんな気分だ。
「いえ、特には何も聞いておりませんよ」
そう言いながらも、アーシャは何かを思い出そうと天井を見つめながら、必死にうんうん唸っている。そして彼女はリーシュの戦死を知らないでいるのだ。帰って来るのを今か今かと楽しみにしているのだ。伝えるべきなのだろうか? リーシュの死を知っているのは自分と王女様だけだ。
自分の弱さ故に、王女様をちらっと視てしまった。まったく情けない。こんな小さな子に判断を求めようとしてしまった。さっき全て自分で判断して決断するのだと決心したばかりなのに。
そんな此方の感情を知ってか知らずか、王女様はゆっくりと目を閉じながらしっかりと頷き、手を握ってきた。一緒に過ごしたここ数日間でコトバに頼らずとも彼女の考えが解る様になってきていた。以心伝心というやつだな。彼女は貴方に任せると、そしてどんな判断をしようと自分は揺るがない。そう伝えているのだ。少し照れながらも、彼女に強く頷く。
「あ、そうそう! そういえば、一つありました」
探し物が見つかった勢いで明るく楽しそうに手を叩いたアーシャは、まるで踊っているかのように視えた。
「なんか異國の王女様が、同行されて王都に入られたとか。聞き覚えのない國の方で、えーっと、ちきう? みたいな名前の國です。ご存時ですか?」
「ちきう?」
なんだその地球みたいな名前は。そんな國の名は、リーシュの記憶にも無いぞ。
「とても心配です。あの王様ですし。問題が起きなければよいのですが」
先程まで明るくかった顔が急激に曇り出す。アーシャは本当に表情がころころと変わって可愛い。いや、いまのはリーシュの記憶だからね。自分じゃないからね。
それにしてもそんなにこの國の王様ってやばいのか? リーシュの記憶を手繰るもよく解らなかった。リーシュの全ての記憶を視れる訳ではないのかも知れない。
「先の王様が崩御されてからまだそんなに経っておりませんでしょ? 何かまたこの國が混乱するかもと思うと落ち着きませんわ」
「王様が崩御? それはいつの話ですか?」
反射的に聞き返していた。王様と言えばこの少女の父親のはず。恐らくそうだ。でも、いつ? なんで?
急に腕が下に引っ張られた。何事かと思ったら、まだ手を握っていた王女様が、そのまま膝を付いて俯いている。ショックを受けているようだ。ガクガクとはっきり見て取れるほど震えている。手を握る力が荒れる呼吸と共に強くなる。今にも彼女は発狂するのではないかと思えた。
「おい! 大丈夫か? しっかりしろ!」
震える彼女の側にしゃがみ込んで顔を掴む。無理やりこっちを向かせる。抵抗なくされるがままになっている彼女の視線は何処でもない場所を彷徨っている。
アーシャも慌てて駆け寄り、王女様の背中をしきりに撫でて落ち着かせる。
大きく何度も息を吸い込んで、また吸い込んで……
やばい。やばいぞこれは、過呼吸というやつか?
「は〜い、だいじょ〜ぶよ〜。よしよ〜し」
アーシャは王女様に抱き付いて、優しく声を掛けながら、ゆっくりとしたリズムで呼吸をした。私に合わせてゆっくり呼吸して〜、という感じだ。
しばらく激しく喘いでいた王女様は、次第に呼吸をアーシャに合わせていった。
どれぐらい時間が経っただろうか? 落ち着きを取り戻し静かになった王女様は、すくっと立ち上がると、顔を赤らめて困った様に此方を視た。
取り乱したことを恥る気持ちと、この場をどう収め、どう振る舞っていいのか解らないのだろう。
「大丈夫だ。王女様。後は、自分に任せてくれ」
不安な少女を安心させるため、強いてしっかりとしたふうを装う。自分自身を客観視すれば気恥ずかしくなる。そうであるが故に、自分じゃない誰かを演じる。そう、例えば、自分がNULLさんだと思って振る舞うのだ。彼女、いや彼かも知れないその姿を思い浮かべる。
「王女様が取り乱してしまい、失礼を致しました」
此方の神妙な態度に、アーシャは居住まいを正して正対した。
「詳しく話してくださいませんか? 王様のご崩御について」
「信じられませんわ。この國で知らない人なんて居ませんよ? いったい貴方がたは何者ですの? この方は本当に王女様なんですか?」
当然の疑問だろう。何せ自分の國の王の死を、王女とその付き人が知らないというのは有り得ない話だろう。もしかすると初めから彼女は疑いを持っていたのかも知れない。その笑顔の裏にはどんな感情が宿っていたのだろうか? その顔は今はすっかり警戒の色に染まっている。
「王女様、この方に本当の事情を話してもよろしいですか?」
王女様の置かれた境遇について話す事は勝手には出来ない。それぐらいは心得ている。この件については王女様の了承が絶対に必要なはずだ。
此方の意図を察した王女様は、「良きに計らえ」と言わんばかりに澄まし顔で手を挙げた。すっかりいつものペースである。先程の錯乱が無かった事の様だ。まったく、立ち直りの早い奴め。
「王女様の許可を頂きましたので、本当の事をお話しします」
かなり芝居掛かった言い回しをしながら、どうかアーシャが信じてくれるように祈った。
口調が功を奏したか、アーシャの表情から警戒が無くなってはいないが、とにかく話しを聞こうと少し肩の力を抜いたのが解った。
「ありがとうございます」
ふぅっと一息、大きく深呼吸をしてから、勿体ぶって話し始める。
「この件は、他言無用にお願いします。王宮の大事ですので」
そう前置きすると、アーシャの喉がゴクリと鳴った。
話すとは言ったものの、王女様から直接詳しく聞いたわけでは無い。この前視た彼女の記憶から推測出来る範囲でしかない。しかし、重要なのは真実を正しく伝える事ではない。如何にアーシャを納得させられるかだ。
不明な部分は秘匿情報という事で誤魔化しながら、先の王様がご存命の時に起こった王女様暗殺未遂事件の事、そして難を逃れる為、野に降った事を話した。王女様を暗殺しようとした犯人については心当たりが無いという事にしておいた。間違いなく王女様の兄であるのだろうが、あくまでも憶測であるため言うわけにはいかない。
「それで追っ手も来ない様なので、王都への帰還を決断した次第です」
大雑把ではあるが、充分に筋は通っているだろう。話をじっと聞いていたアーシャは、話の要所要所で驚いたり悲しんだりと忙しかった。
「半年程前です」
此方の話が一段落すると、アーシャがぽつりぽつりと話し始めた。
「屍魔の群れがこの國を襲いました。以前から数体、その存在は確認されていた様ですが、想像を越える数の屍魔が雪崩込んで来たのです」
半年程前、それはちょうどニーナと出逢った頃だ。ニーナの國を襲った屍魔は此方にも来ていたのだ。
「私たち村の者は急遽、王都への避難を命ぜられ、避難所に押し込められて震えていましたわ。もうこの世の終わりだと感じていました。それは私だけでなく、そこに居た者は皆です」
彼女は身を震わせて一息付いた。思い出しているのだろう。嫌な記憶を甦らせてしまった事が申し訳無かった。
「それからどの位時間が経っていたのか解りませんが、私たちは避難所から解放されました。屍魔の群れは皇太子殿下の指揮のもと、撃退されたと伝えられました。そしてその闘いの最中で、王様が戦死なされたとの御触れが回りました」
王女様の暗殺未遂による王都からの追放、そして屍魔の襲撃と王の戦死。そして皇太子の王への即位。そこから導き出される結論は推して知るべしか。そして王女様は、半年もあんな浮浪児の様な生活をしていたのか。よく生きていたな。彼女の記憶で視たシーンはそんなにも前の出来事だったのだ。
「ありがとうございました。嫌な記憶を思い出させてしまい申し訳ありません」
そう素直に詫た。
「ではそろそろ出発いたします」
あまりゆっくりしていると夜になって動きが取れなくなる。その前にやる事をやっておかねばならない。このまま王都に帰るわけにはいかなくなった。間違いなく今の王に王女様は殺される。何か対策を考える必要がある。何かいい手立てがないだろうか……。
家の外まで見送りに来たアーシャをじっと見つめる。
もう会う事は無いかも知れない。だからせめてリーシュの為に、今この時のアーシャの姿を目に焼き付けよう。リーシュの記憶のせいか、胸の奥から何かがこみ上げて来る。本当の事を全て伝えたい。そんな衝動に激しく駆られる。胸の奥から来る熱量に喉がカラカラになる。
「あ、あのぅ、なにか?」
アーシャが少し後退りして距離を取って警戒した。あまり女の人を凝視するもんじゃないな。彼女にとって自分は見知らぬ他人だ。不審者に思われて当然だ。
「いえ、なんでもありません。その、いろいろとありがとうございました」
素直に礼を告げて、隣でずっと黙ってイノシシモドキに乗っている王女様を促す。いや、喋れないから黙ったままという意味ではなく、父親の死を告げられてからか、ずっと心此処に非ずという感じなのだ。一時的に気を取り直した様に視えていたが、やはりかなりショックだったのだろう。
未練を断ち切るように足を前へ進める。まだイノシシモドキに乗る事は躊躇われた。この場を立ち去りたくないという思いが自分の何処かにある気がした。リーシュと自分の区別がまだ付いていないのかもしれない。
とぼとぼと少し道を進んだ後、振り返ってアーシャを探す。
彼女は既に家に戻っていて、その姿はもう何処にも無かった。
そのまましばらく視えないアーシャの姿を求め続けた。