第百三十九話 『王女ルージェーン』
「右へー、向け!」
隊長の号令に伴って整列している兵たちが一斉に右へ身体の方向を変える。実に訓練された兵たちだ。一糸も乱れがない。この光景は、白髪の少女の記憶だ。彼女の記憶が自分の中に流れ込んでいる。
訓練を受けている兵たちを、城の上から眺めている。ここは少女の國。少女の住まう城。
「何をそんなに熱心に見つめておいでなのですか? 王女様」
女官のサーシャンが声を掛けてきた。それはつまりお勉強の時間が来た事を告げる合図なのだ。わたしはお勉強は嫌い。だってつまんないから。お外で走り回っている方が楽しいわ。一度サーシャンにそう行ったら、一日中走り回されたのでもう言わないけど。
「兵隊さんたち。みんな一緒の動きするから観てて面白いの。でもわたしが号令した方が奇麗だけどね」
わたしが声を発するとき、ちょっとスイッチを入れると、皆わたしの言葉通りに動く。初めはわたしが王女だから皆従うのだと思っていた。でもそれは違った。どうやらわたしの声は特別らしい。
「ええ。御國の為、頑張っていらっしゃるのですわ。ありがたい事です。感謝の気持ちを忘れないようにいたしましょう。それに王女様のそのお声は、あまり披露為さらない方が宜しいかと存じます。皆が怖がりますし、それに皇太子殿下が……」
わたしと一緒になって兵たちを眺めて手を合わせてその敬意を示す。わたしも真似をして一緒に手を合わせながら、わたしの能力に苦言を溢す。それに兄上様がいい顔しないというのだ。
「みんながわたしの言葉に従うのよ。それが何かいけない事なの?」
「そうであるが故に、王女様は常に正しく在らねばなりませんね。さあ、ここは冷えますわ。お部屋に戻りましょう」
わたしは返事をする間もなく、手を引っ張られて部屋と連れて行かれる。
勉強しないと立派な王女に成れない。そう毎回のように言われる。立派な王女ってなに? わたしはわたしじゃいけないの?
「わたしは別に王女に成りたいと思った事はないわ。普通の家庭に生まれたかったわ」
「普通の家庭に産まれたら大変ですよ。王女様がそうやってすくすくとお育ちになれるのも王家にお生まれになればこそです」
「普通の家庭ってそんなに大変なの?」
「そうですね。皆一生懸命に生きてますわ。中には貧困で亡くなる方々もいらっしゃいますし」
「それって、國がちゃんとしてないからじゃないの?」
「王女様! 口をお慎み遊ばせ! 仮にも王家の人間がその様な事を口にしてはなりません。王権をよく思わない方々が騒ぎ出しますから」
サーシャンに口を手で抑えられる。
わたしは間違った事を言ってない。でも何故かいつもわたしが何か言うと周りがざわざわするのよね。
「王様も懸命に御國の為を想っていらっしゃいますわ。その、なかなか上手く行かない事もいろいろと御座いましょう。王家の方々は皆、御國の事を考えてご尽力されていますわ」
「兄上様も御國の為を想ってらっしゃいますの?」
わたしの中の兄上様は、ひどく凶暴なイメージしかない。事あるごとに使用人を処罰している印象しかない。それは罰しているというよりも、難癖を付けて拷問しては愉しんでいる様にしか視えなかった。それを知ってからわたしは兄上様とは距離を取り、どうしようもない用があるとき以外は関わらないようにしている。あの兄上様が人の為に何かをするという事が在る様には思えない。
「えっ、ええ、もちろんですとも。どの様なお噂が在ろうとも、王家の方です。皆、御國の為に尽くされておられます」
大人って大変なのね。必死で取り繕う姿が哀れに視えるわ。声が上擦ってるし、目を逸したわね。なんか大人になんかなりたくないわ。
「ねえ、サーシャン」
「どうされました? 王女様」
わたしが急に真面目な顔で呼んだものだから、サーシャンが目を丸くして緊張しているわ。わたしが続けて何を言うのか測りかねている様子だ。そういう姿を視ると少し滑稽で、可愛らしく思える。わたしより遥かに年上だけど、世間一般からしたら若者の部類に入るのかしら。
「お父様の後を継ぐのは兄上様になるのよね?」
「はい。その様になるかと。あ、でも王女様、そういう事は口になさってはなりませんよ。王様はご健在なのですから」
兄上様とは歳がかなり離れている。もう20歳を越えているのだ。お父様に何かあればすぐに兄上様が継ぐことになる。他に兄弟が居ないからだ。そしてお父様は身体が元々弱いらしく、皆も心配している空気をこの王宮中で感じる。そして兄上様は来るべきときに向けて準備中との噂も聴こえてくる。兄上様をよく思わない人たちは王宮の中にもたくさん存在しているのだ。あろう事か、わたしを擁立するとか言う様な噂話まで聞こえ始めている。お父様がご健在だというのに、なんという不敬な事でしょうか。有り得ないわ。
「わたしがあまり本気で勉強しちゃうと、変な噂が立ったりしないかしら? 後を継ぎたがっているみたいな」
「そんな事言ってさぼろうとしても駄目ですよ。まったく、そういうところは変に賢いのですね」
おかしい。そんなんじゃないのに。それじゃまるでわたしがいつもさぼりたがっているみたいじゃないの。まあ、勉強は嫌いだし、お外に行きたいのは事実だけど。
それにわたしが本気になったら……。だめよ、だめ。サーシャンの言う通りだわ。わたしは正しく在らないと。人を思い通りに操っちゃだめ。でも、使えないなら何の為の力なのだろう。
今日のノルマの勉強を一通り終える。やり始めると早いのよね。まあ、やり始めるのがとても辛いのだけど。それにしても
「ちゃんとやるわたし偉いわ。そんなわたしにはご褒美があっていいと思うの」
「はいはい、わかりました。いつものやつですね。ほんとお好きですね。王女様がお好きという事で、民の間でもたいそう人気だとか。そんなに高価な菓子でもありませんのに」
「高価な物が美味しいとは限らないわ。それに安い方が皆が食べれるじゃない」
わたしが大好きはお菓子。その名もブルワーノンノ。柔らかいスポンジの周りをクリームでコーティングしただけなのに、食べると口の中にふわっと甘味が満ちて蕩けそうなの。
「では大人しくお待ちくださいね。直ぐにお持ち致しますわ」
部屋を去るサーシャンの後ろ姿を凝視する。そんなに見つめたって早くお菓子が出て来る訳では無いけれど。もう口の中はブルワーノンノの味を思い出して唾でいっぱいになった。
はっ! まさかこれは餌付けでは……
女官に餌付けされるわたしって、ほんと王女に向いて無いんじゃないかしら。まあ、向いてないなら向いてないでいいんたけど。そもそも王女なんかやりたい訳じゃないし。
バタンと扉が開いて、サーシャンがお茶とブルワーノンノを乗せたワゴンを押しながら入って来た。
わたしはワゴンに走り寄って、さっと皿に盛られているブルワーノンノを一つ掻っ攫った。
「これ! 王女様ったら! はしたないですのよ!」
「むふふ、油断するサーシャンが悪いのよ」
奪い取った戦利品をパクリと頬張る。意地悪くサーシャンを見つめると、彼女は、やれやれといった様子で項垂れて諦めの顔をした。
「ほんとに王女様ったら」
そうぼやく彼女の目には愛しさを感じた。だからなの。だから貴女をからかいたくなるのよ。
その瞳を見たいから。その表情を見るとわたし、何故か安心しちゃうのよね。うふふ。
足下がくらっとした。そう感じた瞬間、床がぶつかってきた。ちがう。わたしが倒れたんだわ。
息が苦しい。喉が焼けるように熱くなって手が勝手に掻き毟り始める。助けを求めるも声が出ない。
まさか毒を盛られた?! 誰に?
「王女様! 王女様! しっかり! 誰か! 誰か! 早く!」
サーシャンの声が遠くに聴こえる。
慌ただしく走り回る大人たちの足音を身体に感じる。
朦朧とした意識の中で、身体を抱え上げられて運ばれている事が何となく解る。全力疾走で城内を走っている。なんでそんなに走り回ってるのだろうか? まるで何かに追われてるみたいだ。
幻覚を視ているのだろうか? 城が燃えてる。そして兵たちが闘っている様な剣戟の音が聴こえる。何と闘ってるの?
そして意識が途絶えた。
これが自分が視た少女の記憶であった。