第百三十八話 『脱出』
白髪の少女の声に応え、人々の記憶の渦が暴れ回る。それはさながら台風だ。
「そろそろよ。一気に翔ぶからね。離れないでね」
絶対に離すまいと、彼女は手をしっかりと握ってくる。
空間が捻れて圧迫される。圧し潰される様な感覚があり、吐き気を催す。
「しっかり! もうすぐよ! 合図したら翔んで!」
失いそうになる意識を必死に保つ。早く此処から抜け出したい。このままでは圧死してしまう。
彼女が言うもうすぐをずっと待ち続ける。
「はい! 今よ!」
えいっという掛け声と共に翔ぶ。
圧縮されていた空気が弾け、身体が急速に上昇する。
圧迫感から開放されたら、今度は高速で走っているジェットコースターから放り出されたかのような恐怖が訪れる。自分の意志とは無関係に突き進む身体。そして何処にも支えがない不安定さ。重力を感じなくなり、ぐるぐると回りながらゆく宛も無く飛ばされて行く。
正気を失いそうになったとき、ドサっと地面に落とされた。
跳び出した勢いに比べて衝撃は意外と少なかった。現実世界に生還したようだ。今まで居た夢の世界と特にわかった感じはしなかったが、真っ白な空間ではなく、木々があり土があり青空があった。
身体を起こして手足の無事を確認する。
特に折れていたりはしなかった。折れてはいないのだが、身体中が気持ち悪い粘液に塗れていた。そして何とも言えない焼けたゴムのような匂いで吐き気がする。
グガグガと呻く声が近くで聴こえた。音のした方へ目を向けると、屍魔が苦しそうに悶ていた。何やら得体の知れないものを吐き出しながら川の方へと足を引き摺っていく。
そうか、あいつに喰われてたのか……。どうやら奴から上手く吐き出されたらしい。あの屍魔の苦しみ様を視ると、先程の喰われた人々の記憶の渦がまだ暴れまわっているのだろう。
そうだ! あの子は? 王女様は?
彼女の安否が気になり、辺りを見回す。
直ぐ側の足下に丸まっている白髪の少女を見つけて安堵する。
自分と同じ様に粘液に塗れているが、無事のようだ。声を掛けるとゆっくりと目を開けた。
何かを言おうとして口が動いているが、声が出る事は無かった。
そして彼女は少し寂しげに、にっこりと笑った。
「少し此処で待っていろ」
そう告げると、こくりと頷く。此方の言葉はもう理解出来るようだ。それは此方の記憶が流れたせいなのだろう。自分もリーシュの記憶のおかげでこの國の言葉を今は理解できるから、同じ様な事がこの子にも起きているのだ。
彼女をその場に残して川の方へ向かう。リーシュの記憶を辿り、目的の物を見つける。
「在った。思った通りだ」
頑丈で分厚い、重みでぶった切るような大剣を拾い上げる。ガーヤの大剣だ。リーシュの記憶で体験したあの出来事は、今からそんなに時間が経ってないのだろう。大剣はあのときと変わらぬままの姿でそこに在った。
そしてあのときは周りを視る余裕が無かった(いや、正確にはそれはリーシュであって自分ではないのだ)が、兵士たちの鎧や剣が其処彼処に転がっている。恐らく中身は喰われたのだ。
あのときたくさん居た屍魔の姿は無く、川辺でげぇげぇやっている先程の屍魔だけが存在していた。
ガーヤ、そしてリーシュ。これはせめてもの手向けだ。
屍魔に、ゆっくりと近付く。吐く事に夢中の屍魔は此方に気付く事はなかった。
ガーヤとリーシュの2人の無念をどうしても晴らしたかった。
おそらくこの感情は自分のものじゃない。リーシュの感情なのだろう。あるいは、リーシュの感情を知った上での自分の感情なのかも知れない。いずれにしても今までの自分では考えられないような行動だと自覚している。きっと、自分とリーシュの区別が曖昧になっているのだろう。
ずっしりと重い大剣を振りかぶり、屍魔を背中目掛けて渾身の力で一気に振り下ろす。
感情が乗っていたからだろうか? すぱっと屍魔は2つに裂けて崩れ落ちた。
「ガーヤ、リーシュ。この剣は形見に持って行かせてもらうからな。その代り、王女様は必ずお護りする」
自分の中で、もうこの二人は他人とは思えない存在になっていた。白髪の少女への思いも、本来の自分のそれではないだろう。彼女を王女として崇敬する気持ちは、本来なら彼女のその事実を聞いたところで、へー王女様だったんだーといった程度の感じ方だっただろう。だから、彼女を王女として護り抜くという気持ちは自分のモノではない筈だ。それでもその気持ちが今の自分の心全体を占めている。不思議な感覚だった。しかし嫌なモノではなく、凄く心地良く感じる。今まで自分には無かった充実感がそこに在った。
それにリーシュの記憶は役に立った。残骸となった兵士たちの鎧に非常食が在る事が記憶に在ったのだ。これを拾い集めれば、それでしばらく持つだろう。そして、あのイノシシモドキ、ヒノコと呼ばれる生き物、あれを捕まえれば移動手段になる。あれは、そういう移動手段に使われている生き物だ。馬みたいなものだと知った。ヒノコを使えれば、王都まで辿り着ける筈だ。きっとあいつは野生ではない。軍用のヒノコで、部隊の壊滅で野生化したんだろう。だとすれば上手く懐けられるかも知れない。
そのとき突然、足に何かが当たる衝撃があった。
まさか屍魔がまだ生きていたか!
一瞬にして身体中から冷や汗が流れ落ち、咄嗟に飛び退って距離を取る。
と、白髪の少女がダンダンと地面を踏み鳴らし、頭から湯気を出しながら怒っていた。その指が指し示す先は屍魔の亡骸だった。
どうやらこの子が足を蹴ったようだ。屍魔を殺した事を怒ってるのか? 何で? どんな生き物にも愛をってやつか?
不審に思って見つめていると、走り寄って抱き着いた後、泣きじゃくり始めた。
足に顔を擦り付けて涙を拭いている。しっかりと掴んでいる腕に、逃すまいという意志があった。
そうか……。心配していたんだな。屍魔に挑んだりしたもんだから。
「ごめんよ。実は自分にもなんでこんなことしたのか、今ひとつ解ってないんだ。リーシュの意志が混ざってるのかもな。心配掛けたな。もうこんな無茶はしないよ」
優しく彼女の頭を撫でる。
「待っていろと言ったのに。仕方ない子だ」
小さい頭なんだと改めて思う。いくつぐらいなんだろうか。彼女の記憶の断片を垣間見たとはいえ、その辺りはよく解らなかった。それにしても幼い子には違いないのだ。そんな幼い子が自分の身を顧みず屍魔に飛び込んで助けてくれたのだ。そう思うと申し訳なくなる。本来なら、こっちが助けなきゃいけない立場なんだ。
一頻り泣いた後に彼女は小さな小指を目の前に、すっと出した。
「指切りか? お前、それ知ってんの? いや、こっちの記憶で視たのか?」
うんうんと頷く少女。
いったいどこまで記憶を視られたんだか。こんな幼女に自分の記憶は全部視られたとか恥ずかし過ぎるだろ。どんな羞恥プレイなんだよ。
ずいっと、さらに小指を近付けて、「早く!」という声が聴こえそうな顔で見上げてくる。
「わかった。わかったよ」
おずおずと小指を絡める。
無言のまま彼女は小指で繋がった腕を一生懸命に振った。きっと出せない声で指切りのフレーズを唱えているんだろう。
その腕がピタッと止まる。そして足を蹴られた。
「なんだよ?」
キッっと見上げてくるその顔には、「一緒に言うの!」と書いてあった。
「はいはい、わかったよ。恥ずかしいな。まあ、記憶視られてるから、もう恥ずかしいものもないのかもだけどな! ちくしょう!」
そして一緒に指切りげんまんを唱えて、指を切る。
彼女は、いたく満足そうだった。やれやれだぜ、まったく。お姫様というのは我儘というイメージがあるが、まさにその通りなんだと認識した。同じお姫様でもニーナとはだいぶ違うな。まあ年齢も違うけどな。小さな頃のニーナも、こんなふうだったのかな? 想像できんが。
いずれにしても、彼女と会話が通じる様になったのは幸いだった。彼女側から伝える事は出来ないが、此方からは喋ったら伝わる。今までのように紙に文字を書く必要は無くなった。というか、イノシシモドキの騒動のせいで持って来ていた本も紛失してしまっている。この状態で会話が出来なければもっと事態は深刻になっていた事だろう。
彼女に今後の方針を伝える。まずは残骸から非常食を集める事。そしてイノシシモドキを探して捕まえる事だ。
彼女は、うんうんと頷く。「コーイチに任せる」そう言っているような顔をして。
承認を得たので早速作業に取り掛かる。散乱している鎧から非常食を掻き集める。何かを乾燥させただけの代物だが、無いよりはマシだ。
此処に居たたくさんの兵士たちはほぼ全滅したのだろう。本当にたくさんの残骸が転がっている。百人分ぐらいはあるではないか。
それにしてもあれだけ居た屍魔は何処に行ったんだろうか? そして此処を襲った屍魔は自分たちが連れてきた奴らなんだろう。認めたくはないが、時期と場所的にそうとしか考えられない。そして、あの遠征軍も何処に行ってしまったのだろうか。リーシュの記憶から今現在までの時間差はそんなにないと思うのだが。
二人で川で身体を洗いつつ、水を飲み、また遺品から水筒を拾って水を汲む。非常食を食べて一息付いた後、少女は眠ってしまった。余程疲れたのだろう。しばらくは何があっても起きないぐらいの熟睡ぶりだ。そっとその寝顔を覗き込む。なんとも邪気のない年相応のあどけない顔だ。ほんのりと頬が赤く染まっている。
これから自分たちは、王都へ向かう。少女の目的は王都に帰還する事だ。だがすんなりとは行かないだろう。このまま真っ直ぐに向かえば間違いなく彼女は排除されるのだ。
垣間見た彼女の記憶はそう言っていた。