第百三十七話 『The Voice of the Charmer』
屍魔の群れを抜け、ガーヤの背中を追って坂を全力で駆け降りる。鬱蒼と茂る木々の隙間を抜けていく。前を走るガーヤが屍魔を蹴散らしてくれるおかげで、障害らしい障害は無く戦線を離脱することが出来た。
彼が予測したとおり、我々の進む先に奴らの姿は無い。
行ける! これは行けそうだな!
生還出来る。その希望が今、目の前にあった。アーシャ、待っていてくれ。もうすぐだ。もうすぐお前の元へ還れる。
何かにガツンと背中を殴りつけられたような衝撃があった。
その衝撃と重さに押しつぶされ、そのまま顔面が地面と衝突する。後ろから伸し掛かる重さに頭蓋骨が砕けるのではないかと思う程圧迫された。声にならない悲鳴があがる。これ以上、圧されると潰れるという瀬戸際で圧力から開放されると同時に空へ跳ね上げられる。錐揉み回転しながら再度地面へと落とされる。
散々に坂を転がり落ちていくところで意識が途絶えた。
「おい! 大丈夫か? しっかりしろ!」
揺すぶられる身体と、耳元のうるさい声で気が付く。
目の前にはガーヤが心配そうな顔で此方を覗き込んでいる。
「え? どうした? 何があった? ガーヤ」
直前の事が記憶にない。いや、直前どころか、今までの記憶がない。いったい俺は何をしていたんだっけ?
「ふぅ。よかったぜ。生きてるみてえだな。死んじまったのかと思ったぜ」
ああ、そうだった。坂を下ってる途中で、何かが起きたんだ。いったい何があったんだ?
なあっとガーヤに尋ねようとして凍りついてしまった。視線の先のガーヤは、その左腕は無くなっていて、腹は血に塗れている。流れ出る血は足を伝い、地面を濡らしている。彼の顔はまるで死人の様だった。
「お前……、俺の心配より、お前の方が死にかけてるじゃないか」
「なあに、ただの掠り傷だよ、こんなのは」
掠り傷な訳がない。どう見ても致命傷だ。腕はともかく、腹のそれは穴が空いているのではないか。
「まさか、屍魔の奴か?」
それしか考えられない。あの状況から考えれば追ってきた屍魔に襲われたんだ。あの衝撃は、きっと奴が後ろから飛びかかってきたに違いない。だとしたら奴はどこだ?
「ああ、3体ほど追ってきてたみたいでな。油断してたよ。やつら木の上を飛び移って来てやがったんだ。上から伸し掛かられてこのザマよ。まあ、3体とも始末してやったがよ」」
「3体とも倒したのか。凄い奴だな、お前は」
そんな身体になりながら3体も始末するとは、素直に凄いと思う。だからこそ、それが、こんなところで終わるのは許しがたい事だった。
「そうさ、俺はぁ凄えんだよ。だが、どうやらここまでみたいだがな」
「掠り傷じゃなかったのかよ」
「はっはっは! そーだった、そーだったぜ。掠り傷さあ。まあちょっとあれだ。さすがによぅ、ちょっとだけ疲れたぜ。俺はぁちょっとだけ休憩してっくからよぅ、おめえは先に行けや」
追ってきていた3体以外にはもう奴らは居ないようだ。それはガーヤの様子からも解る。転げ落ちた拍子に持っていた短剣は何処かへ飛んでいったみたいで周りを見渡しても見つけられない。ガーヤを担いで安全な場所まで行けるとも思えない。ガーヤはでかいからな。それに彼はもう……。
木に寄りかかって座ったガーヤは、そのまま目を閉じて静かになった。
彼の側に跪き、黙祷を捧げる。
「ガーヤ。お前の剣、しばらく借りるぜ」
右手に握られていた大剣を拝借する。彼の手はまるで俺に渡そうとするように素直に開いた。
この剣が俺に扱えるとは思えない。思えないが、他に武器がない。それに、ガーヤの形見として持っておきたかったのだ。
どれほどの時間が経っただろうか。坂を降りた先、森を抜けたところで川に出くわした。確か、ここに別の部隊が配置されているはず。ひとまずそこに合流すればいい。そう思った。だが、
「ここまでか……」
今、目に映るものは、彼方此方に転がる兵士たちの身体の無い鎧や槍、剣や盾。そして生き残っている兵士たちに群がり貪り喰っている屍魔の奴らだった。
そっか。奴らは此処にも襲いかかっていたんだ。俺が居た部隊を襲った奴らとは別のグループが存在していたんだ。
闘え。そう手にしていた剣が言った様な気がした。逃げても逃げ切れない。逃げる途中で殺されるならば、此処で闘って死んでやる。そんな気になった。ガーヤの奴が乗り移ったのかも知れない。
「うおおぉぉぉ!」
恐怖を払うように雄叫びを上げながら、屍魔の群れに突進する。
一番近くの屍魔を後ろから斜めに斬りつける。屍魔は2つになって崩れ落ちた。
まず一体!
つぎぃ!
持ち上げた大剣は重さでコントロール出来ず、二体目の屍魔はその片足を膝下から切断しただけだった。
そのまま屍魔に伸し掛かられる。
「このおぉぉぉっ!」
無駄だと解っていても最後まで抵抗せずにはいられない。ひたすら屍魔顔を殴りつける。
やはりびくともしない。くっそ。俺は此処で終わるのか。
アーシャ……すまない。
そのとき、倒れている俺の側に裸足の白髪の少女が立っていた。
なんでこんなところに少女が?
いや、それよりもこの少女は? みすぼらしいボロを纏った姿をしているが、その顔には見覚えがある。まさか……。
「ルージェーン王女様!」
何故、こんなところに王女様が? いや、それよりも!
「王女様! お逃げください! 危険です!」
声を涸らして必死に訴え掛けるも、王女様はそのあどけない表情のまま、ゆっくりと俺の耳元に口を寄せた。
「コーイチ。早く目を覚まして」
鈴の音の様な声が響く。王女様が呼ぶコーイチという名前。なんだか懐かしい響きのある呼び方だ。何故か心がざわつく。緑の帽子を被った金髪碧眼の少女の姿が浮かぶ。そんな、在る筈の無いはずの記憶が蘇る。
「ニーナ」
口が勝手にその名を呟く。ニーナって誰だ?
「わたしはニーナ王女様じゃないよ。ルージェーンだよ。失礼ね! それよりも、コーイチ、あなたは彼じゃない。あなたは、ヤマネ・コーイチなの!」
あなたは彼じゃない? どういう意味だ。なんだ? 俺は屍魔に喰われておかしくなったのか?
「コーイチ。今すぐ、彼から離れて! 早く!」
王女様の声とともに、カチリと何かのスイッチが入った。身体中が泡立つのを感じる。内部に在る何かが外枠を突き破って外へ出ていく。自分の意識は破かれた方に残り、その場にだらしなく崩れ落ちた。
皮だけになった自分の側に王女様はしゃがみ込こんで、優しく此方を撫でる。
「コーイチ、早く戻って来て。お願い。あなたを思い出して」
白髪の少女の声が、自分の心の奥深くに突き刺さるように響き渡る。
コーイチ。ヤマネ コーイチ。それが自分の名前?
「あなたはコーイチ。地球という惑星に住んでいた人」
地球という言葉に、暗闇に浮かぶ青い球体が視える。ああ、これは地球だ。
「そしてコーイチは、わたしと一緒に王都へ行くの」
王女様の言葉と同時に身体が引っ張り挙げられる。皮から身体の形を作り始める。激しい目眩に襲われ、平行感覚を失う。支えを求めてふらついていると、脚をがしっと掴まれた。
「ちゃんと身体が戻ったね。じゃあ行くよ、コーイチ!」
今度は手を引っ張って走り出す。その姿に二つの思いが重なる。
「ルージェーン王女様ってこんなに可愛らしい感じなんだ。いつも遠目で眺めていただけだから知らなかった」という驚きと、あの子らしいなあっと可笑しがる自分。そしてそれ以上に、内側から驚きの感情が芽生える。
「あれ? お前、喋ったの初めてだな? それに日本語まで流暢じゃないか」
そうだ。目の前にいる白髪の少女はずっと喋らなかった。最初は緊張からかと思った。そして言葉が通じないからかもと思った。そして後から気付いた。おそらく彼女は口がきけないのだと。
そして今、言葉が通じている。その事実に驚愕する。
「ここではね、お話し出来るの」
とても嬉しそうに笑う彼女。多分今まで一番の笑顔だ。ずっと話したかったんだろう。意思の疎通が出来ないのは辛いし、なにより寂しいだろうからな。そうだった。自分とこの子はそうやってしばらく共に過ごしてたんだった。この子はこんなにも奇麗な声で話すのだな。
「ここは、何処だ?」
周りを見渡すと、さっき迄群がっていた屍魔の姿は無く、何も無い真っ白な空間が広がっているだけだ。
「ここはね、屍魔ちゃんの中だよ」
「屍魔の中? ど、どういう意味だ? そしてなんでちゃん付けなんだ?」
「コーイチはね、屍魔に喰われたの」
屍魔に喰われたって……そんな。思い出そうとして記憶を探るが、何も出て来なかった。未だに自分がコーイチと呼ばれる事に違和感がある。リーシュとしての記憶は鮮明なのだ。そうなのだが、この子、いや王女様の言葉がその思いを打ち消すのだ。自分はコーイチなのだと。朧気な記憶を揺さぶるのだ。そうだ、王女様がそう仰るのならば、自分はコーイチなのだろう。
「お前は何で此処に居るんだ?」
「んーっとねえ、コーイチを助けに来た。コーイチを喰った屍魔ちゃんの中にね、わたしも入ったの」
「屍魔の中に入った?! いや、それって喰われたのと一緒なんじゃないのか?」
「大丈夫よ、コーイチは、まだ消化されてないから」
「消化されてないっつったってなあ。こんなだだっ広い場所からどうやって逃げるんだよ?」
「んーっとねえ、ここは夢みたいな場所なの。現実じゃないの。だからね、目が覚めたら大丈夫」
手を繋ぎながら延々と走り続ける。景色は変わることなく真っ白なままだ。本当に進んでいるのどうかわからない。同じ場所でずっと空回りしているのではないか? そんな思いに支配される。
「いつまで走り続ければいいんだ?」
「んーっとねえ、迷っちゃった」
彼女は立ち止まり、半泣きな顔で此方を見上げた。
「いや、そんな顔で視られても」
迷ったと言われても、周りに目印のようなものは無いし、何処視ても真っ白なだけだ。これは詰みかな。このまま消化されていくのだろうか。痛かったり苦しかったりするのだろうか。ちょっと想像して、気分が悪くなった。
はっと、そのとき彼女が何かに気が付いた。周りを体ごと回って確認する。
「わたしは、アールタバインの王女ルージェーン。皆の力が欲しいの。お願い。わたしに力を貸して!」
彼女がそう叫ぶと、周囲に大勢の人が集まる気配がした。それと同時に、様々な人生が自分の内に流れ込む。
「うあ、なんだこれ?!」
「コーイチ! 記憶の渦に呑まれないで! これはこの屍魔ちゃんに喰われちゃった人々の記憶の渦なの。自分をしっかり持って! 記憶に流されないで!」
一瞬の間に、大勢の人生を追体験したが、少女の声でそこから引き摺り出された。
「うええ。なんかまだ自分に人が入ってるみたいで気持ち悪い」
そうか。さっきまで自分がリーシュだと思い込んで居たのは、彼の記憶に呑まれていたからだ。記憶が人間を作るとも言う。リーシュの記憶の持った自分は、リーシュその人になってしまっていたのだ。
「コーイチ、今から脱出するよ。手を離しちゃだめだからね」
小さな手が此方の手を精一杯の力で握ってくる。此方も痛くない様に注意しながら出来るだけしっかりとその手を握った。
「そうだ。なんで名前知ってるんだ? お前に話した覚えが無いんだが」
この少女に名乗った覚えがない。それとも何処かのタイミングで話しただろうか? それにあの呼び方はニーナが呼ぶときとまったく同じだった。単なる偶然だろうか?
そんな疑問を投げかけられた少女は、いたずらっぽい笑顔を見せた。
「コーイチ、ここはね、ここに居るとね、記憶が流れ出すの。だからね、コーイチの記憶、わたしにも入ってるの」
なんだと。じゃあ、自分がリーシュの記憶で体験したような事をこの子は此方の記憶でしたって事なのか? だから日本語も話せちゃうのか? なんか自分のリーシュのときこの國の言葉喋ってた気がするしな。だがしかし、此方の人生をこの子を追体験しちゃったってことか? なんだそれ! むっちゃ恥ずかしいじゃないか! えええええ! ん? 待てよ。
「じゃあ、なんでお前の記憶が此方に流れてこないんだよ? おかしいじゃないか?」
「流れてるはずだよ? 気づいて無いだけじゃないの? あ、でも、だめ! みちゃダメだからねっ!」
そう言って、顔を真赤にして手を握ったままぶんぶんと振った。が、やがてしゅんっとなって呟く。
「もう行くからね」
その言葉は寂しそうだった。
そうか、元の世界に戻ったとき、彼女はその声を失うのだ。今、お互い話が出来ているのは此処いる間だけの奇跡なんだ。
そして、そう思ったとき、彼女の記憶が流れ込んだ。それは一瞬の事であり、断片的なものであった。だが、それでも、自分は彼女の真実を知ったのだ。