第百三十六話『溶解するこころ』
見慣れないはずの景色。
でも何故か記憶の中にある。
これは自分の思い出には無い誰かの家の中だ。石造りで出来た家だ。ヨーロッパ調なのかな? まあ自分はヨーロッパに行った事ないけど。古臭い手作りっぽい木製のテーブルや椅子が置いてある。
おかしい。一体何が起きたのだ? 自分は確か屍魔に襲われて……襲われて、それからどうしたんだっけ? 白髪の少女はどこに行った? イノシシモドキは? そしてそもそもに此処はどこだ?
周りを見渡そうとしたが、身体が言うことを聞かない。瞳ですら自分の意志で動かす事が出来ない。にも関わらず自分の意志とは無関係に身体と視線が動いている。これは自分じゃない。他の誰かの意志で動いているんだ。
「リーシュ、そろそろ時間じゃないの?」
声のする方に身体が勝手に振り返り、その視界に独りの大人の女性が映る。
彼女の話す言葉は日本語ではなかったが、何故か内容が理解出来たと同時に、なんとも切ない気持ちが湧いてくる。そしてリーシュって誰だ?
「アーシャ、うん。そうだね。そろそろ行かないとね」
口が勝手に動き言葉を発する。そして知らない言葉を話す。知らない筈なのに何を言っているのかが理解出来る。これはそうか、このリーシュと呼ばれた人間の中に自分の意識が混ざり込んでいるに違いない。彼の意識を通して、その感情や言葉の意味を理解しているんだ。そして自分は彼の行動に付随するただの意識体なのだ。此方からは何のアクションも取れない。呼び掛けても反応がない。
何か手立ては無いものかと思いあぐねているなか、彼は身支度を整えて終わり、そして未練を振り切るように勢いよく立ち上がった。身体には西洋の騎士のような鉄製の鎧を装着している。鎧をガチャガチャ言わせながら、家を出て行く。家の外までアーシャと呼ばれた女性が見送りに出て来ているのが背後に感じられる。しかし彼は彼女を視ない。それは視てしまうと未練を感じてしまって出立を辞めたくなるからなのだと彼の心が伝わる。
「リーシュ!」
しかし彼女の悲痛の呼び声に彼が振り向いてしまう。アーシャは何かを伝えようとしていたが言い淀み、「気をつけて行ってらっしゃい」とだけ呟いた。
「大丈夫だよ、アーシャ。今回の任務はただの威嚇行動だから戦闘にはならないし。危険は無いんだ。それに、アリーゴ様の部隊だから負けたりしないよ」
そう言ってアーシャを宥めている。しかし彼の心の中は不安で押し潰されそうになっている事が、自分にははっきりとわかる。それだけではなく、彼の思いが記憶を伴ってはっきりと視える。それはまるで自分の過去を思い出しているかのように感じられた。自分の記憶と彼の記憶がごちゃまぜになってしまった様だ。
彼はアーシャと一緒になってから、より多くの稼ぎを得る為、兵隊に志願入隊した。兵隊になると給金が良いらしい。まあ命を危険に晒すんだから当たり前か? でも自衛隊ってそんなに貰ってないとか聞くけど、どうなんだろう。知らんけど。
屍魔によって荒廃したこの國ではなかなかお金になる職が無く、失業者も溢れていたようだ。そして今日が初めての出陣。
「じゃ、行ってくる」
そう短く伝え、振り切るようにその場を立ち去る。今度こそ、振り返ることはしない。振り返ったらそのまま彼女を抱きしめてしまうのだろう。そうなったらもう立ち去る事が出来ないのがわかる。彼は全ての未練を断ち切って戦地へ赴くのだ。
「おい、リーシュ、聞いたか?」
隣に座っている男に声を掛けられる。彼は一緒に従軍して来たガーヤとかいう奴だ。彼と同じ新兵仲間のようだ。他に話す相手が居ないのか頻繁に話しかけて来て少し迷惑している。
「今回の出兵は威嚇行動じゃないらしいぞ」
ガーヤは興奮気味に話す。声が大きくなっていく。
「落ち着け。それに声がでかい。目立つだろう。恥ずかしいなあ」
顔が赤くなっていくのを感じる。今はあんまり目立ちたくない。変に目立って割の悪い任務を押し付けられても困る。初めての出陣なんだ。後ろから付いて歩く位が調度いい。それに活躍するとか一切考えてないし、一番今考えている事は無事にアーシャの待つ家に帰る事だ。だがガーヤは違うらしく、手柄を立てて上に取り立てて貰うんだとか。貧困生活に終止符を打ち、悠々自適な人生を歩むとか妄想している。とても付き合ってられない。こっちの命がいくら有っても足りなくなる。
「まあ聞けって。王都から出陣した部隊だけじゃなく、各方面からの有志の軍勢が合流してるんだよ。すげえ数だぜ。これはただの威嚇じゃねえだろう?」
王都から出陣した部隊は千人居るどうかだ。各方面から集まったってその数はたかが知れてるだろう。
「ざっと十万は居るようだぞ」
十万だと?! この國の総兵力だって三十万あるかどうかだぞ? その三分の一もの兵が此処に集まっているだと? 確かに威嚇にしては本格的過ぎる。そんな大軍が國境まで進んで来るのを視たら、あっちの連中は侵略しに来たと判断するんじゃないのか? 確かにあっちの國は屍魔によってほぼ壊滅状態ではある。主力も殆どが南に押し込められて未だに屍魔と交戦中らしいし。國境から王都までは戦力らしい戦力は無いといえる。この混乱に乗じて領土を掠め取るって事なのか?
今我軍は國境付近に陣取っている。いつ敵の反応があるやも知れない。出来れば何事も無く終わりたい。國の領土が増えるといい事があるのかも知れないが、戦いともなれば命が危険に晒される。兵士として死ぬ覚悟なんて無い。軍に志願したのは金が欲しかったからだ。死んでしまっては元も子も無い。
ドーンという巨大な何かが落ちてきた様なでかい音と共に、地面が激しく揺れた。
敵襲か?!
周りが騒然とする。デタラメに逃げ回る者、槍を振り回す者、部隊長の名を叫ぶ者。自分の居る部隊は戦争未体験の寄せ集めなのだと知る。えーっとこういう時はどうすればいいんだ? 取り敢えず部隊長の指示は? 部隊長は何処だ?
「静まれー、静まれー!」
四足動物に跨った伝令が笛を鳴らしながら走り回る。あの動物は、ヒノコって言うんだっけか。脚が速いので伝令がよく使っている。また非常時には食料にする事も出来る。訓練で調理実習の時に食べたが、中々美味だ。
伝令により指示が徹底したお陰で、皆落ち着きを取り戻し始めた。訓練通りに整然と隊列を組む。隣のガーヤは「いよいよだぜ!」と意気込んでいた。
状況が判明するまで警戒態勢で待機する。それがこの部隊に与えられた命令だった。
此方の進軍に反応して、あっちの軍が奇襲を掛けて来たのだろうか? これを切っ掛けに全面戦争とか勘弁して欲しい。無事に帰れたら兵士を辞めよう。でも戦争になっていたら辞めさしてもらえないかも知れない。いずれにしても今は目の前の事だ。ここを生き延びる事だ。
大急ぎで走って来た伝令が、部隊長に耳打ちする。伝令の報を受けた部隊長の顔は青ざめていた。
彼はその顔を誤魔化す様に大きく咳払いした。
「構え! 右!」
部隊長の号令で全員が右へ身体を向け先頭が槍を前方に構える。部隊は正方形に陣取り、その全てが長い槍を手にしている。右に居たガーヤが前に変わる。自分の居る場所は正方形の陣のほぼ真ん中だ。安全かも知れないが、逃げるに逃げられない位置ともいえる。
我々が陣取っているのは小高い丘だ。敵が来るなら丘を登って来るしかない。防御には有利な地形だが、取り囲まれると厄介な場所でもある。包囲されない様に友軍の奮闘に期待するしかない。
「来たぞ! 奴らを叩き落とせ!」
高見櫓から部隊長が号令を掛ける。しかし前面の兵たちがどよめき出す。槍があらぬ方向に弾け飛び、兵士が槍ごと谷へ落とされる。槍に刺されながらも丘を登って来た存在は、人型の半透明な生き物だった。
「屍魔だあ! 逃げろぉ!」
誰かが叫んだ。屍魔? これが、こいつらが屍魔? 初めて視た。話には聞いている。幾月か前に突然大量発生し、國を襲った怪物。それ以前からも数体は発見されていたらしいが。でも確かこの國の屍魔はアリーゴ将軍によって全部駆除された筈では? あっちの國の屍魔がやって来たとか?
「おい! リーシュ! ぼっとしてんじゃねぇぞ! 死にてぇのか!」
ガーヤの怒声で我に返る。逃げ惑う兵と、闘うよう押し返そうとする騎士たちで膠着する中、果敢に屍魔と闘う兵、無惨に丸呑みされる兵が視える。統率は既に取れなくなっていて、部隊は混乱状態だ。中にはめちゃくちゃに槍を振り回し味方を斬り刻んでいる奴もいる。
「屍魔の奴に槍は不利だ。剣を抜け! 一気に叩き斬るんだ。振りが弱ぇと奴の身体に入ったまま抜けなくなるぞ」
ガーヤは槍を投げ捨て、重そうな長剣を抜き放った。
「やけに詳しいな、ガーヤ。屍魔と闘った事があるのか?」
「はぁ? 何言ってやがる。見てりゃわかんだろ?」
屍魔を視れば、槍が刺さったまま平気で暴れまわっている。その槍を引き抜こうと藻掻いている兵士が他の屍魔に襲われて喰われた。
ガーヤの言う通りに槍を捨て、剣を握る。ガーヤの長剣に比べれば貧弱な短剣だが、この状況なら槍よりはマシだ。
ガーヤは長剣を振るい、突進して来る屍魔をぶった斬る。首が落ちると屍魔の動きが止まった。
「取り敢えず、首落としゃー死ぬみてぇだな」
一匹倒した事で手応えを感じたのか、ガーヤが明るく言ってのける。
「前は俺に任せろ。リーシュ、おめぇは脇から来る奴を頼むぜ」
頼むと言われても、屍魔を倒せる気がしない。剣を握り絞めておろおろするばかりだ。実戦なんて初めてだ。生きた心地がしない。生きるか死ぬか、それがこの一瞬一瞬で決まってしまうのだ。ぐるぐるとその場で回りながら屍魔を警戒する。
しばらく経つと動揺していた気持ちが落ち着いて来た。よく見ると、こちらに向って来る屍魔は居ない。正面からガーヤに向って来る奴らのみだ。こいつらはひたすら目の前の標的に突進するだけの頭しかないみたいだ。正面から来る奴はガーヤが次々と斬り捨てている。これなら勝てるかも知れない。
「リーシュ、こいつはやべぇわ。前線がそろそろ崩れる」
楽観的な気分になり掛かっていたところをガーヤの言に冷や水を浴びせられる。今まで無事だったのは前線の兵が踏ん張っていたからだ。前線をすり抜けてきた奴らをガーヤが斬り捨てていたに過ぎない。その前線が崩れたら。
「こいつらいったい何匹居やがるんだまったく! きりがねぇ。おい、リーシュ! 正面突破すっぞ!」
この男は何を言い出すんだ。あの屍魔の大群の中を突破だって? 無理に決まってるだろう?
「このままここに居たら死ぬぞ。俺もそろそろ体力の限界だ。今のうちなら脱出出来る。奴らは眼の前の獲物しか追わない。抜け切れれば追って来ないはずだ。まあ何匹かは追ってくるだろうが、ここに居続けるよりかは全然ましだ。それに奴らは頭が悪そうだ。だから奴らが後方で罠とか仕掛けてるとかはねぇはずだ」
確かに、このままここに居たら確実に死ぬだろう。我々は徐々に数に押され始めている。何とか闘いが続いてるのは屍魔が頭の悪い猛獣だからだ。作戦も何もない。ひたすら獲物を追っているだけだ。唯一恐ろしいのは、こいつらは腕が無くなろうが脚が無くなろうが、それでもその命が尽きるまでひたすら負い続けて来る事だ。這ってでも、転がってでも追いかけて来る。まさに獲物を食う為だけの存在。初めからこいつらと闘う準備があり、普通に闘ったならこちらが負ける事はない気がする。ただ今回は最悪の状況だ。何も準備が無い状態で、突然襲われたのだ。屍魔にとっての最上の条件なのだ。
「解った。脱出しよう。ただなあ、敵前逃亡で処罰されないか?」
部隊長の指示なく勝手に逃亡するのだ。処刑されても文句が言えない。
「そん時ゃ、そん時よ。全滅すりゃ、証言する奴もいねぇしな。それに、いざとなりゃ、退却命令が出た事にすりゃあいい」
「たいした忠誠心だな」
「死んだら終わりよ。じゃあ、真っ直ぐ駆け抜けるぞ!」
「おぅ!」
ガーヤの後ろに付いて駆け抜ける。彼は正面から来る屍魔を斬り捨て、揉みくちゃになっている兵士や屍魔の身体の上を駆け上がりどんどん先へと進んで行く。自分も遅れないように同じ様に駆け抜けた。
そうだ。俺はどんな事をしても、アーシャの待つ家に戻るんだ。