第百三十四話 『初めの一歩』
白髪の少女を伴って皆の処へ戻る。
誰も居ねぇ。
麗美香やNULLさん、古今襷。行けそうな部屋を巡ってみるがやはり居ない。そしてニーナも戻っていなかった。
神鏡の屋敷、いやこの世界に落下した屋敷の一部。そこへ戻って来たのは皆に会う事が目的ではない。もっと差し迫った問題。つまり腹が減ったのだ。そして古今襷が言っていた事を思い出したのだ。屋敷の中に非常用の資材や食料品が何ヶ月分かあるという。それを頼りに戻って来たのだ。少女を伴ったのは、あのまま放置するのが躊躇われたからだ。少なくとも、ここに来ればしばらくは食っていける。そう、彼女の住処にはもう食料は無かったのだ。
一番の目的が腹を満たす事であったが、麗美香たちとも合流したかったのも事実だ。ただ何となくではあったがもう居ない様な予感はあった。少女と出会った事でこの世界に人が生きてる事が解った。そして彼女が唯一の生き残りという訳では無さそうだし、警戒は怠れない。屍魔もそうだが、この世界の人々が今どんな状態なのかわからないのだ。慎重に行動するのが正解だろう。
幸いにしてここへ辿り着くまで、屍魔にもこの世界の住人にも会う事はなかった。
連れて来た少女に部屋で休むように身振り手振りで伝え、食料を探すために地下室の方へ降りた。
「うわぁ〜、まじか……」
それらしき場所に、崩れた壁や天井が折り重なっている。重機でもないと、とても発掘出来そうにない。
一部部分、小さい穴が無理やりこじ開けたっぽくなっている所を見つけた。小さい子供なら入れそうな穴だ。あの子に入ってもらうか。いやいや駄目だ、駄目だ。いつ崩れるかわからない所に入って貰うなんて恐ろし過ぎる。崩壊した瓦礫に押し潰される少女を幻視し、身震いがした。
しかし、この穴、もしかして古今襷のやつが開けたのだろうか? そして床にいくつかカンパンが転がっている。缶入りのやつだ。十個ぐらい有るかな。だが流石に全部持てない。四つが限度かな。ここから戻るのにまた瓦礫を掻き分けねばならないからな。両手にカンパンを四缶抱えて落とさないように慎重に運ぶ。カバンが何か、それに代わる物を持って来ればよかったと今更ながらに思う。
カンパンを何度も落としながら、やっと部屋まで戻って来れた。短い距離なのにひどく疲れた。慣れない環境にずっといるからかも知れない。それに部活もやってなかったからな。運動不足なのかもしれない。部活という単語と一緒に学校が思い出された。たいして時間は経って無い筈だけど、凄く懐かしく感じる。もう何年も前の様だ。いや、それは大袈裟か。家では帰って来ない息子を心配して捜索願いとか出されてるかもなあ。とはいえ帰る方法が解らないので何ともできないのだが。向こうに残っているのは、ヤマゲンとメイとタマ、それと摩耶さんか。摩耶さんは頼りになりそうだけど、それでも向こうからの助けは期待しない方がいいだろうな。
「こんなもんしか無いけど、一応食えるはずだ。こっちおいで」
部屋の隅っこで寝そべって本を読んでる白髪の少女を呼ぶ。何とも味気ない昼飯だが、無いよりマシだろう。
ん? 本を……読んでいる……?
何でこの子があっちの世界の本を読める?
不審に思って彼女に近づく。彼女は本を読んでるのではなかった。パラパラとページをめくって遊んでいたのだ。図鑑か何かかとも思ったが、文字ばっかりの学術書だった。
びっくりさせやがる。まさかこちらの文字が読めるのかと思ったじゃないか、
しかし彼女はその遊びをたいそう気に入ったのか、脇にはめくり終えた本が二十冊程積まれ、そして次の本を床に散らばった中から選んでいた。
「えらい気に入ってるのな。子供だなあ。まあひとまずめし食おうぜ」
こちらの声にも反応せず、一心不乱にページをめくっている。
やれやれ、しょうがないなあ。
彼女のそばにカンパンの缶を置いて肩を叩いて食べる様に促した。
カンパンの缶を珍しそうに手に取っていろんな角度から眺めた後、慣れた手付きで缶をカパッと開けた。
ここはさあ、開け方が解らなくて困った顔するのが定石だろうに。なんてこった。残念だ。諦めるしかない。
自分のカンパンを開けて食う。上手くも不味くもない。まあ食料ってだけな感じ。腹を満たすには役に立つ。今はそれでよしとしよう。
少女も缶からカンパンを取り出してボリボリ食べた。そして美味いとか不味いとかの反応もなく、またページめくりに戻った。右手でページをめくりながら、左手でカンパンを掴んで頬張る。本からは一切目を離さない。なんという集中力。一心不乱にパラパラとやっている。
そんなに楽しいのかな? ページめくりって。自分が小さい子供だった頃を振り返って見たけど、そんな記憶は無かった。忘れてしまっているだけかも知れないが。母に聞いた話だと、ずっと洗面器に入れた水を排水口に流し込んでは、また水を汲むというのを延々と繰り返していたらしい。母が声を掛けても耳に入らない状態で。そういうものの一種なのかも知れない。
腕を突付かれて我に返った。
昔を振り返っているうちに寝てしまっていたようだ。
少女は右手を何かを掴む様な格好で手首をゆらゆらと揺らして、もう片方の手でこちらの手を突いている。
「ん? なんだ? なに?」
寝起きで頭がぼーっとして思考が定まらない。
彼女は業を煮やしたのか、今度は床に右手を置いて左右に動かした。うーうー、と声にならないくぐもった音が口から漏れている。
そうなのだ。最初に会ったときは気付かなかったんだが、この子は声が出せない様なのだ。生まれつきなのか、何かあったのか、それは分からないが。言葉を使えない少女が独りで取り残されているのだ。いったい何があったのだろうか? 屍魔のせいなのか? 正直聞くのは怖い。屍魔のせいなら自分はどうするべきなのか? 我々の同胞によって引き起こされた災厄なのだ。無視は出来ない。いや、屍魔のせいとか関係ないか。この場合、目の前に居るこの子をこのままにしておく訳には行かないだろう。それは、人として当然の思いだ。
うーっ!
癇癪を起こした少女は、そこら中の本を掴んで彼方此方に投げ始めた。
「こらこら! 本を粗末に扱うんじゃない!」
言った後から、自分でもおかしな事を言っていると思った。こんな状況で何を言ってるんだろう。実に愚かだ。今はもっと大事な事があるだろう。もっと考えないといけない事が。
このままでは二人共、此処で死ぬしかない。とにかく安定した食料を確保しないとな。動物を狩るか? ってどんな動物が居るのかも知れない。そもそもにこの世界で何が食えるかも知れない。うーん。これは思ってた以上に深刻だぞ。いや、そんな事は始めから解ってたけど、見ないふりをしてたんだろうな。そうしないととても正気が保てない。とはいえ目の前の少女を見捨てる事も出来ない。むしろこの子が居るから、まだ頑張ろうと思えるのだろう。
そう考えると、この子には感謝だな。自分独りでは諦めて餓死してたに違いない。
そんな少女はようやく落ち着いたのか、今度は本を丁寧に並べ始めた。片付けてるのかと思いきや、重ねずに寝かしたまま横に並べている。新しい遊びでも思い付いたのだろうか。まあ暴れなくなったのはいい事だが。
彼女はせっせと本を並べている。その本は横だけでなく、今度は縦に、そしてクロスして……これって、もしかして。
一通り並べ終わった少女が腕を掴んで来る。そして並べた本を何度も指差した。
間違いない。この横や縦や、クロスしたり、斜めだったりした本の並び。
これは『ひらがな』だ。慣れ親しんでいる自分の国の言葉。
本はその並びで「かくもの」という形を作っている。
「お前、言葉が解るのか? ひらがな解るのか? っていうか日本語解るのか?」
彼女はずっと本の並びを指差す。こちらの言葉は、やはり解らない様だった。文字だけ解るのか。
もしかして、この子、さっきまで本当に本を読んでいたんじゃないのか? この世界は誰もが何かしらの力を持つという話をニーナから聞いていた。なら、この子は自分の知らない文字を読み解く能力とかだろうか?
ダンダンと、床を力いっぱい踏み鳴らして彼女は抗議して来た。そうだ、かくもの。かくものとは、つまり書くものという事だ。あの手の動き。何か書くものが欲しかったんだ。
辺りを見回して何か無いか探る。ボールペンとかシャーペンとか、無いか? そうだ。確か壊れた机の破片が部屋の隅にあった筈。
机は原型を留めておらず、ただの木片の山になっている。引き出しの中の物は、これだと彼方此方に飛び散ってるだろう。この部屋も瓦礫で埋もれているのだ。ボールペン一本探すのは大変だった。彼女も此方が探している事を理解したようで、一緒になって部屋中を探している。まあ、書くものがどんな形状かは見れば解るだろう。
改めて見るとこの部屋の状態は酷いものだった。ほんと、よく生きてたものだと思う。NULLさんのおかげだ。そうだ、NULLさん無事なんだろうか? 瀕死状態だったし、麗美香もボロボロだったし。そして彼女たちは何処へ行ったのだろうか?
ん?
眼の前に紙切れが差し出される。白髪の少女が突き付けて来たのだ。本のページを破いた様だ。印刷された文字が整然と並んでいる。その縁の空白に文字がボールペンで書かれていた。彼女が書いたものだろう。右手にボールペンを握っている。漢字を書こうとしたのか一文字書いたあとバッテンで消して、その横にひらがなで『かえりたい』と書いてあった。
彼女の意を汲み、文字を書く為の本を一冊持って、屋敷の廃墟を出る。食料は、また取りに来ればいいか。鞄の代わりになる様な物を次は持って来よう。結局、カンパンの缶詰を一つずつ持ち出しただけになった。
もと来た道を戻ろうとすると、彼女に腕を引っ張られた。
「なんだ? 寄り道したいのか? でもそろそろ夜になるぞ」
彼女はなおも腕を強く引っ張り、違う方向を手で指し示した。
彼女から本とボールペンを受け取って、どこに行くのかと問う。
彼女は『かえる』と返して来た。
方向音痴なのか? 帰る道はそっちじゃないよと書く。
しばらく考えた彼女は、『ほんとうのかえる』と返事した。
ほんとうのかえる? ああ、そうか。本当の家に帰りたいと行ったのだ。そりゃ生まれてからずっとあの廃墟に住んでいたわけじゃないだろうからな。
本当の家は何処にあるのかと問えば、○と✕と矢印を書いた後、◎を書いた。○から出発した矢印は✕に向かっている。そして✕を更に超えた遙か先に◎が書かれていた。
これはつまり、○は今まで居た住処で、✕が現在地。そして◎がこの子の本当の家か。家、遠いな。○と✕の距離の10倍は有った。まあ実際の距離は解らないけど、相当遠いという表現だろう。
このままこの辺に居続けても仕方がない。食料だって何れは尽きる。なら、この子と一緒に彼女の家に向う方が意味があるかも知れない。長旅になりそうだが、食料を待っていくために鞄を用意したり、また屋敷の中に入るのが面倒に感じた。本当は慎重に準備すべきところなんだろうけど、時間が経てば不安に押し潰されて動けなくなる予感があった。それに上手くすれば、彼女の家で食事に有り付けるかも知れない。
「よし! 行こう!」
自分を奮い立たせる為、不安を振り払う為、わざと大袈裟に声を張る。そして傍らにいる少女に笑い掛ける。彼女もまた、にまっとこちらに笑い掛けて掴んだ腕を嬉しそうにぶんぶんと振った。天使というのはこんな子の事を言うのだろう。その笑顔に癒やされる。
これから先の事を考えると、いろいろと不安だらけだ。NULLさんたちの事、ニーナの事。みんなはどうしているのだろうか? そして元の世界に帰れるのだろうか? このままこの世界で誰にも知られずに野垂れ死ぬのだろうか? しかし、それらを思い悩んだところで、誰も解決してくれない。自分で何とかするしか無い。頼れる人は此処にはもう居ないのだ。何が正解かとか、何が妥当とか、全く解らない。そもそも正解があるかどうかすら定かじゃないんだ。どんな行動を選択したところで、もう既に詰んでいるかも知れない。でも、それでも
今出来る精一杯を生きるしか道はない。