第百ニ十七話 『旧跡』
まあそうだろうと予想は付いていた。
だから、そんなに驚きはしなかったが、やはり残念と思わざるを得ない。
自覚が無くとも、僅かでも希望が有る事が活力となっていたのだ。その事実を今、痛感する。
「コーイチ、戻りましょう」
ニーナの声で我に返り、蹲っていた身体を立たせる。
手足は鉛のように重く、緩慢な動きにしかならなかった。絶望に取り憑かれた者は、こんなにも渇くものなのかと思った。心が渇いていた。もうどうでもいいと投げ出したくなっていた。もう元の世界には戻れないのだ。その事実を頭は理解しているが、心が受け入れを拒絶しているのだ。
「コーイチ、あなたの気持ち、よく分かります。私も帰れないと知ったとき、今のあなたと同じ気持ちだったと思います」
そうだ。ニーナはあの時、二度と自分の世界には戻れない。そう考えていた。どんな言葉で慰めればいいのか、悩んだ事を思い出す。あの時、歪を閉じた時。まさかあの時、自分が同じ様な事になるとは思いもよらなかったが。
こんたんから訊いていた場所は、存在しなかった。いや、正確には、そこへ辿り着く前に屋敷の残骸が無くなっていたのだ。瓦礫をくぐり抜けて辿り着いた先、目的地よりも遥か手前。そこに広がっていたのは荒れ果てた草原地帯。そこかしこに点在する崩れている石垣や城門だった物だ。何者かに蹂躙され、破壊尽くされた城だった物の跡だ。屋敷が分離して遠くに落ちたとは考え難い。目指していた転送装置は、元の世界に残されたままなのだ。
「ニーナ、おまえ、ここが何処だか分かるか? ここは、おまえの知ってる場所か?」
彼女はゆっくりと立ち上がり辺りを見渡した。もうすぐ夜になる時間なのだろうか? 辺りは薄暗かった。
「少し周りを見てきます。コーイチは、そこを動かないで下さい」
そう言うや否や、ニーナは急いで走りまわり始めた。
余程、気持ちが急いていたのだろう。本当は、直ぐにでも外を確認したかったのだろう。こちらがショックのあまり呆然としていたから、ずっと側に付いて居てくれたていたのだ。
石垣を確かめたり、その高い石垣の上に登って遠くを見たりしていたニーナは、そこから飛び降りた勢いのまま、こちらに駆けて来た。
「もう少し、遠くまで行って来ます。直ぐに戻りますので、コーイチは、じっとしていてください」
勢い込んでそう言うと、疾風の如く石垣の向こうへ姿を消した。
「おーい、あんまり遠くに行くなよ!」
そう叫んだときには、もう届かない場所に彼女は行っていた。
辺りには屍魔が居る気配はない。しかし、気配が無いからといって油断してはならないだろう。闘った印象から、屍魔の知能は人間のそれより高いとは思わない。むしろ低い感じがする。他の動物と比べれば比較的高い方なのかもしれないが、この辺りに身を潜めて機会を窺うような生物ではないと思った。やつらなら、何も考えずに、真っ直ぐ襲ってくる。そんな気がした。
ニーナが戻って来るまで、辺りの様子を覗う。
今自分が立っているの場所は、山の一部を人工的に平らにしたであろう地形で、そこに城が建っていたのだろうと思える。今は、大地に無造作に雑草が生い茂っていて、長い時間人が訪れた形跡はなさそうだった。
左手の方は、しばらく行くと山に繋がっている。前方は、途中から下っているようで、先の大地が見えなくなっている。それはぐるっと右手から後方に向って同じようになっている。後ろは、自分たちが出て来た屋敷の残骸だ。
空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降りそうだ。
異世界の雨を初体験だ。自分が知っている雨だろうか? それとも違う感じの雨だろうか?
ニーナも、我々の世界に来たとき、同じ様な感慨が有ったのだろうか?
もう帰るのが絶望的になったのだ。この世界で生きていく事を考えなければならない。
だが、いったい何を考えればいいんだ?
それが分からなかった。
だって、そうだろう? こんな非常識な事柄の中で、どう常識的に判断できるというのだ。
そしてまた、ここに立ち戻るのだ。
nullさんならどうするだろうか?
そして、そのnullさんは今、瀕死の重症だ。治療する手段すら覚束ない。
ニーナが戻って来るまで、取り留めもなくだらだらと考えを巡らしていたが、何一つ思い付くものはなかった。そして、ニーナがいつまで待っても帰って来ない。
まさか?! 屍魔に?! と、一瞬嫌な予感が過ぎったが、そんなはずは無いと不安を振り払い、彼女が消えた方向に歩き始めた。
これだけ待ったのだ。ここを動いたとしても文句はあるまい。もうじっとはしていられない。何かをしていなければ落ち着かなくなっていた。
ニーナが姿を消した石垣を越える。
その先に見えるのは、予想した通り、いや予想以上の急な坂だった。
背後が山で、小高い丘の上に築かれた城。そしてそれはこの急な坂を登らないと辿り着けない。攻めて来た敵兵を足止めする坂だ。そんな事を何かで読んだ憶えがある。戦国時代の城の在り方だ。
なら、この城は戦国を闘う為に築かれた城なのだろう。
ニーナからは、この国の戦争について聞いた事はない。だがこの城の存在から、きっと戦争は有ったのだ。それがいつのことかは分からないが。この城が争いの中で崩壊したかどうかは解らないけど。
ニーナは、この坂を下って行ったのかな? 降りたら、また登るの面倒くさそうだ。傾斜度は何度ぐらいだろうか? 正確には解らなかったが、かなり登るのに骨が折れそうだった。とはいえ、ニーナを探す為には降りるしかないな。
悩んでいても仕方がない。諦めて、坂を下りよう。
薄暗かったからだろうか? それとも気が浮ついていたのだろうか? 坂を下りようと踏み出した脚が、土に取られそのまま滑って行く。なんとか踏ん張ろうとしたが止まらずバランスを崩して転倒。そのまま長い土の坂を延々と転がり落ちた。
転がる勢いを止めようと手足でもがくも焼け石に水だった。
止まれ! 止まれ! 止まれ!
必死に念じる。柔らかい土で草も生い茂っている為か、それとも興奮状態の成せる技か、それほど痛みは感じない。
何度か跳ね上げられ、落下の衝撃を受けながらようやく止まった。
止まるまで気を失わなかったのは幸いだった。
身体の痛みに耐えながら、ゆっくりと起き上がる。落下中に痛みは感じ無かったが、やはり結構痛めつけられていたようで、そこら中が動かす度に痛んだ。
ニーナは上手く下りたんだろうか? 彼女の姿を探す。もしや坂から転げ落ちて、この辺りで倒れていないか? そう思ったからだ。
坂の下は、木々が生い茂っており、林の入り口になっている。
その林の向こう。奥の方。
何かが、キラリと光った。