第百ニ十四話 『悪夢』
痛い……痛い……痛い!
見憶えの無い人達に批難され、殴られ、蹴られ、終いには石まで投げられている。
痛い、痛い。身体も痛いけど、むしろ心の方が痛く感じた。
そうだ。彼らは見憶え無い。見憶え無いが、その服装には微かに見憶えがあった。それはニーナの記憶の中に入ったときだ。ニーナと出逢ってすぐのときだ。ニーナの元居た世界の様相を垣間視たのだ。そのときに映った人々の姿だ。
彼らが自分に向けて叫んでいるその言葉は解らない。けど、それは怒声であるが故に、自分を非難しているのだと解ってしまう。
ごめんなさい
そう思う一方で、何処かでそれは自分のせいじゃないという思いがあった。が、そんな事はお構い無しに、襟首を掴まれ、引き倒され、踏み付けられる。彼らは怒りに我を忘れている。怒りの塊だ。こちらを殺すまで、それは収まることは無いのだろう。否、殺したところで収まることは無いのだ。
堪らず逃げ出す。なんとか彼らを振り切って走る。
こんなところで死んでたまるか!
彼らには同情するが、自分が命を差し出す謂れは無い。さらに、自分が殺されたところで彼らは満足しない。問題は何一つ解決しないのだ。それでは死に損。犬死ではないか!
闇雲に知らない土地をひたすら駆ける。
そこは枯れた草原で、遠くには山が見える。周りには崩れ落ちた石造りの家屋が点在していて、この地域が廃墟となっている事が示されていた。
ひとまずあの山まで逃げよう。そう決めた。特に理由はない。決めなければ、何処までも走り続けてしまいそうなそんな気がしたのだ。
追手の様子を振り返って確認する。
彼らは諦めたのか、その姿は何処にも無かった。
山まで行く必要は無いな。とはいえ、これからどうすればいいのだろうか? というか、何故こんな所に自分は居るんだ? あれ? 一体どうしてこんな事になったんだ?
記憶を辿る。何か大変な事になっていたような感覚だけが、記憶の片隅にある。でもそれが何なのか解らなかった。
でも、此処は、この景色は、この見憶えの無い景色は、確かに記憶の中にある。これは自分の記憶ではない。そう、この記憶はニーナの記憶だ。
そうだ! ニーナはどうした?
ニーナの事を思い出したとき、目の前にニーナが立っていた。初めて出逢ったときのままの姿で、緑色の軍服のような物を纏い、緑のでっかいベレー帽のような物を被っている。
「コロシテヤル!」
そう叫ぶとニーナはこちらに飛び掛かってきた。
咄嗟の事に対処出来ず、ニーナにそのまま押し倒され、馬乗りで首を締められる。
悪鬼の形相のニーナが首を締めながら、名前を叫んでいる。
「コーイチ! コーイチ!」
意識が遠退いていく。ニーナに殺されるなら、いいか。そんな馬鹿な事を思いながら、息を引き取るかと思ったら、思いっ切り頬を何かで突き刺された。
「いってーーーなぁ! おぃ!」
あまりの痛さに跳ね起きた。
「あ、コーイチが起きた! 起きた! 起きた!」
目の前で、ぐしゃぐしゃに涙を、流しながら嬉しそうにはしゃぐニーナが居た。
「え? 何で? 今お前、首締めて殺そうとしてなかったっけ?」
「なに寝ぼけてるんだおまえは。まったく。だが、起きてくれて助かったよ。このままお前が目覚めなかったら、わたしやこんたんが、こいつに殺されてたからな」
暗い部屋の中、大量の本が無造作に散らばり、本棚が彼方此方でぶっ倒れている。その本棚に背を預け座り込んでいる、顔半分が血に染まったnullさんが居た。側でこんたんが看護している。
「nullさん! それ、どうしたんですか? 大丈夫なんですか? ニーナにやられたんですか?」
「コーイチ! 私、そんなことしません! そ、その、こんたんさん、先程は取り乱しました。すみません。もう大丈夫です。落ち着きました」
ああ、そうだった。思い出してきた。ニーナは、こんたんに飛び掛かって首を締めたんだった。そっか。さっきのは夢だったのか。その記憶のせいだな。衝撃的なシーンだったから、夢に出て来たんだな。ニーナはnullさんに殴られて気絶してたはずだけど、もう目覚めたのか。いや、自分が長い時間寝ていたのか?
「まあ、本心はともかく、今だけでも落ち着いてくれて助かるよ。何にせよ、お前たち二人共が無事で何よりだ。さすがに今回はもう無理だと思ったがな、わたしもまだまだやれるものだな」
「まだまだやれるって、あんな事やれる人間がいるなんて信じられないですよの事よ。この人、一人で大揺れの中倒れる本棚や飛び回る本だらけの場所で、お二人を守り抜いたんですよの事。わたしのロボが敗けるわけですよの事。でも、それで思いついたんですよの事。次造るロボは絶対敗けませんの事よ!」
「nullさんが、自分とニーナを守ったって、一体何が起きたんですか?」
こんたんの後半の言葉は聞き流し、気になった事をnullさんに尋ねた。
「ああ、それな。お前に云わなければならない事が実は二つある。ああ、ちなみにわたしを殺すなら全部聞き終わってからにしてもらえると助かる。今なら、お前でもわたしを倒せるだろうしな」
nullさんは、時折苦しそうに息を継ぎながら話す。かなりやばい状態なのではないだろうか。
「なんでnullさんを殺さないといけないんですか? そんなふうに思った事ありませんよ」
「そうか。それはよかった。じゃあ遠慮なく云おう。わたしはお前を眠らせている間に、怪物たちを異世界に飛ばしたぞ」
あ、そうだった。そういう話をしていたんだった。まだ頭がボケているのか、すっかり忘れていた。いや、本当は忘れておきたかったのかもしれない。
nullさんの言葉に、ハッとしてニーナを視た。しかしニーナは落ち着いて頷き返してきた。その顔に動揺はない。既に、nullさんから聞いていたのだろう。そして、その事を受け止めたに違いない。nullさんの怪我は、本当はニーナのせいなんじゃないかとちょっと疑ったが。
一番の当事者が、このように事態を受け止めているのだ。自分がとやかく云うのは違うのだろう。それに、既に成された結果である。どうのこうの云ったところで何も変わらない。
「それともう一つ」
うぅっ、とnullさんは一度苦しそうに呻いた。本当に大丈夫なのだろうか? こんたんが側で診ているとはいえ、nullさんの容態が気になった。このまま死んじゃうなんて事……ないよな? だってnullさんだし。
しかし、そんなnullさんは、まるで最期の言葉を残すように弱々しい声で云った。
「どうやら我々は……怪物と一緒に、異世界に飛ばされたようだ」