第百十九話 『忠犬』
観希という名を聞いて、前に学校の廊下でぶつかったあの子だと思い出した。彼女は親友の赤部を追いかけて、故郷に帰った。彼女の能力は、赤部の身体的な痛みや苦しみを肩代わりするという極地的、限定的なものだ。それが何故、今ニーナの身体への損傷に作用した?
「あれは、赤部にだけ有効な能力じゃないのか? だから観希の能力じゃないんじゃ……」
「私もそう思いたい。でも、他に説明が付かない。今思い出したんだけど、前に中庭で襲われたときも、確かに首に噛み付かれたと感じたのに傷一つ、痛み一つ無かったし」
そうだ。そんな事もあった。あの時は自分も不思議に思っていた。ただ、いろいろと騒動があったのですっかり記憶の隅に追いやられていたのだ。
でも、それなら、そうだとしたなら、観希は今……
「お取り込み中、失礼するぞ。何か知らんが、その辺の検証はここを無事に抜けてからだ。いつまたこの防護壁が上がるとも限らん状況だ。急ぎ、先へ進むのが良策だと思うが、どうする? 隊長さん」
nullさんは、言葉の最後でニヤニヤしながら、ぽんっと尻を叩いてきた。
そうだ。今は前に進もう。観季の事は気掛かりだが、ここで心配していても仕方がないし、連絡を取って無事を確認しているような余裕はない。
携帯を出そうとしているニーナを眼で抑えて先に進む事を促す。
「行きましょう」
自分自身に云い聞かせるように云う。
nullさんは何事もなかった様に振る舞っているが、脚の怪我は相当のものだろう。そしてニーナは、もはや手遅れかも知れないが、彼女が傷付けばその全ては観希が受ける事になる。と、なれば今の戦力は自分ただ独りと云っても過言じゃない。nullさんならば、あの傷を持ってしても充分に闘うかも知れないが、それを初めから期待してはいけないだろう。
とはいえ、具体的に何をどうすれば良いのかまったく解らない。
「自分が先に飛び込みます。nullさんは援護をお願いします。ニーナはnullさんの後方で状況を伝えてくれ」
「随分と良い顔する様になったじゃないか。惚れてしまいそうだよ」
nullさんの顔が嫌らしく見上げていた。
「本気でnullさんを惚れさせれるぐらいに成れればいいんですがね」
「ふふふ、その時を愉しみにしているよ。ダーリン」
ヤキモチを焼いているのではないかと恐る恐るニーナの様子を覗うと、彼女は静かに、そして嬉しそうに微笑していた。
その笑顔に勇気を貰ってドアに手を掛けた。鉄製のドアで視るからに重そうだ。
ドアノブを回し、力一杯引く。
びくともしやがらねえ!
「それは開きそうにないぞ。中から開けて貰うしか無さそうだな」
「え? nullさん、でも中から開けて貰うってどうするんですか?」
「確かに難問だな。音戸にもここは無理らしい。そして入り口はここだけだな」
「それって、我々が袋のねずみって事ですか? ここは廊下一本だけで、閉じた扉と、防護壁で挟まれてます」
「そのようだな。困ったものだな」
「nullさん、なんか企んでますね。悪い顔してますよ」
「失礼だな、君は。いつもの愛らしい顔じゃないか。わたしはただノックしようと思っただけだよ」
そう云うとnullさんはペンを取り出して握り、そのペンでドアを何度か強くノックした。
※※※ ※※※ ※※※
扉を叩く音が聞こえる。誰だろう? クソジジイの援軍? それともぽち? どっち?
「お爺様、お客様みたいよ? わたしに構わずお迎えしたらどう?」
「新聞の勧誘は断ることにしているんだよ」
クソジジイは入れる気がない。ということは、ぽち達に違いない。扉の鍵は、おそらくあの机にあるはず。わたしが入ったときクソジジイは机に座っていた。ならあそこにあるはず。
間の悪い事に、机はクソジジイを挟んで向こう側だ。
扉はカンカンとノックされてる。
うるさいわね! 開けるの大変なのよ!
クソジジイの動きはぎこちない。抜けれるか?
ノックうるせーよー。って、なんか変なリズム。ん? これは、もしかして。
そんな事出来るのかな? やった事ないけど。
とりあえず机を念で叩きまくってやる。
当てずっぽうに、念を込めて叩きまくる。遠くにあるけど、わたしの念は充分に届いた。
この程度なら、まだ使えそうだ。
ジジイが突っ込んで来た。こっちのやってる事に気付きやがったなあ。
えーい、もうこんちくしょう!
ありったけの念を込めて机を叩きまくる。引き出しの中も含めて全部叩き倒した。
カチリとスイッチが入る手応えがあった。
扉が開いて、ぽちが入ってくる。
やっぱりぽちだ。さすがわたしの忠犬。
「ポチっ! 遅いぞ!」
反射的に口を付いて出た。なんかその事が嬉しかった。ずっとこの言葉を吐きたかったんだなあっとぼんやりと考えていた。
身体がゆっくりと膝をつく。
どうやらお腹に一発喰らったみたいだ。
威力はだいぶん落ちてるみたいで、吹っ飛ばなかったけど。
それでもやっぱり、効いたんだろうなあ。もう感覚がないや。
絨毯に顔を埋めながら、駆け寄ってくるぽちを視ていた。




