第百十八話 『動揺する心』
一日遅れました(;^ω^)
極力遅れないように頑張ります。
無意識に認識を拒絶したくなるような光景を目の当たりにしたとき、人は本当に目の前の出来事が理解できなくなるのだと、そのとき初めて知った。そんな事、知りたくも無かった。
屍魔の腕がニーナの背中から突き刺さり、胸を穿いている。視覚はそう伝えているのに、心が理解しようとしなかった。
頭の隅っこでは、一縷の望みをかけて、ニーナを助けなければならないと理解している。理解しているのだが、心が現実を拒否しようと足掻いていた。
「どけっ!」
nullさんに体当たりを喰らったとき、目の前を屍魔の腕が一瞬掠めた。
「音戸! なんとかしろ! こっちは全員通路は抜けた! 防護壁に奴らが挟まっている。潰せるか? いや、なんとか潰せ!」
nullさんの叫ぶ声が聴こえる。少し耳障りだ。今は、ちょっと落ち着きたい。そうだ、ニーナはどこだ?
きょろきょろとニーナを探す。
ニーナは廊下にうつ伏せに寝ていた。
なんでこんなところで寝ているんだ? 汚れるぞ。背中もなんか破けてるし。
ニーナの側にしゃがみ込んで、彼女を起こそうとしたけど、ピクリとも動かなかった。
破けた背中を何かで覆うため、制服の上着を掛けようとして初めて気が付いた。ニーナの背中は制服がビリビリに破けてはいるものの、その内側の彼女の肌は白く綺麗なままだった。
現実逃避による幻覚かと思い、そっとその背中に触れる。彼女の肌にこんな形で直接触れる事になるとは夢にも思わなかった。
自分の心が壊れてなければ、これは……
うっと、微かにニーナが呻く。
生きてる。ニーナが生きてる!
でも何故? たった今確かに目の前で屍魔の腕がニーナの身体を穿いたのを視た。認めたくない現実だが、間違いなく実際に起きた事だ。
「nullさん! ニーナが生きてます! 無事です! 傷もありません!」
興奮のあまり、nullさんに大声で報告してしまった。そしてそこでようやく現実に戻ってきた。
そうだ! 屍魔は?!
自分たちが来た方角を視る。
防護壁が降りて屍魔をニ体踏み潰していた。
奴らは、上半身だけになって藻掻いていた。その身体からは湯気が立ち昇っている。
「やっと正気になったか? バカもの。まあ、お前を当てにしていたわたしも愚か者だが。やれやれ、まあ、そいつも無事なんだな。あれで無事とは俄には信じられんがな。まあ、まだお前が狂ってるだけなのかもしれんが」
そう云ってnullさんもニーナの身体を調べ始めた。
「どうやら、わたしも狂った様だな。困った困った。実は我々はもう死んでるのかも知れんぞ。これは死後の世界の幻覚かもな」
nullさんが調べても、ニーナは無事だったようだ。
二タニタ笑いながら、よたよたとnullさんが近付いてくる。
よたよた?
nullさんの姿を改めて視ると、身体中から湯気が立っていた。
「nullさん! その湯気は?」
「ああ、奴らに効くかもと思ってな。強酸の溶液を使ってみたんだが、予想外に暴れられてな。わたしも浴びてしまった」
視ると、左脚の外側が焦げて赤黒くなっている。
「大丈夫なんですか?! なんか凄いことになってるんですけど」
「ん? ああ、結構痛いな。いや、痛さよりも身体が傷物になってしまった。お前、責任をとってわたしを貰ってくれないか?」
「貰うって、nullさん女性なんですか?」
「それは、開けてみてのお楽しみだ」
「そんなお楽しみは要りませんよ」
「冗談はこの辺にしておいて、この廊下の先が目的地だ。いよいよクライマックスといったところだな。金太郎がどうなっているのかわからんが、無事である事を祈ろう。これ以上、お前が狂っては困るからな」
nullさんが顎で示した方角を視る。
長く真っ直ぐに続いている廊下の先、そこに扉が一つ。
「そいつを起こしてやれ。わたしは自分の処置をする。あと、暗視ゴーグルは外しておけよ」
nullさんはしゃがんで、手早くミリタリーカーゴパンツの左脚部分を裂き、脚の治療を始めた。剥き出しになった左脚は、火傷のように赤黒くなっていた。アーミーナイフでその部分を削り取り、ガーゼを当てた。こういうシーンは得意ではない。出来れば見たくないのだが、目を逸らすタイミングを失っていた。
「水がないもんでなあ。大量の水があれば、それで洗い流すんだが、無い以上こうでもしない脚がなくなるかも知れんのでな。それよりも、見惚れてないでさっさとそいつを起こせ」
nullさんに即されてニーナを起こす。制服の胸がはだけているので、自分の上着を掛けておいた。そうしないと、気が付いたときに暴れだしそうだからな。
「あ、コーイチ?」
目を覚ましたニーナは、まだぼんやりとしていて夢現状態だ。
「急に動くなよ。ゆっくりな。どこか痛いところはないか?」
しばらく考えたニーナは、「ない」とまだ寝ぼけた声で応えた。
「そっか、よかった」
本心からの呟きだった。自然に口から出た言葉だ。
「私、どうしたの? えっと、ここはどこ?」
身体を起こして辺りを見回すニーナ。そして立ち上がったときに、掛けていた上着が落ちた。
「あっ」
状況を把握していない彼女は、はだけた胸に気付いていない。まあ、丸だしじゃないから、大丈夫かな? なんて云ってる場合じゃない。
「ニーナ、これ羽織っとけ」
彼女の胸を隠すように、自分の上着を押し付ける。
ニーナは不思議そうに上着を眺めていたが、その視線を胸に落として固まった。
「お前は怪物の腕に貫かれたんだ。憶えてないかな。背中と胸が破れているのはそのせいだよ。なぜ身体には傷一つない? ぜひ教えて欲しいものだな。我々は今や運命共同体ではないか」
脚の処置を終えたnullさんがニーナに語り掛けてきた。
少しずつ頭がはっきりしてきた様子のニーナではあったが、その表情からは当惑の色が消えない。
「私は何も憶えていません。傷が無いと云われても、私には何の事だかさっぱり……」
そこで言葉を区切ったニーナの目が何かに思い当たったように見開かれた。
「もしかして……、コーイチ、もしかして、あの、あの子、あの子じゃないかしら?!」
「あの子? って誰のことを云ってるんだ? ニーナ」
「ほら、あの子。えーと、テニスの子のお友達の」
テニスの子と聞いて思い浮かんだ。あいつだ。赤部真知だ。そして、その友達といったら、
「そう、あの子。観季さんだわ」