第百十六話 『失踪』
nullさんの先導で、屋敷を進む。
いや、正確には屋敷の抜け道と云えばいいのだろうか?
本来の通路ではない壁の中にある空間に、壁面を爆破して侵入して突き進んでいる。nullさんによれば、この屋敷の至るところにこうした壁の内部に通路が隠して用意されているらしい。一緒に連れて来たメイドさんも知らなかったとの事。こっちは疑っていないにもかかわらず、すっかり怯えて知らなかったですごめんなさいと繰り返していた。
メイドさんを連れてきたのはnullさんの案で、屋敷に詳しいやつが居た方が何かと便利だろうと云われて、確かにそのとおりだと思ったのに。結局、何の役にも立って無いのが現状だった。
タマだけを屋上に残して、自分とニーナとnullさんとメイドさんというパーティーだ。nullさん以外、まともに役に立ちそうにない。もちろん自分も含めてだ。なんとも頼りないパーティーである。とはいえ、元々はnullさん抜きで行こうとしていたのだから、その無謀さは明らかであり、赤面ものだ。結果的に、またnullさん頼みになってしまった。遺憾な事であるが、現状を踏まえるならば、この状態がベストだと思う。ただ、ニーナがそれをどう感じているのか解らない。彼女の機嫌を取りたい訳ではないが、最近は特にニーナの言葉一つ一つが心に刺さる様になってきている。彼女の事を気にし過ぎかもしれないな。
タマを屋上に残す時、nullさんは彼女に声を掛けていた。
屋上が危なくなったら遠慮なく此処を脱出しろと。屋上からどうやって脱出するのか気になったが、nullさんに先を即されて訊くタイミングを失った。時間はあまり残されていない。それがnullさんの見解だった。屍魔の群れはすぐ側まで来ているのだ。
「後、どのぐらい掛かりそうですか?」
ずっと黙ったまま、黙々と進んでいて間が待てなくなったので、なんとなく訊いてみた。それがわかったところでどうということもないのだが。
「そうだなぁ。距離はそう遠くは無いが、慎重に進んでいるからな。三十分ぐらいかな」
三十分か。結構掛かるな。屋敷その物がでかいのもあるんだろうが。
「音戸が旨くやっているとはいえ、怪物どもに悟られたら終わりだ。襲われれば、今の我々に闘う手段はないからな」
屍魔に気づかれないように、足音を殺してゆっくり進む。
灯りも危険なので灯さずに歩いている。nullさんだけは暗視カメラを装着している。さすがに準備がいい。残りの者は持ってないし、nullさんも予備はないとの事で、仕方なく自分はnullさんの服の裾を掴み、自分の裾をニーナが掴んで、ニーナの裾をメイドさんがという連結状態で、この狭い隙間の通路を進んでいる。
なんか不思議な感じだ。
本当の暗闇というのは、日常生活で経験する事がまずない。真夜中でも、何かしら人工の灯りが在ってそれなりに視えるものだ。真の暗闇ってこんなにも真っ暗なのか。暗闇が目の前に壁の様に在ると感じる。足元はおろか自分の手のひらさえ視えない。自分が真っ直ぐ立っているのかどうかも判然としない。如何に普段視覚に頼っているのかが理解できる。あまりにも何も視えず、恐怖を感じてしまう。
「此処から先は階段になっている。下に降りるから気をつけろ」
足で床を確認しながら一歩ずつ進む。こわごわと足を降ろす。足場が下がっているのでなかなか足が下に着かずに不安になる。
「コーイチ、ちょっとお話があります」
ニーナが耳元で呟いた。
暗闇で耳元に呟かれて、ゾクッとしたやら冷やってしたやらで跳び上がりそうになったが、辛うじて自制できた。
「なな、なんだ? どうした? ニーナ」
極めて冷静を装い、ニーナにささやき返すが、少し上擦ってしまった。それが彼女に伝わってしまっただろう事が悔やまれる。
ニーナの声がする方向に眼を向けるが、そこに居るのかどうかよく視えず、わからない。
「メイドさんが居ません」
暗闇の前方、すぐ近くでニーナの声がした。すぐ目の前に居るのに視えないのが不思議な感じだ。まるでここに実際には居ないかのようだ。
ん? なんだって? メイドさんが居ない?
メイドさんはニーナの後ろから付いて来ていた筈だった。ニーナの服の裾を掴んでいるはずなのだが、いつの間にか掴まれている感触が無くなっていたらしい。
「メイドさん? 何処ですか? 居ますか?」
小声でメイドさんに呼び掛けてみたが、反応がない。
ドジっ子のメイドさんの事だ。ぼんやりしているうちにはぐれてしまったのかもしれない。
「どうした? 騒がしいぞ。なにがあった?」
「nullさん、大変です。メイドさんが居ません。何処かではぐれたのかもしれません」
はぐれたメイドさんを探すにしても、どうすればいい?
引き返している時間はあるだろうか?
だが、nullさんから意外な言葉が返ってきた。
「そうか。やはりな。普通は、はぐれたならすぐに声を上げるだろう。それがたとえ危険だとしても、暗闇で一人残される危険を考えればな。ましてやこんな状況だ。独りになんてなったら発狂もんだろうさ。だがあいつは声を上げなかった。と言う事は、推して知るべしだな」
「えっ? それはつまり?」
「待て、音戸から連絡だ」
nullさんと音戸が連絡を取り合っている。ここに侵入する時から装着していたヘッドセットのような物でやり取りをしているのだろう。真っ暗でなにも視えないが。
「ああ、それは恐らくあのメイドの仕業だ。音戸、なんとか踏ん張ってくれ。こちらも先を急ぐ」
nullさんの通話には緊迫感があった。
「タマさんがどうかしたんてすか?」
「ああ、事態は最悪の方向に進んでいる。この屋敷のシステムが奪い返されようとしている」
「それはつまり?」
「奴らが来るって事だ」