第百十三話 『通過儀礼』
「お前を信頼したことをもう少しで後悔するところだったぞ」
間一髪で裏口の扉の鍵を音戸が開け、中に滑り込んだ。木製だが扉は分厚く頑丈に出来ている。とはいえ、そう長くも持つまい。怪物たちは扉を破ろうと体当たりを繰り返している。
「null様はひでぇ御人ですにゃぁ。ほんと生きた心地がしなかったですよ。もう少し余裕下さいましにゃ」
「まあそう云うな。アイツらを引き付けておかねば、山を降りかねんからな。アイツらを外に出す訳にはいかんだろう? 人類の為に殉職とか、美しいじゃないか」
「人類の為に死にたくなんかにゃーですよ! 死んで花実が咲くものかーです。生きてたからよかったですけど、もう二度とゴメンですにゃ」
「さて、此処でのんびりしている訳にはいかんぞ。先へ進まねば、こんな扉など直ぐに突破される。あの怪物から身を隠す場所を探せ」
ビキッという音が響き渡り、扉が砕けようとしているのが解る。予想以上に早いな。もう時間切れか。やむを得んな。
「行くぞ! 音戸」
「何処に行くっすか? null様」
「ひとまず上を目指せ!」
神鏡の爺様め、何処に居るんだ。とにかく奴の居場所を見つけるまで時間を稼ぐしかない。とはいえだ、それはかなり骨の折れる話だな。情報の少ない相手と競うのは最も困難だ。
ん? 待てよ。神鏡の爺様がこの事態を想定していたとしたらどうだ? すべてが奴の目論見通りだとすれば。そうだとしたら、奴は何処に居る。こうなる事が解っていたとしたら、私だったなら何処に居ようとする?
そうか。そうだったんだ! 私とした事が、あの爺様に一杯食わされた。
※※※ ※※※
巨大猫化したメイを先頭に、屋上から屋敷の階下に降りる。正確に云えば、この巨大猫はメイではなく、メイのイメージで創り出したもので、遠隔で操作しているらしい。こういうのを召喚獣というそうだが。なるほどわからん。
自分が先頭に立ちたいところだが、冷静に考えているみれば、実質の被害の無いメイの召喚獣が盾になるのが正解だし、誰も異論はないだろう。
周りを警戒しながら階下へ進む。誰も居らず、何も怪しいものも無い。静かで薄暗い階段が続いているだけだった。この屋敷で出会った人間は、後ろからオドオドと付いてくるメイドさんだけだ。他の人には、まだ出会っていない。このメイドさんを巻き込むのは本意ではないが、屋上に置き去りにする訳にも行かない為、付いて来てもらっている。屋敷の構造にも詳しいだろうから、そういった面での期待もある。視た様子では、とても頼りになるようには思えないが。
屋敷の中程の階に差し掛かった頃合いだった。
「随分とでかい猫を飼ってるじゃないか。なかなかいい趣味をしてるな、君は」
不意に廊下の陰から声がしたので、心臓が縮み上がった。
「危うく始末するところだったぞ。危ない危ない」
陰からnullさんがニヤニヤしながら姿を現した。その後ろでタマが手を振っていた。
「此処から脱出するぞ。お前も付いて来い」
nullさんたちは、自分たちが来た階段を登り始める。
「待ってください! 自分たちはこれから麗美香を助けに行きます」
「無理だ。それは諦めろ。アイツらが来るぞ。いつぞやの、あの怪物だ。もうそこまで来ている」
nullさんの云う事はもっともだ。屍魔が来ている事は解っているし、自分でもどうかしてると思う。ただ、無理矢理にでも方針を決めなければ、同じ所をぐるぐる回る思考の泥沼にはまり続ける。そう思えるのだ。間違っているとしても、それを自分の身で思い知りたい。そんな気持ちだったのかもしれない。
nullさんに責任や判断をすべて預けて付いて行くのはとても楽な事だ。いままで自分はそうして来た。そしてそれが間違っているとは思わなかった。
だがニーナはそれを赦さないのだ。彼女は、こちらが決める事や考える事を求めている。そして自分はそれに応えたいのだ。
「nullさんは行って下さい。これは自分の問題なんで」
自分でもよく解らない、理解出来ない気持ちだ。意固地になっている様に視えるだろうし、本当にそうかもしれない。ただ、今は動かずにはいられないのだ。
nullさんにも一緒に来てもらい気持ちもあったが、それも甘えだと思って振り払った。
「格好付けるのも良いが、時と場合があると思うのだがな。ただ犬死するだけだぞ。命を粗末にするな。それに、こいつらも巻き込むとはな。まったくどうしたというんだ? らしくないぞ。もう少し物分りのよい奴だと思っていたがな」
「null様〜、そろそろ動かねぇとやばいですにゃ。もう来ちゃいますよ」
「ああ、そうだな。音戸は先に屋上へ登れ。そして手筈通りに頼む。私もすぐ行く」
タマは、へぃっと返事をして、猫の様に走り去って行った。あいつ、猫になってから猫化が進んだのか、それとも元々だろうか?
「それはそうと、そこのメイド服を着た奴と、そのでっかい猫はなんだ? 私は初見だが」
「えっと、こちらのメイドさんは、この屋敷のメイドさんです」
そう告げた時、nullさんの眼が鋭く光った。
nullさんの視線に怯えて、メイドさんは、こちらの後ろに隠れてしまった。
「この屋敷に人が居るとは驚きだ。今は時間が無いが、後でいろいろと聞かせてもらうぞ」
「そして、このでかい猫はメイの召喚獣です。えーっと、メイは憶えてますか? とんがり帽子の」
「とんがり帽子っていうと、あいつか? ハロウィンの」
「はい、ハロウィン女です」
「ハロウィン女ではありません。大魔術師メイ・シャルマールです。だそうです」
「魔術師か……。なるほど。廊下で遭遇したあの猫たちやカエルの大群はお前の、いやお前たちの仕業だな? 魔術師がよく使う手だな。ところで、魔術師どもがこの屋敷に何の様だ?」
「話す必要はありません。との事です」
nullさんとメイを通訳するニーナとの会話が続く。
このでっかい猫を視ても動じないnullさんはさすがと云うべきか。そもそもにくぐって来た修羅場の数が多いのだろうと推測した。それ故に、こんなでっかい猫など驚くに値しないのかもしれない。
「連れない奴だな。お前たち魔術師であの怪物を一掃してくれると助かるんだがな」
それはまったく同意である。
「それはわたくしたちの仕事ではありません。とのことです」
今の現状では、魔術師たちが一番頼りになりそうなのだが、彼らは力を貸すつもりはないらしい。手伝ってくれれば少しは光明が視えるかもしれないのだが。
「なるほどなるほど。つまり、お前たち魔術師どもの狙いは神鏡の爺様だな。だが、残念だったな。神鏡の爺様はなあ……」
※※※ ※※※
なっ、なによこれ?
何を云っても埒のあかないお爺様に業を煮やして、脅しのつもりで蹴りを入れたのに。
びくともしないし、さらに蹴ったわたしの脚がじんじんと痛むじゃない。
硬い。硬すぎるわ。堅物だと思ってたけど、ここまで硬いとは。って意味が違う?
「自分の祖父に手を上げるとは。随分と遅い反抗期だな。丁度良い。お前で実用試験をしよう」
「手じゃなくて脚よ。クソジジイ」
わたしの軽口をスルーして、お爺様は椅子から立ち上がっっ!
痛い。
息が出来ない……。なに? なにが起きたの? 目がチカチカする。おまけに吐き気を催してきた。頭がぐらぐらする。
「ふむ。なかなかいい動きだな。お前が避けられない程のスピードが出るとは。良いぞ」
ようやく息が少し出来るようになってきた。まだ苦しいけど、なんとか動ける。ちくしょー。このクソジジイ。一体何をしたぁ!
「ほう。まだ立てるのか。さすが私の孫娘だ。私が創ったモノの中で最強なだけはある」
創ったモノ? どういう意味? わたしを創ったのは、お父様とお母様でしょ! あんたから産まれたとかないわ。
「麗美香、賭けをしないか? お前が私に勝ったら、この屋敷も財産もすべてお前にやろう。いい条件だろ? お前が一番欲しがっていたものだ」
「面白い事云うじゃないの、クソジジイ。負けた後で、やっぱ止め、とか云うのは無しだからね」
よし、呼吸が戻ってきた。やれる。さっきは油断したけど、今度は見逃さないよ。ぶっ叩いてやる。叩きすぎて殺さないように気をつけないとね。
くるりとハルバードを回転させて構え直す。
さあ、来やがれ! クソジジイ!
ガンッ!
背中に強い衝撃を受けて前に倒れる。手で支えようとして失敗して頭を床にぶつけた。
ふかふかの絨毯で助かったわ。倒れたとき、痛く無かった。
起き上がろうと思ったときに右腕が思うように動かなくて起き上がれなかった。
右腕を視ると、なんか変な方向に曲がってる。
え? いやいや、ないでしょ、そんな方向に曲がる事なんて。
怖いからすぐに眼を離した。幻覚よ。幻覚。うんうん。
「ほう。まだ生きとったか。さすがに頑丈だな。嬉しいぞ」
クソジジイが遠くからそんな事をほざいてる。って、いつの間に、そんな遠くに?
いや、ちがう。ジジイがさっきまで居た机も向こうにある。わたしが遠くに飛ばされたんだ。
背中を打たれたんじゃないんだ。飛ばされて背中を壁にぶつけたんだ。
まったく視えなかった。何したのよクソジジイ。
くっ、右腕の痛みが遅れてやって来た。やばいやばい、これ激痛になってくるってやつじゃないの? ちょ、まじ勘弁。痛っつ! つぅぅうっつあ!
「条件を言い忘れていたな。この勝負は、無制限一本勝負だ。相手を殺した方が勝ちだ」