第百十話『イレズーレ』
屋上の扉を覆い尽くす巨大な猫の顔。
まったく現実感がない。あり得ないという気持ちが目の前の事実の認識を拒否していた。
あの大きさで扉から出られるのだろうか? そんな場違いな感想が浮かぶ。あの存在はモヤから生じているから恐らく可能なんだろうな。
そいつは予想通りゆっくりと扉をすり抜けてこちらにやって来た。
でかい。でかいぞ。近づけば近づく程どんどんでかくなっていく様に感じる。錯覚なのかも知れないが…… 顔だけで人間の身長を超えていた。
その表情は猫らしく愛らしい。大きなまん丸の眼がこちらを見つめている。サイズが普通に猫サイズなら、撫でくり回していた事だろう。しかしこいつは馬鹿でかい化物だ。
歩みを止めてこちらをじっと見詰めていた瞳が不意に逸れる。
その視線の先にニーナがへたり込んだ状態で巨大猫を見上げていた。
猫がニーナの方に歩み始めたのを観て身体が咄嗟に動く。無意味だと頭では理解していたが、ニーナと巨大猫の間に立ち塞がった。
喰われる? もしくは猫パンチ? それも超巨大な猫パンチを喰らうかと身構える。霧だから当たっても痛くないと、そう信じたい。単なる希望的観測だが。
ところが巨大猫は、文字通りこちらの身体ごとまるで何も無いかの様にすり抜けてニーナに迫る。完全に無視された形だ。
実態がない。白い煙で造られている。そう感じた。
とはいえそれで危険が無いとは言い切れない。
「ニーナ! 逃げろ」
巨大猫の背に追い縋りニーナから引き剥がそうとしたが、何の手応えも無く腕は空を斬る。
無駄だと解っていても、他に手段が無く、ただひたすらに腕と脚を猫の身体目掛けて振り回しては空回りを続けた。
「コーイチ、大丈夫です。この子は私に話がある様です」
ニーナは巨大猫を迎える様に立ち上がった。
こちらが虚しく猫と格闘している間に、何やらニーナとこいつの間でやり取りが有った様だ。
自失していた筈のニーナが正気を取り戻している。
「おい、ニーナ、大丈夫なのか?」
ニーナは、眉をキリッと上げて力強く頷く。
そして彼女はおもむろに、巨大猫の身体に右手を突っ込んだ。
彼女の右手は何の抵抗も無く巨大猫の身体の中に入っていった。あらかじめ約束していたのか、猫は動かずにじっとしてニーナのするに任せていた。
しばらく動きが無く、ニーナと巨大猫はそのままじっとしていた。ニーナの言葉通り、巨大猫に敵意は無い様に視えた。
ひとまず安心しても大丈夫そうだった。気持ちに余裕が出来たので、横目で放置していたメイドさんの様子を視る。と、彼女は泡を吹いて倒れていた。
やれやれ……。まあ、無理もないか。これが普通の反応だな。ちょっとここのところ、異常な事ばかり起こるのでこちらの感覚が麻痺しているに違いない。こういう事態に慣れてしまったんだろうな。
ニーナと遭遇してからというもの、立て続けに有り得ない様な事件が続いている。いや、違うか。本当は、常に事件は発生していて、幸運にも自分がそれに関わっていなかっただけなのかも知れない。そして一度事件に関わるとそれが終息するまで延々とこんな事は続いて行くものなのだ。
「コーイチ」
こんな事ばかり続くのは、命がいくらあっても足りない。自分の様な無力な人間に何が出来ると云うんだ? こういうのはもっと能力の高い奴の所で起こってくれよ。
「コーイチ」
自分には正直荷が重い。
サクッ
「痛えええええなあ! おい」
「コーイチ。この子、メイ・シャルマールです」
こちらの抗議はスルーしてニーナが人差し指を突き付けていた。
「は? 今なんて?」
今、メイ・シャルマールとか云ったよな? あいつがどうしたって?
「この子、メイ・シャルマールさんです。」
いや待てニーナさん、そいつはどう視たって巨大猫じゃないか。それともメイの奴、魔術を拗らせてとうとうそんな姿になっちまったとか? そう考えると不憫な気がする。もっとちゃんと早くにまともに成る様に強く云うべきだったか。まあ、あいつがこちらの云う事を聞くとは思えないが。
「すまん。メイ。どうやって元に戻したらいいか解らない」
「コーイチ、何を云っているのですか? メイさんは私達を護りに来て下さっているのですよ」
護りに? 屍魔から? それは助かる。もう本当に絶対絶命だったしな。
「おい、メイ、助かる。助かるのだが、どうやって此処から逃げる? 屍魔を倒せるのか?」
こちらを凝視していた巨大猫はニーナの方に向き直った。どうやら喋れないらしい。ニーナに対してはニーナの力なのか意思を伝える事が出来る様だ。メイの魔術とニーナの力が上手くリンクしているのだろうか?
「屍魔の事は知らない様です、ただその、巻き添えにならない様に護りに来たそうです」
「巻き添え? 巻き添えってなんだ?」
巨大猫とニーナが向き合って眼で話をしているかの様に視える。これが巨大猫じゃなく、ドラゴンとかならファンタジーなんだが。猫じゃシュール過ぎる。
「他者など自分以外が原因で引き起こされた事象によって迷惑や損害を被る事だそうです」
「単語の意味を訊いてんじゃねぇ! ニーナもそのまま伝えてんじゃねぇよ!」
こちらのツッコミにニーナの頭上にはてなマークが浮かんでいた。やれやれ。巨大猫に成ってもメイは相変わらずだし、ニーナは天然なのか? それともよく分かってないのか?
ゲコ
ゲコゲコ
ゲコゲコゲコ
ゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコ
なんだ? なんだ?
気が付くと屋上一杯に、人の拳サイズの茶色いカエルが溢れかえっていた。いっ、いつの間に? さっきまで一匹も居なかったぞ。巨大猫の次は大量のでかいカエルかよ。勘弁してくれ。何が何だか。
「おい! メイ、コイツらもお前の仲間なのかよ?」
ん? 返事がない? どうした?
「ニーナ、メイの奴の返事はねえのか?」
「コーイチ……このゲコゲコ云ってるの何?」
ニーナの顔が青褪め、声が震えている。こっちの問は聞こえていない様だ。どうやら彼女はカエルは苦手の様だ。まあ、自分も得意な方では無い。出来る限り関わりたくない存在ではある。
「ああ、えーっと、好き嫌いが別れる両生類君だ。可愛いという人もいる。害は無い。たぶん。まあ確かにこんだけ居ると気持ち悪いけどな」
「そっ、そう? そうなのね。私も好みではありません」
ニーナの世界にはこんな感じの生物は居なかったのだろうか? そういえばニーナの世界について何も訊いてないな。そういえば、最初にニーナに会った時に瞬時に情報が脳に直接伝わったような出来事があった気がするが実際あまり憶えていない。そして今までは訊くのを躊躇っていた。ニーナは屍魔に追われて此処に来た。故郷を思い出す事は辛かろうとう配慮があった。
「それで、メイは何て?」
あ、ごめん、ちょっと待ってね、といった感じで手で合図して猫と向き合う。メイが直接喋れないのがなんともまどろっこしい。
「いれずーれの魔術だって」
「なんだって? いれずーれ? なに?」
「イレズーレ『不当に魔術を行使した者を抹消する機関』、それが動き出したそうです。メイさんは、私たちが彼らの巻き添えにならないように目印になるように来たそうです。この大猫さんから離れないでくださいとの事です」