第百六話 『目覚めのとき』
「地下に秘密の研究所か。悪の秘密結社かくあれかしだな」
「あれ? null様って特撮ヒーローものお好きな方っすかぁ? 意外や意外ぃ。高尚な番組しか観ない方だとばっかり思ってましたっすよー」
「なあに、特撮ヒーローものだって高尚なものだぞ」
「あはははは」
「さて、無駄話はここまでだ。さっさとがさ入れしているフリをするぞ」
「nullさまもお人が悪いですなぁーあははは」
※※※ ※※※ ※※※
「屋敷に入れたわね、あんた」
麗美香の形相に廻りの空気が凍り付く。首筋をひやりとした風が撫ぜる。
本能が生命の危険を感じ取っていた。これは違う。今までの麗美香じゃない。本気で人を殺めようとする別の何かだ。いつもの冗談めいた雰囲気は微塵もない。
逃げよう。
踵をズリズリと後ろにずらして逃走に備える。下手に動けない。ちょっとでも刺激を与えれば、その瞬間に首が飛ぶビジョンが幻視できる。距離が離れているとはいえ、麗美香の突進の速さを知っている。きっと瞬きする間に眼前に迫るに違いないのだ。
しかし解らない。麗美香は爺さんと敵対しようとしていたんじゃないのか? なら何故nullさんらの屋敷侵入にこうまで怒りを露わにする?
「なあ麗美香、一つ訊いてもいいか?」
「なぁに? 冥土の土産とか云うやつ? いいわ。今までのお礼に応えてあげる。云ってみ?」
冥土の土産って、やっぱりこいつ殺す気なんだ。まったく何でこうなる? 助けに来たはずなんだがなあ。助けようとした相手に殺されるのなんて割に合わない。麗美香にいったい何が起きたというんだ?
「お前、爺さん倒そうとしたぐらいなのに何で屋敷の侵入にそんなに怒る? 爺さんが困る分にはお前の得じゃ無いのか?」
敵の敵は味方って奴である。nullさんにしたって、麗美香と闘う風には見えなかったのだ。二人が闘う謂れはない。
「あんたバカね。爺様は邪魔だけど、神鏡家は大事なの。神鏡家まで倒れちゃったら意味ないじゃない。わたしはまだまだこの神鏡家を利用したいの」
「利用っておまえ……」
考えたくは無いが、そうなのかも知れない。つまりはこいつの中には打算がある。爺さん亡き後、神鏡家その物を牛耳るとかそういう事か。だから家に都合が悪い事が発覚とかして没落するのは困るって話なのか。なるほど。やはり、こいつはあの爺さんの孫。血は争えないな。
「わたしからも一つ訊くわ。あんた、わたしの敵なの?」
未だかつて麗美香を敵だと思った事は無い。そう、ついさっきまでは、だ、
「ずっと味方だと思っていたさ。お前が本気で殺意向けるまではな。それに、爺さんが何かヤバイ事してるんなら止めるのが正解だと思うぞ」
「先に仕掛けといてなに被害者みたいに云ってんのよ! 裏切られたのはわたしの方じゃない!」
麗美香は癇癪を起こして地団駄を踏んだ。
裏切っただと? そんなつもりは無い。なにせこちらは助けに来たつもりなのだ。
「そっか、タマの奴も裏切ったんだ! あんにゃろぅ!」
そこにタマが居るかの様に、彼女はハルバードを振り回して叫び廻った。
ブォンブォンっと風を切る音が悲しげに響いた。
「コーイチが悪い」
ずっと沈黙を続けていたニーナが、後ろから唐突に呟いた。
「なんだよ? なんで悪いんだよ? 麗美香の奴がこっちを殺そうとしてるんだぞ。爺さんが何やらかしてるか解らないんだ。それを暴くのは普通だろう?」
予期しないニーナの呟きにあたふたして振り返ったら、彼女は鋭い目付きで睨んでいた。何故睨む? 睨まれる様な事をした覚えは無いが?
「私は何も知らない。nullさんが何者なのか? 何をしようとしているのか? コーイチは知ってるの?」
「いや……知らない。知らないけど、nullさんの事だから間違った事はしない。そう信じている」
まだ短い付き合いとはいえ、今までのnullさんとの関わりからの結論だ。
「私はコーイチみたいにそこまで信じられない。私は自分の眼で見たもの、感じたものしか信じない。今のコーイチの言葉は信じるだけのものが無い」
驚いた。ニーナが本気で楯突くとは。今までだって口論はあった。意見が合わない事は初めての事では無い。だが今回は、意見の相違による口論では無く、こちらの心情もしくは信条について疑問と抗議の念が感じられた。こんな感覚はニーナに対しては初めて持った。
「コーイチ、貴方自身が信じるものは何? 誰かとか常識とかそういものじゃなくて、貴方そのもの。生きる理由の様なもの。貴方自身が拠り所にする様なものは何?」
随分と難しい事を話せる様になったと、場違いな感想が脳裏を過る。それは素直な感情だったこかも知れないし、もしかすると、彼女の言葉を理解したく無いという逃避だったのかも知れない。
ひと呼吸付いて気持ちを落ち着ける。ニーナはこちらが落ち着くまで急かさずにじっと応えを待ってくれている。
そう、自分はnullさんの事を何も知らないし、何をしようとしているのかも知らない。ただnullさんを信じている。信じるに足る人だと思っている。でもニーナは、この人を信じているとかそういう事では無く、自分自身が信じているものは何かと訊いているのだ。盲目的にこの人の事だから信じるというのは認めない。そういう視線を向けている。
それは自分がnullさんを信望している事に対するニーナなりの嫉妬かも知れない。そういえば以前、nullさんに会いたいと云ったら拗ねていたな。
それはそれとして、確かにnullさんだから正しいというのは些か乱暴な考えだと云われても仕方がない。nullさんが何をするのか知らないでこちらの行動を決めるのは確かに軽率だ。
「そうだな。麗美香、悪かった」
口にしてみて意外な程素直な自分の声音に驚いた。自分でも薄々感じていたのかも知れない。自分自身には何も無く、ただ状況に流され、その都度都度で誰かの役に立とうと藻掻いていた様な気がする。
そう、本当の意味で自分自身では何も考えていなかったのだ。




