第百四話 『潜入』
眼が覚めたとき、とても長い間夢の中に居たように感じた。
頭がぼんやりとしていて、今が何時なのかが把握できない。
目覚ましが鳴った形跡は無い。もしかして目覚ましは鳴ったけど止めちゃって二度寝? そういう事もよくあるのでそうかもしれない。寝坊して遅刻かな? まあ、その辺は結構寛容な学校なので気にする事もないか。
記憶の片隅に、とんがり帽子をかぶった女の子の姿が浮かぶ。
誰だっけ?
ベッドから起き上がると見慣れない部屋で寝ている事に気が付いた。
何処だここ?
ベッドの廻りを取り囲む様にカーテンがかかっていた。まるで病室の様だった。
ベッドから降りると床が見覚えのあるカーペットではなく、灰色のてかてかした床だった。
スリッパが添えられていたのでそれを履いてカーテンをくぐって様子を伺う。
部屋は薄暗く、照明は落とされている。窓の外は見えるが暗い。きっと夜なんだろう。
何故わたしは此処に居るのだろう……
記憶を辿っても覚えがない。
廻りにはさっきまで寝ていた場所と同じようにカーテンで囲われたベッドが6つほどある。
間違いない。此処は病室だ。
わたしは病室に運び込まれたんだ。
何故に?
(緊急事態、それも具体的なものではなく正体がわからない様な事態が発生した場合は躊躇するな。ただちにその場から脱出せよ)
頭が少しはっきりしてきたと同時に、null様から叩き込まれた鉄則を思い出した。
今がまさにその時ではないか?!
そうと解ればこうしてはおれませにゅ。直ちに逃げるにゃ。
即座に身の回りの物を確認する。
病衣を着せられていて所持品は無し。
ベッドの廻りを探っても何も無し。
うーん。困ったにゃ。制服とか何処行ったぁー?
って、あるじゃんロッカー。
ロッカーを開けるとちゃんとわたしの制服が吊ってある。
ささっと制服に着替えて、逃走計画を練る。
まずは窓。窓から出れるか否か?
窓を開けて下を覗くと……
3階ぐらいかぁ。微妙な高さですにゃ。
窓からは無理っぽいですにゃ。
ならば正攻法で扉から出るかあ。
※※※ ※※※ ※※※
「という感じで逃げてきたですにゃ」
なにが、「という感じ」だよ。
タマが此処に居る経緯の説明を訊いたが、さっぱり解らねえ。
「えーっと、つまり猫になっていたときの事は覚えてないのか?」
「およっ! わたし猫になってたっすか?! おぉー」
なんでそんなに嬉しそうなんだよ。普通、猫になったとか聞いたら驚くだろう。あ、いや確かに目の前のタマは驚いてはいるんだが、そうじゃなくてもっとこう恐れおののくという感じじゃないのか?
「お前が音戸と知り合いとは驚いたな。まったく隅に置けんな」
いやいや、待って待って。むしろ、nullさんとタマが知り合いの方が驚きですよ!
「いやぁ、null様ぁ。わたしもこの方は始めてお会いするはずなんですけどおぉ? 猫のときに会いましたぁ? っていうかホントに猫になるとかってあるんですかぁ?」
猫のときの記憶ないのか。そして、なんでタマがnullさんと一緒に居るのか? そして何故タマはnull様と呼ぶのか? 二人はどういう関係なのだろうか? そもそもタマは麗美香の諜報活動要員じゃなかったのか?
こちらの疑問には応える素振りは見せず、nullさんは黙々とリュックにいろいろな物を詰め込んでいた。
「nullさん。いい加減何をするつもりなのか教えてくれませんか?」
このままだとnullさんはずっと何も云わないに違いない。少ない付き合いでも何となくそうだと解る。
「云っただろう? 金太郎を助けに行くんだよ。もう間もなく金太郎は神鏡の爺様に会いにこの山を降りたところにある屋敷を襲撃しにやって来るはずだ。お前はアイツが門を潜ったら門が閉まる前に呼び止めろ。それだけでいい。後は此方がやる」
此方というのはnullさんとタマの二人の事だろうか? それとも他に援軍が居るのだろうか?
しかしながらnullさんの返答から、全然真相を話す気が無い事が解った。
「呼び止めて、襲撃を思い留まらせたらいいんですか? 麗美香が云う事を聞くとは思えないんですが?」
麗美香の事だ。どうせ「放っといて! ポチには関係無い事だから!」とか云うに違いない。あるいはもっと酷い罵声を浴びせられるに違い無い。その光景は容易に想像できる。
nullさんが麗美香を思い留まらせる事を考えているのなら、それは成功しない。残念ながら自分では力不足だ。お役に立てない。
「ああ、大丈夫だ。呼び止めるだけでいい。それで充分だ。まあ、可能ならば出来るだけ長い時間その場所にアイツを留めてくれ」
呼び止めるだけでいい? いったいnullさんの目的は何なんだ?
「来ました! オヤビンです!」
タブレット端末をずっと覗き込んでいたタマが叫んだ。
麗美香のやつ本当に来たんだ。
「よし行くぞ。手はず通りに頼むぞ。期待してるよ。ダーリン」
いやらしい顔を浮かべるnullさんに背中を叩かれながらテントを出る。
自分とニーナは制服のままだけどいいんですか? と問うと、むしろ制服だからいいんだよと返された。
ますます意味が解らない。
nullさんの事を信じてはいるが、こう何もかも秘密にされると不安で一杯になる。
山を降りた先にでっかい屋敷が視えた。もうすっかり暗闇だったので、その屋敷の全体像は解らないが、明かりの灯っている部分から想像すると馬鹿でかい屋敷である事は間違いない。
「もうすぐオヤビンが門に着きます」
麗美香にチップでも埋め込んででもいるのか、かなり正確にアイツの現在位置が解るようだ。
あまり深く考えないようにしよう。恐ろしすぎる。
「出番だ。頼んだぞ」
nullさんに肩を叩かれて行けと指示を受ける。
ニーナの様子を見ると、ずっと黙り込んでいた彼女は今も何かを思案しているように口にぐーにした手を当てていた。
「ニーナ。行くぞ」
こくんと頷き大人しく後を付いてくる。
「おい。門が開いてからだぞ。慌てるなよ」
nullさんの声で思い出す。そうだ。門が開いてからだな。危うく今すぐに麗美香に声を掛けそうだった。
暗闇の中、麗美香がハルバードを引っさげて現れた。彼女は暗闇でも眼が視えるのか明かりも持たずに歩いてきたようだ。
門の前でインターフォンを押す。普通の訪問だった。これが襲撃なのか? 本当は襲撃でもなんでもなくただの訪問なのではと疑問が過ぎった。
高さ3mぐらいはあるかと思われる鉄製の門がゆっくりと音を立てて左右に開いた。
「麗美香!」
手はず通り麗美香に声を掛けた。
彼女は驚いて振り返り、後退った。
「ななんああ、、、なんで居るのポチぃあんどニーナちゃん……」
驚いてあわあわと口を動かしている麗美香に、此処に居る理由をゆっくりと、できるだけ時間を稼ぎながら伝える。
門が閉まらない様に場所を動かないように。
門の端をnullさんがそそくさと駆け抜けて行った。
おそらく麗美香は気付かなかったかも知れない。でも、監視カメラとかで視られてるんじゃないのか? そう思ったときタマも後からVサインをしながら駆け抜けて行った。
もしかして監視カメラの潰したのか? なんだこのコンビ。
つまりはあれか……
二人が潜入する為に自分は使われたのか。