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アリスと旅して、どこまでも

作者: 海辺乃人

『星渡しの町について』



 アリスがまた透明なモノを見たがったので、ボクもヘンにはりきっていた。


 街の図書館で調べ物をしたところ、歩いて金星まで渡れる河があるとのことで、ボクらは

その麓の町まで来ていた。

 季節は夏のはじめ。順調だった旅路も、愛車のマジック・カブが故障したため宿に

着く頃には雨が振りだしていた。

 涼しい雨だった。アリスは部屋のベランダに椅子を置いて、雨音といっしょに歌っている。

きいたことのない唄だ。


「どこでその唄を知ったの?」ボクは尋ねた。


 アリスは澄ましたように首を傾げて、ワザと答えをはぐらかしていた。

 

 アリスは不思議な子だ。自分のことを「七歳までは言葉をしゃべらない人形だった」と信じてい

る。だからいまも、こうして声を発することはめったにない。

 それでも歌がうたえるのは、ヒモを引くとメロディの流れるそういう人形だったと、前に

言い訳していた。その言い訳も、もちろん彼女の言葉だったが。

 アリスは夜が更けるまえに眠りについた。ボクは部屋を出ると、宿のロビーに降りて来て

いた。大きな四人掛けのピンクのソファに、誰か先客がいる。


「こんばんは」女の子だ。大きな丸いツバのついた帽子のせいで、顔はよく見えない。

それでも、優しい声の少女だ。


「となり、いいかな」ボクは少し緊張して尋ねた。

 

 女の子は「どうぞ」と、すぐ真横の席を指した。ボクは少し離れて座るつもりだったので、

戸惑いながら彼女と肩を並べる。


「あなたが連れているのは、お人形さん?」彼女はそう言った。


「昔は、ね。いまは普通の女の子だよ」


「あら。そうなの」女の子はなにが可笑しいのか。帽子の奥でクスクス笑っていた。

 

 彼女はロアと名乗った。念押しに「本名じゃないけど」と。偽の名前を使うのは、

この地方でサーカスの巡業に来ているためだとか。彼女はブランコ乗りだった。

 ボクとロアは、少しのあいだ取りとめのない話をした。彼女は言葉尻に、いつもクスクス

笑う。そういう癖なんだとか。ふとボクが原付を壊して、十四番の通りからここまで歩いて

きたことを話すと、そのときだけ本当に楽しそうに笑った。


「わたし、可笑しくなくても笑っちゃうの」


「いまの話は、ホントは笑えなかった?」


「ううん。とても愉快だった」ロアはまた、唇に人差し指を近づけて、そうして本当なのか

嘘なのか、クスクスと囀った。

 ロビーの照明が揺れる。ロウソクの明かりだった。風もないのに、いまにも消えそうに揺

らめいている。外はとても静かだ。


「ところで、あなたは何をしにこの町に来たの?」ロアは言った。

 ボクは、金星に渡れる河のことを話した。ロアは初耳だったようで、真剣そうに頷きなが

ら、ボクの話に耳を傾けている。


「その河なら、わたし知ってる。行ったこともあるの」


「本当に? 詳しい道順を教えてくれないかな」

 すると、ロアは首を横に振った。


「いま、その河は干上がっているの。干ばつなの」


「え、でも」ボクは窓の外を見た。そういえば、雨は降り続いているのだろうか。不思議な

ことに何も聞こえない。でも、夕方には降っていたはずだ。


「いいえ。あの河は、雨水では満たされないの。星の降る夜にだけ、河は流れる。その晩に

はお祭があって、渡し船が出るわ。その船で、金星に行けるの」


「なんだか、聞いていた話とはずいぶん違うな」

 

 ボクは残念に思う。きっとアリスは落ち込むはずだ。それとも、このことを教えないで、

なにか用事を見つけて帰ってしまおうか。「河に行くのはまた今度」と言って。

 するとロアは、帽子の奥からボクに微笑みかけた。実際には見えなかったけど、彼女の雰

囲気がフワリと和らぐのが分かった。


「あなた、運がいいわね。お祭は明日の晩に開かれるのよ」


「え、本当に?」ボクはつい大声を出してしまった。自分の声でロウソクの火が消えないか、

途端に心配になる。それでも依然として薄明るいロビーは、べつに遠慮する必要もないと、

大らかにボクらを見守っているようだった。

 ロアは、またクスクス笑って言った。


「わたし、明日のショーでブランコに乗るの。よかったら見に来て」


「うん。きっと行くよ」

 そしたら、アリスも喜んでくれるはずだ。その晩はそこで別れて、部屋に戻って眠りにつ

いた。


 

 次の日も朝から雨だった。雨どいを伝う水の音で、ボクは目を覚ました。


「おはよう」枕元で、アリスは新聞を読んでいた。きき間違いでなければ、いま彼女は言葉

を発したはずだった。

 それとも、寝ぼけていたのかもしれない。アリスはそれから朝食のときも、なにも話さな

かった。すっかりお人形さんのつもりだった。

 朝食の席で、ボクはアリスに昨日のことを話した。彼女の紅い目が、ボクを不思議そうに

覗きこんでいる。


「金星に行く前にサーカスに寄ろう。それから、露天でなにか買ってあげるよ」


 不必要に歩かせたことへの償いのつもりでもあった。彼女は喜びもせず、ただ頷いてい

た。なんだか、不機嫌そうな無表情だった。

 朝食のあと、シーツを畳んで部屋を出ると、廊下で宿の主人に呼びとめられた。


「お二人さん。はやく町を出た方がいい」

 彼は、怖い顔をしてボクらに言った。昨晩、一睡も出来なかったという顔色をしている。

青白い目のまわりに、濃いクマが出来ている。


「わたしは昨日、恐ろしい夢をみた。この町で沢山の人が死ぬ夢だ」


「逆夢というわけじゃないですか?」

 彼はかぶりを振った。それから、自分はときどき予知夢を見ると言った。


「今晩、この町でよくないことが起きる。それまでに出発した方がいい」


「ですが、今夜は祭りの開かれるはずです。ボクたちは、そこでサーカスのショーを見る予

定なので」

 すると、宿の主人は真っ青な顔色で、なにか幽霊でも見たように目を見開くと、そうして

廊下を通り過ぎて行った。


「わたしは昨晩、寝ずに入口を見張っていた。よくないモノがこの町に近づいている。だか

ら見張っていた。おまえさんは寝ていたようだが、昨日はひどい大雨の夜だった」

 去り際に、そんなことを呟いていた。でもどうして、寝ないで予知夢を見ることが出来た

のか。ボクは危なっかしい足取りで遠ざかる彼の背中に、ついに尋ねることが出来なかった。

 

 

 午後からは町の修理工を尋ねに行った。カブを返してもらうためだ。


「生憎の雨だ。直っても、これじゃあ走れないよ」

 修理工の青年は、作業着の裾で額の汗を拭うと、ボクたちを怪訝そうに見ていた。


「お前たち、すぐにも出発するのか?」


「いえ。今晩はここに留まるつもりです」


「そうか。ちなみにカブはこの通り、万全の状態だ。でも、急ぎでないのなら今日は運転し

ない方がいい。きっとまた、ここに逆戻りだ」

 青年は、ひどく疲れている様子だった。もしかすると、カブの修理に一晩かかったのかも

しれない。ボクは申し訳なくなったので、荷をほどくと、中から包みを取り出した。


「これは、ボクの生まれた街で作られた品です」


「なんだ、これは」青年は手の中で、その赤色の球を転がした。


「ビロードです。街でも腕利きの職人が作ったもので、そこから覗くと魔が見えるそうです」


「魔よけの品か。ありがたい。この頃は町もなんだか物騒なんだ」

 青年は胸ポケットに玉を仕舞うと、交代に取り出したタバコに火をつけた。雨で湿気って

いるのか、なかなか火がつかない様子だった。


「それにしても、あの雨の中でよく熟睡できたな」

 そうして、独り言のように呟いていた。ボクは何か言おうとして、そろそろアリスが退屈

していることに気付いたので、店を後にすることにした。


 

 傘をさして通りを歩いた。昼間なのに暗い街道には、人の姿もない。たとえばの話だが、アリスがはしゃいで

石畳の地面をスキップしても、だれにもぶつからないのはいいことだった。

 煙るような雨が、ほとんど視界を塞いでいた。アリスの赤い傘の色が、みょうにハッキリ

と浮き出ている。それを回して、雨粒を弾いて、そういう遊びを思い付きながら、彼女は先

へと進んでいた。やがて、歩く距離も遠ざかっていた。


「まって、アリス」ボクはそう背中に投げかけた。彼女は振り返らない。

 それでも見失わないように後を追っていると、通りでゆいいつ明かりを灯している外灯の

下で、彼女は立ち止っているようだった。

 近づくと、雨音に混じって何か聞こえてきた。それはバンジョーの音色だった。ボクの持

っているレコードの、お気に入りの一枚によく似た音色だ。きっと、湿気のせいでくぐもっ

て聞こえる、そのせいかもしれない。

 流しの人は、店じまいしたブティックの軒下で、たった一人で演奏しているらしかった。

この雨では、そもそも通りかかる人もいないだろうに。

 ボクはアリスに追いつくと、隣でその演奏をきいた。調律が狂っているのか、なんだか心

を掻き乱すような、不穏な音色だった。

 やがて、流しの人は演奏をやめると、はじめて気付いたようにボクたちを見た。


「きみたちは、旅人かな」アリスが頷く。人見知りをする子なので、珍しいことだった。


「だったら、今夜ボクのステージを見に来ないか?」


 流しの人は気さくに微笑んだ。ボクは不思議に思った。雨だれがまるでカーテンのように

その人の姿を覆い隠していて、なのにその人の表情が手に取るように分かるみたいだった。

服装も、男の人か女の人かも分からないのに。


「今夜は、星が降るそうですね」ボクは応えた。


「星渡しの夜だ。ここから真っすぐ行った河のすぐほとりで祭りが開かれるよ。ボクはその

晩さん会のステージで、一曲弾くことになっているんだ」


「行けたら、きっと見に行きます」

 そう言って、ボクはアリスを見た。同意を求めるつもりだったけど、彼女はどこか遠くを

見つめていた。なんだか上の空な感じだ。

 流しの演奏家と別れて、ボクらは通りを最後まで見て回ることにした。



 アリスは生まれつき魔が見えるらしい。そのせで、両目が真っ赤になってしまったのだとか。

ボクが「ウサギみたいだ」とからかうと、アリスはいつもむくれて塞ぎこんでしまうので、

この話はなるべくしないようにしている。もっとも、これもゴッコ遊びの一環だと考えると、

そんなに深刻に考える必要もないのだろう。

 だけど時々、その紅い瞳で見つめられると、なぜだか怖いと感じてしまうときがある。ボ

クは、自分でもその理由がよく分かっていない。

 


 通りを西から東に歩いていただけで、気付くと日が暮れていた。そんなに長い時間、歩い

たつもりはなかった。もともと曇っていたせいか、暗くなるのはあっという間だった。

 雨はまだ降り続いている。こんな天気では、祭りも開かれないだろう。


「アリス、宿に帰ろう」ボクは言った。


 アリスも頷いて、二人で反対側に足を向けた。すると、不思議なことが起こった。まっす

ぐな道を進んでいたはずなのに、帰り道が分からなくなっていたのだ。どこまで歩いても、

見知った景色に辿り着くことはなかった。やがて街道が途切れて、遠くの方に明かりが見え

始めた。

 ボクは嫌な予感がして、アリスの手を咄嗟に掴もうとした。しかし、それも叶わずに、彼

女の白い指はボクの手からすり抜けると、そのまま走りだしてしまう。アリスの歩いた先か

ら、景色が鮮明になっていく。雨が上がったのだ。彼女のところにだけ、雨雲はないらしい。

それとも、雨雲の切れ間に迷い込んだのか。

 赤い傘が、ボクの真横を抜ける。彼女の足音は続く。きっと前に進んでいるはずだ。

彼女と離されるたびに、視界は泥を被ったように不鮮明になっていく。そして踏み出す足が、

どんどんぬかるみに沈んでいくみたいに、思うように動かなくなった。

 必死に走って、気付くとあの外灯の一本だけ生き残っている場所に行きついていた。

 遠くの明かりはどこにもなかった。アリスの気配もない。彼女はどこに行ったのだろう。

ボクは途方に暮れた。そうして、トボトボ歩いて、いつの間にか宿屋に戻っていた。



 ずぶ濡れのボクを、宿屋の主人は出迎えてくれた。彼はすっかり怯えたような表情だ。そ

して目を閉じると、奥に引っ込んでいく。彼をタオルと、暖かいココアを持って、ボクをロ

ビーのソファに誘った。


「わたしの妻も、こんな雨の夜にいなくなった。おまえさんと一緒にいた女の子も、きっと

同じ目にあっているはずだ」


 彼はとつとつと語りはじめた。毎年、この季節になるとこの町から人が消えること。その

後に、なにか恐ろしい異変が起きること。そのせいで、大勢の人が死ぬこと。だけど不思議

と、年の瀬になるとなんらかの理由で、町に大勢の他所者が流れ着くこと。この町は花瓶の

水を入れ替えるように、毎年、多くの住民たちが入れ替わっているそうなのだ。


「この町で古くから暮らすのは、わたしだけになってしまった。わたしは妻を失くしたその

日から、この時期になると恐ろしい夢を見るようになった。夢を見た次の日に、決まって人

が消えるようになった。わたしは独りぼっちになった」


「きいて下さい。ボクは昨晩から、三人の人物にしか出会いませんでした。ひとりはサーカ

スのブランコ乗りです。ひとりは修理工の青年です。もうひとりは流しの演奏家です」


「修理工の若者なら、去年、この町に流れてきた者だ。彼は町のことを知らないのだろう。

他の住人は、異変を感じて家に閉じこもっているか、もう消えてしまっているか。あとの二

人は知らないな」


「ブランコ乗りの女の子は、この宿に泊まっているはずです。昨晩、このロビーで話しをし

ました」

 すると、主人は目付きを鋭くして言った。


「この宿には、昨日はお前さんたちしかいなかった。それに昨晩、ロビーを尋ねるものはい

なかった」


「ですが、確かに会いました。きっとご主人が寝ている隙に、雨宿りでもしてたのかも」


「わたしは寝てなどいない。たしかにロビーには朝まで誰もいなかった」


「では、どうやって予知夢を見るのですか」


「わたしは、起きているときに夢を見る。白昼夢というやつだ。それに、夢を見たのは昨日

の昼間だ。それ以前からもう三日も寝付けないでいる」

 彼はそこまで話すと目を閉じた。酷く疲れている様子だった。ボクもすっかり冷えてしま

ったココアを飲みほして、自分の部屋に戻ろうとする。


「おまえさん、今夜にもこの町を発つといい」


「ですが、アリスを置いてはいけません」

 すると、彼はこう言った。


「それなら、一階の奥にある部屋を訪ねるといい。今朝から占い師が宿泊している。なにか

助言を授けられるかもしれない」

 ボクはおじぎして、その部屋を訪ねることに決めた。占い師という言葉に、思い当たる節

があったのだ。きっと、それは信頼できる占い師のはずだ。



 戸をノックすると、女性の声で「お入りなさい」と聞こえた。コントラバスのような重た

い声色だ。部屋に入ると、真っ暗な中に人の気配がする。ボクはその気配の前に立って、そ

うすることが当然のように彼女の言葉を待つ。


「あなたのお人形は星渡しの河原にいます。そこでサーカスの開演を待っているはずです」


「ボクは、どうやったらそこまでたどり着けますか?」


 やがて目が慣れると、中は完全な暗闇ではない。部屋の中央にベールがかかっていて、奥

に薄い光源がある。座っている人影が、幻のように揺れている。


「彼らは夢とうつつの間にいます。そこから、闇の世界へと旅立つのです。道を知るために

は、まず暗い夢の入り口を見つけなければいけません」


「ボクに、その入り口を見つける手段はありますか?」


「それは、あなた自身で探すしかありません。ですが、もうすでに手に入れているモノのは

ずです。あなたのお人形は、生まれついてその術を持っていました。彼女は自分の力で、入

口の戸を叩いてしまったのでしょう」


 彼女の言葉は、ボクの頭の中へ直に染み入るようだった。そしてこれ以上、なにか質問を

することは許されないのだろう。ふいに明かりが消え、背後の戸がひとりでに開いた。


 ボクは明るい廊下に出て考える。アリスは、どうやって扉を見つけたのだろうか。彼女に

生まれつき備わっているもの。特別なもの。ボクはしばらく考えた。

 そして思い出すまでもなく、ボクは彼女がボクに向ける、あの恐ろしい表情を頭の中に思

い浮かべていた。自然と、彼女が目の前に現れるようだった。

 次に顔を合わせたら、まずはそのウサギみたいな眼をからかってやろう。ボクを置いて、

勝手に遠くに行った仕返しだ。ボクは廊下を抜け、ロビーに向かった。勝手口の前で傘を開

いて、ふと振り返る。どうやら無事に眠ることが出来た主人を、起こさないよう慎重に、静

かに戸を閉めた。



 整備工場のガレージには、まだ明かりが灯っていた。軒下で煙草を吸う青年は、ボクの姿

を確認すると安心したように紫煙を吐き出す。


「なぜだか別れてから、もう会えないような気がしてたよ」

 そして、いない誰かを探すようにボクの背後に首を伸ばす。


「あの女の子は? 一緒じゃないみたいだが」


「あの、すみません。そのことでお願いがあるのだけど」


 ボクはどこまで話すべきか。青年はどうにも寝付けなくて、雨を眺めているらしかった。

だから不安がらせないためにも、実はあのビロードがアリスのお気に入りで、そうとは知ら

ず彼女の機嫌を損ねてしまったので、いまは宿に引きこもっていると作り話をした。


「それは悪かった。ビロードは返そう。あれから覗く勇気がなくて、宝の持ち腐れになりそ

うだったからな」


「ありがとうございます。明日は、アリスにも謝らせます」


「いや、いいんだ。それにしても、お前のパートナーは人形みたいにキレイな子だったな。

あんな子、これまで出会ったことがなかった。しかし不機嫌だったのか。明日の朝この店を

訪ねるときに、どうにか笑顔を見せて欲しいものだが」

 青年はタバコを揉み消すと、なんだか気恥ずかしそうにはにかんだ。


「明日は、晴れるといいですね」


「そうだな。きっと晴れるといいが」


 ボクはビロードを受け取ると、その足で通りの東を目指した。アリスが笑うことなんて滅

多にないことだけど、もし晴れたらそれも叶いそうだと思った。

 


 石畳の切れ目は、思ったよりも簡単に辿り着くことが出来た。そんなに大きな町じゃなか

ったはずだ。昼間は、どうやってあんなに長い距離を歩いたのだろう。ボクはどこから、夢

の入り口の目の前に迷い込んでいたのだろうか。

 赤いビロード。透明な輝きに目を凝らすと、景色が晴れ渡って行く。向こう側に雨は降っ

ていない。遠くに篝火が見える。あの場所が、祭りの行われる河原なのだろう。

 ビロード越しの道標を頼りに、ボクは歩いた。足を踏み出す先から、もう傘をさす必要も

ないくらいに、初夏の涼しい夜風が舞い込んできた。

 やがて、広場に辿り着く。もうビロードは必要ないのだろう。扉はいつの間にか踏み越え

てきたらしい。右目から手を放すと、ボクは明るい広場の中心にいた。

 テーブルの上には街の謝肉祭のときのような、豪華な料理が並んでいる。それを囲んで沢

山の人たちがいる。みな、お酒を飲んだり、料理に舌鼓を打ったりと、思い思いの過ごし方

をしている。賑やかな祭りの風景だ。

 焚火のそばに、知っている人物の姿を見つけた。だけど不思議なことに、その人の顔をボ

クは直接みたことがないはずだった。


「やあ、来てくれたのかい。でも残念だ。ボクのステージはちょうど終わったところだよ」

 バンジョーをしまいながら、流しの演奏家はにこやかにほほ笑んでいた。


「あの。ここに女の子が来ませんでしたか?」


「あぁ、君といたお人形さんのような子かな。彼女はボクの演奏を聴きながら、料理を食べ

ていたよ。あの子、思ったよりも食いしん坊だね。ボクも演奏しながら、お腹を壊すんじゃ

ないかとハラハラしていたよ」

 彼はそう言って、近くのテーブルからグラスを手に取ると、それを深く味わうようにして

傾ける。


「では、今はどこにいるか知りませんか?」


「ずいぶん前に、サーカスのテントに向かったと思う。演奏を最後まできいてくれなかった

のは残念だけど、なんせ、ボクは下手くそだからね」


 彼は向こうにある白いテントを指すと、頬を赤らめて、そうして頭を掻いた。もうすでに

酔っぱらっていたのかもしれない。「もうじきメインの演目がはじまる」と、彼はそう教え

てくれた。

 それは、きっと空中ブランコの開演のことだ。彼をサーカスに誘うと、


「これから、師匠の演奏がはじまるんだ。これを聞き逃す手はないよ。なんせ、ボクも勝手

に師と仰いでいるのだけど、ボクの知る限り一番のチェロの名手だ」


「では、残念だけど、ボクは行きます」

 空いたテーブルに腰かけて、彼は手を振った。ボクはサーカスに向かう。そこにアリスが

いるはずだ。テントのすぐ目前で、大砲の鳴る音が響いた。



 観客席のいちばん後方から、ボクはステージを見渡した。早くも、高台に乗った踊り子が

ブランコに足をかけようとしている。でも、それは知っているあの女の子ではなかった。

 ボクは不思議に思って、それから観客席を探す。後ろ姿ですぐに分かった。右手側の真ん

中あたりに、彼女はいた。そして不思議と、アリスはボクの方へ振り返った。

 彼女が小さく手を振る。そして、人垣をかき分け、ボクの下へ走って来る。不思議な気分

だった。どうして、この中でボクに気付いたのだろう。どうして、彼女はショーをそっちの

けでボクの場所まで来たのだろう。いくら気まぐれな彼女でも、今度ばかりは様子がおかし

かった。


「――」彼女は何か言った。同時に上がった歓声で、それは聞き取れなかった。ボクは彼女

の手をとって、テントの外まで連れ出した。彼女は黙っている。静かな場所まで来ると、彼

女はあの紅い瞳でボクを見つめた。その中で光が揺れていて、ボクはそれを怖いと感じなか

った。何か暖かい気持ちだった。


「ごめんなさい」アリスはそう言って、顔を伏せた。


「サーカス、楽しみにしてたの?」


 ボクの声に、彼女は小さく頷いた。「でも」と、泣きだしそうになっている。


「雨が上がったら、あなたの姿がどこにも無かった」


「ボクも、キミがいなくなって探しまわったよ」


「だから、ごめんなさい」


 そんな様子を見せられては、眼のことをからかうわけにはいかなくなっていた。


 いつでも彼女は透明なモノを見たがった。それは、単純に言葉の通りではない。彼女の眼

にはいつも悪いものばかり映るから、そうじゃなくて、もっと穏やかで透き通った気持ちを

探していたのだと思う。

 もっとも、それもゴッコ遊びの一つだけど。だからもし不思議なところに迷い込んでも、

遊びが終わればちゃんと帰ってこられることを、ボクらは知っている。


「楽しかった?」ボクはきいた。

 彼女は頷いた。少し笑っているようだった。彼女の眼には、この場所は悪くは映らなかっ

たようだ。


「だったら、もうすこし見て行こう。不思議なことだけど、ボクもこの場所はすごく居心地

がいいんだ」


 彼女はやっぱり頷いた。「でも」と、言葉を続ける。


「あまり、長くいたらダメ。魔が、もうすぐそこまで来てるから」

 ボクも頷いて、彼女の手を引くと、河原の方へ向かった。そこからは、いちばん新鮮な風

が流れ込むようだった。



 河のほとりに、ロアがいた。彼女はひどく悲しそうな顔をして、踊り子の衣装に身を包ん

でいる。


「こんばんは。見に来てくれたのね」


「うん。でも」

 彼女は飛ばなかったのだ。川面は光を映さない鏡のように、黒く黙っていた。


「わたし、今年も勇気がなかったの。いつもそう。出番のまえになると、足がすくんじゃっ

て」

 アリスが、ふとボクの手を引く。ボクは、なにか別のことを話すべきだと思った。すると

ロアの方から、ふいにクスクスと笑いだした。


「いえ、ごめんなさい。こんなお話しをするために来たわけじゃないわよね」


「この場所では、なにが起きているの?」

 ボクが尋ねると、彼女はトツトツと語りはじめた。


「ここは、星渡しの河原。星というのは、生命のことよ。毎年、あの町に住む人たちは、こ

こを渡って行くの。いいえ、連れ去られるの。星が降る晩に、この河の向こう側から魔がや

って来て、町の人たちはここよりも冷たい、暗い場所に連れて行かれてしまうの」


 アリスが強く手を引いた。だけど、ボクは最後までこの話を聞き終えなくてはならない。


「わたしたちは、連れて行かれる悲しい人たちのために、せめて最後の夜にお祭を開くの。

楽しい思い出を残して、あの人たちが去れるように。だけど、わたしたちのそんな役目は永

遠に続くの。あの町で星渡しが終わることはない。あの町は魔によって生かされ続ける。生

命の入れ替えは行われ続け、そして、それは誰にも止めることは出来ない」


 そして言葉尻にクスクスと、だけどすすり泣くような笑い声を、彼女は漏らした。


「あなたたちは、ここに迷い込んでしまっただけ。今なら戻ることが出来るわ。そして、町

を離れることね」


「ボクたちは、きっと帰るよ。でも、キミたちが解放されることは」


「ダメよ」ロアは言う。「わたしたちは人じゃない。夢の住人。ここ以外に居場所はない。

そして思うの。わたしがいつかブランコを飛べるようになったとき、きっとこうして悲しむ

こともなくなって、何も感じなくなるのだと。わたし、それが怖くて、憧れなの。わたしの

苦しみがいつか終わるのだと思うと、それが希望で、それが絶望で」


 アリスが強く手を引いた。時間がきたのだ。ボクは河に背を向けると、小さな手を離さな

いよう強く握り返した。


「さあ、行って。そして振り返らないで。金星の魔がやって来るわ。そしてどうか、わたし

たちをあなたの、幸せな思い出の中に閉じ込めて」


 ボクらは走った。通り過ぎた景色が、どんどん暗くなっていく。まるで流星のような光が、

逆向きに流れて行く。いつの間にか河の中にいたのだ。だから、ボクたちは走って、向こう

岸の帰り道に辿り着かなければならない。

 たくさんの生命の奔流が闇にのまれていく。足がもつれる。転びそうになる。ポケットか

ら、赤いビロードが零れ落ちる。だけど対岸を見失うことはない。ボクの隣には、魔を見通

す赤い目をした彼女がいる。アリスが、ボクの手を引いてくれるから。

 そして雨の音が、目の前の光と一緒にボクらを包み込んだ。



 朝の光が、部屋に射しこんでいた。ボクはベッドから起き上がって、窓を開け放つと、外

は晴れていた。通りには賑やかな声が溢れている。すこし寝坊したらしい。

 まだベッドの上で目を閉じているアリスを揺り起こすと、彼女は寝ぼけ眼でボクを見た。


「おはよう。アリス」彼女は何も言わず、浴室へ向かった。


 やがて、かなりの時間をかけてボクも彼女も身支度を終えると、荷物を畳んで部屋を出る。

ロビーに辿り着いて、チェックアウトの手続きを済ませる。

 その際に、宿屋の主人はこう言った。


「昨晩、夢に妻が出てきたよ。夢を見るなんて、もう何年もなかったことだ。その夢の中で

彼女は幸せそうだったよ。きっと、いまもその場所にいるのかもしれない」


 ボクは宿を出て、すっかり人出の多くなった朝の通りを歩くと、マジック・カブを預けて

いる工場へ向かった。ガレージには新品同様になった愛車が置かれていた。


「不思議なことが起きた。昨日、たしかにビロードを返したはずなのに、胸ポケットに入っ

たままになっていた。これ、返そうか?」

 煙草を吸いながら、青年は目を瞬かせていた。ボクは答える。


「いえ、持っていてください。アリスも、やっぱり好きな色じゃなかったみたいなので」


「そうか。よかった。思いがけず気に入っていたんだ」

 アリスが、不思議そうに小首を傾げる。ボクは彼女にささやいた。


「彼は、夜通しボクのカブを直していてくれたんだ。きっとまだ寝ぼけているんだよ」


 すると、彼女はキョトンとして、やがてフッと吹きだすと、くすぐったそうに目を細めた。

そういえば、雨はいつ止んだのだろうか。通りには水たまりが残っている。きっと、まだ晴

れ間が覗いたばかりなのだろう。


 ボクとアリスは愛車のマジック・カブに跨って、そうして街道から手を振り返すと、遊び

の終わった町を後にする。そしたらアリスは人形でもなければ、魔を見通す眼なんて持って

いない、ただの普通の女の子だ。


 笑うこともあれば、「さよなら」と呟くこともある。


 退屈してきたら、次に彼女はなにを見たがるだろうか。また休みの日には図書館に行こうか。それと

も、出先でなぜかよく出くわす占い師に、道を尋ねるのもいいかもしれない。

 それじゃアリスと一緒に、今度はどこへ行こうか。


まず、同作と似たようなタイトルの映画があったような気がするので、知らずにパクっているかもしれません。それから、こんな思い付きで書かれた作品に最後まで目を通してくださり、ありがとうございます。

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