(2)懐かしきあの夏祭りは後の祭り
不意打ちのように顔面が熱くなったかと思ったら、気付けば朝になっていた。
僕はまな板上の鮮魚のように布団から飛び起きて、壁の時計を確認する。一〇時五十二分。それを見て心からほっとする。約束の時間まで、まだまだ時間はたっぷりある。そう思っていたのに、時間は水面を跳ねるトビウオのように経っていって、気付けば約束の時間まであと一〇分になっていた。急いで着がえて集合時場所の駐輪所まで全力で走った。
「ちっすちっす、大窪!」
「こんばんは、田所くん」
自転車に腰掛けていた田所くんに挨拶を返しながら、僕は目線でその場にいるメンバーを探る。浴衣姿の女子が二人。お互いの浴衣を褒め合っているようだった。僕の目はそのうちの一人に、紺地に青い花をいくつも咲かせた浴衣を着た化け物の姿に釘付けになっていた。
「よっし、全員集まったから行こうぜっ」
田所くんの一声によって僕たち四人は駐輪所から商店街へと移動する。近所の団地から集まって来た人たちで商店街を通る一〇〇メートルくらいの道は、そこら中が人だらけだった。人が多すぎて本当に僕の知っている商店街なのか一瞬だけ疑ってしまう。毎年感じるその感覚で、今年も夏祭りが始まったんだって感じる。
「うひょー、テンション上がってきたぜっ」
昼間の暑さに夜の湿気が加わってかなり蒸し暑いのに田所くんは元気そうだった。上り調子のテンションを見せ付けるようにして、さっそくイカ焼きの屋台に特攻していった。僕たちも後に続いて屋台に向かうと、焦げた醤油の匂いが鼻の周りに強く香って急にお腹が減ってくる。
「おい、おっさん。全部だ! ここにあるイカ焼きを全部くれいッ!」
「はいはい」と、いつもは文房具屋を営んでいるおじさんが苦笑いを浮かべて、開始早々にして商品を買い占めようとしている田所くんにイカ焼きを一つ差し出す。割り箸に真っ直ぐ貫かれたイカ焼きを受け取った田所くんは、「うぉぉお!」と叫びながらサメのように猛然と貪り始める。それを見て僕たちは苦笑いの顔を見合わせ、どうせだからと自分たちもひとつ一〇〇円のイカ焼きを買った。
どしどしとやってくるお客さんの邪魔にならないように店の端に寄ってイカ焼きに口を付ける。香ばしい醤油の味が口の中に広がる。想像していたよりも美味しく思えたのも祭りの力なのかもしれない。イカの身を噛みしめて、にじみ出てくるうま味を何度も味わって食べ進める。女の子たちは苦戦しながらだけど笑顔で食べている。あっという間に食べ終えた田所くんは、奥歯に挟まったイカの繊維を割り箸で取りながら、並んだ屋台を鋭い目付きで観察して次の標的を探している。
商店街に軒を並べている八百屋や魚屋、文房具屋、定食屋といった店舗のどれもが、今日は灰色のシャッターを下までぴっちりと降ろしている。その代わりシャッターの前では好き勝手な屋台を開いている。
肉屋の金魚掬い、魚屋の綿あめ、駄菓子屋の焼きそば、八百屋のくじ引き、そば屋のかき氷、理容店は水風船釣り、雑貨屋ではお面を売っている。どれもチグハグな気がするけど、どの店主もいつも以上に笑顔だ。普段は出来ないことが楽しくて仕方がないって顔をして、「らっしゃいらっしゃい」って客寄せの声を往来する人に向けて張り上げている。
上に張られたロープにはいくつもの提灯が吊るされていて、興奮しすぎた蛍のように赤く光っている。色めき立っている蛍たちをさらに情熱的にさせようと、祭りばやしが喧騒に混じって四方八方から聴こえてくる。ドン、ドドン。お腹に響く太鼓の音。軽快な笛の音。ぴひゅいー。蛍だけじゃなくて僕の気分もますます祭りっぽく盛り上がってくる。でも聴こえてくるおはやしが、実はラジカセから流れていると思うと少しげんなりする。そんなふうに残念になってしまうのも、祭りの醍醐味のように感じてしまう。
「次はたこ焼きだ、待ってろ今行くぞ!」
目と耳から伝わる祭りの雰囲気に気分を高揚させていると、新たな獲物に狙いを定めた田所くんがそう叫んだ。まだ食べ終えていない僕たちが止める暇もなく、割り箸を近くにあったポリバケツに放り投げた田所くんは斜向かいにあるパン屋の屋台へと駆け出して行った。僕が急いで残りのイカ焼きを食べて田所くんに続こうとすると、「大窪くん、ごめんね」同行していた薄ピンク色の浴衣の女の子が申し訳なさそうに言った。
「あいつ、自分勝手で。昔っからそうなんだよ」
「昔から?」
「ああ、わたしとあいつ幼馴染なんだ。その縁で毎年夏祭りに付き合わされているってわけ。嫌になるよね」
自分の出生を呪うかのようにうな垂れた桃色浴衣のその子は、「ああ、そうだ。自己紹介まだだったよね」そう言って頬にえくぼをつくって続ける。
「わたし、二組の高橋。で、こっちの子が同じく二組の――」
何度も心のなかで口にしたことのある名前が告げられ、イカ焼きの最後の一切れを口に運んでいた化け物は僕に小さくお辞儀をした。その奥ゆかしい動作を見ただけでは、入学式で校長に物言いをした女の子にはとても思えなくて、そのギャップに心臓をバクバクさせて「うん、よろしく」と返した。
「この子、生真面目であんまり喋らないけど、まぁ良い子だから今後も仲良くしてやって」
イカ焼きで汚れた口元をハンカチで拭っている化け物を微笑ましく見ながら高橋さんがそう言うと、タコ焼きを買いに行ったはずなのになぜかフランクフルトを咥え、右手には焼きそばの容器を二つ、左手の指の間にリンゴ飴とアンズ飴の棒を交互に挟んでいる田所くんが帰ってきた。
「うぬーうぬー」
何かを必死に訴えかけているようだけど、咥えているフランクフルトのせいで何を言っているのか分からなかった。暴れ牛のように上下左右するフランクフルトを取って上げると、
「ごめん大窪、これ持っててくれッ!」
手に持っていた焼きそばの容器を僕に渡して、まだ健啖ぶりを発揮し足りないのか、両手に持ち直したリンゴ飴とアンズ飴で通りを歩く人たちをかき分けながら人ごみの中へと紛れていってしまった。傍若無人な田所くんの無法に翻弄されている僕を見た高橋さんは、悪戯っぽく笑って言った。
「今年は大窪くんがいるからわたしは楽だなー。ほんと、助かるよ」
「田所くんは毎年あんな感じなの?」
このかじり掛けのフランクフルトと焼きそばはどうすればいいのだろう。そう思いながら高橋さんに訊ねた。
「そうだよ。毎年毎年、屋台を片っ端から渡り歩いて食べ物ばっか買い漁って、その癖最後は、全部食べられないって逆ギレし始めるから、一緒に来てくれた人は呆れて翌年誘っても断られてるみらいだよ。ほんと、バカだよねー」
「……そうなんだ」と口にしながら、田所くんの夏祭りの誘いがことごとく断られていたのは、受験勉強や旅行が原因でもなかったんだなぁと今更のように納得した。
「今年の犠牲は大窪くんだからね。ま、諦めてガンバってくれたまへ」
私は関係ありません、と言い出しかねない口調で高橋さんは言って、僕の手にあった焼きそばを一つ颯爽とした手付きで奪い去った。
「どうせ、あいつ食べなだろうし。わたしたちで食べちゃおうよ」
「え、でも。勝手にはマズいんじゃない。いちおう、田所くんのお金で買ったものだし……」
遠慮がちな物言いを高橋さんは「ぬるいぬるいよ大窪くん」と一笑に付してしまった。
「この世はどれだけズル賢く生きるかの騙くらかし合いだよ。祭りの日にこれ持っててと食べ物を渡した時点で勝敗は期しているんだよ。さぁ、食べよう。焼きそばを食べよう」
容器に掛かっていた輪ゴムから割り箸を引き抜いた高橋さんは、パキッと小枝を折るような痛快な音を慣らして問答無用で焼きそばを食べ始めた。この豪胆さが田所くんの放埓さと渡り歩いていける秘訣なのかも。そう合点していた僕の手から、もう一つの焼きそばの容器を高橋さんがかっさらった。
「アサミも食べなよー」と、口をモゴモゴとさせながら化け物に手渡した。
フランクフルトに付いた田所くんの歯形を虚しそうに眺めていた僕を気の毒に思ったのか、化け物は受け取った焼きそばを僕に差し出して、
「半分こにする?」
思いもよらない出来事に気が動転してしまった僕は、「あ、いや、僕はフランク、その、焼きそばは、平気です」と、フランクさんが自分は焼きそばを食べられると片言の日本語でアピールしているかのような、よく分からないことを口走っていた。当たり前ながら僕の意思は伝わらず、どうしていいのか分からなくなった化け物は、隣で黙々と焼きそばを食べている高橋さんに救いを求める目を向ける。
「いらないんじゃないの?」
高橋さんはかき氷よりも冷たく言い放って自分の焼きそばに立ち向かっていった。
化け物はちらりと僕を見て「いただきます」と呟いてから食べ出す。焼きそばを頬張る女の子二人を前にして手持無沙汰になってしまった僕は、自分の手に残されているフランクフルトを見下ろし、田所くんの口が付いていないだろう部分を狙って食べた。
そうこうしている内に、商店街の人通りはいよいよ激しくなっていた。
祭りが始まった頃は家族連れや年よりの人ばっかりだったけれど、そこに若い人たちが加わって、今では商店街の道いっぱいに人が苦しそうに行き交っている。その多くの人が色鮮やかな浴衣を着ていているから、眺めていても飽きないほど人だかりはカラフルだ。
「あいつ帰ってこないねー」
焼きそばを完食した高橋さんは、手で目庇をつくって通行する人たちや屋台の人垣を見渡してそう口にした。
「もしかして、迷子になってるのかな?」
「本当にそうだったら笑いものよね」
言葉では茶化しているが、高橋さんは人のなかから田所くんの姿を探すことを止めないで、化け物が焼きそばを食べるまで捜索を続けていた。
「田所くん、探しに行く?」
ハンカチで唇を拭った化け物は、通行人への目配りを続ける高橋さんに言った。
「はっ? どうして探しに行かなきゃいけないの? あいつだってもう子どもじゃないんだから大丈夫でしょ」
どこか苛立った様子で高橋さんは答えた。その間も目線は前を通過する人たちの顔をうかがっていた。高橋さんはきっと、田所くんを探しに行きたいけどそれを僕たちに言い出せないんだ。そう思って僕は一計を案じた。
「せっかく、お祭りに来たんだから他の屋台も見て回らない? もしかしたらどこかの屋台で田所くんとバッタリ出くわすかもしれないし」
「そう……、そうね! せっかくのお祭りなんだから、いろいろ見ないと損よね! それにしても、あいつはどこでなにやってんだか。人に迷惑ばかりかけて」
この場にいない田所くんへの文句を口にしながら高橋さんは往来へと歩いき、僕と化け物はちらっと目を見かわしてからその後ろに続いた。
来たときには難なく歩けるスペースがあったが、打って変わって今では満員電車のようにすし詰め状態で歩くのも精一杯だった。すれ違う人とは肩がぶつかり、前を行く人の背中に何度も顔をぶつけそうになる。高橋さんは人ごみを歩き慣れているのか、人同士の隙間を縫うようにしてスイスイと先に進んでいってしまう。高橋さんが着ていた桃色浴衣を目印に僕も人の間を抜けていったが、どう頑張っても距離は開いていくばかりだった。どうしよう、このままじゃ高橋さんともはぐれちゃう。どんどん小さくなっていく桃色浴衣に不安を感じていると、突然、Tシャツの袖にグッと重みが増した。ビックリして振り返る。化け物が僕から離れまいとして懸命に袖を掴んでいた。
一瞬、意味が解らなかった。
いや、意味は解っていた。ここで僕とも離れてしまうとみんなバラバラになってしまうから、化け物は僕の袖を掴んで離されないようにしているんだ。
僕が解らなくなったのは、どうしてここに『化け物』がいるのかということ。どうして僕が『化け物』といるのかということ。
不理解が防波堤のように思考の流れを停めた。流れの滞った内側は氷結した水面のように穏やかになったが、外側では容赦のない人波が荒れ狂っていた。頭上から覆いかぶさる分厚い波。僕はとっさに化け物の手を握る。波に沈められ、前後不覚に陥り、徐々に呼吸もままならなくなっていく。それでも握った手だけは離さなかった。今ここで離れ離れになってしまうことは、金輪際の絶縁を意味しているように思えたから。差し出された一本の手は、僕に救いを求めているように思えたから。
苛烈な水流が二つの手を引き離そうとする。そのたびに二つの手は強く結びつき合う。握り返してくる手は時として反逆者のように爪を立てた。それは自分の感じている痛みを僕にも伝えたいからなのだと漠然と思う。
僕たちは浚われている。
深く暗い水の底に。
僕たちは触り合う。
解かり合えない指先で。