(1)懐かしきあの夏祭りは後の祭り
夏が来るたび、僕はあの人のことを思い出す。
出会いは中学校の入学式だった。僕を含めた新入生は、もう春だというのに凍り付いたみたいに緊張しきっていた。座っているパイプ椅子のクッションよりも固く身を強張らせ、手の平には雪解けのじっとりとした汗。舞台の上ではやたらと不安をあおる校長の演説がかれこれ二〇分は続いている。彼の梅干しのような口から居丈高な単語が飛び出すたび、椅子に座っている僕たちは肩を縮め、膝の上で結んだ拳をさらに強固にする。視線を下げることは許されていない。さっき欠伸を噛み殺すために一時的に俯いた最前列の新入生が怒涛の如く叱咤されたからだ。僕たちに許されていることは、未来への希望を削ぎ取る校長の言葉に唯々諾々と従うことで、彼の物言いに反問することはおろか、受け取りを拒否することも禁じられている。壁際の座席にいる教員たちも萎縮してしまっていて口を出す素振りもみせようとしない。息も詰まるほど緊迫した入学式は、僕たちにとって監獄への入獄と同等で、今日から始まる華やかな学生活の幻想に早くも終止符を打たれた思いだった。
けれどその終止符も瞬く間に吹き飛んでいった。
僕のいる列から二つ前の列にいた化け物が、白魚のように滑らかな手を頭上に掲げ、緊張で濁りきった空気を浄化するかのような透き通った声で言ったのであった。
「校長先生。そろそろそのような暗い話は終わりにして、私たちの前途を祝うような明るい話をしませんか? そうする気がないのであれば、一刻も早くこの退屈で不利益な式典を終わらせるべきです」
一聞すると峻烈な言葉だったが、そこに避難の色はちっともこめられていなく、むしろ赤ちゃんの不手際を訂正する母親のような微笑ましい慈愛が含まれているように思われた。そう感じたのは僕だけではなかったようだ。周囲にいる新入生の凝り固まっていた身体は、まるで日向に置かれたカキ氷のようにどろりと氷解した。
そして、固い緊張を砕かれたのは僕たちだけじゃなかった。鋭い指摘を受けた張本人である校長は、見る見るうちに顔から血の気を引かせて青白くなったかと思えば、一変して茹蛸のように顔面を紅潮させ、
「そ、そうですね。それでは、この辺で終わりに、し、しましましょうか」
どもりながらそう口にして、初恋をした少年のようなぎこちない動作でいそいそと舞台を後にしたのであった。
続いたのは一瞬の凪。転じて微動する水面のように拡がっていく囁き声によって揺らぎ始めた場を、司会進行を務める教員が漁師のように敏感な目利きを発揮してすぐさま繋ぎ止める。会場は再び沈静化され厳粛な空気が張り詰め、それ以後の式は何事もなかったかのように淡々と進行した。
しかし、何もかもが振り出しに戻ったわけではなくて、僕の脳みそは先ほどの場景を思い出しては猛烈と打ち寄せてくる感激の大波に浚われ、そして、沖合の群青で浮揚する僕の心臓は、波よりも高く空に近く鼓動を打ち鳴らしながら恋の深遠に溺れていた。
際限と制限のある言語で言い例えるならば、あの麗しき化け物のことを知ったその瞬間から、今までの僕と今の僕は歴然とした差異のある別人になった。身長が伸びたわけではない、体重が増えたわけでもない、髪の色も変わらず真っ黒だし、声変わりだってまだしていない。けれど自分が明確に変貌しているという実感が僕にはあって、その感覚が湧き出している源泉には、見目麗しき化け物がまるで女神のように神々しく存在している。
僕は息を呑むことも忘れ、曇りない硝子のように澄んだ泉に半身を沈めた化け物が、絶えることなく噴出する明澄な水できめ細やかな白い身体を清めている姿を見つめる。
校長の暴挙を裂いた白い手が時折水面を跳ねては水滴を撒き散らかせ、泉の岸部に幾本もの虹を描き出す。細やかな織物のように交差していく繊細な情景は己の妄想だと知っている僕ではあったが、胸を打つ欲望のままに草陰から飛び出し、すべてを掻き乱してしまうような行動には出ない。そこでの僕は、じっとりと湿った大気や水場特有の臭気に包まれた一匹の矮小な虫なのだ。
囀らない限り虫の息である呼吸を潜め、泉の中心で波紋と虹と踊る化け物を見守る。姿を晒すことは許されない。許されているのは、夏の蒸し暑い夜に小さな、けれど僕にとっては大きな声で、歌を歌うように鳴くだけだ。
日が暮れて夜の帳に覆われると、姿を見せられない所為で胸に溜まっている多くの想いを乗せて鳴く。満月よりも丸い泉の中心に浮き、夢に浸っている化け物の耳には届いているだろうか、僕の鳴き声。
それはもう全部すべて僕のイメージというか妄想でしかないのであるが、現実での僕もたいして変わりない。授業中だろうと給食の時間だろうと、黒板とコンクリートの双璧を越えた先にいる化け物のことを虫のように想っているだけなのだ。関わり合いといえば教室移動の際に廊下で見掛けることや、放課後に部活動で校舎の外周を走っている姿を遠目に見たりするくらい些細なものだ。まったく見ることもできない日の方が多いのに、僕の想いはズクズクと育っていって、朝礼や終業式のときには寄せ集められた生徒たちのなかかその姿をつい探してしまい、姿は見えないけどあの凛とした声音が人影から聞こえてくると、同じ空間にいられていることが無性に嬉しくなったりしながら、一喜一憂の日々を過ごしていた。
そんなふうにして、僕は一方的に化け物のことを知っているが化け物は隣のクラスにいる僕のことを知らない状態が二年続いた。片道分の運賃しか与えられていない想いが実るはずはないと、僕はずっとそうやって諦めていた。このまま中学生活はあっさりと過ぎ去って、僕は地元の高校に進学して化け物は私立の有名女子高にでも行って離れ離れになって、新しい環境に慣れようと必死になっている間にいつしか化け物のことも忘れて、大学はそれなりところに進み平凡な中小企業に就職する。そしてある晩、缶チューハイでも飲みながらぼんやりと昔のことを思い出して、「ああそんなこともあったなぁ」なんて感慨に耽りながら、あのとき少しでも勇気を出して声を掛けていればよかったなとか思って、引っ込み思案な自分じゃとても無理だよなぁってヘラヘラ笑って、でも胸がジクジクしてくるからチューハイを一気飲みしてふて腐れるようにして床に着くような人生になるのだと思っていた。
けれど、僕が想像していたよりも遥かに僕の人生というものは幸運に恵まれていた。
中学校最後の夏休みを迎えようとしている教室は、ピリリとしていた高校受験ムードから一時的に解放されて、みんな躁状態になったみたいに浮かれていた。わーわーきゃーきゃー、と、わーわーきゃーきゃーしているクラスメイトたちの嬉しそうな顔を自分の席に座りながら眺めていると、背後から肩をつんつんと叩かれた。体をひねって後ろの席へと振りかえる。そこには気難しそうに眉をしかめている田所くんがいた。普段なら喧騒の中心になって騒いでいるはずの田所くんなのに今はなんだか変だった。難題を前にして苦悩しているかのように思慮深げだ。教室の中央で喜びのあまり小躍りをしているクラスメイトたちを一瞥した田所くんは、への字に結んでいた口をかぱっと開いた。
「大窪、明後日ひま?」
「あさって?」
不意を突かれた僕は、笑みを浮かべたまま困惑の表情を浮かべた。
「おう。明後日、商店街で夏祭りあるだろ? いくら誘ってもどいつもこいつも受験勉強だ、家族旅行だつって来てくんねぇんだよ。薄情だよな。夏祭りと受験どっちが大切なんだよ、ったくよー」
ぶつくさと愚痴っていた田所くんは、一転してギラリとした目を僕に向けた。
「だからよ、行こうぜ」
うーんと、考えあぐねている僕をあともう一押しで誘惑できると見込んだ田所くんは、下唇をぺろぺろっと舐めて続けた。
「なぁ大窪。受験は高校のときにもまた経験できるし、家族と出掛けるのだってこれからチャンスはいくらでもあるだろ。でもだ。中学最後だぜ? もうこれで終わりなんだぜ? 俺と一緒に中学最後の夏を盛大に祭ってやろうぜっ!」
それを言い出したら高校受験だって今しか経験できないことだし、そもそも一回分の人生しか与えられていない以上、どんな些細な出来事も一度きりなんだけどなぁ、と思ったけど、熱く夏祭りについて語っている田所くんに水を差すようなことは言わないでおいた。
「うん、いいよ。僕も行くよ」
そう答えると田所くんは机に鋭い肘鉄を食らわせるみたいな勢いでガッツポーズをして喜んだ。
「よっしゃーサンキューな、大窪。集合場所と時間はまた後で連絡すっから、絶対来いよ!」
言うや否や座席を弾き飛ばして教室から駆け出して行った田所くんを見送る僕は、これから僕の身に起きる夢のような出来事を当然ながらまだ実感していない。
そして夏休み初日の昼時、普段より鳴りの良い電話の音が家中に響いた。「あらあら元気ね」と架台で唸り狂っている電話を見て朗らかに笑いながらお母さんが受話器を取った。
「はいはい、いますよ。今代わりますから、そんなに息を荒げないでね」
お母さんから受話器を渡された途端、受話器の穴から田所くんの興奮気味な声が飛び出してきた。
「ちっすちっす、大窪!」
「こんにちは田所くん」
「集合場所と時間決まったぜ! 場所は商店街の入り口に自転車置き場あるだろ、そこだ。んで、時間は祭りが始まる十八時」
「うん、分かった」
「結局よ、あれから三人しか集まらなかったぜー。……そうだ。いちお、来るやつ知らせとくわ」
そうして告げられた名前のなかに、化け物のものがあった瞬間、僕の頭は真っ白になっていた。頭だけではなく視界も白くなり、気が付けば僕はいつもの想像の世界にいる。美しい泉を囲む暗い藪の中。そこで僕は息を殺して夜を待っている。夜になって泉の面で夢に浸る化け物に歌を歌う至福のときを待っている。そんな僕が、夜しか想いを発露できなかった矮小な僕が、草陰から正体を現すことを許されたのだ。
名前を耳にした瞬間から小刻みに高まっていた心音は、手摺りから飛び立った鳥のように上空へと消えていった。息なんてもういつからしているか忘れている。自分が身震いをしているのか、していないのか、人に訊ねなければ判らないほど動揺していた。「それじゃ、また明日な!」という田所くんの声が耳に届いたのは、ぷー、ぷー、と通話が切れたことを報せる音を丸一時間の間、聞いてからだった。
やっと意識を取り戻せた僕は、受話器を置こうとして手を滑らせて落としてしまう。ビヨウン、ビヨウン。コードに引っ張られて上下する受話器を慌てて捕まえて定位置に戻す。所定の場所に収まった受話器は動きを止めたけど、僕の動揺はまだ続いている。ビヨウン、ビヨウン。どこかから僕へと繋がっているコードは伸び縮をして僕を揺さぶる。ふらふらと覚束ない足取りで自室へと取って返してベッドに倒れ込んで、動悸を収めるために胸に手を置いて目を閉じた。点線をなぞるように丁寧に息をする。現実感が指先からやってくる。落ち着きを取り戻しはじめた心臓から、さっきよりも温度の低い血が出てきて全身をめぐる。ぐるぐる。でもそれは、感動が消え去ったわけじゃない。化け物の前に姿を現せると知った虫は、藪の下影で息を沈めながらそのときを心待ちにしている。時々、葉の隙間から泉の方をうかがってどきどきしている。
ああ早く、明日になれ。想像をしてまた胸が高鳴って、動悸、息切れ、眩暈がしてくる。急いで違うことを考えて気を紛らわす。夏休みの宿題、夏期講習、夏祭り。ああ。ダメだ。何を考えても明日の夏祭りのことがすぐに脳裏に過ぎってしまう。
ベッドの上をごろごろ転がって煩悶する。夕食の時間になってもお風呂に入っていてもテレビを見ていても、頭からは化け物のことが離れない。日付が変わって夏祭りの当日になると、集合時間までまだ十八時間もあるのに緊張でノドが渇いてきて、台所の冷蔵庫から牛乳を取り出して何度も飲んだ。小学校のときも遠足の前はいつもこうだったな。そう思いながら枕に顔をうずめて眠りに入ろうと試みるけど、暗闇から化け物の姿が現れてなかなか寝付けない。
僕の焦りを尻目にして夜は淡々と深まっていく。お母さんとお父さんが寝てしまうと家からは物音一つなくなって、廃屋のように静まり返ってしまった。僕は廃屋の一室で、独りで眠ろうとしている。そんな想像をして、ますます夢から遠ざかる。夜風を入れるために空けておいた窓から、救急車のサイレンが聞こえる。ウーウーウー。静かな夜でうなるその音もおとぎ話のように曖昧で、本当に救急車から鳴っている音なのかどうかもうやむやだ。山の中にある牧場で寝入っている牛が悪夢にうなされているだけかもしれない。ウーウーウー。
そんな不確かな世界からの脱出を願って、天井に向けて手をかざしてみる。ぺたりと手の平が天井に付かない。夜風が腕を挟むようにして抜けていく。机の上に置きっぱなしにしてあるノートがカサカサリと擦れ合う。その音色すら現実味がない。何もない。本当に何もないんだ。だからこそ僕は、眠りの切欠を感じる。曖昧で不確かで現実味のない世界だからこそ、僕は覚悟を決めることができた。
今夜の夏祭りで、僕はすべてに決着をつける。
すべてって何だろう? 決着って何に?
疑問点は点々と脳下垂体から垂れていき、現と夢の水平な接合面に年輪のような波紋を刻んでいく。滑面だった泉に克明な形状が浮かび、削り取られた泉の屑が飛沫となって水際の水草を瑞々しく見出す。月光を浴び、夜霧を編み、顕わになった泉は静時の様相。昼の華々しさはなく、なるべくして漆闇の端に浮いている泉を、僕は藪の陰から見守っている。
そして。
独りで泉にいるあの人に向けて、僕は歌う。
どうしていつも独りなのか、そんなこと考えずにただ歌う。
僕の声を皮きりにして、泉を囲む草木から一斉に声が響き、軽妙で愉快な合唱が始まる。
聴いているのはただ一人。
そのただ一人に僕たちは歌う。
僕たちの歌で相手がどんな気持ちになってしまうのか、そんなことも考えずに歌い、歌った。