第七章
出勤したのだが、私の注意力が散漫としていたので、ほとんど仕事をやらせてもらえなかった。
不満なわけではなく、むしろ助かった。
ただ、周囲に気を使わせたと思うと少しすまないと思う。
上司のみならず、部下にまで面倒をかけてしまい、今日はいつもとは違う意味で心が疲れてしまった。
勤務時間が終わると、皆に一言謝ってから帰宅した。
帰宅途中に、どことなくおざなりな謝りになってしまったことを気にしていた。家達君ならもっと上手に謝るのだろう。
時間が経つにつれて、私のその思いも、まるで氷が溶けていくように、少しずつ小さくなって消えていった。
それに逆比例するかのように膨れ上がるのが、千裕を失った悲しみだった。
自分でも驚くぐらい、また自分でも納得するぐらいに、悲しみは続いていた。
家達君に言った通り、私が抱く悲しみは、なにか別のことに集中している時以外ならばいつだって、私をさらいに来る。
隙あらば、私の心を悲しみの色で染め上げようとするのだ。
青く青く、そして暗い黒い色で。
心臓を鉄鎖でギリギリと縛られているような圧迫感を覚える。
苦しい。苦しい。とても苦しい。
帰路の一歩一歩が辛い。
私に向かってほほ笑む千裕の笑顔が、私を苦しめる。
一体誰が、私の心臓を締め上げるのだろうか。
きっと、千裕を殺した犯人に違いない。
私の心が赤く赤く染まっていく。
千裕を失ってしまい、ポッカリと開いた心の隙間を埋めるように、赤い赤い感情が貪欲に群がる。
それは、悲しみよりも暗くて黒い。だが、心は苦しくない。
「…くそったれ」
誰に向かってと言うわけではないが、私は口の中で呟いた。
くそったれ。くそったれ。くそったれ!!
怒りの感情はまるで炎のようだった。私の心の片隅で燃え始めた炎は周囲を飲み込むような勢いで燃え盛り、逆巻き、際限なく勢力を拡大していた。
もうじき、私の心は憎悪の炎に包まれた地獄と化すだろう。
私の記憶の中にある、大事に取ってあった千裕との思い出にまで火の手が回る。
それすらも、今の私には、気にならない。
いっそ、全て燃えてしまえ!
破壊的衝動に心を任せた。心は待っていましたと言わんばかりに、轟音を上げて炎上する。
―――さぁ、全て燃えろ!
そして、私を苦しみから解放してくれ。
高らかに、懇願するように、笑うように、泣くように、私は心の中で叫んだ。
「おかえりなさい。右京さん」
声の主は家達君だった。
初めて会った時と同じ、爽やかな笑顔で私に手を振っている。
予想外に彼に出会ったことで、私の中にあったはずの業火は一瞬で消火されてしまったようだ。
人畜無害そうな人懐っこい笑顔。それを見た途端に、自分の醜い感情が恥ずかしくなったのだ。
遅ればせながら気付いた。家達君の隣に和村先輩もいた。
「おかえりなさいって言っても、ここは右京さんの家じゃないですけどね」
面白そうに笑う家達君。
だが、それは上っ面だろう。
彼とは、それ程たくさん会っているわけではないが、彼のことはなんとなくわかり始めていた。
どうしようもないぐらいにお人よし。それが家達巧の彼らしさなのだろう。
それを知っているから、私には彼の笑顔が仮面のように見える。
もしくは、頬に涙のマークを描かれているにも関わらず、陽気に笑う道化師だ。
「和村先輩まで、一体どうしたんですか? こんな中途半端な場所で」
「不謹慎な話ではあるけど、私はついに探偵を超えたみたいだ」
「どういうことですか?」
「事件の真相がわかったんだよ」
自慢げに胸を張って高らかに宣言する和村先輩。
だが、不謹慎だと、家達君に窘められて、萎縮した。
伸縮が忙しい人だ。
「それで、真相と言うのは!?」
私はかじり付くように聞いた。
「それが、僕にも教えてくれないんですよ」
不服そうに言う家達君。
私の勘ではあるが、目立ちたがり屋の和村先輩のことだ。きっと推理ショーを開くつもりなのだろう。
確かに家達君の言う通り、不謹慎な話ではあるが、家達巧という名の探偵も、島宿警部という名のスピードキングも、未だに頭を悩ませている事件の真相がわかったということは、刑事として、とても誇らしいことなのだろう。
「ただの仮説に過ぎないけどね。今日の調査中に、頭の中で閃いただけのことだから。私の推理が間違っているか、そうでないかを巧と大輔に聞いてもらおうと思っただけだよ」
「警察に話してくださいよ。警察なんだから」
家達君の言い分はもっともである。
和村先輩は、ばつが悪そうに言い返した。
「だって、大輔に一番に真相を教えてやるって誓ったんだもん」
なんとも、子供のような返答だった。
私としては、嬉しい限りだが、高校生、いやもしかしたら中学生にも見える家達君に怒られる、スーツ姿の婦警という構図はあまりにも滑稽だ。できるなら、なるべく他人のふりをしたい。
そして、早く千裕の死の真相を知りたい。
喉から手だけではなく、丸ごと体が出るぐらいに真相が知りたいのだ。
そのためにするべきことを考え、私は仲介役をすることにした。
「言い争っていても始まらないじゃないですか。とりあえず、私の寮にでも行きましょう」
『すみません』
なぜか謝られた。なぜだろうか。
後から聞いたところによると、私が丁寧な口調の般若に見えたという。
私達三人は、急かす気持ちを抑えたまま、私の自宅へ和村先輩の車で直行した。




