第五章
私は、家達君に電話で呼ばれ、朝早くから千裕のアパートに来ていた。
千裕のアパートに来るのは、たったの二日ぶりだ。なのに、ずいぶんご無沙汰しているような気がする。
アパートはお世辞にもお洒落とは言えない。アパート自体もそう言って欲しくはないだろう。
安さが売りのアパートで、部屋は襖で仕切られた二部屋しかない。台所と寝室だ。風呂は近くにある銭湯を利用するのだという。そのためか、千裕が私の家に泊まりに来た時は、必ず長風呂だった。
狭い玄関と小さな服を干すためのベランダがある。
唐突に、胸が痛んだ。
彼女の最期を思い出すたびに、私の胸には強い電撃が走る。
悲愴という名の電気ショックで心臓が止まってしまうかも知れない。そう思う時もある。
「絶望は死につながる病」そう言った人がいるらしい。今の私はまさにその通りだ。
「おはようございます。遅れてすみません」
約束の時間の三十分前に家達君は姿を現した。
時間には余裕で間に合っているというのに謝るとは、彼の将来を心配をしてしまう。
お人よし過ぎるというのは、決していいことではない。むしろ、人生を損してしまう。
とは言え、私は彼を説得するいい言葉が浮かばず、とりあえず取り繕うことにした。
「私も今着いたばかりだから、気にしなくていいよ」
これでは、まるで恋人とのデートの待ち合わせではないか!
私は自分の失言で顔から火が出る思いであった。
家達君は私の羞恥を知ってか知らずか、私に重ねて詫びた。
「本当にすみません」
「いや、そんなに謝ることじゃないと思うけど」
「遅れたことではなくて、ここに呼びだしたことです」
「え? どういうことかな」
「鮎川さんのことを思い出していたでしょう? 辛い思いを察します」
そう言うと、家達君は深々と頭を下げた。
彼は真剣そのものだった。本当に心から頭を下げていた。
私は慌てて、取り繕った。
「そんなことないよ。君の後に同じような電話が、島宿警部からも掛かって着たから。それに、本音では、もう一度事件現場に来れて、嬉しく思ってるよ」
「嬉しく思う?」
「千裕を殺した犯人のことを考える時だけ、私の心は救われているんだ。犯人を推理していないと、千裕のことを思い出してしまう。千裕のことを考えると、とても、とても辛い」
「……」
「だから、君や和村先輩には感謝してるんだ。君達が僕を救ってくれている。確かに、復讐の感情はいい感情じゃないと思う。危ういし、自分を見失うことがある。でも、それでも、今の私には、復讐の感情が唯一の痛み止めなんだ」
「…その痛み止めは、麻薬です。気をつけてください」
言いにくそうに、家達君は言った。
私をここに呼んでしまったことへの責任感が彼の口を重くしているのだろう。
「十分気を付けるよ。忠告ありがとう」
そう言ったものの。自信はなかった。
千裕のことを考えると、胸が痛い。心が苦しい。
もしも、家達君が犯人を見つけて、私の前に連れて来たら、私は一体どうするだろうか。
そう考えるととても怖かった。きっと、いや、絶対に犯人を罵倒し、衝動に任せて無抵抗な犯人を殺してしまうだろう。
それ程に、私は千裕を愛していた。
それ程に、私は犯人を憎んでいた。
犯人を殺してやりたい。そう思うと同時に犯人に捕まって欲しくないと思う自分もいた。
勉や美樹さんの言う通り、犯人を追うことで私は千裕の死を忘れていた。
もしも、犯人が捕まってしまったら、私は千裕の死と対面しなければならない。その時、私に逃げ道はない。
耐えられる自信が、私にはない。
「これから右京さんには、千裕さんの部屋の中を見てもらいます。気がついたことがあれば、何でも言ってください」
「わかったよ。微力ながら頑張るよ」
「どんな些細なことでも、どんな無意味なことでも、言ってください。大事なピースを一つ見逃すぐらいなら、不要なピース二百個を選別するぐらいなんでもありません」
「うん。わかった」
「それから、一つだけお願いがあります」
家達君の声のトーンは変わった。
何と言うのだろうか。家達君の心からの声という形容が正しいだろうか。
とても純粋で、とても直向きな声だった。
「この事件を恨まないでとは、言えません。でも、絶対に犯人を恨まないでください」
「それは、無理だよ」
「きっと、犯人は辛いし、苦しんでいる。右京さんとは違う痛みを苦しみを胸に抱えてる」
「……」
「僕は思うんです。悪者なんて存在しない。ただ、この世界には"過ち"があるだけなんだって」
「例え、そうだとしても、私は、……私は犯人を恨む」
「今は、それでもいいと思います。でも、真実が明るみになったら、その時は、犯人を許して上げてください」
「……」
私は、卑怯にも返答をしなかった。
彼が言うことはきっと正しいし、私が間違っているのだろう。
しかし、例え正しいことでも、できないことがある。例え間違っていたとしても、せずにはいられないことがある。
私の頭は理解しているのだ。犯人を殺した所で何も変わらない。何も戻らない。
千裕が喜ぶはずもない。悲しむに決まっている。
だが、しかし、でも、犯人を許すことはできない。それは、全て別問題だ。
「きっと、いえ、必ず僕がこの事件を解明します。だから、僕が謎を解き明かした時、右京さんは、犯人を許して上げてください」
「……」
身が切られるような必死さで、言った。
彼の言葉を、私の心は頑なに拒んだ。
理性を越えた何かが、私の唇を固く閉ざしてしまっていた。
苦悩に満ちた私と、必死に懇願する家達君を見て、まるで嘲笑うかのような声が聞こえた。
「三文芝居だな、家達。これから事件現場を捜査するぞ」
非常に高飛車で、エリート風な声が私と家達君の会話にピリオドを打った。
そこに立っていたのは、長身の男だった。
名前は島宿蘭警部。最年少警部であり、「スピードキング」の称号を持つ。頭のキレは署内だけでなく、日本の全警察の中でもトップクラス。
「家達、右京。これから俺の監視下の元、現場への立ち入りを許可する」
島宿警部はそう言うと、私と家達君に白い手袋と青い警察庁のロゴが入った帽子を投げるように渡した。
「現場では、それを着用し、絶対に脱ぐな。脱いだ瞬間に署に連行する」
『了解です』
私と家達君は声をそろえて返事をした。
島宿警部の鋭い目が、俺は本気だ。と語っていたからだ。
「ついて来い。森谷が来る前に、何が何でも真実を見つけ出す」
帝王学でも習っていたのだろうか。そう思わずにはいられなかった。
家達君も私と同じ意見だったようで、私を目が合うと、肩をすくめた。
おどけて見せる彼の目じりには、涙がまだ残っていた。




