閑話休題
家達巧に親はいない。
彼が小学校に入学する前に、交通事故で父親は死に、母親は巧を置いてどこかへ消えた。
五歳の頃から、巧はこの孤児院のお世話になっている。
和村純と右京大輔との対面を終えて、巧は自分の部屋に戻った。
ルームメイトを起こさないように、忍び足でベッドに潜り込むと、巧は早速思考した。
頭の中で繰り返されるシミュレーション。
和村から貰った被害者の部屋の見取り図を頭に描く。その中を鮎川千裕と犯人を示すマークが動く。
犯人が知り合いである場合。知り合いではない場合。
犯人が男である場合。女である場合。
犯人が一人である場合。複数である場合。
しかし、どれほどシミュレーションを繰り返しても、結局、答えには辿りつかない。
しっくりとくるものは、ない。
やはり、今回の事件は……。
思考を広げている巧を現実に引き戻したのは、携帯電話のバイブ音だった。
携帯電話のサブディスプレイには、島宿蘭という文字が光る。
「…島宿さん?」
巧は携帯電話を取ると、急いで部屋から出て、通話ボタンを押した。
島宿蘭。二年前の連続殺人事件の際に、事件を捜査していた刑事の一人で、事件を解決した巧をライバル視している。
現在彼は、最年少の警部に昇格している。しかし、それだけの結果を出していながら、巧への闘争心が薄れたことはない。
巧本人は島宿のことを敵視することなく、協力することができたらいいと思っているのだが、その気持ちが通じる日はまだ来そうになかった。
巧の信念が「罪を憎んで人憎まず」だとするならば、島宿の信念は「罪を憎む」ただそれだけである。
事件を解決するためには手段を選らばず、時に犯人のみならず、周囲の人を危険に曝すような、強行的な捜査方針の島宿は、確かに事件を解決する早さは群を抜いていた。
署内では「スピードキング」とも呼ばれている。
二年前の事件の時は、その捜査方針故に巧と対立した。
「もしもし、島宿さん。何の用ですか?」
「用件は鮎川千裕の事件のことだ」
ボクサーのストレートのような鋭い声が、携帯電話から返って来た。
彼の自信と高飛車な雰囲気が漂う声は、機械的なフィルタが掛かっても薄れることはない。
「なんのことか、僕にはサッパリですよ?」
「和村の奴がお前と繋がってるのは、気づいている。見苦しいぞ」
「はて、なんのことか」
「しらばっくれたければ、しらばっくれてろ。用件を言うぞ。…あの森谷が動き出した」
「森谷 茶智さんですか?」
巧は祈るように確認した。
返答はキッパリとしたものだった。
「他に誰がいる?」
「森谷さんが、捜査に参加されるんですね」
「二年前と似たような展開だな。俺とお前と森谷。この三人が一度に同じ謎に挑む」
「不謹慎ですよ」
「ふん。確かにそうだな」
島宿は一度、間を置いた。
「一度しか言わない。よく聞いておけ」
「はい」
「お前に正式に捜査協力を申し出る」
「え? どういう意味ですか?」
「文字通りだ。森谷が動き出してしまったら、見つかる真実も見つからない。だから、お前の知恵を借りたい」
巧が驚くのも無理はない。プライドが高い島宿が、ライバル視している巧に捜査協力を求めるということは、前代未聞のことであった。
しかし、同時に巧は理解した。
森谷が介入するとなっては、もはや意地を張っている場合ではないということだ。
森谷の捜査方針は、巧や島宿の捜査方針とは大きくことなっている。
彼の捜査方針は「事件を処理する」である。
事件の真相に関わらず、森谷は一番犯人である可能性が高い人物を犯人に仕立て上げる。という捜査方針の持ち主である。
森谷にとって大切なのは事件を終わらせること。真実は二の次。
故に、捜査方針は事件を"解決する"ではなく"処理する"。
「森谷さんが真っ先に疑うとすれば、右京大輔さんですね」
「誰を疑うかなんて問題じゃない。真実が目の前でねじ曲がることが問題だ」
「とにかく、森谷さんが事件を処理しないうちに、僕と島宿さんで事件の真実を明らかにしようというわけですね」
「お前の手を借りるというのは、屈辱以外の何物でもないが、奴が動き出したとすれば、仕方がない」
「わかりました。森谷さんが介入する前に、事件を終わらせましょう」
「ふん。明日の六時、事件現場のアパートで待っている」
巧が返事をする前に、電話は暴力的に、一方的に切られてしまった。
よほど、屈辱的だったのだろう。これ以上、一秒たりとも会話をしたくないとでも言いたげだ。
「森谷さん。島宿さん。二人とも、すごく頭がいいのに、どうして協力できないんだろう」
静かな廊下で呟いた声は、瞬く間に消えていった。
まるで、その願いが叶うことないと、暗に伝えようとしているかのように。