第四章 2/2
孤児院の応接室の一人掛け用のソファーには私と和村先輩が座っている。
そのせいで家達君は座りにくそうに、三人掛けのソファーに座っていた。
物理的に座りにくいわけではない。自分よりも年上の大人が、自分の座っているものよりも狭い一人掛けのソファーに座っていると言うのに、その目の前で堂々と三人掛けのソファーに一人で座れというほうが酷だろう。
もちろん、座る場所はそれしか余っていないのだから、不可抗力である。
しかし、家達君はそれを気にしているのか、座りにくそうに頻りにモジモジと座り方を変えていた。
そんな頼りない姿を見せていた家達君だが、和村先輩の一言で彼の目つきは変わった。
「私は、大輔が疑われてるのが耐えられない。だから、力を貸して。巧」
家達君は丁寧な返事を返すと、それ以上モジモジしなくなった。
彼の中性的な顔から控えめな頬笑みが消え、空気は凛と張り詰めるような真剣な大人の男の表情に変わった。
そして、探偵は静かな声でこう言った。
「現場の詳しい状況が知りたいですね。とくに、事件現場である玄関。あと窓ですね」
「窓は、半分開いていた。だが鮎川千裕の部屋は二階だけど、下がコンクリートのため、とても飛び降りることはできない」
「隣に移ることは可能ですか?」
「できるわ。その窓の外は洗濯物を干すスペースで、少し狭いけど動き回れる広さはある。隣のベランダとの間は板が一枚あるだけよ。手摺に登って隣へ移ることは可能よ」
「それって、いきなり密室を解き明かしたんじゃないですか!?」
「それは違うよ、大輔。警察も同じ推理をして、鮎川千裕の部屋の隣の部屋の住民を調べたの。死亡推定時刻である夜中の二時頃、隣の家の住民は会社の同僚と麻雀をしてたらしいわ。会社の同僚が証言者よ。もちろん四人の共犯の可能性もあるけれど、鮎川千裕との接点は隣人だったの一つに尽きるわね」
「なら、そうやって隣へ隣へって渡って行ったのではないですか?」
「大輔、それも調査済みよ。アパート内の全ての住民の事情調査は終わってるの。寝ていたからアリバイがないって人がほとんどだけれど、特別に怪しい人はいなかったわ」
いくら探偵とは言え、一瞬で事件を解決するのはできないということか。
つまり、どんなものでも積み重ねが大事ということだろう。
家達君はとくに落ち込んだ様子も見せずに、質問を続けた。
「被害者の部屋から髪の毛とかは出なかったんですか?」
「そう。それが不思議な点なのよね。指紋や髪の毛の類は、親しい女友達のが見つかった他は、大輔のが見つかったぐらいよ」
「和村先輩の情報から考えるに、犯人は手袋をしていて、帽子もかぶっていたということですね。痕跡を一切残さないなんて、神経質なんですね」
「でも、犯人は痕跡を残しているのよ。鮎川千裕の部屋から缶ビールが見つかっていて、アルコールが検出されたグラスが二つあったの」
「手袋をして、さらに帽子もかぶり、繊維が落ちにくい服を着て、痕跡をまったく残さなかった犯人が、そんな些細なミスをするなんて、考えにくいなぁ」
「そうね。犯人の偽造工作かも知れない」
「でも、グラスを洗うにしても、一度手袋を脱がなきゃいけないじゃないですか。痕跡を少しも残したくなかった犯人はそれが嫌だったんじゃないかな」
「犯人は友達と飲んで、その友達が帰った後に、酔った勢いで自殺。そんなシナリオを描いていて、あえて残したのかも知れない。警察の中にもそういうふうに考える人がいるけど、考えすぎな感じは否めないわね」
「和村さんと右京さんの推理は理に叶ったものですが、僕には犯人が痕跡を残さない努力をしたようには感じません。もしろ、痕跡が残ったとしても、致命傷にはならないと踏んでいる人物のように感じます。本気で痕跡を残したくなかったら、グラスを持ち去ることもできたわけじゃないですか」
「なら、犯人は一体どういう人物だと考えているの?」
「痕跡は検出されたじゃないですか。親しい女友達と右京さんのが」
彼は手の甲に頬を乗せると、瞼を閉じた。
寝ているわけではなく、頭が高速で回転しているようだ。
「鍵が開いていたドア。散らかった玄関。足場のない首つり自殺。残されたグラス。半分だけ開いた窓。消えた財布とカード」
家達君はぼそぼそっとキーワードを呟く。
応接室に沈黙が生まれると、居心地が悪くなった私は、ソワソワしながら、和村先輩に聞いてみた。
「自殺する場合って、どんな風にするものなんですか?」
「質問の意味がわからないけど」
「えっと、首つり自殺って珍しいのかなって」
「飛び降り自殺に比べて、首つり自殺は覚悟がいるからね。首を吊る縄を作る途中で怖くなってやめるとか、輪の中に首を入れるときに怖くなってやめるとか、よくある話らしいわ。それに比べて、飛び降り自殺は高い所から飛び下りればいいだけだから。下を見なければ覚悟が揺らぐこともない。もっといいのは薬で自殺する方法。薬を入手するのは大変らしいけどね」
「遺書とかは、書くものなんですか?」
「場合によるわ。虐めを受けた生徒が虐めた子の名前を書くというのはよくある話ね。親や友達に謝る書面を残すのも珍しい話ではないわ」
「今回の場合だと、もしも自殺だとしたら、遺書を残すのが普通なんですね」
「鮎川千裕の性格にもよるけど、私の経験だと、こういう場合は恋人か親に遺書を残すのが普通かな。だって、結婚を考えている恋人と入院中の姉のために一生懸命働くお母さんがいるんでしょう? もっとも、自殺の理由がわからないから、断言はできないけど」
「玄関を死ぬ場所に選ぶというのは、珍しいことじゃないんですか?」
「首つり自殺は屋外でする場合もあるけど、衝動的な自殺っていう場合もあるから、なんとも言えない。思い出のある場所か家で自殺するのが普通なんだけど、専門家じゃないからわからないかな」
私は考える。
そもそも、この事件はいろいろとややこしい。
殺人だとしても、自殺だとしても、手間がかかりすぎている。
もしも殺人なら、夜道で後ろから襲えばいいし、自殺ならもっと自殺らしさというものがあるはずだ。
「今回の事件。一筋縄ではいきそうにないですね」
私の心を読み取ったのか、探偵はそう呟いた。
夜中の一時頃まで三人での推理は続いた。
時折、私や和村先輩が仮説を立ててみたが、どれもこれも的外れであった。
家達君は鋭い指摘を出したが、それ以上何も語らず、必死に頭を捻っていた。
その姿が、私には不思議であった。
四時間弱の短い対面ではあったが、家達君は協調性があるタイプの人間に思えた。
私や和村先輩の推理にはちゃんと耳を傾け、理論的におかしい所はちゃんと私にもわかるように説明してくれた。
だが、なぜか彼は積極的に自分の推理を言わずに、自分一人で事件について考えている。
和村先輩もそれに気づいていたようで、何回かそれを聞き出そうとしたが、家達君はそれをはぐらかすだけだった。
結局、事件について彼が明らかにしたことと言えば、なにもない。
もちろん、いくら実績のある探偵とは言え、普通の人間である。
プロ野球選手に全打席でホームランを打つことができるバッターがいないように、シュートを一度も外したことがないエースストライカーがいないように、事件を概要を聞いただけで瞬時に真実を明らかにする探偵はいないのだろう。
しかし、冷静に考えてみたら、彼の態度は一生懸命頭がいいふりをしている高校生に見えなくもない。
和村先輩から聞いた前評判と比べて、今日の彼はインパクト不足であったことは否めない。
そうだといのに、不思議な話だが、それでも私は家達君に確かな信頼を抱いていた。
理由はわからない。
彼の人となりのせいなのか、彼の鋭い指摘のせいなのか、それは不明だ。
私は一度、思考を停止させた。
とにかく、自分の心を信じることにしたのだ。
そう、千裕のように。
きっと千裕ならそうすると、思ったから。
私と和村先輩は孤児院を出た後も、しばらく帰りながらお互いの推理を言い合った。
収穫は、なかった。
私にとって、この事件を解くための一縷の希望は、家達巧という名の高校生だけとなった。
時間が経つにつれて、家達君への期待はより絶大なものへとなっていった。