第四章 1/2
午後八時。
窓の外は真っ暗闇。月の光が頼りなく輝く夜。
私は、孤児院にいた。
二階建ての木造の建物で、上から見るとアルファベットのL字型をしている。外観は小さな小学校のようだ。
部屋の電気はまばらに付いていて、その部屋にいる子供達の年齢が推測できる。
整備はされているものの、壁は風雨に曝されて汚れていた。築四十年ほどだろうか。
孤児院という施設を他に見たことがない私には、ここの孤児院が充実しているのか、いないのか、平均的なのかは、わからない。
そもそも、孤児院という施設と私には接点が存在しないのだ。
もしも、接点を無理にでも作るのだとしたら、それは隣にいる和村先輩という存在が接点になるのかも知れない。
和村先輩に連れられて、私はここにいるのだから。
「和村先輩。私に会わせたい人が、ここにいるんですね」
「そうだよ。紹介は後でするから待っててね」
「わかりました」
短い会話を終えると、私は先輩の後に続いて、生まれて始めて孤児院の中に入った。
中に入ると、スーツを着た年配のおばさんが、ガラス越しに私達をじろじろと観察した。品定めでもしているように見える。
和村先輩はそのおばさんと少し会話を交わすと、私を呼んで、さらに奥へ進んで行く。
基本的には整理整頓が行き届いていた。だが、落書きや傷を誤魔化し切れてはいなかった。
廊下の照明は暗くないのだが、明るさが足りず、ほろ明るいといった具合だろうか。節電という言葉が頭に浮かぶ。
孤児院という割には子供の姿をあまり見ない。現在の時刻が夜中の八時を過ぎているのだから、子供は自分らの部屋にいるのだろう。
和村先輩はドアの前で止まった。ドアには「応接室」というプレートがある。
字の所々が剥げてしまっているが、なんとか読むことはできる。
和村先輩はそのまま部屋の中に入ると、三人掛けのソファーに座った。私は隣の一人用ソファーに座る。
「簡単にこれから合う人の話をしておこうかな」
「そうですね。お願いします」
「ずばり言うと、探偵ね」
「探偵、ですか」
私はオウム返しに聞き返した。
聞きなれない言葉を吟味するためにつぶやいた。
探偵という言葉は、孤児院という言葉以上に、私に接点のない言葉であった。
そもそも、存在がフィクションの中だけの存在だと思っていたのだ。実在すると知っている孤児院よりも遠くに感じるのは無理もない。
「そう。探偵。例の連続殺人事件でも犯人を追いつめたのよ」
「その事件と言えば、無差別連続殺人事件ですよね? 先輩が犯人を追いつめたっていう」
「あの事件を解決に導いたのは、表向き、私と言うことになっているけど、本当は彼よ。私はおこぼれを与ったにすぎないの」
二年程前の事件だ。
市内で目をくり抜かれた女性の死体が見つかったのが始まりだった。
それ以来、一週間に一人のペースで、目をくり抜かれた変死体が放置されるという残虐な事件が続いた。
今でもその事件のことは有名で、市民なら知らない人はいない。
結局、犯行現場にたまたま居合わせた和村先輩と、本部より派遣された外人の警部が犯人を逮捕して、事件は幕を閉じたとされている。
そんな裏があったのか。
私は素直に驚いた。
「その探偵さんは、この孤児院にいるんですね」
「その通り。約束は付けているし、さっき呼んでもらったから、すぐに来ると思うけど」
正直に話すと、私はドキドキしていた。
想像するに、昼間の顔はこの孤児院を管理する優しい先生。だが、謎を前にすると目つきが変わる。鋭い洞察力と推理力で事件を解決に導く探偵となる。
事件を解決すると短いあごひげを撫でながら、「皆さんのご協力のおかげですよ」と控えめに笑うダンディな大人。
私はそんな像を勝手に想像していた。
コンコン。
私達が話し終わってから数分ぐらいが経った頃、応接室のドアがノックされた。
「失礼します」
声の第一印象は「爽やか」だった。
まるで、濾過された清水ような澄んだ青年の声。
ドアの向こうから現れたのは、ラフな格好をしている利発そうな青年だった。
背丈は百六十センチから百七十センチぐらいで小柄。やせ形で喧嘩が弱そうなイメージが浮かぶ。
顔立ちは中性的で童顔。女の子だと紹介されれば、そう見えなくもない。
彼の見た目で最も私の目を引いたのは、右目だ。彼の右目は包帯で覆われている。
彼の利発そうな整った顔から、右目を隠している包帯の清潔な白さがミスマッチで痛々しく、ズキズキとした錯覚を私の右目に与えている。
青年は浅く頭を下げると、こう言った。
「本来ならば、僕のほうから伺うべきでしたのに、わざわざ遠くからすみません」
「いや、こちらこそ、時間を作っていただいて、ありがとうございます」
丁寧な挨拶を受けて、私も丁寧な返事を返してしまった。
丁寧な返事と言っても、しどろもどろになってしまい、場馴れしていないのが露呈してしまった挨拶だったけれど。
「紹介するわ。家達巧。二年前の事件を解決した男よ」
和村先輩の紹介を聞いて、私は今になって驚いた。
探偵の正体は、私が思い描いた探偵像から程遠いものだった。
探偵は、せいぜい高校生ぐらいの青年だったのだ。
「解決と言っても、実際に犯人を逮捕したのは和村さんですよ。僕はたまたま犯人の正体に気づいただけです」
「それを解決と言わないでなんと言うの。もっと自信を持っていいと思うわよ」
「ありがとうございます」
困ったように苦笑いする家達という青年からは、失礼ながら探偵という雰囲気はしない。
どちらかというと、面倒見がいい優男。偏見ではあるが、この孤児院でいつも貧乏くじを引かされる人物なのではないだろうか。
「巧。本題に入るよ」
「はい。事前に和村さんから聞いたことは理解しました。そちらの方が鮎川千裕さんの恋人の右京大輔さんですね」
「あ、はい」
私は間抜けな返事をしてしまった。
だが、探偵・家達巧は気にしていないようで、さらさらと続ける。
「事件のあらましはこうですね。右京さんが鮎川さんの自宅を訪れた際に、発見された」
死体という言葉を使わなかったのは、私への配慮だろう。
その配慮に私が気づいたのは、もう少し先のことだ。
「そばに足場となる椅子や台は見つからず、自殺とするには不自然。でも、殺人事件だと断定することはできない。なぜなら鮎川さんの自宅の玄関の靴の散らかり具合から、犯人が玄関から出ていないことが推測されるから、でしたよね」
「そうね。警察は自殺と断定して、自殺の方法を捜査するのか、殺人と断定して密室の謎を解くべきか、それがわからずに捜査がうまく進んでいない」
「実際のところ、警察はどちらだと思っているんですか?」
「殺人のほうが強い。なにしろ、鮎川千裕の財布やカード類がごっそりなくなっているからね」
「なるほど。それでは殺人事件というふうに解釈されても不思議ではないですね。そして、真っ先に怪しまれるのは右京さん」
「私、ですか?」
「もしも、右京さんの発言が嘘だったと仮定すれば、なんの問題もなく殺人事件になります」
確かに今回の事件をより複雑にしているのは、私の記憶に他ならない。
玄関の靴を押してドアを開けたという記憶。
家達君が言うように、もしも、私が嘘の証言をしているとすれば、密室は簡単に崩れ去る。
「でも、大輔はそんな嘘をつくような奴じゃない」
和村先輩が断定した。
それを聞いて、家達君はわかりました。と答えると、私のほうを向いてこう言った。
「あなたを信じます。和村さんの人を見る目は一級品ですから」
私は単純に嬉しかった。
不思議な話だ。高校生程の青年に信用していると言われただけで、心が軽くなったのだ。
もしかしたら、家達君が持っている独特の雰囲気のせいかも知れない。
もしかしたら、家達君のとても穏やかな声のせいかも知れない。
正解が出そうにない理由なんてはどうでもいい。どちらにせよ、千裕を亡くしてからあちこちが傷だらけだった私の心は、一時とは言え、健やかであった。
理不尽な人生と不自由な社会に縛りつけられ、挫けてしまいそうだった私の心は、彼の"信じます"という一言で、救われた。
それは断言できる。