第二章
千裕を失ってしまい、私は生きることに意味を亡くしてしまった。仕事も休んでしまった。
そんな私を励まそうと、二人の友人が私の家に来てくれた。今、私の家の台所でカレーライスが作られている。
私は二つの絶望に蝕まれていた。
一つは最愛の恋人、千裕を失ったということ。
千裕と私は、大学二年生の頃に交際をスタートした。
同じサークルに加入していた私と千裕は、驚くぐらいに好みや趣味が合った。服のセンス。好きな映画。好きな食べ物や嫌いな食べ物。
付き合い始めて四年。一度も喧嘩をしたことがなく、自他共に認めるオシドリカップルだった。
警察官という仕事にも慣れて、将来の見通しがついてきたこの頃。私達の間にどちらともなく、結婚という雰囲気が流れ始めていた。
私がプロポーズをしようとしたその日に、事件は起きた。彼女の命日という記念日になってしまったのだ。
もう一つの絶望は、私は警察官だというのに彼女を殺した犯人を探すことができないというジレンマであった。
警察官と一言で言っても、私は生活安全課の警察官だ。刑事課ではないため、殺人事件の捜査をすることができない。
自分の地位の低さがとても、歯がゆい。
「元気出して、カレーでも食べようぜ。美樹の料理がウマイのは知ってるだろ?」
私を気遣うように、元気に振舞っているのは高校からの親友の尾崎勉。
カレーライスが盛られている大皿を器用に三つ同時に運びながら、勉は私を励ます。
「ありがとう。でも、食欲がないんだ」
「食べなきゃ体に悪いよ? 食べやすいように野菜も小さく切ったし、なんならルゥだけでもいいから、ちゃんと食べてね」
優しい声で私にカレーライスを進めるのは、井上美樹。大学のサークルで知り合った女性で、千裕のことでよく相談に乗ってもらっていた。
誰からでも愛されるお姉さん的存在で、私と千裕がこれほどまでにうまくいっていたのには、彼女の存在が大きい。
「わざわざ、ありがとね」
誠意を見せようと、私はスプーンを取ってカレーのルゥとご飯を絡めてみるが、口に運ぶことができない。
無理に口元に運ぶと、吐き気がした。
そんな私の様子を見かねたのか、勉が喋り出した。
「あのさ、美樹と二人で考えてたんだけどさ、俺達で千裕を殺した犯人を捕まえることってできないかな?」
「なんだって?」
「だからさ、美樹の知り合いに刑事課の人がいるんだってさ。その人から事件の情報をもらってだな。俺達で犯人を捕まえるんだよ」
「気持ちは嬉しいんだけど、無理だと思うよ」
詳しくは語らずに否定した。
刑事が事件の情報を部外者に話すなんてことはありえないのだ。第一、素人三人が刑事課の警察よりも先に犯人を見つけるなんて、経験的にも、科学力的にも無理な話だった。
「やっぱりそうだよな。でも、なんか落ち着かないじゃないか。友達が殺されたのに、ただ指をくわえて待っているだけなんて」
「それに、大輔君のことも心配なの。犯人を探すことで、ちょっとでも千裕さんの死を忘れてくれたらって思って。ごめんね、変な話をして」
「そんなことはないよ。とっても嬉しかった。でも、僕らは他人が結論を出すのをじっと待っているしかないんだ」
それが、日本の社会のルールだ。
どうしようもなく、変えることはできない。非力な私では、ただ従うことしかできない。
「カレー、食べようよ。冷めちゃうよ」
私は無理してカレーライスを口に運んだ。
味はしない。美樹さんの料理が下手というわけではない。私の味覚が機能していないだけだ。
しばらくは、三人で黙々とカレーライスを食べ続けた。
ときどき、勉や美樹さんが気を使って、他愛もない話題を持ち出してくれたが、私は楽しくお喋りをする気分にはなれなかった。
居心地の悪い、気まずい沈黙が流れていた。それは、まぎれもなく私のせいだった。
そんな重たい沈黙を破ったのは、私の携帯電話だった。
電話は私の先輩の和村先輩からだった。
和村先輩は私と違って刑事部の刑事で、活動的な女性。大学の先輩でもあり、私が警察に入ってからも、いろいろと面倒を見てくれる面倒見のいい女性だ。
『こんな時間に悪いね。今大丈夫?』
「問題ないです」
私の元気のない返事を聞いて、和村先輩は溜息をついて、「ちゃんと食べてるの?」「よく眠れてる?」と姉御肌を見せた。
気を使ってもらって悪いと思いながら、私は元気のない声で応えることしかできなかった。
『ところで、鮎川千裕さんの事件のことだけど、どうも雲行きが怪しいわね』
「どういうことですか?」
『大輔君に容疑が掛かるかもしれない』
「私に!?」
私は大声で聞き返した。
信じられない。私が千裕を殺したと言うのか!?
『私はあなたが犯人じゃないって信じてる。でも、大輔君と千裕さんを知らない人は、第一発見者、被害者の恋人。合い鍵を持っている、この三つのキーワードから客観的に考えて疑ってしまうじゃない?』
「それは、そうかも知れませんけど」
『だから、心の準備をしてて欲しいの。絶対に怒っちゃ駄目よ。印象が悪くなるから』
「刑事って印象で捜査をするんですか?」
『私に当たらないでよね。でも、人間だもの、感情に左右されてしまうわ』
「…そうですね。すみません。ちょっと動揺してしまって」
私はばつが悪くなった。足元に視線を落とす。
親切で教えてくれた和村先輩に当たるなんて、どうかしている。
だいたい、和村先輩は容疑者に情報を流すというタブーを冒してまで、私に連絡を取ってくれたというのに。
『そうね。明日の正午に私達が大輔君の家に事情聴取に行くわ』
「ありがとうございます」
『別にいいのよ。あなたは犯人じゃないんだから』
私は胸が熱くなった。
『大輔君。最後に一つだけ、いいかしら?』
「はい。なんでしょうか」
『その事情聴取が終わったら、私と一緒に来て貰いたい場所があるの、いいかな?』
「それは、どこですか?」
『ちょっと、会わせたい人がいるの。あ、警部が呼んでるから電話切るね。バレたら怒られちゃうから』
体には気をつけてね。最後にその言葉を滑り込ませて、和村先輩は電話を切った。
もしもバレたら、怒られるではすまないだろう。彼女の親切に私の涙腺は少し緩んでしまった。
「誰からだったの?」
食器を洗い終わった美樹さんが私に聞いた。
「和村先輩から。明日、事情聴取されるみたいだ」
「そんなの、無茶苦茶じゃないか!」
勉は怒ってくれた。
でも、勉が怒ってくれても、美樹さんが同情してくれても、現実は変わらない。明日、私は事情聴取されるのだ。
最愛の人を亡くしたというのに、犯人呼ばわりされる屈辱に、私は耐えられるだろうか。
気になることと言えば、和村先輩が言っていた私に会わせたい人。
物事をはっきりと言うタイプの和村先輩が、どこの誰でどんなことをしていると言わないことは珍しい。
それだけ時間がないなかでの電話だったということだろうか。
そうだとすれば、本当にありがたい。
今晩は泊まって、事情聴取の時に一緒にいる。そう言い張る勉を説得し、美樹さんを家に送らせたあと、私は静かになった部屋の真ん中で携帯電話の待ち受け画面を見ていた。
そこには、満天の笑顔の千裕がいた。
この画面に映る千裕と、自殺した千裕が同一人物だという実感が、画面を見る私にはない。
「お前、本当に死んだのか?」
誰も、その問いには答えてくれなかった。