第十一章
「僕はこの世に悪なんて存在しないって思ってるんです」
私と家達君は休日の長閑な公園で、ベンチに座りながら自動販売機で買った缶コーヒーを飲んで休憩していた。
しばらく二人とも黙っていたが、家達君が私にそう話しかけてきた。
「正義の敵は別の正義である。誰の言葉だったか、覚えてないんですけど、僕は正しくその通りだと思います」
「それは絵空事だよ。この世に悪はいる」
千裕を殺した奴のように。
「悪ってなんでしょうか」
「それは、平たく言うと他人に辛い気持を押しつける奴のことだよ」
「でも、人は誤って他人を傷つけてしまうものだと思います。その過ちを悪だと言ってしまうのは、あまりにも酷ではありませんか?」
「過ちなら、ごめんなさいと謝るしかない。でも、この世には、人を傷つけてもなんとも思わない人間もいる」
「本当にそうでしょうか。人を真正面から傷つけたり、傷ついた人を直視したりして、それでも心に痛みを感じない人間がいるなんて、僕は思いません。ただ、人は自分が他人が傷ついたことに気づかないことがある。そうじゃないでしょうか」
「他人を傷つけて、気づかないなんて、悪じゃないか」
「傷つけられた本人が気づかれないように隠していても、ですか?」
「それでもだよ」
家達君はそれ以上言わなかった。
とても切ないを目をしていた。
包帯がなければ、いや、二年前の事件がなければ、もう片方の目も同じく切ない目をしているのだろう。
「右京さん。右京さんは、優しい嘘と無情な真実。どちらかを選べと言われたら、どちらを選びますか?」
「…。僕は千裕の事件の真実を知りたい」
「でも、真実を知った時、とても辛い気持になると思います」
「それでも、私には千裕の思いを知る権利と、千裕の思いに応える責任がある。教えてくれ、家達君。この手紙の意味を」
私は家達君に千裕の手紙を封筒ごと渡した。
家達君はそれを読むと、やるせなさそうに溜息をついた。
「僕は力が足りない。二年前だって、事件を解決したなんて言われてますが、犠牲者が出てから事件を解決したって、遅すぎる」
「事件が起らなければ、事件を解決できないじゃないか」
「僕は、それが辛い。結局、誰一人救えていない。僕の役割は、テストの丸付けみたいなものですよ。君は何点だったね。ただ、それだけ…」
「……。そんなことないよ」
私はそう言うのが、やっとだった。
それ以上言うことはできなかった。
あまりにも、悲痛すぎる彼の横顔が私の口を塞いでしまった。
「弱音ばっかりで、ごめんなさい。右京さん。僕はこれから、本当の真相を話そうと思います。最後の確認ですが、本当に聞くんですか?」
「聞く」
臆病な自分が出てくるのを防ぐように、私は短く答えた。
「まず、訂正させてください。この前の僕の推理は出鱈目です。理論的に破綻してます」
「…なんでそんな嘘をついたんだい」
「それも一緒に、説明しようと思います」
探偵はしばらく沈黙した。
彼は、激しい葛藤を抑えるように、瞳を閉じる。
自分の気持ちに整理を付けてから、瞳を開く。
そして、覚悟を決めて語り始めた。
「鮎川さんは、とても献身的な女性でした。右京さんにとっても、家族にとっても。彼女のその献身が、今回の事件を招いたのです」
「千裕の献身が事件を招いた?」
「鮎川さんはある問題を抱えていました。それが姉の病気です。ご存知ですよね?」
「うん。どこかの臓器を移植しないといけないって、千裕が言ってたのを覚えてる」
「移植にはとてもお金がかかるんでしたね。そのために、父親がいない鮎川さん母子は二人とも一生懸命働きました」
その話も知っている。
とくに千裕の母は、昼も夜も頑張って働いていたらしい。
「しかし、どれだけ一生懸命に働いても、短時間でお金を効率的に稼ぐことはできませんでした。鮎川家にはお金よりも疲労が溜まります」
「でも、千裕は私に、お金は大丈夫だって言っていた」
「右京さんのお母さんも、体が弱くて入退院を繰り返していましたよね? 事件の次の日、入院していたお母さんの具合が悪くなったという電話が来たらしいじゃないですか。和村さんの手帳に書いてましたよ」
「確かに、入院中だけど、千裕には関係ない。ただ年を取ってるから体にガタがきてるだけだよ」
「鮎川さんは入院中の母親を持っている貴方に、お金を出してもらうことができなかった。容体がどうであれ、家族が入院中であるという、同じ境遇の右京さんに頼ることができなかった」
そうだったのか。
千裕はそんなことを考えていたのか。そんな気を使っていたのか。
「それだけじゃありません。あなたは千裕さんに内緒で頑張って貯蓄していましたよね」
「え?」
「忘れたんですか? 婚約指輪ですよ」
「確かに、私は千裕に内緒で指輪を買おうと…」
「鮎川さんは貴方の努力を勘違いしました。貴方の努力を自分と重ねてしまったのです」
「千裕は、私の倹約を、入院中の私の母さんのためのものだと勘違いした」
「なおのこと、鮎川さんは貴方にお金の援助を求めれなくなりました」
「……」
「さらに、右京さんはとても優しい方ですから、もしかして、お金の援助はしなかったけれど、代わりに遠回しな援助を行っていたのではありませんか?」
「そうだね。夕食を奢ることも増えたし、仕事で疲れてる千裕のために、部屋を掃除したり、洗濯したりすることは増えたかな。でも、それがなんだって言うんだい」
「鮎川さんは、右京さんの入院中のお母さんの容体が悪くなり、右京さんも自分と同じようにお金を必要としていると思い込んでいました。それ故、貴方の好意は、鮎川さんにとって、無理をしているようにしか見えなかったんだと思います」
「そんな、私は自分ができる範囲のことをしただけだよ」
「右京さんは、確かにそうだったと思います。右京さんの行動に悪意はない。むしろ善意からの行動でいた。しかし、それに気付けなかった鮎川さんは思います。自分が右京さんに迷惑をかけているのだと。この時から、鮎川さんの中に、右京さんとの関係に終止符を打つという選択肢ができたんだと思います」
「……」
千裕がそんなことを考えていたなんて、私はにわかには信じられなかった。
しかし、家達君の瞳は真剣そのもので、とても嘘をついていう目には見えなかった。
家達君には、そう確信する証拠があるのだろう。
「臓器移植が必要な姉。頑張って働き過ぎて、体を壊しかねない母。自分だって大変だというのに気にかけてくれる恋人。鮎川さんの中で、どれほどの葛藤があったのかは推し測れません。でも、結論はきっと、今回の事件だったんでしょう」
「まさか、自殺だっていうのかい?」
「はい。とても献身的な自殺でした。なぜなら、姉と母のために現金を残し、右京さんのために足枷を失くしたんですから」
「でも、自殺じゃ生命保険は十分に出ないはずじゃ」
「他殺に見えるようにたくさんの工夫をしてました。まず、玄関のドアに鍵をかけなかった。これで仮想の犯人の逃走ルートが確立します」
「でも結局、玄関を靴で散らかしたら意味がないんじゃないか」
「千裕さんもそこまで気が回らなかった。故意的に密室にしたわけではないんですよ。玄関を散らかしたのには明確な別の理由がありました。」
「飲みかけのビールは? アイツは下戸だったんだ。あんなにアルコールを飲んだら立ち上がれないはずだ」
私の声は震えていた。
それに家達君は気付いていた。だからこそ、少し強い口調でハッキリと言った。
「ビールは飲まずに全て流し台に捨てました。島宿警部も言っていたじゃないですか。流し台からアルコールが検出されたって。コップと空き缶は演出上そのままにしたんでしょうね。
盗まれたとされている財布やカードも、そのうち茂みかゴミ捨て場から見つかるでしょう。
極めつけは、一見不可能な自殺。鮎川さんは手間と時間を掛けて、殺人的自殺を完成させました。結果、警察は現在殺人事件として、捜査しています」
濁流と呼ぶべき感情の渦が、私の言葉を飲み込んだ。
私は必死に否定しようと言葉を探すが、その作業は困難を極めた。
そして、どうにか絞り出した言葉がこれだった。
「ど、どうやって、自殺したと言うんだい?」
無情にも、家隊君は悩まずに答えた。
「全て、説明することができます」
その時の家達君は、泣いているように見えた。




