第九章
いつもの爽やかな笑顔が、彼から消えていた。
真剣な眼差し、引き締まった表情筋。それらが、彼のシリアスな心境を表現している。
「僕の推理も、和村さんの推理と同じで、犯人は直前までビールを飲んでいた女友達です。ですが、偽造工作をしたり、密室を築いたのは彼女ではありません」
「鮎川千裕が友達を庇うためにやったって言うの?」
「いえいえ、そうじゃありません。最初から順番に説明しますよ?」
確認を取る様に家達君はそう言った。
私と和村先輩は、それを了承する。
「鮎川さんと女友達さんは夜遅くまで、お酒を飲んでいました。そして、きっかけがなにかは、わかりませんが、女友達さんは衝動的に鮎川さんを殺してしまった」
「ここまでは、私の推理と同じね」
「はい。ですが、鮎川さんを殺してしまった女友達さんは、現場から一目散に逃げ出します」
「逃げ出す?」
私は素っ頓狂な声で聞き返してしまった。
家達君は優しい笑顔で、はい。と肯定してから、説明してくれた。
「酔った勢いで殺してしまった。その事実に気付いた女友達さんは、怖くなったんです。人間は解決が困難な事態に遭遇すると、「とりあえずそれは置いておいて」と考えてしまう場合があるそうです。確か、心理学的にも立証されてますよ」
私は思い当たる節があった。
大学生の頃、友達との間でDVDの貸し借りをよくしていた。
ある日、借りたDVDを実家で失くしてしまったことがあった。しかも、実家に置いてきたことに気がついたのは、夏季休業が終わって少ししてからだったのだ。
友達に返さなければと思っていたのだが、「とりあえず、しばらく様子を見よう」と楽観的な行動をとってしまった。
殺人と借り物では事態の重さが違うが、面倒くさいことを後回しにしてしまう。そんな経験はよくあることだった。
それと同じかどうかはわからないが、「殺してしまった。とりあえず、私は何も見なかったことにして逃げよう。もしかしたら、バレないかも知れないし」という考え方がパニックになっている場合ならば、起っても不思議ではない。
帰り道に何回も戻ろうとするものの、自分に都合のいい言い訳で、それを回避する様子もありありと浮かぶ。
車の轢き逃げ事件と同じ心理だろう。
人を車で轢いているのに、警察にも病院にも連絡しないという心理は、今回の女友達の心理と似通ったものがある。
「それじゃあ、誰が鮎川千裕を吊り上げたの?」
「それは、この後に登場する男性です」
「男性?」
「その男性は空き巣です」
人差し指を上に立てながら、家達君はゆっくりと答える。
答えを聞いても、わけがわからない私と和村先輩は黙って彼の推理の続きを聞くことにした。
「空き巣は、鮎川さんの部屋に鍵が掛かってないことに気づきました。そして、そっと忍びこみます」
「鍵が掛かってない?」
「和村先輩、女友達が部屋の鍵を持っているわけないじゃないですか」
「そうか。そうだね。大輔は頭がいいな。巧、中断してごめんね。続けて」
「忍び込んだ空き巣は、きっと最初は鮎川さんが酔って寝ているだけだと思ったんでしょうね。でも、鮎川さんが二度と目を覚まさないということに気づきます」
空き巣の心理も非常にわかりやすい。
私が空き巣と同じ立場なら、きっと同じように考えるだろう。
ビールが注がれているコップがあり、そこで倒れている女性。酔いが回って寝てしまったと考えるのが妥当だ。
「そして、空き巣は最悪の事態を考えました。「彼女を殺した犯人が自分になるかも知れない」とね」
「警察も舐められたものだね」
「仕方がないですよ。ネガティブ思考っていうのは、言い換えれば慎重という意味ですから。それに、ニュースでも冤罪だった場合は必要以上に大きく取り上げるでしょう?」
「確かに、報道メディアのせいだと言われると、納得してしまう」
「ここから空き巣の偽造工作が始まります。まず、千裕さんを自殺に見せかけます」
「待って! それはさっき無理だって、他でもない巧が証明したでしょう?」
「それは、犯人が非力な女性だった場合ですよ? それに、死体がまだ死後硬直してない状態です」
「それって巧、死後硬直で体が硬くなった死体なら、ロープに引っかけるのも簡単だってこと?」
「そうです。それが空き巣にとって不幸中の幸いでした」
「偽造工作をした後は、玄関の靴だ。家達君、あれはどうやったって言うの?」
「普通に下駄箱から取り出して、並べたんだと思います。だから、奥のほうに閉まってあった季節外れの厚底ロングブーツが一番上にあった」
「普通に並べたって…。じゃあ、空き巣はどこから逃走したのよ。ちょっと待って、それ以前に、どうして空き巣が玄関を散らかしたの?」
「空き巣は鍵を閉めるよりも、より確実に密室をアピールするために、玄関をわざと散らかしました。鍵を閉めただけなら、合い鍵の存在があれば一瞬で密室が崩れますからね」
「どうして、そこまで密室にこだわったの?」
「空き巣だからですよ。密室なら、空き巣が入ったなんて連想をしにくいじゃないですか」
今まで空き巣という単語を思い浮かべもしなかったので、これは肯定するしかない。
そもそも、誰も入ったり出たりしていないからこそ、密室と呼べるのだ。空き巣という存在は密室から程遠いものだろう。
「空き巣の逃走ルートはどうなってるの?」
「空き巣の逃走ルートは、窓です」
「でも、鮎川千裕の部屋は二階で、無事に飛び降りるにはロープを使わないといけないのよ? まさか空き巣はロープを持っているもの、だなんて言わないよね?」
「空き巣は窓から飛び降りたんですよ。単純に」
「だから、飛び降りたら無事じゃないって」
「無事じゃないでしょうね。よくても捻挫、酷ければ骨折してるかも知れません。冤罪の恐怖に比べれば、たったその程度の怪我じゃないですか」
未知の恐怖と具体的な怪我。その二つを天秤にかけて、空き巣は具体的な怪我を選んだということか。
「空き巣は元々、手袋とニット帽などの帽子をかぶっていたと思います。服装、そして短時間しか現場にいなかった。この二つの要因から、痕跡が残らなくても不思議ではないと思いました」
探偵はそう言って推理を終えた。
少々、心理的な問題に無理があるような気がするが、それでも納得はできる推理だった。
これが、探偵の真骨頂というか、本気というものなのかも知れない。
しかしながら、事件が解決されたというのに、どうも喉の奥に何かが引っ掛かっているような気がする。
「なんか、後味が悪い」
私は思ったことをそのまま口にした。
家達君が少し怒ったように、こう言った。
「後味のいい事件があっていいわけないじゃないですか」
私達の中で、探偵が一番やるせなさを感じていた。
被害者の恋人でも警察でもなく、事件を解いた探偵が一番、やるせなかった。
事件を解くことしかできないという、心の痛み。その痛みが探偵の宿命なのかも知れない。
もしも、そうならば、家達君に探偵は向いていない。
和村先輩は家達君の推理を島宿警部に伝えに出かけた。
部屋には私と家達君の二人が残された。
マイナスオーラが充満していた。
もしも、私にオーラを見る力があったら、この部屋は手元が見えないぐらい真っ青なのだろう。
私は、燃え尽きた。
犯人もすぐに捕まるだろう。
私はそれをニュースに報道されるのを待つしかない。
また戻ってしまった。二つのに絶望に悩まされる日々に。
恋人を失った悲しみと警察官だというのに犯人を追えないジレンマに苦しめられる日々が始まった。
「もしかして、なんですが…」
家達君は下を向いたまま、呟くように弱々しくそう言う。
「もしかして、鮎川さんと右京さんに共通した、信頼できる友人という人はいませんか? 恋のキューピット役を務めた方とか、同じサークルの先輩とか」
「いるよ。井上美樹さん。千裕も私も、よく相談に乗ってもらっていた」
「そうですか。では、事件がニュースで流れなくなったら、その方の所に行ってみてください」
「どうして?」
「探偵の勘です」
この時、初めて、家達君が自分のことを探偵を言った。




