第一章
201号室のドアがある。そのドアのそばの表札には「鮎川千裕」と書いてあった。
私は愛すべき恋人の名前に優しく触れた。そこには温もりがあるような錯覚が指先に生まれる。
今日は特別な日になる。自分に語る。
今日は千裕の誕生日。そして、新しい記念日になる。私はポケットの中のケースを握った。
警察官として、毎日まじめに勤務して、なんとか買うことができた婚約指輪。豪勢なものではないが、これが私の精一杯の誠実の証。
脳内で、プロポーズのシミュレーションを行う。完璧だ。
私の気持ちはキチンと伝わるだろう。あとは、千裕の意志しだいだ。彼女の今の気持ちしだいだ。
気持ちの整理を付けるように、意識して数回呼吸をした。
よし。自分を鼓舞して、インターフォンを押した。
急速に体の中の血が流れる。大学入試の時以来の緊張感に居心地の悪さを感じたが、怖気つかなかった。これが大人になるということなのかも知れない。
ドアの向こうの彼女から返事はなかった。
再びインターフォンを鳴らす。だが、返事はなかった。
千裕は中にいないらしい。
私は携帯電話を取り出し、千裕にコールした。
トゥルルルルルル…トゥルルルルルル…
無機質な音が連呼される。気付かないのか? それとも…。
呼び出しを消そうと、携帯電話を耳から遠ざけた瞬間、ミッキーマウスの声が聞こえた。
ミッキーマウスが健気に「電話だよー」と呼びかけている。千裕の携帯の着信音だ。
千裕は携帯電話を忘れて出かけるようなおっちょこちょいな女性ではない。もしかしたら、仕事で疲れて寝ているのかも知れない。
ならば、私のプロポーズは置いておくとして、夕ご飯を作ってやろう。ついでだし洗濯もしておいてあげよう。
私は合い鍵を使って鍵を開けた。
部屋に入る前に、もう一度、指輪が入っているケースの感触を確かめる。
ケースの感触が私に勇気を与えてくれる。そんな気がした。
今日は記念日になる。もう一度、自分をそう鼓舞してドアを押した。
ガチャン。
ドアにはしっかりと鍵が掛かっていた。
鍵を開けてるのに失敗したのか、もしくは、開けて閉めてしまったのか、あるいは、最初から鍵は掛かっていなかったのか?
まあ、もう一度、鍵を開ければいいことだ。そうだ。あいつが起きてきたら、これを笑い話にしてやろう。
私はもう一度、鍵を開けて、ドアを押した。
ドアを押したとき、違和感があった。
千裕はきれい好きと言うほどではないが、整理整頓をおろそかにするような女性ではない。
なのに、ドアを押したときに、なにかを押しのけるような感覚があったのだ。
私は足元を見た。そこに合ったのは大量の靴だった。下駄箱の中身を全部ぶちまけたかのような散らかり具合だった。
無造作に転がるサンダルやスニーカー。駄目押しと言わんばかりに、一番上に厚底ブーツが倒れている。
よっぽど疲れていたのか、それともお酒に酔っているのか。もしくは、彼女の友達がやってきてイタズラしたのか。真実は彼女に聞けばわかるだろう。
足元から目を上げると、目の前に宙に浮く私の恋人の姿があった。
一瞬、なにが起こったのかわからなかった。彼女の足は床よりもちょっと高い位置にあるのだ。
私は彼女の顔を見た。その時になってようやく気づいた。
彼女は天井から吊られていたのだ。
「う、うわぁあああああ!」
頭の中が真っ白になった。
私は腰を抜かしてしまい、尻餅をついてしまった。
ポケットからケースが飛び出し、地面に落ちた衝撃でケースが開き、指輪が地面に落ちた。
大事な指輪を気にする余裕は、私にはなかった。
千裕が首を吊っている。そのことで頭がいっぱいいっぱいだった。
現役の警察官だというのに、私は冷静な対処が出来ずにいた。
千裕の死体から目が離せない。首を吊って苦しいはずなのに、千裕は安らぎに満ちた表情をしていた。
私の悲鳴を聞いたのか、何事だ。と隣の部屋の人が出てきた。そして、千裕の部屋を覗き込み、悲鳴を上げた。
私が震える指で携帯電話のボタンを押して、救急車と警察を呼んだのは、その後数分してからだった。