END
身体が、ふわりと浮いた。
けれどすぐに、地面に引き寄せられた。
せめてもの抵抗に、僕は両腕を空に伸ばした。
指をいっぱいに開いて、懸命に求めた。
ついこの間まで、背中にあった僕の心を。
なくなってしまった心を。
遠ざかっていく、僕の自由を。
もう一度、空を飛びたい。
僕の背中で、残された翼が、燃えるように熱を帯びた。
○○○
「――ちょっと、阿部!」
中村のあわてた声が耳に届いて、僕は自分が地面に落ちたことを知った。
背中を強く叩きつけて、痛みでうまく息を吸うことができない。背中の焼けるような熱さと痛みがないまぜになって、目から自然と涙がこぼれた。
「あんた、さっきからなにやってるのさ!」
前のめりに顔から落ちると思ったのだけど、どういうわけか仰向けに落ちたらしい。なぜ頭を打たなかったのか、自分でもよくわからなかった。
かけよってくる足音が、やけに身体に響く。彼女の蹴った砂が耳にかかって、見上げるとうるんだ視界の中に僕を見下ろす中村が見えた。
「中村のことが好きだ」
僕に伸ばそうとしていた手が、宙で止まった。
一歩、彼女は後ずさる。すばらしい眺めだったスカートの中は見えなくなった。白だった。
「阿部はばかだ」
「うん」
「本当にばかだ」
「……うん」
これで、完全に嫌われた。僕は自嘲の笑みを漏らしながら、まぶたを閉じた。
困惑して、瞳を泳がせる中村の姿がまぶたに浮かぶ。彼女だってこんなことを言われるなんて夢にも思っていなかっただろう。僕だって普通なら、好きな人相手に、あんなばかな話をしたりはしなかったはずだ。
好きな子に、万引きという、一番最悪なところを見られた。軽蔑されたと思った。だからもう、なにを話しても同じだろうと思った。
ここまでさらけ出してしまったら、もう、最後まで言ってしまおうと思った。
「中村が好きだ」
失恋して、悲しかった。振り向いてもらえないことが恨めしかった。
なによりも、この気持ちを伝えることができなかったのが悔しかった。
「……ごめん」
「うん」
結果はわかっていた。中村の気持ちはよくよく知っていた。あのときコンビニで、偶然先生を見かけて話しかけていた中村が、叶わない恋だとわかっていてもなお、先生を好きでいることがやめられないことも知っていた。
そして僕もまた、彼女を好きでいることがやめられなかった。
「……話、聞いてくれてありがとう」
僕が再びまぶたを開けると、中村の顔がすぐそばにあった。身体をかがめて様子をうかがってくれていた。こんな愚かな僕のことを、どうしてか彼女は、見捨てることなく心配し続けてくれていた。
目があって、僕は力なく笑うしかなかった。
それにつられるように中村も笑った。その頭の上を、まるい月が浮かんでいた。
中村が自転車に乗って去っていくのを見送ってから、僕はようやく、身体を起こした。
痛みを通り越してじんわりとしびれていた背中が、腰が、すこし動かすたびにみしみしときしむ。思いのほか軽症だったけれど、あちこち青あざになるだろうなと思った。頭を打つことも足をくじくこともなくてほんとうによかった。
立ち上がり、僕は身体についた砂埃を払う。髪の間にもしっかり砂が入り込んでしまったようで、どんなにはたいても次から次へと落ちてくる。口の中もすこしじゃりじゃりした。
そっと息を吸うと、肺が痛んだ。衝撃はここまできていたらしい。けれど呼吸をくりかえすうちに痛みもやわらいでいって、僕はしめった土の香りを胸いっぱいに吸い込み気持ちを落ち着けた。
背中の泥汚れはそうとうひどいだろう。母親にばれると怒られるに違いない。なるべく今のうちに汚れを落としておこうと、僕は痛みがぶりかえすのを覚悟で背中に手をまわした。
「…………っ?」
砂だらけになる指先に何かが触れて、僕は思わず動きを止めた。
まさか。息を呑んで、僕は早まりそうになる心を鎮める。おそるおそる指でつついたそのかたいものは、実にあっさりと背中からはがれて落ちた。ただの石だった。
落胆は隠せなかった。すこしでも、翼が戻ってきたのではないかと期待した自分が情けなかった。
でも不思議と、背中でくすぶり続けた翼の痛みは消えてしまっていた。落ちたショックで、溶け残っていた付け根そのものがぼろりととれてしまったのかもしれない。指で触っただけではよくわからなくて、鏡がない今は確認することができなかった。
家に帰ろう。僕は歩き出しながら、なぜか足取りがいくぶん軽くなっていることに気がついた。
心の中のわだかまりが、すこしやわらいだからだと思った。
これからきっと、もっとたくさん、もやもやを抱えることは増えてくるんだと思う。思い通りに行かなくて、いらだってしまうことももっともっとあるのだと思う。また、一時の感情でかんしゃくを起こして、大事なものを失いそうになることが訪れるのだろう。
けれど僕は、また、こんな思いをしたくはなかった。なくしてしまった翼を、さらに自分から遠ざけるようなことはしたくなかった。
白くなくていい。薄汚れていても真っ黒でもかまわない。小さくていいから、いつでも、この背中に翼が戻ってこられるようにしていたい。
ひとかけらでもいいから。自由な心は残していたい。
地面の上を歩くつま先が、ほんのすこしでも、風を含みながら歩いていられるように。
僕は軽くなっている足がどうなっているのかをたしかめたくて、地面についているのか離れているのかを確認したくて、
けれど事実を目にして落胆したくなくて、月を見上げながら歩き続けた。
END